昨年末、日本平和学会の環境・平和部会で伊藤哲司さん(茨城大)の報告「津波被災地における “明るい人びと”を支えるもの —タイ・プーケットの共同体と死生観—」に対して、予定討論者として登壇しました。
伊藤さんは社会心理学が専門で『常識を疑ってみる心理学』のような心理学系の本ももちろん書いていますが『ハノイの路地のエスノグラフィー』に見られるように、社会心理学ではめずらしくフィールド重視の研究者です。
報告自体は、フィールド・ワークが不十分と思われる点や、副題にある共同体・死生観についての言及がほとんど無かったという点で若干の不足は感じました(それらのことは会場からも質問が挙がった)が、僕にとっては、畑違いだからこそ学ぶものが大きかった。そして、現在書いている博士論文はこの討論を引き受けて学んだことによる影響が大きいものです。
特に「トラウマ」は悲惨な体験そのものから受けるショックではない、ということ。もう少し誤解が少ないように言うなら、体験とその受け止め方が一意に決まるものではないということで、これは先日の記事とも重なります。そしてトラウマは「説明がつかない」ということに由来するといいます。だからこそ「なぜ自分が生き残ったのか」、「なぜ死んだのがほかならぬあの人だったのか」ということが重要であるという。納得さえいけば、トラウマから解き放たれることができる、という考え方が関連分野でどういった評価を受けているものか判断できないが、それなりに納得のいく説明だろう。たとえば下川辺(2006, pp.21-22)『トラウマの声を聞く』にも次のような説明がある。
トラウマの本質は、現在苦しんでいる症状がどこから発しているかをつきとめられないことにある。「あのことが原因で、今、苦しんでいる」と現在の状況を過去の出来事に結びつけたものはトラウマとは言わない
そうすると、先日の記事で「記憶が変化する部分こそが生活史にとって最も重要」とする私の立場とも相当強く関連してくる。トラウマは、できることなら無くしたいものであることだというのは、あらゆるトラウマの定義において認められることでしょう。そして「納得がいくかどうか」ということがトラウマの要件だとすれば、できごとそのものだけを何度振り返っても納得のいく説明などでてきようがないのだから、できごとを語る際に様々な方法(必ずしも「ガクジュツテキ」、「カガクテキ」ではない方法)で矛盾を丸め込んで物語を作っていくことは極めて有用な手段である。そこで、嘘や間違えた記憶が入り込んでそれが正しかった記憶として固定化したり、口承の神話や法など自分が及ばぬ外の力にその理由を求めたりします(「彼は神に選ばれたのだ」など)。
私は臨床心理士の仕事を具体的にはしらないので、ぜひ教えていただきたいのだけれども、カウンセリングという行為が短期間滞在の「プロ」の手で行われることには違和感を感じています。納得を与えてくれる人は確かに外部者だろうと当事者だろうと、またはそのための専門家だろうと素人だろうと、誰でもいいわけだが、少なくとも「心を開く」関係になれないと、納得はできないのではないかと想像してしまう。被災経験もないのでわからないですが、精神的につらい局面で助けてくれたのは、経験上、決してプロではありませんでした。伊藤さんはもっと進んで、「大災害→トラウマ→PTSD→心のケア」という単純な図式ではないのだということや、「心のケア」と称される一連の流れにも批判的な姿勢を取られているが、私にはまだ判断材料が足りないのでそれは保留しておきます。
伊藤さんは生き残った人たちがトラウマを乗り越えるためには、共同体による支え合いが必要で「三丁目の夕日」には戻れなくても何らかの形で共同体的な人間関係を回復すべきだと主張されています。
さて、トラウマに陥った人に対して、必ずしも専門的知識を有した「心のケア」が効果的で無いのであれば(いや、効果的な例ももちろんたくさんあるはずです)、外部者は何をできるのか、ということを考えます。
そもそも誰が当事者であり誰が当事者ではないのかということは、概念的には難しいことですが、社会運動や意識の問題としての抽象的な区分けと、被害の程度や空間的・時間的な直截さを考えた具体的な区分けとは分けて考えた方がいいでしょう。これをしないと無駄な論争が置きます。たとえば今回の震災に関して「被災者」と呼ばれ一般にイメージされる人たちが具体的な当事者であり、「いや、今回の震災は被災者だけの問題では無く日本全体の問題だ」とか「原発のことは世界で考えていかなければならない」という高次のものが抽象的な当事者と言えるでしょう。この2層の「当事者」の存在は矛盾しません。学会などで「当事者」というと、すぐに宇井純の「公害に第三者はいない」が持ち出されて、あらゆる問題についてあらゆる人が当事者であるという議論に持って行かれることがありますが、それは研究や議論を進める上では建設的ではない場合があります。

こうしたことを踏まえた上で、当事者と外部者の区分けについて、分かりやすく、かつ応用可能性も高いと思われる図式を示しているのが宮地尚子(2007, みすじ書房)『環状島=トラウマの地政学』です。この著が優れているのは、冒頭で示された環状島モデルを一貫して貫いていること、そのモデルが時間的なアクターの変化を許容すること、議論の土台として用いやすいことにあると考えます。
詳しくは宮地(2007)を読んでいただくことにして、環状島モデルは同書p.10にある以下の図に示されます。
問題が起きたゼロ地点は環状島内界の中心地で、島自体が問題の範囲を表していると読めます。外界は問題の外部です。参考までに宮地(2007)は研究者・専門家・知識人の可能性についてp.189以降、次のようなことを挙げています。
- <海>しか見えないところに環状島を浮かび上がらせるきっかけをもたらす
- イシュー化のための概念や用語を生みだし、環を作りやすくする
- <内海>の大きさと深さを推定・測定する
- <波打ち際>の徴候を感じ取り、読み解いて、<内海>を小さくする
- <内斜面>の地を這う人たちの情報を外に持ち出し、広く伝える
- <内斜面>を這う人たちに上空や外からの情報を渡す
- 既存の見方とは異なる切り口で環状島を描いてみる
- 島の土台を支える
- <水位>を下げる
これが完全なリストではないということを著者自身が注記していますので、粗探しをしたりするのではなく、考え方のヒントとして読むのが建設的でしょう。
話が行ったり来たりしましたが、先日の記事とも絡めて言いたいことを今一度まとめてみます。
- あるできごとと、それをどのような経験として記憶し語るかは個人によって異なる
- トラウマになるなど、どのように問題が生じるかも当然、個人によって異なる
- トラウマなどの個人史的問題について専門的な知識が(有用である場合ももちろんあるだろうが)必ずしも生きるとは思い難い
- とはいえ、直接の対話によるものではないが、専門的知識を持つ人間がその役割を果たす可能性は宮地のまとめを例として、十分にありうる
カウンセリングを主たる専門とされている方に知り合いがいないので、そのあたりはいろいろ教えていただきたいこともあるのですが、やはりこの記事で不十分なのは「外部者が当事者と直接接して話をするとき、その行為の問題緩和・解決への役割はどのようなものか」ということですね。これまで書いてきたことと矛盾するように思われる向きもあるかもしれませんが、私は外部者が当事者と話をすることは、当事者の語りを紡ぐ作用を持っており、それが当事者のトラウマを和らげる方向に繋がるだろうという意味で肯定的に評価しています。そのあたりは、またいずれ記事に書きます。私がよく仕事を理解していないだけで、臨床心理士やカウンセリングにあたる人たちと考えていることは「もしかしたら」同じなのかもしれません(たぶん違うだろうと思って書いていますが)。
トラウマが日本で「心的外傷」と訳されていることへの違和感を伊藤さんに教えてもらったことで、いろいろ考えさせられました。「ナイフで刺されたら誰でも怪我をする」のとは心の問題は同じ様ではないのではないか。肉体的外傷をケアするようには心的外傷はケアできないのではないか。そのあたり、まだ考えていきます。