CUC講義開始

CUCキャンパス内の桜

非常勤講師先の千葉商科大学で春学期の講義が始まりました。月曜日4,5限の「情報基礎I,II」を担当しています。講義については上メニューからLectureを選ぶといろいろ見られます。

今年は21人の履修者がいます。その大半が新入生です。お一方、3年次編入で還暦を迎えられた方もいらしています。「人と話す」ことを重視した講義なので、今後、そうした機会が増えるほど、世代の差が会話を豊かにしてくれるものと期待しています。

軽いノリで進めているのですが、それでも真剣に耳を傾けて頷きながら聞いている人もいれば、友達同士でずっと話していてまだまだ高校気分の抜けない人もいます。そうやってうるさくしている人たちが今後もずっとそうなのか、いつか周りのことを考えて少しだけ遠慮してみるのか、僕にはわかりませんし、僕は僕の務めとして人に迷惑を掛けている場合だけ注意をします。

うなずきながら聞いている人も、うるさくして聞いていない人も、やっぱりどちらも変わらず僕のクラスの履修者ですから、明るく楽しく接していきたいものです。僕がこうやって履修者を見放さないのはちょっとした責任感と覚悟の問題ですから簡単です。

必修科目だし新入生ばかりなので僕の「見放す責任」には目をつむります。

弘法寺の桜

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思いを馳せること

4月3日にTweetしたことのまとめです。最初のTweet

誰かの立場になって考えるということは、面と向かって付き合える相手のことなら修正がききやすいから素敵だけど、知らない遠くの人のこととなると、どうなのだろう。
@yoshi_kasa
Yoshinori Kasai

Tweetや過去のBlogで何度か書いてきたように「相手の気持ちで考える」や「相手の立場で考える」ことには疑問があり、自分自身の行動指針にはしていません。

「相手がしてほしいだろうことをしてあげろ」や「自分がしてほしくないことは人にするな」というのもありますが、これも同じ考えが底にあります。つまり、自分と相手との立場を近づける努力こそが、自分と相手の快い関係を作る、ということです。この考え方を好きになれない理由はいくつかあります。

まず、誰かの立場や気持ちには絶対になりえません。いろいろな意味で、経験が異なるからです。自分と他者にはそういった絶対的な差があります。そうであったとしても、せめて相手に近いところまで寄ろうということが「いいこと」、「必要なこと」とされているわけですが、その理由がよくわかりません。いくら近づいても離れているものは、離れているのです

次に、この考え方の危うさです。「相手はこういうことはしてほしくないだろうから、しないでおこう」とこちらで思っても、実際には実は相手はそれをしてほしいということがあります。この場合はまあ、何もしないので構わないのですが、「相手の立場ならこういうことをしてほしいだろう」思ってやったことが、相手にとってはしてほしくないことだという場合です。ありがた迷惑ですね。この場合、「相手の立場を考える」ことを行動指針としている人は「相手の立場に立ったのになぜ理解してもらえないのだ」という葛藤を抱えます。葛藤は成長のもとですから、それはそれでいいとして、この指針の下で動かれた後の人間関係の揺らぎや実害は、「善意」が元なので解決が難しいです。

そして、この考え方の気持ち悪さは「やりとりの欠如」です。相手の立場に立って考えるよりも、相手に実際に表現してもらうのが手っ取り早いです。その人が求めることが、実際にその人にとって最もよいことかどうかなんてことはわかりませんが、「相手の立場に立つ」という指針に立つのであれば、やることは「相手の気持ちを慮る」ことや「思いを馳せること」ではなくて「相手の表現・要請に耳を傾けること」の方が素直でしょう。

ところで、自分が思いを馳せたい相手の表現を聞けない場合があります。相手が遠隔地にいる場合や、自分の理解できない表現方法を取っている場合です。また、「相手」が複数の個人であり、そこには数多くの考え方(主観)が矛盾する形で存在する場合です。

これを考えるに先立って、「そもそもなぜ自分はその相手に思いを馳せるのか(馳せたいのか)」ということをまず振り返った方がいいでしょう。何か社会的な要請や義務感で誰かに思いを馳せる必要はないように思います。僕たちには、世界や国といった範囲とは別に、もっと小さな小さな生活の営みがあります。

その上で、やはり誰かに思いを馳せるといったとき、相手の表現を聞けない場合、どうするか。「自分が相手の立場に立ってみる」は上に書いたように、どだい無理ですし、善意が基で余計な対立を生むだけのように思います。

相手が遠隔地にいる場合には現地に行った誰かが伝えてくれる「これがこの人の考えだ」という情報を基に判断しますね。たとえば理解できない言語の場合は通訳された情報を基に判断します。ここまでは大丈夫。ところが、相手が複数の個人である場合、この状況の判断は極めて難しいのです。

同じものとして扱われるできごとを経験しても、その経験のありかたは人によってまったく異なります。AさんとBさんの考えは対立している場合は当然にあります。それを、どちらかの声だけ取ってきて「集団XのAさんはこう言っている。これが集団Xの総意だ」というのは暴力以外の何ものでもありません。

今回の震災後にでた「被災者の気持ちを考えると…」自粛すべきだ、不謹慎だ、という一連の議論についてはTweetしたので貼っておきます。

自粛・不謹慎にまつわる話は「被災者がどう考えるか」ということに回収されやすいようだけど、「被災者」は一人ではないから当然、被害者の考えることはそれぞれに矛盾しうる。
@yoshi_kasa
Yoshinori Kasai

「●●するのは被災者の感情を考えると不謹慎だ」という人に対して「私は被災者だが、不謹慎だとはまったく思わない」という人が出てくるのは、考えを相対化する機会を提供しているのでとてもいいと思います。一方で「不謹慎だと思う」人も当然いるわけです。

すると、そもそも「誰かの立場に立ったからこう思う」という理由付け自体をやめた方がいいのではないでしょうか。そもそも誰かの立場になんて立ち得ないし、複数の個人の考えは一つの立場には収斂され得ないのですから、「誰かの立場に立っていること」は何ら説得力を持たないのです。それなのに、誰かの立場に立つことに拘泥していると「どの立場に立っているのがより正しいか」というよくわからない議論になります。この議論に達したとき、既にそもそもの「誰か」の存在は忘れられています。

「どの被災者の考え方が正しいか」などと考える人はいないのに、なぜ「どの『被災者の考え方とされる考え方』が正しいか」などと考えて、揉める人たちがいるのだろう。
@yoshi_kasa
Yoshinori Kasai

そういうわけで、結局次のような考えに僕は立っています。

「思いを馳せる」ことも尊いけれども、自分と、自分が思いを馳せた人との思いはそれぞれ矛盾しうるということは、当然だ。
@yoshi_kasa
Yoshinori Kasai
「被災者のために」何かをするのは素晴らしいし、寄り添う具体的相手としての被災者の感情を汲み取っていくことも素晴らしい。だけど、自分の行動は「被災者がこう思っているだろうから」ではなく「私はこう思うから」で説明するのが、自分の責任ってもんだろう。
@yoshi_kasa
Yoshinori Kasai

これ、Tweetしたときも思っていたのですが「じゃ、『私はこう思う』理由をどう説明するんだ。それは結局、誰かの立場に立つことによってこそ思うのではないか」という疑問ですね。ただ、「私はこう思う」の理由はいろいろあるのだと思います。「科学的に正しいと思われる」とか、「自分の経験ではこうだ」、とか、「いややっぱり私は誰かの立場に立って考えたからこうだ」とか。ポイントは、その考え・行動に至った経緯は何でも良いのだけれども、あくまで自分の考え・行動は自分で決めることで、その判断基準こそが明らかにすべきことなのです。

前の記事に書いた気がしますが「●●という情報がある」ということと、その情報を自分がどのように判断するか、は別問題です。情報がたくさんあっても判断できないなら意味がないと。同じように「誰かが言っている」それ自体が絶対的価値なのではなく(上に書いたように様々な問題を含んでおり)、なぜそのことをもって自分は自分の考え・行動をするに至ったのか、説明することにこそ重点を置こうよ、と。

そして、「相手の立場にならない行動なんて独善だ」という考えには与しません。「相手の立場を考えた行動」だって、独善と言えば独善です。正確にはどちらも「独善にもなり得るし、実際に人の役にも立ちうる」わけです。誰かのためになることは何か、ということは、相手の立場を考えたかどうか、とは直接繋がっていません。相手の立場を考えず、自分の知識や経験、あるいはその他様々な判断基準を用いて取った考え・行動こそが誰かのためになることだってあります。

ぐだぐだ。

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情報の利用

震災に伴い「情報」という言葉がますます飛び交うようになりました。発信される情報の量はインターネットなどの基盤により年々増えているでしょう。多くの情報が手に入ることは、意思決定や判断を助けるものです。

一方、得られる情報の量や種類が増えても、意思決定や判断が必ずしも「適切なもの」になるとは限りません。そもそも何が適切であって何が適切で無いかは、それを決めるための基準や、基準のもととなる価値観があってこそです。

ですから、情報に曝されているだけでは情報をうまく利用しているとは言えず、情報を収集・整理した上で、それらが自分や組織の用意した基準と照らしてどういう意味を持つのか判断しなければなりません。

そういう意味では、検索万能主義のようなあり方はとても奇妙なものです。キーワード検索をすると、キーワードが含まれる情報の束は手に入りますが、その情報を判断するための基準は自分で用意していなければならないからです。連想検索など面白い技術も出てきていますが、そのことは変わりません。

情報を扱うためには、その情報を判断するための基準が必要。そして、基準作りには、価値観が大いに関係してくるが、価値観の醸成は個人の知識や経験に拠る。ということで、情報検索だけしているのではなく、本を読んだり、日々の経験を反省するといった営みが重要ですよね。という、ありきたりな結論です。

ところで、検索技術の進歩も、まずは検索するという姿勢の普及も問題ありません。むしろ、ぜひ進んで欲しいものです。「検索万能主義の弊害は『わかったつもり』になることだ」などと敢えて言う必要はないと思います。それは止めようがありませんし、検索可能なデータのありかたの方が、情報収集には適当だからです。

「わかったつもり」になるという言い方は「本当はわかっていないのに」という考えの上にあります。そうならば「検索だけしてもわからないのだよ」と大人ぶって言っていてもどうしようもなくて、「では、どうしたら本当にわかるということか。それには情報検索技術がどのように有用か」を提示するのが大人の役割でしょう。

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説明と納得

トラウマが、納得できないことへの悩み・苦しみである、という考えがあることは既に紹介しました。これはこれで、納得のいく考え方です。

一方で「納得できないことへの悩み・苦しみ」の中には、トラウマとは言わないものもあります。たとえば、所得の低さの悩み・苦しみは「生きていけない」という絶対的なことだけではありません。「なぜ私(たち)はこのように所得が低いのか」という、ほかと比べたときに初めて出てくる悩み・苦しみがあります。「生きていけない」という絶対的な所得の不足についても、「私たちが生きていけないのは当然のことだ」ともしも考えるのであれば、そこには身体的な痛みはあっても、精神の悩みはもしかしたらほとんどないのかもしれませんが、そうした達観がないのでわかりません。ともかく、トラウマだけではなく、負の感情には「納得できるかどうか」が強く影響しているようです。

さらに考えていくと、悩み・苦しみだけではなく、喜びや怒りといったいろいろな感情は納得できるかどうか、ということに関係していますし、特に何かと比べるという行為で、その納得の可能性はより顕在化しているようです。

偶然勝負に勝てた、ということよりも、自分の努力があってこそ勝負に勝てたという文脈があったほうが喜びは大きいものです。ただ、同じ文脈があっても、それをどのように捉えるかは人それぞれです。「努力したおかげで勝てた」と「勝てたがまだまだ努力が足りない」は捉え方の問題ですし(人によっては合わせて「努力したお蔭で勝てたが、まだまだ努力が足りない」となる)、「努力が足りなかったので負けた」と「負けたが十分努力はした」も往々にして捉え方の問題です。

「努力したおかげで勝てた」というのは、勝てたという事実を自分の過去と繋げています。「勝てたがまだまだ努力が足りない」は実際に努力が足りているかどうかは別として、今後も勝つ自分の未来へと繋げています。努力の有無が勝負と因果関係に無い場合でも、「勝つためには努力が必要」という文脈を自分で信じることで、努力できるわけです。その裏返しが負けたときの考え方です。「努力が足りなかったので負けた」は、過去の自分のありかたと事実を繋げています。現に努力が足りなかったことが問題なのかどうかはあまり関係ありません。「負けたが十分努力はした」は、その後「これ以上努力しても仕方がない」となるか「勝ち負けにかかわらず今後も努力しよう」となるかは別の文脈によりますが、現在の事実から見て、過去の自分のありかたを肯定しようという動きです。

このようにして、日常の何気ないものの捉え方も、過去や未来の自分と現在またはごく近い過去あるいは未来に起きた(起きる)できごととを関連づけて意味を持たせる働きを持っています。本来は因果関係が無い、または因果関係がはっきりしないようなことも、こうして説明付けがされます。つまり、過去・現在・未来を繋ぎつつ「なぜそのような事態になったのか」が把握されます。納得がいかないとき、つまり、起きてしまったできごとが過去から未来への自分や他人のありかたと関係が無いことを強く意識してしたときには負の感情が生まれがちですし、うまく説明ができたときには正の感情が生まれがちです。

当然、負の感情は少なく、正の感情は多い方が嬉しいわけですから、「できごと」を説明するための数多くの工夫が私たちの生活には見られます。既に別の記事で説明した「自分史を語るときの記憶の変容」も負の感情を抑えて正の感情を増すような自分のありかたを作る過程で起こるものでしょう。

宗教もできごとと過程との繋がりを納得させるための説明をする大きなものです。なぜ人は死ぬのか、なぜ生きているのか、なぜ苦しみに耐えなければならないのか、私たちが幸せになるためにはどうしたらよいのか、という「考えても考えても納得のいく説明がいかない」というような問いに、永く続いている多くの宗教は説明を提示してくれます。納得がいきやすい説明の束を提供する、ということは宗教の大きな役割でしょう。そう考えると、宗教が全世界的、全時代的に存在するのはごく当然のことです。

宗教と科学とはよく対立して描かれるわけですが、いずれも説明の束を提供するという働きは変わりません。宗教的と呼ばれる様々な説明のありかたと科学的と呼ばれる様々な説明のありかたと、どちらが自分にとってより納得がいくかは人それぞれですし、何に対して納得したいかによってそれらの説明を使い分けたりするのはおかしなことではありません。科学は「なぜ人は死ぬのか」ということに、今のところ身体的な答えは与えてくれても、死の意味についてはあまり説明してくれませんから、極めて科学的な人が、死の恐怖から逃れるために宗教を強く信仰しても、そこには何ら矛盾がありません。

私たちにとって困難なことは、世の中には複数の人がいて、社会が成り立っていることです。一人ではなく複数人がいて、それらが影響し合う中では、当然、様々なできごとが起こり、そのできごとを説明する束は人によって違うものが抱かれます。なぜなら、どのようにできごとを経験するかは人によって異なるからです。そうすると、自分だけであれば説明を矛盾無く受け容れられても、その説明と、ほかの人が抱えている説明が矛盾することはよくあります。

矛盾していても、共存できればいいのですが、「相手の抱えている説明を変えてくれないと、こちらの説明が成り立たない」という事態が発生したとき、ことは厄介です。この場合には説明が矛盾を抱えないように調整するか、どちらかの説明を潰すかしなければなりません。矛盾の調整・超克はとても大変です。なぜなら自分だけならその説明は成り立っている以上、その説明に変更を加えることは自分に負の感情をもたらす危険が明らかだからです。その上、自分にとってはその説明が納得のいくものなのですから、変更したいとは思いません。両者がそういう立場に立つので、調整がうまくいかず、かつ共存も許せないとなれば争うことになります。

そう考えると争いが起こること自体は避けようがないでしょう。口論だったりケンカだったり戦争だったりするわけですが、多くの争いは「自分が抱いている説明(納得のいく文脈)に相手を含む」ために、または「自分の説明の正しさを示すために」行われるように思います。こうしたときに「話し合いましょう」という姿勢は、もし「話し合えば歩み寄れるはず」と考えているのであれば、甘い幻想でしかありませんが、「そもそも話し合いはとても困難なことである」と分かった上で、あえて調整を試みるのであれば勇気ある行為です。

そういうわけですから、調整を図る際には、まず立場をはっきりさせる、というよりも、どのような文脈でもってできごとを捉えているかということを明確にしてからでないといけません。宗教も、(科学を主に扱うような)学問も基本的な立場によって●●派というように分かれているので、その派の中ではこの作業をある程度省いて、すぐに調整に入れるという良さがあります。一方で派を超えようとすると、調整が大変になります。

「納得がいくかどうか」、「どういう説明で納得がいっているのか」ということを自分についても、ほかの人についても考える、というところから対話は始まるし、それを理解しておかないと相手の心には響きません。人は変わるものです。受け容れられる説明も変わっていきます。だからといって「俺の話は納得いくだろう?この話に乗れよ」という姿勢で接しては、逆になかなか乗りづらいものですね。

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トラウマとケア

昨年末、日本平和学会の環境・平和部会で伊藤哲司さん(茨城大)の報告「津波被災地における “明るい人びと”を支えるもの —タイ・プーケットの共同体と死生観—」に対して、予定討論者として登壇しました。

伊藤さんは社会心理学が専門で『常識を疑ってみる心理学』のような心理学系の本ももちろん書いていますが『ハノイの路地のエスノグラフィー』に見られるように、社会心理学ではめずらしくフィールド重視の研究者です。

報告自体は、フィールド・ワークが不十分と思われる点や、副題にある共同体・死生観についての言及がほとんど無かったという点で若干の不足は感じました(それらのことは会場からも質問が挙がった)が、僕にとっては、畑違いだからこそ学ぶものが大きかった。そして、現在書いている博士論文はこの討論を引き受けて学んだことによる影響が大きいものです。

特に「トラウマ」は悲惨な体験そのものから受けるショックではない、ということ。もう少し誤解が少ないように言うなら、体験とその受け止め方が一意に決まるものではないということで、これは先日の記事とも重なります。そしてトラウマは「説明がつかない」ということに由来するといいます。だからこそ「なぜ自分が生き残ったのか」、「なぜ死んだのがほかならぬあの人だったのか」ということが重要であるという。納得さえいけば、トラウマから解き放たれることができる、という考え方が関連分野でどういった評価を受けているものか判断できないが、それなりに納得のいく説明だろう。たとえば下川辺(2006, pp.21-22)『トラウマの声を聞く』にも次のような説明がある。

トラウマの本質は、現在苦しんでいる症状がどこから発しているかをつきとめられないことにある。「あのことが原因で、今、苦しんでいる」と現在の状況を過去の出来事に結びつけたものはトラウマとは言わない

そうすると、先日の記事で「記憶が変化する部分こそが生活史にとって最も重要」とする私の立場とも相当強く関連してくる。トラウマは、できることなら無くしたいものであることだというのは、あらゆるトラウマの定義において認められることでしょう。そして「納得がいくかどうか」ということがトラウマの要件だとすれば、できごとそのものだけを何度振り返っても納得のいく説明などでてきようがないのだから、できごとを語る際に様々な方法(必ずしも「ガクジュツテキ」、「カガクテキ」ではない方法)で矛盾を丸め込んで物語を作っていくことは極めて有用な手段である。そこで、嘘や間違えた記憶が入り込んでそれが正しかった記憶として固定化したり、口承の神話や法など自分が及ばぬ外の力にその理由を求めたりします(「彼は神に選ばれたのだ」など)。

私は臨床心理士の仕事を具体的にはしらないので、ぜひ教えていただきたいのだけれども、カウンセリングという行為が短期間滞在の「プロ」の手で行われることには違和感を感じています。納得を与えてくれる人は確かに外部者だろうと当事者だろうと、またはそのための専門家だろうと素人だろうと、誰でもいいわけだが、少なくとも「心を開く」関係になれないと、納得はできないのではないかと想像してしまう。被災経験もないのでわからないですが、精神的につらい局面で助けてくれたのは、経験上、決してプロではありませんでした。伊藤さんはもっと進んで、「大災害→トラウマ→PTSD→心のケア」という単純な図式ではないのだということや、「心のケア」と称される一連の流れにも批判的な姿勢を取られているが、私にはまだ判断材料が足りないのでそれは保留しておきます。

伊藤さんは生き残った人たちがトラウマを乗り越えるためには、共同体による支え合いが必要で「三丁目の夕日」には戻れなくても何らかの形で共同体的な人間関係を回復すべきだと主張されています。

さて、トラウマに陥った人に対して、必ずしも専門的知識を有した「心のケア」が効果的で無いのであれば(いや、効果的な例ももちろんたくさんあるはずです)、外部者は何をできるのか、ということを考えます。

そもそも誰が当事者であり誰が当事者ではないのかということは、概念的には難しいことですが、社会運動や意識の問題としての抽象的な区分けと、被害の程度や空間的・時間的な直截さを考えた具体的な区分けとは分けて考えた方がいいでしょう。これをしないと無駄な論争が置きます。たとえば今回の震災に関して「被災者」と呼ばれ一般にイメージされる人たちが具体的な当事者であり、「いや、今回の震災は被災者だけの問題では無く日本全体の問題だ」とか「原発のことは世界で考えていかなければならない」という高次のものが抽象的な当事者と言えるでしょう。この2層の「当事者」の存在は矛盾しません。学会などで「当事者」というと、すぐに宇井純の「公害に第三者はいない」が持ち出されて、あらゆる問題についてあらゆる人が当事者であるという議論に持って行かれることがありますが、それは研究や議論を進める上では建設的ではない場合があります。

こうしたことを踏まえた上で、当事者と外部者の区分けについて、分かりやすく、かつ応用可能性も高いと思われる図式を示しているのが宮地尚子(2007, みすじ書房)『環状島=トラウマの地政学』です。この著が優れているのは、冒頭で示された環状島モデルを一貫して貫いていること、そのモデルが時間的なアクターの変化を許容すること、議論の土台として用いやすいことにあると考えます。

 

詳しくは宮地(2007)を読んでいただくことにして、環状島モデルは同書p.10にある以下の図に示されます。

問題が起きたゼロ地点は環状島内界の中心地で、島自体が問題の範囲を表していると読めます。外界は問題の外部です。参考までに宮地(2007)は研究者・専門家・知識人の可能性についてp.189以降、次のようなことを挙げています。

  1. <海>しか見えないところに環状島を浮かび上がらせるきっかけをもたらす
  2. イシュー化のための概念や用語を生みだし、環を作りやすくする
  3. <内海>の大きさと深さを推定・測定する
  4. <波打ち際>の徴候を感じ取り、読み解いて、<内海>を小さくする
  5. <内斜面>の地を這う人たちの情報を外に持ち出し、広く伝える
  6. <内斜面>を這う人たちに上空や外からの情報を渡す
  7. 既存の見方とは異なる切り口で環状島を描いてみる
  8. 島の土台を支える
  9. <水位>を下げる

これが完全なリストではないということを著者自身が注記していますので、粗探しをしたりするのではなく、考え方のヒントとして読むのが建設的でしょう。

話が行ったり来たりしましたが、先日の記事とも絡めて言いたいことを今一度まとめてみます。

  • あるできごとと、それをどのような経験として記憶し語るかは個人によって異なる
  • トラウマになるなど、どのように問題が生じるかも当然、個人によって異なる
  • トラウマなどの個人史的問題について専門的な知識が(有用である場合ももちろんあるだろうが)必ずしも生きるとは思い難い
  • とはいえ、直接の対話によるものではないが、専門的知識を持つ人間がその役割を果たす可能性は宮地のまとめを例として、十分にありうる

カウンセリングを主たる専門とされている方に知り合いがいないので、そのあたりはいろいろ教えていただきたいこともあるのですが、やはりこの記事で不十分なのは「外部者が当事者と直接接して話をするとき、その行為の問題緩和・解決への役割はどのようなものか」ということですね。これまで書いてきたことと矛盾するように思われる向きもあるかもしれませんが、私は外部者が当事者と話をすることは、当事者の語りを紡ぐ作用を持っており、それが当事者のトラウマを和らげる方向に繋がるだろうという意味で肯定的に評価しています。そのあたりは、またいずれ記事に書きます。私がよく仕事を理解していないだけで、臨床心理士やカウンセリングにあたる人たちと考えていることは「もしかしたら」同じなのかもしれません(たぶん違うだろうと思って書いていますが)。

トラウマが日本で「心的外傷」と訳されていることへの違和感を伊藤さんに教えてもらったことで、いろいろ考えさせられました。「ナイフで刺されたら誰でも怪我をする」のとは心の問題は同じ様ではないのではないか。肉体的外傷をケアするようには心的外傷はケアできないのではないか。そのあたり、まだ考えていきます。

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できごとと経験の記憶

震災が続いています。テレビ、Ustream、Twitterと様々なメディアで情報が入って来ます。速報性と信憑性のバランスはとても難しいですね。

「素人は黙ってろ」と思うわけでもありませんが、こういうときこそ、伝える必要のない情報を発信するのは控えてもいいのではないかと思います。

Twitterでは「拡散希望」と書かれたものをよく見掛けますが、拡散すべきかどうかは受け手が判断すればいいものです。その判断能力の停止を求める必要はありません。たとえば、救助要請はTwitterで拡散するのではなく、警察・消防当局に連絡するのが最も効果的です。拡散されたことにより多くの人が同一の情報を(現にその光景を見ていないにもかかわらず不正確なまま)伝えることの方が、よほど状況を悪化させます。その情報の拡散を誰のために、なぜ「希望」するか、考えてからでもいいでしょう。

政府や東電への批判はとりあえず待って、落ち着いてからにしろ、というTweetもよく見掛けますし、それはそうだな、と思います。一方で東電社員の家族・友人という方が、自分の家族・友人がいかに頑張っているかということをTweetされていますが、組織・体制の話とその中で働く個人の話は分けた方がいいでしょう。これは災害時だけではなく、普段からそうです。そうした個人の努力・尽力にかかる感動や感情が、組織・体制の見直しを妨げては、むしろそうした努力・尽力の意義が損なわれます。

大学の新入生に情報リテラシを教える授業を担当する身として、こうしたことも含めて、情報の収集・整理・選択・発信に関して4月からの講義でしっかり扱わなければならないと強く感じました。

さて、私は教育分野では情報基礎が主なものですが、自身の研究はだいぶ違うことをやっています。それは、問題に直面した人がどのようにその状況を解消・緩和してきたのかということを、その人たちの生活史から明らかにすることを目的にしてきました。そうした生活史を参照・共有可能な形にすることで、問題の発見・解決に資する仕組みを作りたいと考え、歩みの遅い研究ではありますが、徐々に進めています。

生活史は聞き取りのほか、報道、判例など様々な情報をもとに再構成するもので、最も豊かな情報源となるのは聞き取りです。ただし同じ人に話を何度か聞くと、語られる物語だけではなく、それを生み出す経験の記憶自体に変化が見られます。私は、変化が見られた箇所にこそ、経験をトラウマ化している要素や、物語の矛盾を埋めなければならなかった理由などの注目すべきものが隠れていると考えています。

そのため、物語の矛盾や記憶違い、または嘘と思われるようなことも「信憑性が低い」などという理由で排除することはなく、むしろ私にとっては最も貴重な情報源です。

個人の生活史を収集しているだけでも数多くの矛盾が生じるわけですが、多くの人から話を聞くと、同一のできごとに関する経験・記憶は多かれ少なかれ矛盾をはらみます。

おそらく、今後、今回の大震災についても(既にこれが「大震災」という一つのできごととして語られ始めていることからもわかるように)、いくつかの大きな物語が生まれ、それが集合的な記憶として固定化される動きが見られるでしょう。そのこと自体は、固定化された記憶を共有する人びとの連帯を強めるという効果ももちますし、ごく自然なことです。

一方で、大きな物語との矛盾を抱える多くの個人の記憶・経験が、どのように変容したり喪失したりするのか、ということはこれから先、研究者を含めて、中長期的に語りを収集していく必要があるでしょう。誤解されがちですが、生活史は一度聞き取ればその人については終わり、ということにはまずなりません。個人の記憶の変化を追わない一度きりの聞き取りは、過程の一部分を切り取ったに過ぎません(それはそれでもちろん価値のあるものですが)。

ところで、語りを誰が聞いて、どのように集める、保持するのかということは難しい問題です。私自身が震災の大きかった地域に行って今から話を聞くのは現実的ではありませんし、迷惑の掛かることでしょう。そして話を聞くべき人は、英雄である必要は無いし、「一番大きな害を被った人」である必要もありません。そう考えると、研究者だけではなく、人がそれぞれ互いに相手の話を聞き、それを(ガクジュツテキかどうかは別として)記録に留めておく、という災害時の取り組みが生まれていってもいいように思います。

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新サイト

Blogを新しくしました。過去の履歴は保存はしてありますが非公開です。これまでは何でも適当に書いていましたが、そういった役割はTwitter ( @yoshi_kasa )に任せることにして、ここでは研究・教育関連の投稿や、そうでなくても、Twitterでやるよりは少し長めの記事を載せていこうと思います。

3.16 1:40頃、Blogに名前を付けてみました。いつもYKBlogとかだったので。「記憶の水跡」にします。水跡という言葉があるか分かりませんが。記憶がどんどん変わっていくということと、記録をつけるという行為は深く関わっているように思います。研究テーマとしてだけではなく、一個人としても考えていきたいことです。

記憶というテーマで考えると、「足跡」では一歩一歩が同じ形だし離れているのがしっくりきませんでした。足跡という言葉、嫌いではないのですが。私と親しい人たちは、私自身の記憶がちょっと変わっているようだ、ということ、ご存知だと思います。自分自身でもそう思います。特段生活で困ることはありませんが、それも記憶がテーマになった一因かもしれませんね。

水が残す跡は様々に形を変え、見る者を飽きさせません。読者の皆さんは飽きさせてしまうかもしれませんけど。最初の内は慣れないので固い文章になりますが、慣れてきたらもう少し小気味良い文体で書きたいものです。コメントお待ちしています。

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