トラウマが、納得できないことへの悩み・苦しみである、という考えがあることは既に紹介しました。これはこれで、納得のいく考え方です。
一方で「納得できないことへの悩み・苦しみ」の中には、トラウマとは言わないものもあります。たとえば、所得の低さの悩み・苦しみは「生きていけない」という絶対的なことだけではありません。「なぜ私(たち)はこのように所得が低いのか」という、ほかと比べたときに初めて出てくる悩み・苦しみがあります。「生きていけない」という絶対的な所得の不足についても、「私たちが生きていけないのは当然のことだ」ともしも考えるのであれば、そこには身体的な痛みはあっても、精神の悩みはもしかしたらほとんどないのかもしれませんが、そうした達観がないのでわかりません。ともかく、トラウマだけではなく、負の感情には「納得できるかどうか」が強く影響しているようです。
さらに考えていくと、悩み・苦しみだけではなく、喜びや怒りといったいろいろな感情は納得できるかどうか、ということに関係していますし、特に何かと比べるという行為で、その納得の可能性はより顕在化しているようです。
偶然勝負に勝てた、ということよりも、自分の努力があってこそ勝負に勝てたという文脈があったほうが喜びは大きいものです。ただ、同じ文脈があっても、それをどのように捉えるかは人それぞれです。「努力したおかげで勝てた」と「勝てたがまだまだ努力が足りない」は捉え方の問題ですし(人によっては合わせて「努力したお蔭で勝てたが、まだまだ努力が足りない」となる)、「努力が足りなかったので負けた」と「負けたが十分努力はした」も往々にして捉え方の問題です。
「努力したおかげで勝てた」というのは、勝てたという事実を自分の過去と繋げています。「勝てたがまだまだ努力が足りない」は実際に努力が足りているかどうかは別として、今後も勝つ自分の未来へと繋げています。努力の有無が勝負と因果関係に無い場合でも、「勝つためには努力が必要」という文脈を自分で信じることで、努力できるわけです。その裏返しが負けたときの考え方です。「努力が足りなかったので負けた」は、過去の自分のありかたと事実を繋げています。現に努力が足りなかったことが問題なのかどうかはあまり関係ありません。「負けたが十分努力はした」は、その後「これ以上努力しても仕方がない」となるか「勝ち負けにかかわらず今後も努力しよう」となるかは別の文脈によりますが、現在の事実から見て、過去の自分のありかたを肯定しようという動きです。
このようにして、日常の何気ないものの捉え方も、過去や未来の自分と現在またはごく近い過去あるいは未来に起きた(起きる)できごととを関連づけて意味を持たせる働きを持っています。本来は因果関係が無い、または因果関係がはっきりしないようなことも、こうして説明付けがされます。つまり、過去・現在・未来を繋ぎつつ「なぜそのような事態になったのか」が把握されます。納得がいかないとき、つまり、起きてしまったできごとが過去から未来への自分や他人のありかたと関係が無いことを強く意識してしたときには負の感情が生まれがちですし、うまく説明ができたときには正の感情が生まれがちです。
当然、負の感情は少なく、正の感情は多い方が嬉しいわけですから、「できごと」を説明するための数多くの工夫が私たちの生活には見られます。既に別の記事で説明した「自分史を語るときの記憶の変容」も負の感情を抑えて正の感情を増すような自分のありかたを作る過程で起こるものでしょう。
宗教もできごとと過程との繋がりを納得させるための説明をする大きなものです。なぜ人は死ぬのか、なぜ生きているのか、なぜ苦しみに耐えなければならないのか、私たちが幸せになるためにはどうしたらよいのか、という「考えても考えても納得のいく説明がいかない」というような問いに、永く続いている多くの宗教は説明を提示してくれます。納得がいきやすい説明の束を提供する、ということは宗教の大きな役割でしょう。そう考えると、宗教が全世界的、全時代的に存在するのはごく当然のことです。
宗教と科学とはよく対立して描かれるわけですが、いずれも説明の束を提供するという働きは変わりません。宗教的と呼ばれる様々な説明のありかたと科学的と呼ばれる様々な説明のありかたと、どちらが自分にとってより納得がいくかは人それぞれですし、何に対して納得したいかによってそれらの説明を使い分けたりするのはおかしなことではありません。科学は「なぜ人は死ぬのか」ということに、今のところ身体的な答えは与えてくれても、死の意味についてはあまり説明してくれませんから、極めて科学的な人が、死の恐怖から逃れるために宗教を強く信仰しても、そこには何ら矛盾がありません。
私たちにとって困難なことは、世の中には複数の人がいて、社会が成り立っていることです。一人ではなく複数人がいて、それらが影響し合う中では、当然、様々なできごとが起こり、そのできごとを説明する束は人によって違うものが抱かれます。なぜなら、どのようにできごとを経験するかは人によって異なるからです。そうすると、自分だけであれば説明を矛盾無く受け容れられても、その説明と、ほかの人が抱えている説明が矛盾することはよくあります。
矛盾していても、共存できればいいのですが、「相手の抱えている説明を変えてくれないと、こちらの説明が成り立たない」という事態が発生したとき、ことは厄介です。この場合には説明が矛盾を抱えないように調整するか、どちらかの説明を潰すかしなければなりません。矛盾の調整・超克はとても大変です。なぜなら自分だけならその説明は成り立っている以上、その説明に変更を加えることは自分に負の感情をもたらす危険が明らかだからです。その上、自分にとってはその説明が納得のいくものなのですから、変更したいとは思いません。両者がそういう立場に立つので、調整がうまくいかず、かつ共存も許せないとなれば争うことになります。
そう考えると争いが起こること自体は避けようがないでしょう。口論だったりケンカだったり戦争だったりするわけですが、多くの争いは「自分が抱いている説明(納得のいく文脈)に相手を含む」ために、または「自分の説明の正しさを示すために」行われるように思います。こうしたときに「話し合いましょう」という姿勢は、もし「話し合えば歩み寄れるはず」と考えているのであれば、甘い幻想でしかありませんが、「そもそも話し合いはとても困難なことである」と分かった上で、あえて調整を試みるのであれば勇気ある行為です。
そういうわけですから、調整を図る際には、まず立場をはっきりさせる、というよりも、どのような文脈でもってできごとを捉えているかということを明確にしてからでないといけません。宗教も、(科学を主に扱うような)学問も基本的な立場によって●●派というように分かれているので、その派の中ではこの作業をある程度省いて、すぐに調整に入れるという良さがあります。一方で派を超えようとすると、調整が大変になります。
「納得がいくかどうか」、「どういう説明で納得がいっているのか」ということを自分についても、ほかの人についても考える、というところから対話は始まるし、それを理解しておかないと相手の心には響きません。人は変わるものです。受け容れられる説明も変わっていきます。だからといって「俺の話は納得いくだろう?この話に乗れよ」という姿勢で接しては、逆になかなか乗りづらいものですね。