震災に伴い「情報」という言葉がますます飛び交うようになりました。発信される情報の量はインターネットなどの基盤により年々増えているでしょう。多くの情報が手に入ることは、意思決定や判断を助けるものです。
一方、得られる情報の量や種類が増えても、意思決定や判断が必ずしも「適切なもの」になるとは限りません。そもそも何が適切であって何が適切で無いかは、それを決めるための基準や、基準のもととなる価値観があってこそです。
ですから、情報に曝されているだけでは情報をうまく利用しているとは言えず、情報を収集・整理した上で、それらが自分や組織の用意した基準と照らしてどういう意味を持つのか判断しなければなりません。
そういう意味では、検索万能主義のようなあり方はとても奇妙なものです。キーワード検索をすると、キーワードが含まれる情報の束は手に入りますが、その情報を判断するための基準は自分で用意していなければならないからです。連想検索など面白い技術も出てきていますが、そのことは変わりません。
情報を扱うためには、その情報を判断するための基準が必要。そして、基準作りには、価値観が大いに関係してくるが、価値観の醸成は個人の知識や経験に拠る。ということで、情報検索だけしているのではなく、本を読んだり、日々の経験を反省するといった営みが重要ですよね。という、ありきたりな結論です。
ところで、検索技術の進歩も、まずは検索するという姿勢の普及も問題ありません。むしろ、ぜひ進んで欲しいものです。「検索万能主義の弊害は『わかったつもり』になることだ」などと敢えて言う必要はないと思います。それは止めようがありませんし、検索可能なデータのありかたの方が、情報収集には適当だからです。
「わかったつもり」になるという言い方は「本当はわかっていないのに」という考えの上にあります。そうならば「検索だけしてもわからないのだよ」と大人ぶって言っていてもどうしようもなくて、「では、どうしたら本当にわかるということか。それには情報検索技術がどのように有用か」を提示するのが大人の役割でしょう。