4月3日にTweetしたことのまとめです。最初のTweet
Tweetや過去のBlogで何度か書いてきたように「相手の気持ちで考える」や「相手の立場で考える」ことには疑問があり、自分自身の行動指針にはしていません。
「相手がしてほしいだろうことをしてあげろ」や「自分がしてほしくないことは人にするな」というのもありますが、これも同じ考えが底にあります。つまり、自分と相手との立場を近づける努力こそが、自分と相手の快い関係を作る、ということです。この考え方を好きになれない理由はいくつかあります。
まず、誰かの立場や気持ちには絶対になりえません。いろいろな意味で、経験が異なるからです。自分と他者にはそういった絶対的な差があります。そうであったとしても、せめて相手に近いところまで寄ろうということが「いいこと」、「必要なこと」とされているわけですが、その理由がよくわかりません。いくら近づいても離れているものは、離れているのです
次に、この考え方の危うさです。「相手はこういうことはしてほしくないだろうから、しないでおこう」とこちらで思っても、実際には実は相手はそれをしてほしいということがあります。この場合はまあ、何もしないので構わないのですが、「相手の立場ならこういうことをしてほしいだろう」思ってやったことが、相手にとってはしてほしくないことだという場合です。ありがた迷惑ですね。この場合、「相手の立場を考える」ことを行動指針としている人は「相手の立場に立ったのになぜ理解してもらえないのだ」という葛藤を抱えます。葛藤は成長のもとですから、それはそれでいいとして、この指針の下で動かれた後の人間関係の揺らぎや実害は、「善意」が元なので解決が難しいです。
そして、この考え方の気持ち悪さは「やりとりの欠如」です。相手の立場に立って考えるよりも、相手に実際に表現してもらうのが手っ取り早いです。その人が求めることが、実際にその人にとって最もよいことかどうかなんてことはわかりませんが、「相手の立場に立つ」という指針に立つのであれば、やることは「相手の気持ちを慮る」ことや「思いを馳せること」ではなくて「相手の表現・要請に耳を傾けること」の方が素直でしょう。
ところで、自分が思いを馳せたい相手の表現を聞けない場合があります。相手が遠隔地にいる場合や、自分の理解できない表現方法を取っている場合です。また、「相手」が複数の個人であり、そこには数多くの考え方(主観)が矛盾する形で存在する場合です。
これを考えるに先立って、「そもそもなぜ自分はその相手に思いを馳せるのか(馳せたいのか)」ということをまず振り返った方がいいでしょう。何か社会的な要請や義務感で誰かに思いを馳せる必要はないように思います。僕たちには、世界や国といった範囲とは別に、もっと小さな小さな生活の営みがあります。
その上で、やはり誰かに思いを馳せるといったとき、相手の表現を聞けない場合、どうするか。「自分が相手の立場に立ってみる」は上に書いたように、どだい無理ですし、善意が基で余計な対立を生むだけのように思います。
相手が遠隔地にいる場合には現地に行った誰かが伝えてくれる「これがこの人の考えだ」という情報を基に判断しますね。たとえば理解できない言語の場合は通訳された情報を基に判断します。ここまでは大丈夫。ところが、相手が複数の個人である場合、この状況の判断は極めて難しいのです。
同じものとして扱われるできごとを経験しても、その経験のありかたは人によってまったく異なります。AさんとBさんの考えは対立している場合は当然にあります。それを、どちらかの声だけ取ってきて「集団XのAさんはこう言っている。これが集団Xの総意だ」というのは暴力以外の何ものでもありません。
今回の震災後にでた「被災者の気持ちを考えると…」自粛すべきだ、不謹慎だ、という一連の議論についてはTweetしたので貼っておきます。
「●●するのは被災者の感情を考えると不謹慎だ」という人に対して「私は被災者だが、不謹慎だとはまったく思わない」という人が出てくるのは、考えを相対化する機会を提供しているのでとてもいいと思います。一方で「不謹慎だと思う」人も当然いるわけです。
すると、そもそも「誰かの立場に立ったからこう思う」という理由付け自体をやめた方がいいのではないでしょうか。そもそも誰かの立場になんて立ち得ないし、複数の個人の考えは一つの立場には収斂され得ないのですから、「誰かの立場に立っていること」は何ら説得力を持たないのです。それなのに、誰かの立場に立つことに拘泥していると「どの立場に立っているのがより正しいか」というよくわからない議論になります。この議論に達したとき、既にそもそもの「誰か」の存在は忘れられています。
そういうわけで、結局次のような考えに僕は立っています。
これ、Tweetしたときも思っていたのですが「じゃ、『私はこう思う』理由をどう説明するんだ。それは結局、誰かの立場に立つことによってこそ思うのではないか」という疑問ですね。ただ、「私はこう思う」の理由はいろいろあるのだと思います。「科学的に正しいと思われる」とか、「自分の経験ではこうだ」、とか、「いややっぱり私は誰かの立場に立って考えたからこうだ」とか。ポイントは、その考え・行動に至った経緯は何でも良いのだけれども、あくまで自分の考え・行動は自分で決めることで、その判断基準こそが明らかにすべきことなのです。
前の記事に書いた気がしますが「●●という情報がある」ということと、その情報を自分がどのように判断するか、は別問題です。情報がたくさんあっても判断できないなら意味がないと。同じように「誰かが言っている」それ自体が絶対的価値なのではなく(上に書いたように様々な問題を含んでおり)、なぜそのことをもって自分は自分の考え・行動をするに至ったのか、説明することにこそ重点を置こうよ、と。
そして、「相手の立場にならない行動なんて独善だ」という考えには与しません。「相手の立場を考えた行動」だって、独善と言えば独善です。正確にはどちらも「独善にもなり得るし、実際に人の役にも立ちうる」わけです。誰かのためになることは何か、ということは、相手の立場を考えたかどうか、とは直接繋がっていません。相手の立場を考えず、自分の知識や経験、あるいはその他様々な判断基準を用いて取った考え・行動こそが誰かのためになることだってあります。
ぐだぐだ。
1 個のコメント
まだpingなし
COMEX さん、いわく:
2011年10月24日 at 12:04 (UTC 9)
最後の「ぐだぐだ。」が笠井さんらしいかなぁ。
なるほど、とも思うけれど、それでも誰かに思いを馳せる、想像するってスタンスは人間が生きていく上では重要な発想だとおもう。
コミュニケーションにおいて更新されないキャリアがたくさんあると円滑にやり取りは行えなくて問題となるだろうけれど、コミュニケーションの出発点のほとんどはステレオタイプ的な取っ掛かりに頼らざるをえない。間違えたり、失敗したりもするけれど(それで嫌な思いをすることもあるだろう)、それでも、他者と共に生きていく為には、かかわりの出発点と、キャリアの更新が欠かせないわけで・・・
むやみに他者を翻弄するのはどうかと思うけれど、それでも他者と生きていくには最低限の無遠慮な「思い遣り」が必要なんだと思う。
「被災者がこう思っていると私が考えたから」というカッコ付きの思い込みと思い遣りを含めて。
ぐだぐだ