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2005年07月06日
第12回講義レビュー
第12回の安全保障論は特別講義として、防衛庁海上幕僚監部教育班にご勤務されている、大塚海夫・一等海佐が担当しました。当日は海幕の制服をビシっと着こなして登場し、口調滑らかに講義をしていただきました。大塚一佐と私とは3年来のお付き合いで、ちょうどフロリダ州・タンパの米中央軍(CENTCOM)に主席連絡官として派遣される前に、防衛政策に関連する勉強会で知り合いました。海上自衛隊の幹部としてかねてより部隊で活躍していましたが、ジョージワシントン大学への留学や、西太平洋海軍シンポジウム(WPNS)等への参加を通じて、国内外の研究者・専門家とのつながりも深い、学究肌の一面も持ちあわせています。
タンパでの大役を果たしたのちに、「安全保障論」の授業に招くことができて良かったと思っています。大塚一佐には今回の特別講義にあたり、これまでの11回の「安全保障論」の講義資料にすべて目を通していただきました。おかげで、これまでの授業内容・講義の進展を踏まえつつ、日米関係の歴史、自衛隊の現場での経験、海上自衛隊と米海軍との特別な関係、Global Military Player としての日本の姿などを、話していただきました。
ちなみに、今年の3月に特別講義をお願いするために、防衛庁にて大塚一佐とお会いし、いろいろと興味深いお話を聞くことができました。第12回のレビューは、イレギュラーな形ですがそのときに懇談した内容を中心にお送りします。
【コアリション・ビレッジの経験】 (以下の原文は個人ブログより)
3月下旬の暖かいお昼どきに、市ヶ谷・防衛庁の最上階にある食堂で、海幕の大塚一佐と昼食をご一緒しました。大塚一佐は2002年11月から2003年5月まで、フロリダ州・タンパにある米中央軍(CENTCOM)に主席連絡官として派遣された、知る人ぞ知る実力者です。大塚一佐とは、ある勉強会で2002年から知り合い、当時の東アジアにおける多国間軍事演習の動向について、よく議論した仲でした。その直後に、アフガン戦争・イラク戦争のオペレーションをつかさどるCENTCOMに日本を代表して派遣されることになり、知人としてとても誇らしく思ったものでした。
CENTCOMって何?と思うかもしれませんが、米軍には責任区域(Area of Responsibility:AOR)という概念があり、例えば在日米軍はハワイに司令部のある太平洋軍(PACOM)の管轄下にあります。この図(Global Securityウェブサイトより:やや重いです)をみるとわかるとおり、太平洋軍は太平洋全域からインド洋を経てアフリカ東岸マダガスカルまでを含む地域を担当しているんですね。そして、アフガン戦争「不朽の自由作戦」(OEF)とイラク戦争「イラクの自由作戦」(OIF)を担当した中央軍(CENTCOM)は、アフリカ北東部から中東・中央アジアを担当していることになります。その司令部がフロリダ州のタンパにあるというわけです。
CENTCOMのフランクス司令官は、OEFとOIFの双方で各国との調整を進めるために、タンパに「コアリション・ビレッジ」を開設しました。ここで、双方のオペレーションの参加国と米軍との連絡を緊密化するために、いわば「有志連合」の縮図があったわけです。各国はCENTCOMの司令部の横に建てられたトレーラーハウスを事務所代わりにして、ワシントンの大使館と本国との連絡を行う窓口にもなったわけです。大塚一佐には、半年の充実した仕事ぶりや苦労話など、貴重な経験を聞くことができました。
2002年末から2003年夏といえば、まさに米国がイラク戦争の開戦に向かって突き進んでいた時期。この時期に、中央軍の連絡官としてどのように情報をとり、そして米軍と他国軍との信頼関係をいかにつくりあげるか、まさに「軍と軍との外交」を取りまとめていました。
ただ日本はイラク戦争に否定的な世論だったし、フセイン政権崩壊後のイラクへの自衛隊派遣についても支持は薄かった。そして受け入れているCENTCOM自身も、PACOMと違って日本の特殊事情はわからない。ハワイに行けば日本の戦後の経験や政治状況に詳しい軍人も多いが、遠く離れた中央軍には「日本の事情などさっぱりだった」といいます。これをわかってもらうために、「まさにマッカーサーとGHQの話からはじめましたよ(笑)」と苦笑してました。というのも、「コアリション」の実態は条約関係というより、むしろ意志と実力の世界。「日本が派遣できないのだったら、スロベニアに頼もうかという世界です」とのこと。つまり、日本がもたついているとコアリションの枠組みからは、すぐに落ちてしまう可能性が常にあったというわけですね。
「まあ、日本はいろいろあるようだから、二国間で個別に話をしよう」と米側がいうのが、「悪魔の誘いでした」という。というのも、そのバイラテラルの交渉に持ち込まれたら、多国間調整の場から外れるということだから、そこで日本は情報共有などの点で大きく遅れをとってしまうというわけですね。でも、日本の法整備は進んでなかったし、政治的な意志の発揮も夏の「イラク支援法」を待たなければならなかった。その間に、多くの国が部隊を派遣し、お隣の韓国でも700人ほどの医療部隊を派遣していた。その過程でも、日米関係や多国間関係の信頼性を維持しなければならない。こうした難しい責務を日々感じていたといいます。
阿川尚之先生の「米中央軍司令部と『有志連合』をたずねる」『中央公論』(2003年8月号)でも紹介されているように、大塚一佐は「コアリション・ビレッジ」の人気者だったようです。CENTCOM参謀長にも気に入られ、他国の多くの連絡官とも信頼関係をつくり、コアリション各国の仕事ぶりを観察し、分析するという仕事を綿密に続けていたみたいです。その結果、コアリション・グループの副議長に当選したり、相当の人望を集めていたということは、あまり知られていないのかもしれません。「各国がイラクのどの地域に部隊を派遣しようとしているか足で情報をとり、数週間で地図がちゃんと埋まりましたよ」ってすごすぎる・・・。これが、日本がイラクのサマワという責任区域を選ぶ上でどれだけ役立ったか、実は計り知れないソフト・パワーだったのかも知れませんね。
そして、日本がCENTCOMの「コアリション・ビレッジ」に参加したことは、将来の日本の安全保障政策にとっても重要な意味を持つかもしれません。というのも、CENTCOMでの経験は、日本の周辺で将来起こる事態への、ひとつのモデル・ケースになるかも知れないからです。ハワイ(日本ということは考えにくいけど)に「コアリション・ビレッジ」が開設され、そこで「周辺事態」に際し各国が集まって対応する、という局面も想定されるかもですね。そんなときに、CENTCOMでの組織的記憶とノウハウの蓄積が、今後の日本の政策をどれだけ助けることか。こうしたことまで想定して、安全保障政策を考える発想が大事なのだなと、勉強できた気がしました。
〔リーディング・マテリアル〕
[1] 大塚海夫「タンパで自衛隊も”メジャー”になる」『諸君』(2004年4月)
[2] 阿川尚之「米中央軍司令部と『有志連合』を訪ねる」『中央公論』(2003年8月)
〔さらなる学習のために(日本語)〕
[1] 細谷雄一「米欧関係とイラク戦争--冷戦後の大西洋同盟の変容」『国際問題』(2003年9月)
[2] 渡邊昭夫「有志連合、国連、それでも機軸は日米だ」『中央公論』(2003年8月)
[3] 渡邊昭夫「新世紀における同盟のニューフロンティア」『外交フォーラム』(2001年11月)
〔さらなる学習のために(英語)〕
[1] Kurt M. Campbell, "The End of Alliances? Not So Fast" Washington Quarterly (Spring 2004)
[2] Bruno Tertrais, "The Changing Nature of Military Alliances" Washington Quarterly (Spring 2004)
[3] Paul Dibb, "The Future of International Coalitions: How Useful? How Manageable?" Washington Quarterly (Spring 2002).
投稿者 jimbo : 2005年07月06日 17:22