階段を登ってくる小学生から「ゲーム」という声がした時、私は現実に引き戻されたように思った。あるいは、厚木の米軍基地から音楽が聞こえてきた時、私は確かに現実世界に在る、ということを確認する。しかし、それ以外の時はどうだろう。自分の位置をディスプレイ上で確認する時だとか、遠くの目的地を確認する時だとか、モンスターが出てきた時、だとか。そういった時、私はどこにいるのだろうか。私は現実を歩いている?それとも記号化されたゲーム機のディスプレイを歩いている?ある目的地に行きたいとする、私はそこを目指して歩く。しかしその間その道中、その道の選択、それは私が行きたい場所、ではない。なぜなら私はその場所を知らない。この道が本当はどこにあって、この先に何があるのかは、よく知らない、が、そのずっと先に目的地がある、ということになっている。私は歩く、ゲーム機はそれに連動する。ゲーム機が導く、私はそれに沿って歩く。 圓田浩二の『ポケモンGOの社会学』では、歩く、という行為について、ジョン・アーリを引きながら、ポケモンGOは、最新のテクノロジーにより、ゲームマップと現実世界の地図が組み合わされ、「現代社会における「歩く」ことの復権による、新たな冒険を可能にした」とする。現実を歩く、という行為によってゲーム内のキャラクターは動き、ゲーム内のキャラクターを動かすために歩く、ポケモンを捕まえるために、ポケストップに行くために、行くはずではなかったその場所まで歩く。人を呼ぶためにその場所をポケストップに設定する。現実が仮想空間を作り、そのつくられた仮想空間が現実に影響を及ぼす。現実と仮想空間のその絶え間ない交換、それは現実にもう一つ見えないレイヤーが加わったようであり、それを知覚するプレイヤーと、そうでない人、その間に分断が生まれる。 PS Vita、というゲーム機がある。それは昔、スマホの機能を備えたゲーム機として、少しだけ話題になって、そして忘れられた。モンスターレーダープラス、というゲームがある。このゲームは、カメラの映像上にARで生成される、その店舗に結びついた仮想のモンスターを捕獲する、という位置情報ゲームである。街を歩き、モンスターを見つけ、捕獲する。このゲームは、2014年にサービスが終了された。そこには8年前の地図、8年前のモンスターが存在する。 モンスターレーダーをプレイする、そこには現実と仮想空間、その絶え間ない交換がある。しかしその仮想空間と現実の間には、8年分の歪みがある。その歪みは、具体的なモンスターとして表象される。変わってしまった店舗、あるいは更地の上に漂うモンスターは、現実との指示関係を失っている。しかしそれは、”更地”である、ということにその痕跡を見る。かつてコンビニだったその理髪店の看板の位置は”コンビニであった”ということを誇示する。 伊藤俊治は『新星写真都市』で、「その膨大な写真イメージは粒子化し大気圏のように地球を覆い、宇宙レンズとなって地上のあらゆる光景を記録する新星が生まれ、それが私たちの無意識層へ滑り込んでいるかのようにも思え」る、と言った。常に「宇宙レンズ」によって「あらゆる光景を記録する新星」は、私たちの〈いま、ここ〉を指し示す。しかしその「光景」は、8年前に途絶えてしまった。〈いま、ここ〉として指し示された8年前の「光景」、それは〈それはかつてあった〉ものである。〈いま、ここ〉として現前する〈それはかつてあった〉痕跡、そこに奇妙なリアリティがある。 私は8年前に従って現実を歩く。現実と意味空間その歪みを泳ぐ。














ポスト・インターネット
奇妙なリアリズム--ズレと身体
ポスト・インターネットの類型

冒頭
モンスターレーダープラス(+)
ポケモンGOとモンスターレーダープラス


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