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2009年05月01日

文学のモダニズム

3月のことになるが、信学会の全国大会で松山へ行った。愛媛県に行くのは生まれて初めて。路面電車が走るコンパクトな街だった。

パネルディスカッションに招待していただき、その後には市内にある坂の上の雲ミュージアムや松山市立子規記念博物館に足を運んだ。

子規の生い立ちから近代俳句が成立ってゆく歴史が解説されていたのだが、特になるほどと思ったのが俳句における「写生」というコンセプトの誕生の経緯だった。

博物館にはガイドシートという紙がたくさん用意されていて、いくつものトピックが解説されている。その中のひとつに以下のように解説されている。

子規博ガイドシート No.7 なるほどしきさん 子規、新聞記者になる!その1ジャーナリスト子規
「子規と画家・中村不折」

子規は、「小日本」(子規が編集長をつとめた家庭向けの新聞)にさし絵を入れたいと
考え、画家をさがしていました。そして知り合いの画家・浅井忠に中村不折を紹介して
もらいました。不折は西洋の絵を勉強していました。
 子規と不折は、日本の絵と西洋の絵のちがいについて話し合いました。子規は西洋の
絵に、見たままを描く「写生」という方法があることを知りました。そしてこの写生と
いう方法を、子規は俳句の作り方に取り入れていったのです。

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西洋の方法論がさまざまに輸入された明治という時代の中で、海外にはない俳句という領域にもモダニズムを輸入してみた、ということになるだろう。子規が改革を試みようとした誹諧の世界はデフォルメをするような日本画のように思えたのだろうか。建築でもモダニズムが勃興した時代には、装飾は悪とされた。シンプルに自然法則・科学技術に従うものが希求されてゆこうとした近代という時代。

平田オリザは子規の功績について、下記のような解説をおこなっている。日本が大きく動いた時代に、ことばも大きく動いたと言えるだろう。

平田オリザ, イノベーションに関する文人的考察, Vol.49 No.4, pp.1504-1507 (2008/04)

文芸の世界におけるイノベーションの典型的な事例としては,たとえば正岡子規があげられる.子規は,俳句,短歌の改革者としてのイメージが強いが,日本文学史上に残した最大の功績は,近代散文の確立という点にある.
子規の随筆は,現代の私たちが読んでも,まったく違和感なく受け入れられる文体で書かれている.しかし,このような文章を書いた人間は,子規以前にはいなかったのだ.子規が確立した散文の文体が,盟友である夏目漱石に受け継がれ,それが新聞小説となって全国に伝播し,近代日本語は 1 つの完成を見せる.これは 20 世紀初頭,日本が近代国家としての形をほぼ完成させる時期と重なっている.
こうして私たちは,同じ言語で,政治に参加し,裁判を受け,高等教育を行い,小説や詩を書き,ラブレターを綴り,夫婦喧嘩ができるようになった.私たちは,いま,それをさも当たり前のように享受しているが,これは,明治人が「近代日本語」という坂の上の雲を血のにじむような努力で追いかけた,その成果であることを忘れてはならない.

熱い。