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2009年07月01日

話すにも練習がいる

平田オリザ, 北川達夫 ニッポンには対話がない 三省堂
を読んだ。

平田オリザは、会話と対話は違うという。もちろん、議論ともディベートとも違うだろう。


● p.77
日本人のコミュニケーションのさまざまな問題を考えるうえで、会話(conversation)と対話(dialogue)を区別する必要があるのではないかと、わたしはつねづね言ってきました

ここでの対話とは北川の言うエンパシー型コミュニケーション(お互いが結局は相手の気持ちはわからないという前提に立ち、もし自分がその立場だったらどう考えてどう行動していくか、を話し合う)であり、単なる会話とは違うものが想定されている。
遠からず日本にもやってくるであろう多文化共生社会を見すえたふたりの対話が行われている。つまりこれまでの日本のようにお互いの価値観を共有できているという前提がくずれた時代。多くの学校や会社もそうなりつつある。


● p.120
型を学び、型通りに表現することは、コミュニケーションの基本動作。その型通りの表現に違和感を覚えたとき、また、その型を破りたいという欲望が生まれたとき、そこに、「自分の表現」「自分の構成」を獲得する道が開ける。

コミュニケーションにも練習が必要なものがある。聴くも聞くとは違うので、話すと同様に「聴く」練習がいる。ふつうは大人になったら歩く練習を普通はやらないように、話す練習や、聴く練習、なんてしないものだ。でも、歩くのがプロの人は練習をする。仕事として話す、仕事として聴く、ためにはやはり練習しないといけない。と思うと、自分にもそう言い聞かせないといけない(w

ワークショップを運営する側にいる時は、意識しながら話すし、聴くようにしている。何に対して意識的な練習(deliberate practice)が必要なのか?と考えることは、自分が何のプロなんだろうかという自問の始まりでもある。

他にも「対話の場の重層性」という言葉にはとても共感できた。