高岳親王と羅越国 1100年の時を結ぶ不思議な縁 /野村亨
[1997年10月21日 東京夕刊]

                  慶応義塾大学(総合政策学部)助教授

 数年前、十数年来の友人でシンガポール国立東南アジア研究所所員のパトリシア・リム女史をマレー半島南端の町ジョホール・バルに訪ねたことがあった。ジョホール・バルは狭いジョホール水道を隔ててシンガポールと向き合う国境の町だが、近年はシンガポールの奥座敷として、日本をはじめ多くの外国企業が、安価で質の高い労働力を求めてこの地に進出しており、経済発展のめざましい地区として注目を集めている。

 またこの地は先の大戦の初期、マレー半島を南下した日本軍がシンガポールを攻略する際に集結した場所としても日本との因縁浅からぬ土地である。

 私が同地を訪問した際、同女史は私にイスマイル・ニエ氏という一人のマレー人の老人を紹介してくれた。彼は当時六十歳あまり、かつて少年時代に日本軍のシンガポール攻略作戦を、ジョホール水道に面した自宅の床下に掘った防空壕から目撃したという現代史の生き証人である。彼は幼少の頃から自分が生まれ育ったジョホールの歴史に強い興味を持ち、専門教育こそ受けていないが、独力でさまざまな資料を集めており、歴史家であるリム女史も一目置いているという人物である。

 その時、イスマイル氏は私をジョホール・バル市内の日本人墓地にいざない、そこにある不可解な石碑の由来についての説明を私に求めた。彼によれば、その石碑は他の日本人の墓よりずっと新しく立派で、表面にはなにやら古代の日本の高僧についての略歴が日本語のみならず英語やマレー語でも刻まれているという。そこで同墓地を訪ねてみると、その不可解な石碑はかつてこの土地で没したとされる真如法親王(高岳親王)という人物を顕賞した石碑であることが分かったのである。

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 高岳親王は宝亀十一年(七八〇年)、平城天皇の第三王子として誕生した。祖父は桓武天皇であり、また六歌仙の一人として名高い在原業平は甥に当たる。大同四年(八〇九年)、同親王は叔父にあたる嵯峨天皇の皇太子として推戴されたが、翌年の弘仁元年(八一〇年)に藤原薬子の乱により皇太子位を剥奪され、後に弘仁十三年(八二二年)に出家し、真言宗の開祖空海(弘法大師)に師事して真如法親王と名を改め、高野山に親王院という寺を開いた。

 しかし仏教を本場の中国で学びたいという情熱もだし難く、貞観四年(八六二年)齢八十二歳にして唐に渡航したが、折あしく唐では武宗が発動した「会昌の廃仏」という仏教排斥運動の直後で、仏教は衰退の極にあった。失望した親王はさらに本場の仏教を求めてインドへ旅立ち、以後行方不明となってしまった。

 それから約二十年後に日本を訪れた一人の中国人僧が親王の消息をもたらした。平安時代の歴史書『三代実録』によれば、親王はインドへの旅の途中、羅越国という所で遷化されたが、詳しいことは不明であるという。また別の資料によれば、親王は羅越国で虎に食われて命を落としたともいう。

 高岳親王の事跡については戦前から桑原隲蔵をはじめ専門家らによる研究が見られる。同親王が亡くなったという羅越国の所在地についてはタイ中部説、中部インド説、マレー半島説など諸説があるが、中国史料を駆使してマレー半島地域の古代地理を研究したホイートリー博士によれば、マレー半島南端、つまり現在のジョホール付近にあったと見るのが最も妥当であるという。マレー半島には虎が棲息しており、今世紀初頭にはシンガポールでも虎が捕獲されたというから、恐らく、インドへの旅の途中、乗船していた船が風待ちのために立ち寄った羅越の地で、たまたまジャングルを歩いていた親王は突然現れた虎に襲われて志半ばにして不幸にも異郷の地に果てたのであろう。

 それから千年以上を経て、今から二十年前に、高野山の親王院の当時の住職がわざわざ日本から御影石を運んできて、同院の開祖である真如法親王終焉の地とされるジョホールの地に記念の石碑を建てたものらしい。

 帰国後、私はさっそく高野山の親王院を訪ねたが、残念ながらジョホールの石碑を建立した住職はすでに物故されており、建立にかかわる詳しい経緯などを直接確かめることはできなかった。しかし親王院の住職のご好意で千百年も前に高岳親王が起居されていたその同じ場所に一夜の宿を得た私はジョホールと日本とを結ぶ不思議な縁を思い、その夜はなかなか寝付かれなかった。

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 その後、シンガポールを再訪した際、私が親王院訪問の話をすると、リム女史夫妻はぜひ自分たちも高野山を訪れてみたいといいだした。夫妻の夢はとうとう昨年三月に実現することになった。僭越ながら、私はこの機会にぜひ異郷に果てた高岳親王の御霊をジョホールから高野山にお連れして御霊を慰めるとともに、先の大戦の際、戦没したすべての兵士や民間人の慰霊も併せて行い、東南アジアと日本との友好を祈念したいとひそかに考えた。この計画をリム夫妻に話すと同夫妻も喜んで協力してくださることになった。

 リム夫人はジョホールをたつ前日、同地の土をきれいな染め付けの器に入れて日本まで持参して来て下さった。大阪で同夫妻を出迎えた私は高野山に向かい、親王院を再訪し、我々の来意を告げた。あいにく住職は留守であったが、翌日、親王院で我々三人だけのささやかな慰霊祭を行うことができた。留守居役の僧による読経の後、我々三人は持参したジョホールの土を親王院の前庭に撒いた。私は小さな声で「御子、おかえりなさい。御大師様のもとでゆっくりお休み下さい」と呟いた。

 ジョホールの赤土は高野山の黒い土の上にはらはらと散り敷き、やがてそぼふる雨に流されて次第に交ざっていった。私は胸のつかえが一度に下りたような安堵感にしばらく身を任せ、雨中に立ち尽くしていた。その後、しんしんと更けゆく高野山の夜のしじまに親王の呼ぶ声を聞いたような気がしたのは私の錯覚だったのだろうか。

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 のむら・とおる 慶応義塾大学総合政策学部助教授。マレーシア史、東南アジア交通史。昭和二十七年生まれ。青山学院大学大学院博士課程修了。著書に『アジアの英語』(共著)など。

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