RACレジュメ

東南アジアと日本(1)

前近代の日本における外国認識

日本とのかかわり

日本と東南アジアはたがいにどのようなかかわりを持ってきたのだろうか?

 

前近代;唐、天竺

「カラ」とはどこか?

カラカラ諸国

三国時代前半期に繁栄した

562年に新羅に併合される

三国時代後期にかなりの自治を許されていた

カラ諸国

古寧(慶北,咸昌)

卓淳(大邱)

碧珍(星州)

大伽耶(高霊)

非火(慶南,昌寧)

多羅(陝川)

阿羅(咸安)

金官(金海)

小伽耶(固城)

 

今昔物語

 

朱印船貿易

朱印船制度の起源:

 1592(文禄1)豊臣秀吉の創設説

 1601(慶長6)の徳川家康の創設説

 後者の学説が有力

残存最古の異国渡海朱印状は1602年

1601年以前の南方諸地域への渡航船は,史料では渡唐船と称する

朱印船貿易

時期:1601年以後鎖国政策の展開した1635年(寛永12)まで

渡航総船数:350360艘,年平均約10余艘が従事

(金地院)以心崇伝の《異国御朱印帳》《異国渡海御朱印帳》に,年度別・地域別に記録あり

渡航地:安南国の東京(トンキン),交趾(コーチ)国のツーラン,フェフォ,柬埔寨(カンボジア)国のプノンペン,暹羅(シヤム)(タイ)のアユタヤ,呂宋(フィリピン)のマニラ郊外のディラオ・サン・ミゲル

朱印船主:長崎の末次平蔵,船本弥平次,荒木宗太郎,糸屋随右衛門,京都の角倉了以・与一,茶屋四郎次郎,伏見屋,堺の伊与屋

朱印船末吉船;寛永10年(1633年)京都・清水寺に奉納されたもの

朱印船末次船;寛永11年(1634年)長崎・清水寺に奉納されたもの

朱印船貿易

朱印船の経営:船主は幕府より朱印状の交付をうけ,船舶や資本銀や商品を準備し,船長や船員を雇い入れ,ついで貿易を希望する商人を募集して客商とし,船賃をとって同乗させた

船の規模:茶屋船の場合,乗員は300人余,船の長さ45m,幅8.1m

朱印船の終焉:1631年(寛永8)奉書船制度による貿易の制限

1635年奉書船の海外渡航も全面的に禁止

鎖国の理由;キリスト教の禁止令

《ザビエルの書簡》

 もし日本国王が私たちの信仰に帰依することになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすことでしょう。堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀や金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。

物質的な利益に関係なく、神への愛だけで、神父たちを渡航させる船を出す者は誰もいないと信じます。
「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」3、河野純徳訳、東洋文庫

 

南洋日本町

1636(寛永13)の第4回鎖国令発布までの約30年間に発給した朱印状の数は合計356

渡航者:海賊,船員,商人,失業者,追放キリシタン等

出国日本人総数:延べ10万人以上

森本右近太夫の落書き(寛永9年)

肥州熊本、森本右近太夫一房の墨書
アンコールワット回廊
寛永9年(1632年)正月に参詣
老母の後生を祈るため仏像4体を建立
父義太夫は加藤清正の重臣

「祇園精舎の図」

実際にはアンコールワットの平面図

長崎の通辞島野兼了が実際に現地へ赴いて実測図を作成したもの

鎖国後は水戸・徳川家に所蔵されてきた

現在、水戸、彰考館蔵

 

南洋日本町

所在地:7箇所

 ベトナム中部のフェフォ(現在のホイアン),トゥーラン(ダナン),タイのアユタヤ,ルソン島のマニラ郊外のディラオとサン・ミゲル,カンボジアのプノンペンとピニャールー

雑居地:マカオ以南に少なくとも20ヵ所

ほとんど東南アジアの全域に及ぶ

ベトナムホイアンに残る日本人の墓(17世紀)

ベトナム・ホイアンの日本橋

 

最盛期の推定人口:マニラ郊外の3000人,アユタヤの1500

7ヵ所の全日本人町総計5000人以上

頭領には日本人が選ばれ、自治権を付与

アユタヤ日本人町の頭領,山田長政、日本人傭兵隊長(政敵により1630年に毒殺)

山田長政の軍船
寛永3年(1626年)に故郷静岡の浅間神社に奉納した絵、原画は天明8年に焼失

アユタヤ・日本義勇軍の行列
原画はアユタヤ、ヨム寺院にあったが、その手写本がバンコクの文書館に現存

 

Ayutthaya”by Vincenzo Coronelli in 1696

バンコク郊外の水上市場

アユタヤの旧王宮跡

大部分は商業に従事

朱印船のために,生糸,鹿皮,鮫皮,蘇芳木などの商品を買い付け

鎖国により、しだいに現地社会の中に吸収

フェフォ,アユタヤ,ディラオには16901708年ごろまで何人かの日本人が生存(オランダの記録)

徳川時代の海外認識

新井白石(1657−1725)

名は君美(きんみ)通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美、紫陽,錦潅山人,天爵堂

関ヶ原の戦の後,主家とともに所領を失う父正済(まさなり)は江戸へ出奔し,当時流行のかぶき者のような生活を送る

上総国久留里藩土屋利直に仕え,信任を得て目付を務めた

お家騒動にまきこまれ,1677年(延宝5)父子ともに土屋家から追放

1682年(天和2)大老堀田正俊に仕官

正俊の死後,91(元禄4)堀田家を去り,再び牢人生活

1686年(貞享3)木下順庵に入門

1693年順庵の推挙により甲府藩主徳川綱豊

  (後の6代将軍徳川家宣)の侍講となる

1704年(宝永1)家宣が叔父5代将軍綱吉の養子

白石も幕臣として寄合に列せられた。

1709年家宣が将軍となる

厚い信任のもとに幕府政治に発言

11(正徳1)従五位下筑後守に叙任、知行地1000

12年家宣の死後も側用人間部椿房とともに幼将軍家継を補佐

正徳の治:通貨改良,貿易制限,司法改革などに努力

1716年(享保1)吉宗が将軍

政治上の地位を失い,晩年は不遇

 

著書

《藩川譜》各大名家の事跡を系譜的に述べた

《読史余論》:摂関政治から家康制覇に至る間の政治の変転を論じた

《古史通》:神話に合理的解釈を試みたもの

地誌:《蝦夷志》《南島志》《琉球国事略》

《西洋紀聞》《采覧異言》:シドッチの尋問によって得た知識に基づく

言語・文字の研究先駆者:《東雅》《東音譜》《同文通考》

自叙伝《折たく柴の記》

シドッチ  16681714Giovanni Battista Sidotti

イタリア人のカトリック司祭

禁教令下の日本に潜入した最後の宣教師

1704年マニラに到着して日本語を学ぶ

1708年(宝永5)スペイン船で屋久島に単身上陸

直ちに逮捕、長崎を経て江戸へ送られ,小石川切支丹屋敷に幽閉され5年後に没

新井白石、シドッチを尋問

鎖国下の世界知識の源となり,洋学の基

 

新井白石の合理主義

シャム・チャンパの条

ジャガタラの条

スマトラの条

オランダの条

西川如見  16481724(慶安1‐享保9)

江戸中期の長崎の天文学者

名は忠英,通称は次郎右衛門。如見のほか求林斎,金梅庵,淵梅軒とも号す

商家の生れ

儒学を南部草寿に学ぶ。

長崎流天文学を受け継ぎ,中国の天文学に西洋天文学を加味した研究を進める

1719(享保4)将軍徳川吉宗に招かれ下問に答えた

著書

《天文義論》(1712):天文学概説書

 儒教的自然観をとりながらも,天を〈命理の天〉と〈形気の天〉に分け,実証主義的思考を示す

《日本水土考》(1720):日本を地球上の中華とみる見地を展開

1695年版《華夷通商考》

改正版:《増補華夷通商考》(1708):通商的観点の世界地誌で,海外事情の普及に大きく貢献

《長崎夜話草》:啓蒙書、ジャがタラお春

《西川如見遺書》18(18981907)

華夷通商考 

江戸時代最初の本格的な世界地理書

1695(元禄8)初版2

1708(宝永5)増補版5巻を刊行

中国を主とするアジア諸国やオランダ以下西洋諸国について,位置・風土・産物などを通商の見地から記述

増補
華夷通商考(宝永6年版)表紙

中扉

序文末尾の出版年号

明朝と清朝の風俗

ベトナムの風俗

 

南京船と福州船

オランダ船

オランダ人の風俗

 

漂流民

鎖国体制下の犠牲者

千石船と国内経済の発達

消費都市の発展、江戸、大阪、博多

航海技術の衰退、山見航法

送還体制、中国、朝鮮とはある

海外知識の伝達と普及

 

大黒屋光太夫
1751−1828

幸太夫とも書く

伊勢国亀山藩領南若松村(現,三重県鈴鹿市)亀屋四郎次の子

父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改む

木綿商売を営む

天明2年12月(1783年1)

白子港の廻船神昌丸に木綿,米などを積んで江戸に向かう途中難船

8ヵ月後アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着

 

1787年:ロシアの毛皮商の手代に連れられてカムチャツカに渡る

1789年2月:チギリ,オホーツク,ヤクーツクを経てイルクーツク着

ペテルブルグ学士院会員のガラス工業家エリク・ラクスマンの知遇を得る

1791年:ペテルブルグに同行して女帝エカチェリナ2世に謁見,帰国を許される

1792年:エリクの子、遣日修交使節のアダム・ラクスマンの船で根室に帰着

将軍家斉,松平定信らに見聞を伝える

その後、番町の薬園で一生を終えた

《北槎異聞》《漂民御覧之記》《北槎聞略》

鎖国下での国際認識の発展に大きく貢献

 

孫太郎(孫七)1747?−1807

唐泊

孫太郎の行程図

孫七58歳の時の肖像画