RACレジュメ

東南アジアと日本(2)

からゆきさんと南進論

 

明治以降、第二次世界大戦終戦前までは南洋、南方が一般的な名称

第二次世界大戦中は「大東亜共栄圏」という表現が使われた

敗戦後、占領軍により「大東亜共栄圏」の表現が禁止された

どういう人々が出て行ったのだろうか?
からゆきさん、香具師、洗濯屋、芸人など

からゆきさん
1877年(明治10年)にはすでにマレーストリートに2軒の日本人娼館があったという

マレーストリートとハイラムストリートの交差点付近にあった26番娼館(1914年頃)

明治末期のシンガポール日本人娼館

「九時頃より有名なマライ街を観る。家は洋館にして、青く塗りたる軒端に1,2,3のローマ字を現はしたる赤きガス灯をかけ、軒の下には椅子あり、異類異形の姿なる妙齢のわが不幸なる姉妹これに依りて、数百人もしれず居並び、、、、、」

        (福岡日報、明治43年5月6日)

企業の進出

横浜正金銀行

日本領事館

三井物産などの商社

 1891年(明治24年)に進出

日本郵船、大阪商船

堤林数衛と「トコ・ジュパン」

堤林数衛(1873−1938)

山形県出身、没落士族

小卒後、代用教員を務める

1895年、台湾へ渡り、現地会社郭河東公司の顧問となる

1908年、キリスト教に入信

1909年、ジャワへ渡る

1909年、「南洋商会」を設立

同志の青年たちと行商する

薄荷玉(ピープルメン)で有名となる。香港の「タイガーバーム」はこの模倣。

ジャワ各地に支店を開設、「トコ・ジュパン」の名で知られるようになる

1918年、農園経営開始

1927年、「南洋商会」解散

1938年、小笠原島で病死、晩年は禅に凝る

南進論

志賀重昂「南洋事情」1887

菅沼貞風「新日本の図南の夢」1888

田口卯吉「南洋経略論」1890

竹越与三郎「南国記」1910

          陸軍:北進論

          海軍:南進論

矢野暢「南進の系譜」

「実業の日本」南洋特集号
(大正4年)(1915年)

鶴見祐輔「南洋遊記」(大正6年)

鶴見祐輔「南洋遊記」より

「本書は興味本位である。殊に目的とする処は少年青年諸君の南国乃至は外国に対する興味を刺戟せんとするにある。蓋し新日本の真正なる対外発展は、年若き国民の外邦に対する興味の増進に之れ由ると思ふからである。」

鶴見祐輔(1885〜1973)
昭和期の政治家,著述家
岡山県出身
東京帝国大学法科大学卒業

1924年:鉄道省運輸局総務課長を退官
ヨーロッパ,アメリカ,オーストラリア,インド各国の大学等で遊説し民間外交の推進に尽力

1928年:代議士となり以後4回当選
米内光政内閣の内務政務次官大政翼賛政治会,大日本政治会などの顧問

2次世界大戦後:日本進歩党の幹事長
1953年:参議院議員を1期務め,第1次鳩山一郎内閣の厚相となる
後藤新平の女婿 

南洋委任統治領の成立

第一次世界大戦(1914-18

   ヴェルサイユ講和会議

国際連盟(League of Nations

      結成

l         内南洋;南洋委任統治領

(ヤップ、ポナペ、サイパンなど)

l         外南洋
蘭領東インド、仏領印度支那、英領馬来、英領北ボルネヲ、サラワク王国(英保護領)
ブルネイ(英保護領)、泰国(シヤム)、英領緬甸、米領比律賓      

日本における東南アジア研究の濫觴

1928年:

 台北帝国大学

   文政学部南洋史学科

 藤田豊八(剣峰)

馬渕東一、矢内健次、長岡新治郎、

国立台湾大学(旧台北帝国大学)

藤田豊八
(剣峰)1969−1928(明治2年ー昭和3年)

1869年(明治2年)、徳島県生まれ、
1895年(明治28年)、東京帝国大学漢文科卒
1897年(明治30年)、上海に渡り、新聞社経営、教師などを歴任

1926年(大正15年)、東京帝国大学教授に就任
1928年(昭和3年)、台北帝国大学文政学部長
同年7月、東京にて急逝

 

金子光晴と「マレー蘭印紀行」

1895年(明治28年)〜1975年(昭和50年)

詩人、

本名:安和

愛知県出身

早大、慶大、東京美術学校を中退

昭和3年から7年にかけて妻で作家の森三千代とともに東南アジア、中国大陸、ヨーロッパなどを放浪

昭和10年以降、多くの抵抗詩を書く

まとめ

「東南アジア」という呼称は比較的新しい

第二次世界大戦を契機として一般化した

日本では東南アジアという名称が一般化するのは戦後の連合軍統治時代以降である

この名称は他者が与えた名称である

アセアンの結成以後、域内各国相互の連帯感が生まれている