若いことと大人になること



よく耳にする言葉に、「青いままでいたい」とか「汚い大人にはなりたくない」みたいなものがある。
こういう言葉を耳にするたびに思うのは、「青い」ってどういうことか、「汚い大人」って何か、みたいなことです。

そこで前に若いことと大人になるということについて考えたことがあった。

まず、マクロに考えて世の中には様々な言説が溢れています。 例えば「夢を持つことは素晴らしいこと、そして夢は信じればいつか叶う」とか「努力は必ず報われる」とか。
上にあげた様な言説の類は何故か、本当に何故かわからないが人々の頭の中になんの抵抗もなく入り込んでいきます。
上のような言説を信じている人はたくさんいるはずです。

別にそれを敵視するつもりはないけど、神話のように信じ込むのを一度止めたい思う。
ちなみに先にあげた言説自体は、かなり歴史の浅いものです。
例えば「夢」って言葉は資本主義社会が人々をスムーズに自らの一部に取り込み、よく働かせるべく超越的に美化されたものだと思うし。
これはそんなに色々調べた訳でないけど日本とアメリカ以外でこれほど「夢」とかいう言葉がもてはやされている 国ってあるんだろか。
だいたい基本的に戦前までの本とかに「夢」なんて言葉ほとんど見たことないし。ごく最近なのではないか。
逆にそういう言葉が浸透したという事実がそのまま資本主義社会の完成なのかもしれないけれど。
当たり前だが神話とか伝統というのは時代の社会により作られます。

何度も言うけどそういったものを絶対的に否定する気はありません。
自分自身も社会の一部でそういう言説に支配されてる人間だという自覚は持ってるし、
そういう言説によって人がよりよい社会を作れるのも事実だと思う。

ただここでやはり一度、そういう言葉の社会的な地位を外して考えてみたいのです。
神話的に信じられる言説によって見えなくなっていることってたくさんあると思うから。
「夢を持つのって素晴らしいこと」??「なんで夢を持つのが素晴らしいことなの??」 という風に懐疑してみたい。


はっきりいってものすごく疑問を感じてしまうんです。
ひねくれてるかもしれないけど、(夢だとか愛だとか)こういう神話、言説を聞く度に不思議に思う。
例えば「夢は信じればいつか叶う」みたいなこと言う人腐るほどいるけど、
それ誰から聞いた言葉なのか。
ちゃんと自分で確認したのか。
確認してないならどうしてそんな他人の受け売りをそんな自信もって言えるのか。
盲目的に信じられすぎなのではないか。
そんなに確信の持てる、信頼性のある言葉なのか。

一度言葉の社会的優位とかを外して、意味のみを考えてこういった言説を見直してみる。
そしたらこういった言説の類が そんな確信のある言葉かどうかなんて少しでも生きてきた人ならちょっと考えればすぐにわかるはずのことなんです。
例えば、
「夢は信じればいつか叶う」って。→じゃあおれが死んだじいちゃんに孝行したいという夢を信じたらそれっていつか叶うんですか?
「努力は必ず報われる」って。→じゃあおれが努力して日々肉体鍛錬したら死を避けることができるんですか?
(ちなみに思うが成功のために努力が占める割合というのは4割程度だと思う。勿論努力自体を否定する気はない。それがないと成功はしません。 十分条件ってことね)

ちょっと考えれば、そういった言葉、言説がいかに(意味内容的には)空っぽの言葉であるか分かるはず。
そんなことあるはずがないのは分かるはず。
そういうのって、ほんとにちょっとでも論理的に考えれば誰にだってわかることだと思うんです。
でも(少し考えれば意味のない言葉であるのが分かるはずなのに) 「分からない振り」「気づかない振り」をしてこういった誰が言ったか知らない受け売りの言葉を盲目的、神話的に信じ込み、 そういった言葉を糧にして生きている人さえいる。

このことには少し抵抗を感じる。そんな誰が言ったか分からない意味も無い言葉を糧に生きていいものなのか。

おれは、人間なら、生きていく時こういう受け売りではなくて自分の経験を糧にすべきだと思うんです。
少なくともおれの今までの経験からして努力が必ず報われるなんて微塵も思っていないし、世の中に不可能なんていくらでもある。
なぜ「可能性は無限にある」みたいな言葉があるとき「不可能性も無限にある」ということは隠蔽されるのかと思う。

人間であるなら他人の受け売りでなく自分の経験で生きていくべきだと思うのです。
もし自分の経験と世間に蔓延する言葉とが食い違ったら絶対自分の経験を信じるべきだと思う。
誰が言ったかわからない確信もない言説、言葉ではなく、自分の活動から得た経験で生きるべきです。
それがその人の人生ということだと思う(一般的にこういうこと言うとひねくれてるとか言われがちだけど)。

では世間に蔓延するそういった言説は全く意味のないものであり根絶すべきだと言っているのかというと
勿論そんなことではなくて、勿論世の中に必要なものであると思います。
どういう面で必要かというと、若い時、まだ自分で自分の生の指針をたてるのに必要な様々な経験がない時というのは、
そういった言説を頼りに色々やってみるべきだと思うんです。
世の中プラス思考の言説なんていくらでもある。そういった言説というのは他人の言葉であり、 それ自体に強い意味は感じないが、若い人に「経験」を促す力は持っている。
若いうち、確固とした自分の指針としていくものを持たない時というのは、 そういう言葉を頼って様々なことを試していくべきです。逆にそういう言葉というのはそのためにあるんじゃないか。

しかし大事なことは、やはり年を取るにつれてそういった言葉に頼り色々やってこれば、自分なりの経験から 自分なり生きる指針というのが出来てくるはず。その時は、受け売りの言葉なんて自信を持って捨てるべきだと思うのです。
自分の経験から得たもので生きていくべきだと思う。
いつまでも社会の言葉に縛られて生きていては(もちろん完全に抜け出すことなんてできないが) その人はいつまでも人生に社会の作り出したブロイラー以外の価値を得られません。 (勿論人間なんてみんなそんなもんだし、そのことを嫌悪する気もないが。社会と個を対立概念として捉える気もないが。)


「若いこと」と「大人になること」ってそういうことではないだろうか。
若いうちは他人の言葉を信じてやるだけやってみる。
しかし年を取ったらその経験から見た自分なりの経験を糧に生きていく。
大人になるってそういうことなんではないか。別になにもかっこわるいことなんてない。
(ここで一般的に「純粋」といわれる子供は全く純粋ではないことがわかる。もしそれを純粋と呼ぶなら それは「社会に対して」純粋ということであり、 本来の感受性の意味での純粋さを持っているのは3歳児以前の子供でしかあり得ない気もする。)


夢を失った大人、なんてかっこ悪く聞こえるけど、全然そんなこと思わない。
「夢」なんていう誰かの受け売り、神話を捨て、自分自身の人生を歩き始めた人のどこが格好悪いのか。
いつまでも何処で誰が言ったかわからない言葉に縛られている必要なんてない。
むしろそういう言葉を捨て、自分の言葉で生きはじめることが、真のその人の人生の始まりなんではないか。
勿論誤解のないように、早いとこ夢なんて捨てろなんて言ってるわけではないです。夢を持つこと自体否定する気なんてありません。
ただ他人の言葉ではない自分自身の経験を糧と出来るような自分の人生を見つけることこそが大人になる ことであり、人はそれに向かっていかなければならないと思うんです。

確かに海外で成功する中田とか佐々木とはかイチローとかとてもかっこいいと思うけど(というかかっこよすぎだけど)、
望んでそうなったのか知らないが満員電車のサラリーマンだって一人一人すごくかっこいいと思う。
逆に、「汚い大人にはなりたくない」とか「青いままでいたい」とかいう人その人が
既にその時点で最もつまらない人間になってしまっている気がする。
言葉の奴隷になってしまっている。自分の人生を放棄している。

勿論、当たり前だけど、成功した人、そういった言説を自分で確認できた人は自信を持ってそれを糧にすべきだと思います。
それなら、その言葉は受け売りではない、自分の糧です。自分の人生です。
それがその人の人生における経験だから。
ただそういう人、人生において成功者って比較的少ないと思うけど。

当たり前だがテレビやマスコミはその少ない方の成功者のほうを競って取り上げる。
夢を叶えた人、成功した人の情報を増幅して取り上げます。
社会の意思としては人々そういう言葉を信じて欲しいからです。そうやって社会の言説は作られる。
そういう人に触発されるのはとても素晴らしいことだけど、あくまで信じるべきは自分であることは忘れたくないと思う。

なんて偉そうなこと言って自分自身はというと、今まだ自分の指針を立てかけている感じで、 まだ色々受け売りの言葉に頼っちゃうこともあるけどね。
いいですハタチだし。若いし。でもいつかは受け売りを脱却して、自分の言葉で生きていきたい。それは絶対。