2000/11/13
小熊研究会1「社会学を学ぶ」レジュメエーリッヒ・フロム:『自由からの逃走』
総合政策学部
2年 79902339小野 有理
1.
フロムの人物像1900
年ドイツ、フランクフルトに住む裕福なユダヤ人商人家庭(祖父はラビ)に生まれる。ナチスドイツから逃れる為、
1933年アメリカに亡命。1941
年米国参戦直前「自由からの逃走」刊行。「ファッシズム(ナチズム)と戦うためには、ファッシズムを理解しなければならない。…ファッシズムを勃興させた経済的社会的条件の問題のほかに、理解を必要とする人間的な問題を理解する必要がある。」
(「自由からの逃走」p.11)
2.
フロムが問題視した時代背景(1930〜40年代)「われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、彼らの父祖たちが自由のために戦ったのと同じような熱心さで、自由を棄ててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由から逃れる道をさがしたこと、他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値あるものとは信じていなかったこと、などを認めざるを得ないようになった。」
(p.12)・近代デモクラシーの危機
「われわれのデモクラシーにたいする容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちをしめた諸条件が、まさにわれわれ自身の態度のなかにも、われわれ自身の制度の中にも存在するということである。したがって戦場はここに
― われわれ自身とわれわれの制度のなかに存在している。」(文中での引用 John Dewey, Freedom and Culture,)
3.
フロムの社会観・社会過程の産物としての人間衝動 → 人間的要素重視。
社会を形成する個人の衝動(本能)は、「人間を造りだす社会過程の産物」。個人と社会が一体となった社会観。(「静的」「動的」適応)
「経済的下部構造→上部構造というマルクス主義の図式を精神分析で補完する」
(「フロム」p.144)ことを目指す。※参考)フロイトの社会観:
「社会と個人とを、根本的に二つに分ける伝統的な考え方」(p.17)。個人は本来的に同一であり、社会が個人の自然的衝動に抑圧や影響を与えて個人は変化する。→
フロイト批判。リビドー案廃棄/人間同士の関係重視/社会的・経済的因子が個人に及ぼす影響重視。(新フロイト学派)→
社会学的理論(社会学から心理学的問題を排除しようとする。デュルケム学派)批判。4.
フロムの方法論 『自由からの逃走』と『正気の社会』から個人精神分析論(フロイト)ではなく、社会現象に精神分析的方法を適用する分析的社会心理学。(新フロイト主義)
「問題となるのは心的事象−個人ではなく社会内部の−である。だから方法も同じでなければならない。ここでも共通であって社会的に意味がある精神的ふるまいを、被調査集団の共通の運命から理解することが課題である。ここにおいてとくに精神分析的な方法とは、多くの感情や理想を特定の−肉体的に固定された−リビドーの志向にまでさかのぼること、無意識の精神的内容がヴェールをかぶり、姿を変えて表れているのを理解すること、大人の感情の動きと、それを準備し支えている子供時代のそれとを結びつけることである」
(「エーリッヒ・フロム」p.111)※「社会的性格」概念形成:
「個人のもっている特性のうちから、あるものを抜き出したもので、一つの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、その集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したものである。」
(p.306)さらに、「一定の社会における人間のエネルギーを、その社会が持続するような方向に向けるのが、社会的性格の機能である」。(「自由からの逃走」→中世と近代比較、「正気の社会」→資本主義と社会主義比較。)
「社会が人間の世旧にどのように適応したか、つまり精神の発達を促進したり、妨害したりする社会の役割によって定義されなければならない。個人が健康であるかどうかは、まずなによりも個人的な事柄ではなくて、その社会構造に依存している。」(「正気の社会」
p.287 傍点訳者注)
5.
『自由からの逃走』における方法論当時台頭していたファシズムに焦点をあて、それに走る人々を精神分析的立場から分析。
ある社会構成集団の性格精神分析をもとにして、中世から近代にかけて発生する「個人」の変容を例に当時の社会的性格(ファシズム)について3パターン(権威主義・破壊性・機械的画一性)で言及。
6.
フロムの主張:『自由からの逃走』を通して自由の定義:「…への自由」と「…からの自由」
・「…への自由」:自我の実現を目的とした「全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」積極的態度(p.285)。愛。
・「…からの自由」:個人が独立して存在する前につながれていた社会的絆(一次的絆)から解き放たれること。結果、人間は「個性化」への道を歩み始めるが、その反面全てから引き離されていると自覚し、無力感と不安感を抱く。消極的態度。
参考)一次的絆:「そこには個性は欠けているが、安定感と方向付けとが与えられている。…ひとたび個性化が完全な段階に達し、個人がこれらの第一次的絆から自由になると、かれは一つの新しい課題に直面する。…自らに方向を与え、世界の中に足をおろし、安定を見つけ出さなければならない。」(p.35)
中世と近代の比較(個人の発生)一次的絆の喪失
・中世社会:個人的自由の欠如。しかし一次的絆によって社会と結び付けられていた(決まった職業・階級・ギルド等)。「個人」はまだ存在せず社会は個人から自由を剥奪しない。
→所属社会での役割を果たせば安定感と帰属意識得られる。
「かれはまだ自己を個人としては認めず、ただ社会的役割という点でのみ、自分の存在を意識していた。また他人も「個人」としては考えなかった。…自分自身は他人や世界について、それを分離した存在として考えるような意識は、まだ十分に発達していなかった。」
(p.54)・中世末期:社会構造の変化。(「近代ヨーロッパの息子たちの中の長男」イタリア)。
資本、経済的構造の変化。新しい有産階級の出現。階層制度の変化→都市労働者階級。
→結果、中世的社会機構が崩壊し、近代的な意味での個人が出現。
「国家やその他この世のすべてのことを、客観的に取り扱い、考察することが可能になった。同時に主観的な面も、それにつれて強調されるようになった。人間は精神的な意味で個人となり、自分自身もそのように自覚した。」
(p.57)→力の増大した感情/孤独と疑惑と懐疑主義の増大/不安の感情の増大
・ルッターとカルヴァン:資本主義を推進するような教え。
ルッター:自我を滅却し神に完全服従すると神の恩寵が実現。個人を教会(権威)から解放し神というさらなる専制的な権威に従属させた。
「権威に対する愛着と無力な人間に対する憎悪が同時に存在する」(フロム、p.119)中産階級的感情。カルヴァン:選ばれた者の予定説(他を軽蔑)。道徳生活・個人の無力感強調。神の言葉に従って生活し、その努力を怠ってはならない。
→無力感、無意味感からの逃避。中産階級的感情。
権威主義・破壊性・自動人形的同調性(逃避のメカニズム)
一次的絆断絶の個人がそれを克服する為に→「…ヘの自由」/逃避
・権威主義:自我を捨て外部の力と融合させる。服従と支配、マズヒズムとサディズム。
力を持つもの、持たないもので世界を分け、運命に服従することを好む。
←→愛(自律性・個人を持ったままでの合一)
・破壊性:対象を排除。外界に対する孤独感克服の為、それを破壊する。義務・良心・愛国心として偽装される場合多し。
「近代社会において、個人が自動機械となったことは、一般の人々の無力と不安を増大した。そのために、かれは安定をあたえ、疑いから救ってくれるような新しい権威に、たやすく従属しようとしている。」
(p.225)
ナチズム
心理学的問題だが、要因は社会/経済的要因で形成。
商店主・職人・ホワイトカラー。強者への愛、弱者に対する嫌悪・小心・敵意・禁欲主義。
経済的地位低下(強度のインフレ、世界恐慌)、国家権威の変化、それに伴う労働者階級の地位向上→怨み、憤り、無力感、不安感→ナチズム
「大衆が欲するのは強者の勝利と弱者の絶滅、あるいは無条件降伏である」(文中引用 ヒトラー著「我が闘争」p.244)
「アーリア人種がより劣った民族と遭遇して彼らを征服し、自分の意志に服従させた場所に、最初の文化が生じたのは少しも偶然ではない。…アーリア人種が支配者の地位を断固として固執しているかぎり、支配者としてとどまっただけでなく、文化の保持者、推進者の地位を保ちつづけた。」
(「フロム」p.134、ヒトラー「我が闘争」からの引用)「運命が私の生誕地としてイン河畔ブラウナウを指定したことは私にとって幸運だった」「天を買収することは不可能だった。天の祝福はやってこなかった」
「自己の無意味さを認め、自己をより高い力のなかに解消し、このより高い力の強さと栄光に参加することを誇りにしなければならない」
(「フロム」p.136)ヒトラーのサド・マゾ的性格構造、すなわちナチスのイデオロギーは当時の下層中産階級の性格構造と合致した。しかし、イデオロギーだけではないナチスの実行力もそれを後押し。
自由に対する考察(近代における自由の二面性/デモクラシー)
・現代社会:感情を抑圧することを善とし、「独創性」欠如の社会。
→「個人」の弱体化。自我の喪失とともに、順応の必要性。
民主主義という正攻法にのっとって、現われたナチズムがその端的な例。
「近代人はかれがよしと考えるままに行為し、考えることを妨げる外的な束縛から自由になった。かれは、もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることが出来たのならば自分の意志にしたがって自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。」
(p.281)「…もしかれが自発的な営みにおいて、自然に対してそれ(自分や人生における自分の位置についての根本的な懐疑を克服すること)を包含するような関係を保つならば、かれは個人として、強さを獲得し安定を得る。」
(p.287)
7.
参考文献: エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳「自由からの逃走」(’51年 東京創元社)、「正気の社会」[世界の名著 続14](’74年 中央公論社)、安田一郎著「フロム」[人と思想60](’80年 清水書院)、エーリッヒ・フロム著・佐野哲郎/佐野五郎訳「人生と愛」(
’86年 紀伊国屋書店)