2000年11月20日 小熊研究会1「社会学を学ぶ」 第5回

真木悠介『時間の比較社会学』

総合政策学部一年 学籍番号70002308

 小山田守忠

1.真木悠介

・本名:見田宗介、1937年東京に生まれる

専攻―現代社会論、比較社会論、文化の社会学

・「真木悠介」名について

「真木悠介の筆名で発表するものは、世に容れられるということを一切期待しないとい

う、古風な熱情をもってしるされた文章郡であるにもかかわらず・・・」

2.『時間の比較社会学』における方法論―比較社会学

「比較社会学、という方法が我々にとって意味があるのはそれがこのような、近代世界の自己相対化―自己超出の運動の一環を担いうるからである」(p.305)、(p.38

3.『時間の比較社会学』の位置付け

・「近代世界の自己解放の一環を担うものとしての比較社会学にとって」あげられるべき主題は「時間論、自我論、関係論」(p.306

「<永遠の生>に対する熄ることのない願望をどう処理したらいいのかという問題と、<自分>という存在が世界の内で、唯一かけがえのないものとして現象してしまうことの理不尽をどう処理したらいいのかという問題」が筆者の問題意識の根底に。

・筆者の「比較社会学の全体的なイメージ」

一.共同性と個体性、二.時間の比較社会学、三.自我の比較社会学、四.関係の比較社会学、五.身体の比較社会学、六.人生の比較社会学、七.教育の比較社会学、八.支配の比較社会学、九.<翼>の比較社会学、十.解放の比較社会学

4.本論

序章 時間意識と社会構造

・<時間のニヒリズム>という死の恐怖とそれにともなう生の虚無とは、一見理性にとっては不可避の理論的帰結にみえるけれども、それには特定の時間意識の型が前提になっている。また、このような時間意識の型は特定の文化の様式と社会の構造を基盤としている。

→我々の時間感覚では「帰無してゆく不可逆性としての時間了解」、「抽象的に無限化してゆく時間関心」が前提とされているため<時間のニヒリズム>は必然的な帰結となる。

・最も原初的な時間感覚である「繰り返し現れる対立の不連続(振動する時間)」では過去は帰無し続けることなく現在しつづける。(ホピ族の<現在する過去>という人間と自然との連続性の感覚、チューリンガによって景観のなかで展開される<物的に現在化された過去>)

→「虚無化してゆく時間」という一つの観念は自然に対する人間の自立と疎外という

一つの文化の形態とかかわっている。

・カムバ族の「事実上未来が存在しない」という具象のうちにある時間感覚と、ミンコフスキーの人間的時間構造における抽象的な未来一般を含む「未来の本源性」の「矛盾」。

「有限な事物や活動との相即としておいてのみ表象される具象の時間感覚から剥離して実体化された自存的にある客体として物象化された「時間」の観念が、はじめて「無限」問いを提起する」(p.34

・近代社会の抽象化された時間存立の機制の根抵をもなしているヌアー族の「平行して行われ調整された諸活動を概念化した」時間の存在が、独自の生きられる世界を構成するさまざまな異質の活動を外的に調整する媒体としての一般化され抽象化された尺度としての「時間」を析出した。

第一章 原始共同体の時間意識

・原始共同体の一般的な時間意識:「共時としての通時」、<意味としての過去>

「このいわば時間をうらうちする恒常性としての<もうひとつの時>として持つ世界において、人生は、虚無から虚無へと流れてゆく時間のかなたへとあらかじめ救抜されている」

  →原始人が「可逆的なもの」に意味があり、不可逆的なものはその素材であるとしたのに対し、近代人は可逆的なものが背景の枠組みであり、その上に不可逆的なものとしての人生と歴史が展開すると認識

・アフリカ人の時間意識と近代人の時間意識の比較(<生きられる共時性>と<知られる

共時性>、共同時間性と共通時間性)

「<抽象的に無限化する時間関心>が事物や活動から引き剥がされた自存性として客体化された「時間」の観念を前提とするということ、そしてこのように物象化された「時間」の存立が共同体の<生きられる共時性>にたいして、外延的にか内包的にかこれをのりこえて異質化する社会の構造を基盤とする」(p.80

・「事実上未来の存在しない」アフリカへの<未来>という未知なる時間の輸入。未来関心の基盤としての共同体解体=過去の解体(聖なる時間=<現在する過去>の解体)。

→<意味としての過去(ザマニ)>に変わる<意味としての未来>

「不可逆性としての時間の意識の獲得が、反自然としての一つの文明の離陸の指標であるということだ。そして「離陸」ということが、すなわち大地からの乖離のイメージが、ア・プリオリに一つの肯定として語られることが、我々の文明の基礎をなす固定観念である」(p.90

第二章 古代日本の時間意識

・神話の時間(無矛盾、恒常性)、農業生産の始まり(未来関心のはじまり)、予祝(「収縮する時間」)、歴史の時間(人間的時間の自立と疎外の象徴)、<予祝>的時間(歴史をのみくだす再神話化)、人麻呂の過渡的な時間意識

・時刻の測定と周知(律令国家確立の過程と表裏一体)、国家と時間の密接な照応(<生きられる共時性>の侵食・再編成)、家持の時間意識の矛盾

・古今の時間意識の「時間の物神化」:「時間のいわば対象化的な主体化」(p.131

 →生の手触り(sense)の喪失(「世界からは物そのものが消えていく」)

→生の外的な意味(meaning)をもとめての時間意識の拡散

 →具体的な身体の不可避性としての「死の恐怖」、実存的な未来の獲得

   →「死との闘いとしての性」、出家・隠遁による「死の恐怖」の克服

  1. 時間意識の四つの形態 

@ヘレニズムの時間:<円環する時間>「時間の抽象化された数量的な把握」←貨幣の登場

「はるかな原始共同体にまで通底するオルフェウス教の生死の反復する感覚が、数量化す

るロゴスによって対象化されたときの形象が、ヘレニズム的な時間の円環であったはずである」(p.168

Aヘブライニズムの時間:<線分としての時間>「時は量より質である」

・徹底的な受難と絶望の時期を経験→「回帰ではない未来、救済の不可逆性」を求める。

 →「回帰する終末論」から「真の終末論」へ

「ただ希望だけが―すなわち眼前にないものへの信仰だけが人生に耐える力を与えた。それはもっとも反・現実的であることによってはじめて現実的たりえたのである」(p.178

・伝統的に反・自然主義的な文化的背景

「<あるがままに存在するもの>のすべてとしての<自然>が、現時充足的なよろこびとして生きられうるような契機の一切をそぎ落とされた全き否定性として現れたときにはじめて、価値の反・存在的な定立、すなわち未来の反・現在的な定立としての不可逆的な時間が、救済を可能なものとする唯一の時間形式としてたちあらわれる」(p.182

B原始共同体の時間:<反復的な時間>「繰り返し現れる対立の不連続」

C近代社会の時間:<直線的な時間> → <時間のニヒリズム>へ

第四章 近代社会の時間意識―(T)時間への疎外

・「ノエシス・ノエマ的崩壊感覚(時間と自我の双対的な解体感)」

 →なまなましく強迫的な条件法(われ信ず、われ思う、われ感ず)の要請

「われわれをおどろかせるのは、自我と時間のこのノエシス・ノエマ的な崩壊感覚が離人症とよばれる一群の精神病理とあまりにもよく符合することだ」(p.196

・離人症患者の「非依存的な自力主義」=「諸共同体にたいする市民社会の、本質規定」

・時間の解体<失われた時>=一つの解放「不安にたいする積極的な自己順応」(→「ひとつの<不在>」)

・<見出された時>:「近代的自我の独立宣言書」「再構成された時、規範として純化された時であり、もはや実在する共同体のたすけをかりることなしに、個体の内部に再建されたその存在のレアリティ、その<生の意味>としての<時>に他ならない」(p.224

@プルースト的な「回想」における<過去>

Aサルトル的な「投企」における<未来>

・「ルソーの至福の時間」が近代社会の生活の客観的な現実によって、窓のタブローと化していく構造→<二重の疎外>の構造(キリスト教世界出自の近代)(⇔日本近代の近代としての周辺性、底の浅さ)

「<時間への疎外>がまずあり、そのうえに<時間からの疎外>はあった」(p.250

第五章 近代社会の時間意識―(U)時間の物象化

・待ち合わせの共通インデックスとしての普遍時間、時間の圧力

「「時間」は貨幣と同じに、近代市民社会の存立それ自体の影なのである」(p.263

・二重の解放としての時間の客体化

・<時間の客体化>のもたらす帰結→「生の拘束の淵源としての時間」

<生きられる共時性>の否定、人間類型の創生・再生産、時計化された生の全社会的な浸透

<時間のゲシュタルト化>、時間の物神化、時間の圧力による生のスタイルの変質

・「生の虚無の淵源としての時間」

「抽象的に無限化する時間意識と自我の絶対性との矛盾―<死の恐怖>と<生の虚無>とは、近代理性のこの矛盾の表現に他ならない」(p.288

結章 ニヒリズムからの解放

・最終結論

「現在が未来によって豊饒化されることはあっても、手段化されることのない時間、開かれた未来についての明晰な認識はあっても、そのことによって人生と歴史をむなしいと感ずることのない時間の感覚と、それを支える現実の生の形を追及しなければならない」=「転回」

5.資料・用語解説

@「聖なる時間・俗なる時間」(Mircea Eliade『聖と俗』)

エリアーデによれば、宗教的人間は次々と直線的に流れ去る「俗なる時間」と、聖なる暦に組み込まれた祝祭の中でその都度回復される「永遠の時(聖なる時間)」の2種類の時間を知っている。後者は閉じた円環をなしていて年々繰り返される。そしてそれぞれの祝祭は、神々の世界創造など、太初の「聖なる歴史」の再演としての意義をもつ。そしてこうした祝祭に参与することを通して、宗教的人間は不動の時、永遠時に立ち返ることが可能になり、流れ去る時間がもたらす無や死の意識から救われるという。

A「ササとザマニ」

アフリカ人の伝統的な時間感覚で、その中では時間は「長い<過去(ザマニ)>と<現在(ササ)>とをもつ二次元的な現象であり、事実上<未来>をもたない」ものとしてとらえられる。(p.26

「この<現実化する>become realものとしての時間が<ササ>であり、<意味づける>make senseものとしての時間が<ザマニ>に他ならない」(p.55

→(p.30)(p.69)の図

6.参考文献

真木悠介著『時間の比較社会学』(81 岩波書店)

真木悠介著『時間の比較社会学』(97 岩波書店 同時代ライブラリー)

真木悠介著『旅のノートから』(94 岩波書店)

真木悠介著『自我の起源』(93 岩波書店)

見田宗介著『現代社会の理論』(96 岩波新書)

見田宗介編集(共編)『社会学辞典』(94 弘文堂)

見田宗介編集(共編)『社会学文献辞典』(98 弘文堂)