小熊研究会2 社会学を学ぶ 第3回       環境情報学部4年 雨宮 郁江

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 マックス・ヴェーバー

ヴェーバー (1864-1920)の時代背景と環境

アカデミズムにおける社会学。学問的体系化と科学的スタイルの要請。普遍的法則への疑問と社会学の対象の再検討。

@他の社会諸科学との関連、社会学固有の対象領域の明確化。アカデミズムでの市民権を。

A目に見えない社会を把握するための目に見える対象の明確化。実証科学化への条件。

・ヴェーバーの社会学=「理解社会学」(→『社会学の根本概念』)

「社会学とは、社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学」(p.8)を指す。

「意味を目指す行為を解釈によって理解する」(p.14)社会学。

「社会学にとっては、行為の意味連関だけが把握の対象である。」(p.22)

「諸個人だけが意味ある方向を含む行為の理解可能な主体である」(p.23)

当時の社会経済学界の対立(「価値判断論争」と「方法論論争」)

・政策論に含まれている政策目標が主観的価値判断に基づいていることを分析、科学の厳守す 

 べき限界の考察。→「価値自由」*

・歴史的文化科学の諸概念は、弾力性に富むものでありながら、論理的一義性を有する歴史的

 個体の理解手段でなければならないと考えた。→「理念型」*

2 『プロ倫』の位置づけと基本的データ

1904年『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』論文。

→『プロ倫』はここにおける認識論と方法論を具体的に応用して書かれたもの。広大な比較宗

 教社会学的研究の出発点。他に、「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」等。

1904年と5年に2回に分けて発表されるが、様々な反響や批判を考慮した改訂が1920

 に出版。

3 ウェーバーの議論、『プロ倫』の性格

・マルクス的史的唯物論への批判。「世界史の基本法則」は認めず。*

 同時に近代的「知」「学問」全体への批判でもある。

(学問の不確実性の認識。絶対的(超越的)価値指標=「真理」の喪失。「神々の闘争」)

・「客観的法則」の叙述でなく、「内面的動機づけ」と「意図せざる結果」との複雑な因果関係の論  

 考である。

主題として明確な語義の定義づけや、普遍妥当的なテーゼを立てようとしたのではない。

→あくまでも「歴史的個体」の「因果関係」が論じられている、ということに注意。

4 『プロ倫』本論へ。内容の概説とポイント

禁欲的プロテスタンティズムの宗教倫理が、なぜ(いかなる内的な論理と心理的プロセスを経て)営利を自己目的とする近代的な資本主義の精神(倫理、エートス)へと至ったか。

第一章 (一)信仰と社会層分化

カトリックとプロテスタントの信徒の例。

→非現世的、禁欲的で信仰に熱心であることと資本主義的営利生活に携わることの親和関係が指摘される。

(二)資本主義の「精神」

・ベンジャミン・フランクリンの話。(1736,48) 「時間→貨幣。信用→貨幣。貨幣→貨幣。」

→単なる処世術ではなく、独自の「倫理」。そこには一つのエートス(Ethos)が表明されている。(p.44)

・自己目的と化した貨幣の獲得→*「(近代)資本主義の精神」

=「正当な利潤をBeruf(天職)として組織的かつ合理的に追求するという心情のこと。」(p.72)

・資本主義文化の「社会倫理」に特徴的な職業義務(Berufspflicht)=世俗内的禁欲という思想。

・資本主義的企業家の「理念型」

=一定の禁欲的特徴。巨富を擁しながら自分のためには「一物をも持たない」ただ良き「天職の遂行」という非合理的な感情を持っているだけ。(p.81)

→醒めた自己抑制を維持し、経済上・道徳上の破滅に陥らぬためには堅固な性格、明晰な観察力と実行力

と共に、とりわけ決然とした顕著な「倫理的」資質が必要だった。(p.78)

「伝統主義」→近代資本主義へ。

この革命を引き起こしたのは、新たな貨幣の流入でなく、新たな精神=近代資本主義の精神であった(p.77)

(三)ルッターの天職観念−研究の課題(p.95〜)

・「職業」を意味するBerufという語のうちに含まれる「神から与えられた使命」という観念→プロテス

タントに特徴的。=「天職」→聖書の翻訳、翻訳者(ルッター)の精神に由来。宗教改革の産物。

・カトリックのようにキリスト教の道徳誡を「命令」と「勧告」とに分けることを否認し、修道士的禁欲を世俗内道徳よりも高く考えず、各人の生活上の地位から生じる世俗内的義務の遂行こそが神から与えられた「召命」Berufにほかならぬ、という考え。(p.109-10)

→だが、ルッター派的な態度からは「資本主義の精神」は直接には結びつかない。→カルヴィニズムとゼクテ。

・これら諸集団の建設者、代表者の誰かが世俗的財貨の追求を自己目的とし、それに倫理的価値を認めた、

などというふうには到底考え難い。その中心は魂の救済のみであった。(p.133)

→宗教改革の文化的影響の多くが、改革者達の事業から生じた、予期されない、全然意図されなかった結果であり、むしろ正反対の結果であった。(p.134)

・以下の研究は「理念」というものが一般に歴史の中でどういうふうに働くかの例示にも役立つだろう。

第二章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理

一 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤

・禁欲的プロテスタンティズムの4つの担い手。

1、カルヴィニズム、特に17世紀西ヨーロッパの主要な伝播地域でとった形態 2、敬虔派

3、メソジスト派 4、洗礼派運動から発生した諸信団(ゼクテ)=「ピュウリタン」

カルヴィニズム

最も特徴的な教義=恩恵による選びの教説(予定説)→悲愴な非人間性を帯びる教説。

1647年「ウェストミンスター信仰告白」(英宗教改革期、改革派諸派の解釈の統一見解の試み)参照。

→個々人のかつてない内面的孤独化の感情。永遠の昔から定められている運命に向かって孤独の道を辿る。

=教会や聖礼典による救済を完全に廃棄。=根本において反権威的。

=「呪術からの解放」の過程の完結

・全被造物に対する神の絶対的超越。被造物神化の禁止。神の道具→禁欲的行為へ。

 単なる感情や気分は欺瞞的。神の造った世界の合目的的秩序=自然法の重視。

 善行=救いを得るためでなく、選びを見分ける徴として不可欠=不安を除く技術的手段。

 恩恵の地位か永劫の罰かの二者択一の前に、組織的な自己審査によって確信を創り出す。

・自然の地位から恩恵の地位への働きを確知するために、

「「聖徒」達の生活はひたすら救いの至福という超越的な目標へ向けられた。が、また、まさしくそのために現世の生活は、地上でで神の栄光を増し加えるという観点によってもっぱら支配され、徹底的に合理化されることになった。」(p.197)

→不断の反省によって導かれる生活。全人格の永続的変化によってのみ実現。

カトリックとカルヴァン派 共通点と対立点

・カトリックの修道私生活の規律、カルヴァン派信徒の生活上の原則の共通の力→「全人格の組織的把握」

(p.202)→自己審査のための「信仰日記」

→罪人と神の関係=顧客と店主の関係に喩えられた。→事業経営的性格。「方法意識」。これが人々の生活に大きな影響を及ぼした。

・カルヴィニズムは禁欲を純粋に世俗内的なものに造りかえた。(p.205)

(カトリック教会は「免罪符」の販売により、組織的世俗内的禁欲の萌芽を抑えつけることになった)

洗礼派運動から発生した諸信団(ゼクテ)=「ピュウリタン」

カルヴァン派とならんでプロテスタント的禁欲のいま一つの独自な担い手

・その倫理は改革派とは原理上全く異なった教説を基礎にしている。

・「信ずる者の教会」自ら信じかつ再生した諸個人達のみからなる自発的団体←→「教会」(=公的制度)(p.265)

洗礼派

・予定説の排斥→精霊の働きに対する「待望」。(p.278)

→被造物が沈黙するときにのみ神が語り給うという思想

→行為を冷静に考量させ、良心の個人的吟味を注意深く行わせるという方向への教育。

 平静で幻想を持たず、優れて良心的という性格。

結論(p.279)

プロテスタントの様々な違いを分析し、それらがどれも同じ方向へと向かうことを論証後、

「現世の徹底的な呪術からの開放は、内面的に、世俗内的禁欲に向かう以外、他の道を許さなかったのだ。」

→ヨーロッパ近代文化の普遍性。「運命的な力」、避けられないものとしての認識。

二 禁欲と資本主義(p.289〜)

禁欲的プロテスタンティズムの宗教的基礎諸観念と経済的日常生活の諸原則の間に存する関連を明らかに。

天職理念の最も首尾一貫した基礎付けを示すカルヴァン派から発生したイギリスのピュウリタニズムの代表的信徒、リチャード・バックスターの著作の考察。

・貨幣と財の追求=罪悪。→「富の享楽」、「憩い」こそが道徳的には真に排斥すべきとされている。(p.292)

・神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけ。(p.292)

→時間の浪費は最も重い罪。失われた時間だけ神の栄光のための労働の機会が奪い取られたことになる。

→厳しく絶え間ない労働への教えが一貫して説かれている。

・労働=禁欲の手段であり、神の定めたもうた生活の自己目的である。

ピュウリタン→学問には熟達。学問以外の文学、感覚芸術の領域への嫌悪。呪術・儀式的なものへの憎悪。

=生活様式の画一化(=生産の「規格化」)=もともと「被造物神化」の拒否を観念的基礎としていた。(p.331)

「人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく、「営利機械」として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想」(p.339)

・消費の圧殺+営利の解放=禁欲的節約強制による資本形成。(p.345)→ディレンマ(p.351)

→「富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少」(信仰の指導者の懸念)p.352

・「宗教的生命にみちていたあの十七世紀が功利的な次の時代に遺産として残したものは、何よりもまず、合法的な形式で行われるかぎりでの貨幣利得に関するおそろしく正しい良心(中略)独自の市民的な職業のエートスが生れるにいたったのだ。」(p.356)

ヴェーバーの認識と批判

「ピュウリタンは天職人たらんと欲した−我々は天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入り込んでくる一切の諸個人−直接経済的営利に携わる人々だけではなく−の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃え尽きるまで決定しつづけるだろう。」(p.364)

「(前略)こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、とうぬぼれるだろう」と。」(p.366)

5 キー概念と読解のポイント(参考資料)

@「理念型」

実在の特定の要素を思考の上で高めて得られるひとつの抽象的「ユートピア」。それ自体として矛盾のないひとつの純論理的理想像、極限概念。「模範型」ではない。

この概念構成は、目的でなく、個性的な観点からみて意義のある連関を認識するという目的のための手段。

混沌→秩序へ。これによって「実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにする」

A「価値自由」

価値からの自由。社会科学的認識の「客観性」という理想は、「あるべきもの」の価値評価と「あるもの」の事実認識との峻別。事実認識もまた価値関係的、価値理念は常に主観的であり、認識主体が自らの前提となる価値理念や価値判断に対して自覚的にこれを自己統制する主体的態度が必要であること。社会学の守備範囲の明確化。

B「呪術からの世界の解放」(Entzauberung der Welt)

古代ユダヤの預言者と共に始まり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程、の完結。真のピュウリタンは埋葬に際しても一切の宗教的儀式を排したが、これは心にいかなる「迷信」をも、つまり呪術的聖礼典的なものが何ら救いをもたらしうるというような信頼の心を生ぜしめないためだった。(p.157)

C「合理性」の相対化と「非合理性」

「非合理的」というのはそのもの自体として言われているわけではなく、常に特定の「合理的」な立場からして言われているのだ。…この一見一義的に見える「合理的」という概念が実は多種多様な意義をもつ(p.49)。合理性に含まれる非合理的な要素への注目。

D唯物史観批判いろいろ

「一面的な「唯物論的」歴史観にかえて、これまた同じく一面的な文化と歴史の唯心論的な因果的説明を定立するつもりなど、私にはもちろんない」(p.369)

「文化現象のいかなる領域においても、経済的な原因にのみ還元し尽くすことは、いまだかつていかなる意味でも十全になされたためしがなく、「経済」事象の領域においてさえ、そうである。(中略)資本主義を、その精神の発生当時に協働した、宗教的意識内容のある種の転形から導き出したり、あるいは、なんらかの政治形象を、地理的な条件から演繹したりすることができないのと、全く同様である。」(『客観性』論文p.71)

参考文献

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1989) 岩波文庫

マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(1998) 岩波文庫

マックス・ヴェーバー『社会学の根本概念』(1972) 岩波文庫

山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(1997) 岩波新書

三溝信『社会学的思考とはなにか』(1998) 有信堂高文社

廣松渉他編『岩波哲学・思想事典』(1998) 岩波書店