タイトル :戦後労働諸立法にみる女性の位置
サブタイトル:労働基準法・3つの雇用機会均等法における男女平等論議を中心に
山越峰一郎
目的
戦後、憲法第14条に象徴されるように、法の下に男女は「平等」になったはずであった。戦後改革の一環として、かなりの程度「理想」的な、労働基準法も制定された。しかし、今になっても賃金格差があるなど「平等」にはなっていないという声が多い。そこで、戦後の労働政策において「平等」とは何であり、いかに実現されるものであるとされたのかを描いてみたい。
このことは、雇用機会均等法の改正により導入されたポジティブ・アクションを考える上でも重要である。ポジティブ・アクションは「平等」どころか逆差別という意見もある。ではそもそも「平等」とは何であるとされたのか、を考えることでこの問題へのアプローチの参考となるだろう。
対象
本研究においては、国会での法律審議を中心に労働省や経営者団体の発行する資料を主な対象として分析する(「公的」な発言)。このことにより、法律の条文上には表われない男女平等に関する為政者・経営者の認識を具体的に明示できると考えている。また、学説は実際の政策にはあまり影響を与えていないので参照のみに限定する。労働団体・女性団体の主張・行動もそれぞれが独自に「運動史」などをまとめているので同様の扱いとする。これは決してその重要性を軽視しているからではなく、「差別している」と批判されている側(政府・企業)の認識を探るためである。先人の行った実態調査も、参考として例示するにとどめる。
女性労働の属性変化
・ 1955年までは農林業が過半数
・ M字は1970年ころに見え出してくる。それはまでは主婦の再就職は少ない
・ 賃金比(対男性)は敗戦直後は約40%、現在は約60%
・ 妊娠・出産による退職率は現在20%弱
・ 雇用機会均等法(1986年施行)の影響はまだ判断できない(SSM)
概略
男と女とではどうしても違ひます。同じ価値ではありませんから、一つの旗印と考へて、さう神経質に考へなくてもいいのぢやないかと思ひます。[1]
労働基準法第4条が当初は「同一価値労働同一賃金」の規定であったことはよく知られている。そして「理想」的な法律案が後退したことが嘆かれるのが常である。しかし、この条文に対する政府の当時の理解は上記のようなものであった。
労働基準法(1947年)第4条にしても、女性差別撤廃条約署名(1980年)にしても明確な理念の下に行われたわけではない。1997年の労働基準法改正もそうだが、政治的な妥協の産物であることが多い。その場当たり的な対応の積み重ねが、現在の労働法制を形作っている。そして、法律の理解の仕方は、つねに後ろ向きなものであった。
もともと、労働問題は与党の関心領域ではなく、それに興味がある=野党(的)という理解であったので1970年ころに(若年)労働力不足を迎えるまでは自民党関係での発言はみられない。
労働行政においては、1971年ころまで労働基準法第4条は「保護法規」に分類されているが、1975年ころからはそれとは別立てで「男女平等に関する法規」に分類される(通奏低音はある)。労働組合や野党の主張も、「与えられた」議論(「保護か平等か」の対立)にそって行われる(1970年代以降)。そのため、家事・育児負担と企業内での性別役割意識がなくなると男女は「平等」になる、とされる。しかし、職業能力の形成基盤こそが問われるべきではないだろうか。
女性の採用・待遇に関しては平均値をもとに扱われ、その壁を打ち破ることは個人に還元されてきた。政府は労使の自主的な対応を言うが、「(中間)共同体の専制」をもとに考えれば、何を基盤にその達成を保障できるのだろうか。
時代区分
<第1期>
戦後改革の波の中で
<第2期>
高度経済成長
<第3期>
国連婦人の10年
<第4期>
均等法の施行と改正
[1] 北岡委員、労務法制審議会(第2回)議事速記録(1946年8月7日)。これに関して吉武労政局長は「ですから今お話のやうに実際の働きの分量が違へば、同一価値でないから、差のつくのは已むを得ない。」と答えている。