小熊研究会(1) レジュメ 2000.7.10.
総合政策学部4年 79710449 渡辺大輔(s97045dw)
アメリカ現代政治思想 自由と正義
0.Introduction
時代背景……公民権運動、冷戦、ベトナム戦争(1969−1975)と反戦運動・学生反乱
ケインズ型福祉国家政策(大きな政府)の行き詰まりのきざし
思想的背景……20世紀前半を席巻した実証主義・価値相対主義の退潮
アメリカ近代政治思想の流れ……a).フェデラリスト
b).ジェファーソナリズム
T.ジョン・ロールズ John Rawls
1921年生まれ、現在ハーバード大学名誉教授
1971年 ”A Theory of Justice”(邦訳『正義論』)を上梓し、自由主義論争に火をつける
以降、Liberalism(自由主義)の立場から、活発に発言を続ける
他の主著として、『公正としての正義』、『政治的リベラリズム』など多数
問題意識:公平で、公正な社会とはどのような社会であるのか?
1.新しい社会契約説 ≪公正としての正義≫
正義を「公正 fairness」として解釈することで、功利主義の正義観(最大多数の最大幸福、快楽計算の最大化)に対決する
→ 公正としての正義は、正義の諸原理によって規制された互恵的な利益のための協
力事業こそが社会であると考える
そこで、自然状態に変わる原初状態を想定し、社会契約説を社会的選択理論として再構成し、「公正としての正義 justice as fairness」の妥当性を論じる
・原初状態を想定
原初状態:社会生活を開始する前に、メンバー全員でその基本ルールを決める討議の場
メンバー全員が平等な発言権と拒否権を持つ
a.社会正義の分配の対象を「社会的基本材」にする (ここの人権や善の持ち
方(生き方)には関わらない) → 自由、富、社会的地位などが対象
b.「無知のヴェール」の中での議論である
c.徹底的に個人的な合理性 ← 恐怖でも、自己愛でも、あわれみでもない
→ 合理的に追求するがゆえに社会契約=正義の原理の締結に導かれる
⇒ 全員一致での採択だからこそ「公正としての正義」となる
<正義の二原理>
第一原理 各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する平等な基本的自由の最も広範
な図式に対する平等な権利を持つべきである (平等な自由の原理@)
第二原理 社会的経済的不平等は、それらが(a)もっとも不利な立場にある人の期待便益を
最大化し(格差原理A)、(b)公正な機会の均等という条件の下で、全ての人に開
かれている職務や地位に付随するよう取り決められているべきである(公正な
機会均等原理B)
第一原理は第二原理に、第二原理の(b)は(a)に優先する
※ 批判を受けたため『政治的リベラリズム』では多少修正されている
<正義の原理>が採択される理由
@各人の生き方の自由を保障。また、平等でなければ誰にとっても不都合
A・B平等な財の下で生活を始めても、結果的に不平等になり、無知のヴェールのためど
れくらいの格差が生じるかは不明である。その格差を是正するため
→ 最悪の事態を最大限改善する「マキシミン・ルール」
2.内省的均衡(反照的均衡)
演繹的に「正義の二原理」が採択されることを描いたが、帰納的にも導出されるか?
その方法論として「内省的均衡」を用いる
・内省的均衡
「しっかりとした道徳的判断」と「道徳原理」が一致しているのかを、慎重に探り、その一致する均衡点を見つけること
→ この内省的均衡によって公正としての正義による正義のニ原理が確立する
⇒ リベラルな社会主義(国家主導型の社会主義に対して)でも、財産所有の分散に基
づくデモクラシーでも、正義の二原理は成り立つと論じている
3.批判
・ リバータリアニズム、コミュニタリアリズムからの批判(後述)
・ 藤原保信からの批判
公正としての正義は、人間の間に一定の公正な秩序を実現できたとしても、自然及び他者関係の客体化という問題に対する十分な解答になっていない。正義の実現が、自然の犠牲の上に成立し、それがそれ自身人間の生存を危うくしないという保証は存在しない
U.ロバート・ノージック Robert Nozick
1938年生まれ、ハーバード大学哲学科教授
1974年 “Anarchy, State, and Utopia”(邦訳『アナーキー、国家、ユートピア』)を出し、
Libertarianism(自由尊重主義、自由至上主義)を提唱する
しかし、その後ほとんど発言を行わず、Libertarianismは生みの親からみはなさ
れる。なお、Libertarianismの立場にたつ哲学者はその後も盛んに発言を続ける。
他の主著として、『生の螺旋』など
問題意識:個人の生得的権利を侵さずに国家がなしうること――があるのならば、それ―
―はなにか?
1.アナーキーから最小国家へ
ロックの労働価値説の立場を採用し、自然状態から「見えざる手」的に国家が生成するかどうかを検討する。
権利観:個人の決して侵害されない領域を規定する
(道徳的)付随制約:「〜への」権利ではなく、「〜からの」権利の無化のみが権利となる、消極的権利
→ 他人を手段とすることができない
→ 積極的権利と違い、権利が衝突することはない
@ 自然状態 処罰権の相互行使に伴う紛争の泥沼化の発生
→ 処罰権の行使を簡易化するため、保護協会(クーポン購入者のみを保護す
る)を設立
A 複数の相互保護協会 構成員の要請に応じるために、加入者全員が待機する必要性
B 支配的保護協会(超最小国家) 協会に属さない「独立人」が持つ処罰権が、加入者
に行使されないように保護するため、独立人の権利行使を保護する必要性
→ 独立人は処罰権の制限を受けるため差別的不利益をこうむる
→ 不利益を賠償するために協会は独立人にもサービスを提供しなければなら
ない
C 最小国家 ← a.当該領域内での実力行使を独占し、b.領域内の全成員に保護サービス
を提供する
2.権原理論 と 拡張国家の否定
ロールズの配分的正義に対して、「保有物の正義 justice in holding」を提唱
<権原理論>
a.獲得の正義の原理に従って保有物を獲得する者は、その保有物に対する資格〔権原〕を
もつ
b.ある保有物に対する資格〔権原〕をもつ者から移転の正義の原理に従ってその保有物を
得る者は、その保有物に対する資格〔権原〕をもつ
c.〔右の〕aとbの(反復)適用の場合を除いて、保有物に対する資格〔権原〕をもつ者
はない
「移転の正義の原理」…保有物の原始取得、保有物の移転(譲渡)、保有物の不正の匡正
→ 正しい状態から正しいステップをとおして生起するものは、何であろうとそれ自
体正しいとする
・拡張国家は、必然的に権原理論を満たさない形での強制的再配分を行うため否定される
3.批判
最小国家の成立に対して:BからCへの移行における「賠償原理」
権原理論・拡張国家批判に対して:歴史性を考慮に入れるため、現状肯定的である
所有の概念を相対化することは可能
V.マイケル・ウォルツァー Michael Walzer
1935年生まれ、ハーバード大学政治学教授を経て、現在プリンストン高等研究所社会科学
教授 (R.ノージックとハーバードではともに講義を持ったこともある)
1980年代頃からCommunitarianism(共同体主義)の一人として盛んにLiberalism、
Libertarianismと論争を繰り広げる
1983年 “Spheres of Justice A Difference of Pluralism And Equality”(邦訳『正義の領
分 多元性と平等の擁護』)を出す
他の主著として、『義務に関する十一の試論』、『解釈としての社会批判』など
問題意識:支配層や多数派の論理を一律にローラするのではなく、いかにして少数派や弱
者の論理を擁護するか?
1.複合的平等 と 多元主義へ
単一的価値を目指す従来の政治哲学に対抗し、正義の原理そのものが多元的であることを構想する
→ 「優越からの自由」の社会へ
→ 差異の除去ではなく、まったく同質化することではない。優越の手段を誰もが持た
ないとき、相互に平等である
→ しかし、優越の手段は社会によって異なる形で構成されている。それは、共同体の
中でのみリアルであり、また理解可能である
→ そして、優越は常に様々な領域――メンバーとしての資格、社会保障、財貨、公職、
自由時間、教育、家庭生活、政治権力など――で分配される社会的財とセットで構
成さている
・社会的財:a.分配的正義となるものは社会的財
b.人々は社会的財の使用などの「仕方」によってアイデンティティを持つ
c.全世界を共通する基本的財の単一の集合は存在しない
d.財は「財の意味」によって規定される
e.社会的意味は歴史的変化にさらされ、よって正・不正も変化する
f.意味が別個であるのならば、それぞれ別の領域で自律的になものでなければ
ならない
⇒ 社会的財の意味、および分配に関する原理・及び諸手続きをめるぐ「解釈=批判お
よび政治闘争」が同時に、分配するべき領域を確定し、それぞれの領域の自律性を
守ろうとする
⇒ 社会契約は成員達による資源の再分配への合意であり、道徳的紐帯となる
→ 社会契約をたえず(再)解釈する必要がある
⇒ 共同体内にいるデモクラシーにコミットした人々にとって、多元主義pluralismは決
して「生やさしくはない政治」を示している
→ 複数性を生きる人とは根本的に複数のコミットメントのある人間のことで
あり、彼はいつでも自分の愛顧となる義務の中で選択を行わなければない
⇒ 日々の解釈=批判の闘争は永遠に続く。コンフリクトは常にある
⇒ <すでに相互に承認しあったもの同士の間で会話を続けることへの希望>よりもむ
しろ、<他者からの不平を聴き、自らの内部にも複数存在する(必ずしも調和する
とはかぎらない)声にも耳を傾けつつ、その不平にオズオズと応答しながら、より
よき共生に向かって自らが変わりうることへの希望、を見出す
(西洋政治思想史 P460)
W.まとめ
アメリカ政治思想史の中の位置付け
・フェデラリズム → リベラリズム
・ジェファーソナリズム → リバータリアニズム
同時に、移民問題などから新しいコミュニティが再認識される → コミュニタリズム
<参考文献>
藤原保信、『自由主義の再検討』、岩波新書、1993
藤原保信・飯島昇藏編、『西洋政治思想史U』、新評論、1995
John Rawls,1971,矢島鈞次監訳、『正義論』、紀伊国屋書店、1979
川本隆史、『現代思想の冒険者たち23 ロールズ 正義の原理』、講談社、1997
Michael Walzer,1983,山口晃訳、『正義の領分 多元性と平等の擁護』、而立書房、1999
Robert Nozick,1974,島津格訳、『アナーキー・国家・ユートピア』、木鐸社、1996
<資料>
John Rawls 『正義論』
●功利主義的正義観との対決
「問題は、少数者に不利を課することが、他の人々に教授されるより多くの有利性の合計によって、つぐなわれてあまりあるかどうか、あるいは、正義のウェイトが、すべての人々の平等な自由を要求し、各人の利益になる経済的、社会的不平等しか許さないのかどうか、ということである。古典的功利主義と公正としての正義との対照に潜んでいるのは、底流にある社会の概念に関する一つの相違である。秩序ある社会を、一方では、公正な原初状態で人々が選択するであろう諸原理によって規制された互恵的な有利性のための協働の図式として考え、他方では、与えられたものとして受け入れられた多くの個人の願望の体系から、普遍の傍観者によって、構築される願望の体系の満足を最大化するための、社会的な資源の効率的な管理、と考えている。より自然な派生的理論での古典的功利主義との比較は、このような対照をもたらす」 P24
●無知のヴェール
「誰も社会の中での自分の位置や階級上の地位あるいは社会的身分を知らないばかりではなく、生来の資産や能力、知性、そして、当事者は自らの善の概念あるいは自分の特異な心理的性向を知らないことまでも、私は仮定しよう」 P9
●内省的均衡(または反照的均衡)
「この〔正義の原理を採択する原初状況〕状況の最も好都合な叙述を求める際、われわれは二つの目的から出発する。われわれはこの状況を、一般的に分有されていて、どちらかというと弱い条件を描くように叙述することから始める。……十分であれば、そしてこれらの原理がわれわれの正義に関する慎重な確信と一致すれば、そこまでは良い。しかし、おそらく不一致があるであろう。この場合、われわれには一つの選択がある。われわれは初期状況の説明を修正するか、現在ある判断を改めるかのどちらかができる。というのは、不動点として暫定的に採る判断でさえ修正を免れないからである。ときには契約環境の条件を変え、ときにはわれわれの判断を撤回してそれらを原理に一致させるというように、ゆきつもどりつすることによって、ついには合理的な条件を表し、十分に簡潔にされ調整された、慎重な判断に一致する諸原理を生み出す初期状況の叙述を見出すだろうと私は思う。この事態を内省的均衡と呼ぶことにする」 P15-16
Robert Nozick 『アナーキー・国家・ユートピア』
●賠償原理
「賠償原理は、人々が一定の危険な活動を禁止されることに対して賠償を受けることを要求する」P130
●アナーキーから最小国家へ
「個人主義的無政府主義者による最小国家に対する道徳上の異議は克服される。これは不正なやり方で押しつけたのではない。見えざる手過程を通して道徳的に許容しうる方法により、誰の権利を侵すことなくまた他のものの有しない特別の権利を何ら僭称することもなしに、事実上の独占が生成するのである。そしてこの事実上の独占体のクライアントたちに、自分達に対する関係での自力救済の実行を禁じた相手の保護〔費〕を支払うよう要求することは、第四章でその輪郭を示した賠償原理によって、道徳上要請されるのである」
P180-181
●最小国家と拡張国家
「最小国家は、正当化可能な国家として最も拡張的なものである。それよりも拡張的な国家は、それがどんなものであろうと、人々の権利を侵害する」 P253
Michael Walzer 『正義の領分 多元性と平等の擁護』
●平等
「平等の根本の意味は否定的(ネガティブ)なものである。平等主義はその起源においては、廃止を目指す政治である。それはすべての相違を取り除こうとするのではなくて、特定のひとまとまりの相違、そして相異なるときと場所における一つの異なったものを取り除こうとする。……問題となっているのは、集団がその仲間達を支配する能力である。平等主義的政治を生み出す富者と貧者がいるということではなくて、富者は「貧者をしいたげ」、貧困を押しつけ、敬意を表すよう命じるということである。同様に、社会的・政治的な相違の廃止を求める民衆的な要求が出てくるのは、貴族と平民が存在するからではないし、公職者と一般市民が存在するからでもない(そしてもちろん、相異なる人種と性が存在するからでもないだろう)。そうではなくて、このような要求は、貴族が平民にすること、公職者が一般市民にすること、権力をもつものが持たないものにすることから生じるのである」 P7-8
●民主制と市民
「民主政治とは、ひとたび私たちが誤った支配を打ち倒したとき、公共的に活動し、自らを市民であると知ることへの持続的な正体なのである。その場合の市民とは、行き先を選び、自分と他の人々のために危険を引き受けることができ、また配分の教会を見回り、正しい社会(ジャスト・ソサイエティ)を維持することができる者のことである。しかし、あなたが、私があるいはだれかがその機会をつかむことを確実にする、そのような方法はない」 P469