小熊研究会U 2000年5月22日
総合政策学部3年 上野 陽子
学籍番号:79801262 Email:s98126yu@sfc.keio.ac.jp
「日の丸・君が代の歴史と法制化」
1.問題意識
1999年8月9日「国旗及び国歌に関する法案」が参議院本会議において成立した。政府提案からわずか2ヶ月足らず、審理日数にいたっては衆参あわせて(中央・地方公聴会含む)16日にすぎなかった。
そのように法制化を急いだのはなぜか。私をはじめ、日本国民の誰もが疑問に思ったことだろう。直接のきっかけとなったのは、広島県立世羅高校の校長自殺(99/2/28)という痛ましい事件だった。卒業式での日の丸・君が代完全実施を求める県教育委員会と、それに反対する広島県高教組組合側との板ばさみ状態が校長を苛んだという。日の丸・君が代は一度も法律として規定されていなかったため、(慣習として扱われた)卒業式などの儀式に掲揚し、斉唱する日の丸・君が代は学習指導要領に拠っていた。(資料1参照)この事件が起こってから、学習指導要領だけでは不充分であるとの判断がなされ、法制化にふみきったとされている。
私自身、生まれてからかなりの間長く、日の丸・君が代を国旗国歌であると認識してきたし、学校行事には必ず国歌を歌ってきた。よって、1999年に法制化が叫ばれ始めたとき、初めて日の丸・君が代が名文化されていなかったということを知ったのである。
小学校の卒業式のときだけ例外だった。ステージが生徒製作の文字パネルでかざられ、体育館の壁には下級生からのメッセージが張られていた。君が代斉唱は存在したのだが、「国歌斉唱」という形で式次第のなかには入っていなかった。それよりも校歌や学年で練習していた曲を歌ったことのほうを鮮明に記憶している。紅白幕のかわりに卒業製作の絵が飾られていた。小学生の私たちにはそれが自然に感じられたのである。生徒が主役の手作り卒業式といった形で、とても思い出に残るものとなった。
その後中学校に入学。日の丸がステージ中央に掲揚され、国歌斉唱。黒い学生服の集団が厳かに「式」に出席する。小学校のときのそれとくらべ、形式的かつ厳かなムードがただようようになった。
現在、日本人で日の丸・君が代についてどれだけの人がアレルギーをもっているのだろうか。また逆に、どれだけの人が日の丸・君が代に固執し、国旗国歌はこれら以外認めないという強い意志をもっているのだろうか。公立の小、中、高校を卒業してきた人たちは、6回ほど日の丸・君が代と触れ合ってきたはずだが、それも一過性のもので教育関係者(広島の校長)たちの葛藤は認識していないのではないか。十分な論議もされないまま可決した国旗国歌法案についても、今では一部の熱心な反対論者たちと右翼が小競り合いをおこしているにすぎない。なぜ国民は国旗国歌というものに対してさほど関心がないのだろうか。日々の暮らしを脅かすほどの問題ではないと思っているからだろう。
「ときあたかも世紀末を迎えて、国民世論を背景にして内閣としても考え方をまとめるときがきた」(衆院予算委員会3/3、小渕前首相)という政府の姿勢をもういちどゆっくり考えてみたいと思う。国民世論は果たして性急に日の丸君が代の法制化を望んだのだろうか。政府が一貫して復活ないし法制化の決意を持ちつづけたのはなぜだろうか。人々の多くは容認に傾きつつも、一方で根深く懐疑論・反対論が生きつづけてきたという点は忘れてはならない。他国に比べ、戦後これほどまでに国旗国歌がわだかまりになっている国は日本以外にあるまい。
なぜ「日の丸」が国旗で「君が代」が国歌である必要があるのか。その点にこだわる政府の体制から何がよみとれるのか。日の丸と君が代の歴史を辿っていくことにより、国旗国歌の法制化について考察していきたい。
2.中間発表
T 明治初期における日の丸・君が代
日の丸
1868年(明治元年) 天皇旗としての「菊御紋章」制定
1870年(明治3)1/27 日の丸を船旗として採用 海賊船との区別
5/15 陸軍旗
10/3 海軍旗
→鎖国日本には、旗をたてて他国と戦うという思考がなかった。明治になって急ごしらえの旗がいくつかできた。それも「国旗」として統一されたものではなく、使う場面や対象がまちまち。庶民が使う類のものではなかった。
1872年(明治5)京浜鉄道の開通式 外国人の慣習に影響されて
君が代
・歌詞の原型 古今和歌集(905) 読み人しらず
「我君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
・現在の歌詞がはじめて見られる文献 和漢朗詠集(1013)
他、各種長唄、琵琶歌にも多く見られる。
1870年(明治3)天覧観兵式にて フェントン作「君が代」が演奏される。
1876年(明治9)洋風で日本人になんら感動をおこさせないとの理由で廃止。
「宮中ニ於テ詠謳セラル丶音節ニ協合セシムルヲ以テ改正ノ正鵠トナスベシ」
1880年(明治13)式部寮雅楽家が壱越調旋律の「君が代」を選び、エッケルトが編
曲。和洋折衷の天皇賛歌ができる。
1882年(明治15)天長節(11・3)にあたり、宮内省式部寮雅楽課が「君が代」を明
治天皇の前で初めて御前演奏
→君が代は「国歌」ではなく、天皇をたたえる歌であった。皇室の歌なのだから、みだりに日常的に歌ったり演奏することはいけないことだとされていた。初期の日本において、旗や歌はヨーロッパの輸入品としての地位をしめていたといえる。
U 明治20年代〜終戦まで(日清・日露→国家総動員の時代)
1890年(明治23) 教育勅語発布
御真影・教育勅語が配布されるも、日の丸は補助的なものであった。
1893年(明治26)8/12 文部省、祝日大祭日唱歌として8曲を指定する[1]
1894年(明治27) 日清戦争はじまる
1900年(明治33)8/20 小学校令改正に伴い祝日大祭日[2]には「君が代」合唱が義務付
けられる。
*このころから、オルガンの普及始まる。
1904年(明治37) 日露戦争はじまる
1908年(明治41) 「戊申詔書」発布。日の丸掲揚の詳細が決められる。
1938年(昭和13) 「国家総動員法」公布
1941年(昭和16) 国民学校発足。
教科書に日の丸・君が代について記述。
→最初は「船旗」であった日の丸、「天皇賛歌」であった君が代が「国家の(国家の主権を握る天皇)旗・歌」に変質していく。教育機関を通じて国民の間に定着していった。また、日中戦争がはじまって、国民を総動員する状態に追いやられた1930年代は、国家による思想統制が一段と厳しくなる。学校もその一部であり、修身、国語、唱歌などさまざまな授業を通じて「日の丸」「君が代」が叩き込まれた。
V 戦後−天皇を称えるための日の丸、君が代は?
日の丸
1949年1月 日の丸掲揚全面「解禁」
「当時の日本国民の間には戦争中余りに強調された日の丸に対する反動、占領軍に対する卑屈感から、さらには都市では戦災で国旗を焼失したという事情もあって、国旗に対する関心が低調であったといい得よう。」 (吉田茂)
・物資不足→風呂敷、あかちゃんのオシメ、はちまきなどに流用される
・天皇の地方巡幸(1946年〜54)日の丸が多く見られるようになるのは50年代半ば。
・日の丸への距離感 1950年2月 朝日新聞世論調査
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第1問 お宅では日の丸の国旗をお持ちですか。
@持っている 73% A持っていない 27%
第2問 (持っている73%に)お宅では祝祭日に日の丸をお出しになりますか。
@
出す 21% A出さぬ 32% B出す時もあり出さぬ時もある 20%
*出さない理由*
1.近所で出さないから自分だけ出すのはなんとなくおかしいし、また面倒でもある 44%
2.旗を出す気がまったくない 20%
*国旗を持っていないのはなぜか*
・ 戦災で焼失した
・ 敗戦と同じに国旗などいらないと思って流用した
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「国民歌」の誕生
1946年 毎日新聞社 “新日本の歌”
1948年 朝日新聞社 “こ丶ろの青空”
1949年 朝日新聞社 “日の丸の歌”
1951年 天野文相対談
1951年 日教組 “緑の山河”…君が代に対抗するため
1953年 壽屋 “われら愛す”
W 大祝祭空間での日の丸・君が代 〜うすらぐ抵抗感〜
高度経済成長と豊かさへのナショナリズム(1950〜1960年代)
1952 日本が独立国になる
1952 NHKが君が代を流す
1953 NHKがテレビで日の丸と君が代をセットにして放映。
1959 皇太子結婚パレード 53万人の観衆が日の丸を振る姿がテレビ[3]で報じられる。
1964 東京オリンピック開催=スポーツへの国民総動員体制、聖火リレーの意味
政治空間でのナショナルな出来事(1970年代)
日本万国博覧会開幕(1970)
札幌オリンピック(1972)
日中国交正常化(1972)
沖縄本土復帰(1972 5・5発効)
天皇の訪欧(1971年)
天皇の訪米(1975年)
X 法制化と矛盾・矛盾
広島県世羅高等学校長自殺→「指導要領だけでは完全実施できない」という危惧
【矛盾】完全実施をするために法制化(指導要領だけでは力不足)
⇔生徒の内心まで立ち入って強制しない
【根拠】国旗・国歌として国民の間に広く定着している、国民的確信
【歴史的背景】言及なし
【君が代解釈】日本国及び日本国民統合の象徴である天皇をいただく日本の繁栄をねがっ
て(平成元年 12月7日 参院文教委にて)
【監視】
教育現場で:チェックシート、マニュアル、監視、職務命令
Y まとめと今後の展開
【戦前戦中】 【戦後】
*戦争≠悪 *徴兵=義務 *宗教的「聖戦」の否定、国益のための戦争 *陸海空軍の総帥たる天皇(軍人のtop) *神聖ニシテ侵スベカラズの天皇 (現人神としての天皇) *国を守ること=家族を守ること *国のために死ぬ=栄誉 =ナショナリズムの必要性、身体感覚で とらえられるシンボルの創造。 →日の丸・君が代 *教育で徹底的に刷り込まれる 「日の丸・君が代」教育 |
*戦争=悪 *徴兵=志願制、義務ではない *憲法9条により、戦争放棄 *天皇は日本国の象徴、日本国統合の象徴 *主権在民 *天皇の地位は国民の総意にもとづく。 *思想の自由が保障されている *「国」と国民との直接的なかかわり =国籍の保有、納税の義務が二大要素。 →戦争のない現在、国の何を守り、何を愛せというのか。当惑、無関心。国際化、情報や金融のボーダーレス化による「国家=共同体」意識の欠落。 *意味を教わることなく行われる国旗掲揚と国歌斉唱。 |
今回の中間発表では、日の丸君が代に関する歴史をざっと振り返ることで、これらがどのような経緯で今の国旗国歌になったのかを明確に知ることができた。しかし、まだ詳細なデータ(世論調査、過去の国会議事録)を集めているわけではないので、今後はもうすこし緻密なデータ集めを中心に行いたい。生のデータを集めることによって、おもしろい結果が得られると思う。また、現在日の丸・君が代についてどのような議論がなされているのか、教育現場で何が起こっているかについては、実際に公立学校に取材にいくことも検討している。
3.参考文献
歴史教育者協議会「日の丸・君が代 50問50答」大月書店 1999年
板垣英憲「小中高校の教科書が教えない日の丸君が代の歴史」同文書院 1999年
松本健一「日の丸・君が代」と日本 論創社 1999年
知花昌一「増補版 焼きすてられた日の丸」 社会批評社 1996年
山部芳秀「Q&A『日の丸・君が代』の基礎知識」 明石書店 1999年
所功「日の丸・君が代の法制化と公教育の役割」國民會館叢書 1999年
田中伸尚「日の丸・君が代の戦後史」 岩波新書 2000年
暉峻康隆 岩波ブックレットNo187「日の丸・君が代の成り立ち」
朝日新聞 1999/7/5 夕刊 「日の丸・君が代 考」〈上〉
朝日新聞 1999/7/6 夕刊 「日の丸・君が代 考」〈中〉
朝日新聞 1999/7/7 夕刊 「日の丸・君が代 考」〈下〉
毎日新聞 2000/5/9 <特報・国旗国歌>
その他、朝日新聞マイクロフィルム