2000.5.8.

2000年 春学期 小熊研究会2

環境情報学部3年 村上 愛花 

学籍番号:79859570 e-mail : t98957am@sfc.keio.ac.jp

 

  1. テーマ
  2.  「郊外住宅地のポジショナリティの行方」

  3. 問題意識
  4.  「ここ、怖い。」

     大学に入学してしばらくした後、私は大学でできた新しい友人達を自分の家に招いた。この言葉は、その時の友人の一人から発せられたものである。

     私の住所は横浜市の栄区にある。鎌倉市との境に位置する横浜市の最南部の区である。緑は豊かに茂り、色とりどりの屋根の低層住宅が広がる街並みは整い、道路は直線状に小さな町を滑らかに滑っている。この、いわゆる郊外型新興住宅地が、私が3歳の頃から住み・育った「場所」である。

     初め、私は友人のこの言葉の意味が良く理解できなかった。友人も何故「怖い」と感じたのか、はっきりとは説明できないでいた。しかし、何か異質な、特殊なものを感じていたという。

     都市計画家のK.リンチによると、人間が都市を認知する際のイメージ形成に用いられる要素は五つである。道(パス)、崖や川岸などの淵(エッジ)、地区のまとまり(ディストリクト)、駅や交差点などの結節点(ノード)、塔のような目印(ランドマーク)。これらが巧く配置された都市空間が、人々に生き生きとした印象を与える力、つまりイメージアビリティを持つとリンチは主張した。確かに私の住む湘南桂台地区に、上記の五つの要素が効果的に配置されているとは言い難い。道は真っ直ぐに碁盤の目状に街を縫い、エッジは見えずに延々と住宅街が続く。同じような住宅の並ぶこの地区にまとまりは見受けられない。最寄り駅は無い。目印は、強いて言えば、小・中学校を囲う背の高いネットであろうか。要するに特別な地域的特色は見られない。この地区内では、どの地点に立っても同じような景色が見える。私の友人はこのどこまでも同質な景観に違和感を感じたのだろうか。

     この研究テーマを選択するに至ったそもそもの動機は、自分の住む郊外住宅地を「怖い」と言われたこの体験に因るところが大きい。何故郊外は怖いのか。何が異質に感じさせたのか。この機会に、外から眺めた時に郊外とはどのように見えるのか考えてみたいと思ったのである。社会の中で郊外住宅地はどのような役割を果たし、どのような立場に立たされてきたのか、また今後立たされ得るのか。郊外住宅地の担う社会的・空間的ポジショナリティを問いたいというのが、本研究における私の問題意識である。

  5. 研究対象
  6.  私が言及する「郊外」及び「郊外住宅地」とは、首都圏内に位置するものとする。また、いわゆる計画都市的性格を持つ「ニュータウン」と郊外型新興住宅地を区別する著書は多いが、私は両者を同質のものと解釈する。規模と開発者が異なるだけで、実際に住民が生活している場所は両者同様の「住宅街」であることに変わりはないからである。

     具体的には横浜市内の郊外住宅地を選択した。郊外住宅地の典型として昭和40年代後半から50年代前半にかけて民間企業によって開発された新興住宅地である湘南桂台住宅地(横浜市栄区)を主に据える。客観性を持たせるために、同市内で昭和50年代に住宅都市整備公団(現・都市基盤整備公団)により計画・開発された、やや若い住宅地である港北ニュータウン(横浜市都築区)も対象に加えて調査する。また、参考事例として、やはり市内の新興住宅地の緑園都市(横浜市泉区)の例を挙げる。

     

  7. 中間発表

 T.郊外住宅地の系譜

 .日本の郊外住宅地

→住都公団による大規模な公的住宅地(ニュータウン)の建設

(千里・高蔵寺・多摩など)

  →「住宅」供給が主目的、完全職住分離

→宅地開発気運の高まり

→複合的機能都市としてのニュータウンへ、企業誘致

 

 U.郊外住宅地のポジショナリティ

  .「空間」の視点に立って眺める

・ユートピア的なまち

 →空間を組織化…具体的な場所の独自性を抽象的な空間の普遍性に還元

→万人に受け入れられる形態「ユニバーサルデザイン」

「グリッド・パターン」→碁盤の目状のまち

 合理的空間

 20世紀後半のテクノクラシーの産物

=「生活に必要の無いもの」は一切無い。

         ル的>要素の欠如、多様性の欠如

盛り場、劇場、スタジアム、移民街、雑業者(行商人・占い師・バーテン・芸人など)、路上生活者

  

  .「社会」の視点に立って眺める

 →公的/民間ディベロッパーが主に山林を開発

 →住民は、同時期に一斉に方々から入居して来る

    …全員が「根無し草」、「故郷喪失者」

 ・共有できる 土地の歴史・伝統・神話 の欠如

  心性や習俗における関係性(宗教・価値観)の欠如

  土着性(地縁・血縁)の欠如

 ・共同性は形成途上

→住民は、同時期に一斉に入居し、ほぼ同区画・同価格で家を購入する、ほぼ

 同世代で、同じような家族構成

→ひとつの地域にある唯一の商業施設で同じようなモノを買う

→ある意味「平等」

  ・均質な空間では目立てない→<郊外で他人の子供をしかることは御法度>

   →<地域社会で育てられる子供>は<親によってのみ育てられる子供>へ

・<他人のことに口出ししない>住民

  →人との関わり合いによって生まれる「世間」が無い

 

 

  .「家」の視点に立って眺める

→完全な職住分離によって、郊外住宅地では働く人間の姿は見当たらない

  ・大体が第三次産業のサラリーマン家庭

  ・働いた後、帰ってくる場所=帰るべき家のある場所

    ・終の棲家である住宅がどこまでも続く

→まちに住む人以外の人間を受け入れる余裕と隙間は無い

 

 V.郊外住宅地の住民

  →郊外住宅地には墓はない。神もいない。

・基本的な住民の性質はドライ

→均質な社会での人間関係はドライ

ドライとウェットの言葉のニュアンス

ドライ: 物事をわりきったさま。感情的でなく合理的・現実的なさま。非情。

     義理人情を考えない様子、事務的で愛想の無い様子、功利的

ウェット:情にもろいさま。感傷的なさま。義理人情などにこだわる、感情

     的な性質ややり方の様子、装飾主義  

→ドライ←→ウェットの振幅の度合いによって郊外住宅地における現在の動向

 と今後の動向について説明できるのではないか。

 ・若者たちの間の病んだ現象は郊外に多い

→オウム信者は普通の家庭で育った若者だった

→酒鬼薔薇聖斗の事件はニュータウンで起きた

→「第四空間」へ流れ出す若者たち

→山本直樹の言葉 と 「リバーズ・エッジ」

・郊外の若者はドライ

・地域性及び人間関係に対してドライであるゆえに

  →「第四空間」へ流れ出して行ける女子高生

  →ウェットなもの(神聖なもの、神話、伝統、伝説など)へ憧れる若者

→様々なコミュニティの発生

→「ふる里」づくり、緑と自然の保全

     ・郊外住宅地での土着性を高める傾向にある→今後の郊外を支える?

 

  W.郊外住宅地の今後のポジショナリティの行方

  市の平均年齢:39.7歳 栄区:40.6歳 都築区:35.1

  市の老年人口構成比:13.2% 栄区:12.7% 都築区:7.6%

→高齢者の間で盛んなコミュニティ活動

→自治会を主体的に運営する高齢者

  「まち」の中で高齢者でも歩いて行ける距離内に全ての機関を配置する

  →「高齢者にとてもやさしいまち」へ、しかし更に閉じた空間へ

→若い夫婦が郊外住宅地に再び「子育てに適した空間」を見出す可能性は低い

 方向にあるのではないか。

 

→インターネットとは接続しないクローズドな環境=イントラネット

→リアルな交流から生まれるヴァーチャルな共同体

→ヴァーチャルからリアルな交流へのきっかけ作り

→<地域社会が育てる子供>の復活の可能性もある?

 

  1. 今後のこの研究の行方

 中間発表で得たアドバイスを元に方向性を定めるつもりではあるが、現段階としては「今後のポジショナリティの行方」の項において、桂台と港北NTの自治会報や各種パンフレット等の調査を徹底した上で、もう少し考察を煮詰めたい。このような状況の郊外を市や区はどう対応してゆくつもりなのか、郊外のポジショナリティの行方に他の方向性はないか、またヴァーチャルコミュニティに実際に潜入して観察・調査する、などの展開を現在は想定している。

  1. 参考文献

若林幹夫他「都市と都市化の社会学」岩波書店 1996

陣内秀信「都市と人間」岩波書店 1993

三浦展「『家族と郊外』の社会学第四山の手』型ライフスタイルの研究PHP研究所 1995

三浦展「『家族』と『幸福』の戦後史―郊外の夢と現実」講談社現代新書 1999

オギュスタン・ベルグ「都市のコスモロジー」講談社現代新書 1993

福原正弘「ニュータウンは今40年目の夢と現実」東京新聞出版局 1998

宮台真司「まぼろしの郊外成熟社会を生きる若者たちの行方」朝日文庫 2000

坪井洋文「日本民族文化大系 第八巻村と村人=共同体の生活と儀礼=」小学館 1984

江刺洋司「都市緑化新世紀 街づくりは『盆栽の発想』から」平凡社新書 2000

小林秀樹「集住のなわばり学」彰国社 1992

岡真理「カルチュラル・スタディーズポジショナリティ」現代思想現代思想のキーワードvol28-3青土社 2000

横浜市市民局「地域連帯とまちづくり市民アンケート報告書」1993

大妻女子大学社会情報学部人文地理学研究所「首都圏ニュータウンの現状調査」1999

相澤真一氏からのメール,2000//11

栄区制10周年記念事業実行委員会「栄区制10周年記念誌触れ合いと人の和を育んで1997

岡崎京子「リバーズ・エッジ」宝島社 1994

くらもちふさこ「天然コケッコー」集英社 2000

資料

資料

 「現代思想」2月号の「現代思想のキーワード」内における「ポジショナリティ」の項における岡真理の指摘によると、「ポジション」(位置)という空間的語彙が示すように、ポジショナリティの思考が問題化するのは、人間の空間的布置である。「私」は、この社会、この世界において、いかなる空間的位置を占めているのか。ポジショナリティについて思考することは、「私」とは何者なのかという問い、すなわち、これまでアイデンティティの問題として考えられてきたものを、空間的な配置という観点から再考することによって、自己同一性の思考を脱臼させる―dislocate=転位させる、これも空間的語彙だ―ものとして意図されていると言えるだろう。とある。

 

 

 

 もともと子供が育っていたのは家・学校・地元という3つの要素から構成される空間だった。しかし<第一段階の郊外化=団地化>によって地域共同体は崩壊し、子供の存在が家族へと内閉化した。やがてメディアが個室化したことで若者は家族共同体から自由になる。更に、<学校化>によって評価原則が均質化し、学校での評価に則った地域や家庭での<評判>に窮屈さを感じるようになる。そこで<第二段階の郊外化=コンビニ化>は、<家・学校・地域に居場所のなくなった子供たちに最後の居場所>としてコンビニを提供すると同時に、<彼らを家・学校・地域から「第四空間=都市的現実」へと解放>した。

 

 で下さい」という問いに対する住民の答え(大妻女子大学社会情報学部「首都圏ニュー

 タウンの現状調査」より)