2001年度秋学期小熊研究会T
第六回(11/19)「ナショナリズム」まとめ
総合政策学部二年 小山田守忠
学籍番号:70002308
ログイン名:s00230mo
最近の歴史研究および社会学研究方面におけるナショナリズムの扱い方の諸潮流について
日本のナショナリズムの論じられ方について
1.ナショナリズムというテーマ
・新しいテーマとしてのナショナリズム
本来は社会学でなく政治学、政治思想の領域の話
社会学においてはエスニック関係(社会の中での逸脱集団を扱う)より後
ナショナリズムは直接あまりやられてこなかった
むしろデュルケムなど古典的なものではそれらしいものが扱われていたが、アメリカ社会学が社会学らしくなってくる中ではあまりやられなかった
2.ナショナリズムというテーマの台頭
・第一の要因、アメリカ国内におけるマイノリティ知識人の台頭
ブラック、ネイティヴアメリカンなど
(ネイティヴアメリカンという言い方はアメリカンを前提としているので嫌がる人が
多くなった、→シャイアン、スー、アメリカンと呼ばれるよりはインディアンと呼ば
れたほうがましという人も、アメリカンと呼ばれたがる人はアメリカへの統合志向が強い人々、ブラックと呼ぶかアフロと呼ぶかも同じような問題)
・80〜90年代に第三世界の知識人が増えた(スピヴァックSpivakなど)
この人たちは第三世界の国々が独立したあと30年くらいたって開発独裁などで政治状
況が悪化したり、経済状況が好転しないなどの理由で渡米
それに対するアメリカ国内での受け入れ態勢が整ってきた(国内の人種差別の緩和)
・難民条約の影響
ベトナム戦争後、難民条約の批准→インドシナ難民の受け入れ
国籍による差別を国内で行ってはいけないことに(日本では在日にも影響)
アメリカの大学への第三世界出身の知識人の受け入れが進む
・亡命知識人を受け入れる波は大きく分けて二度
@.第二次大戦中から大戦後のユダヤ人知識人の受け入れ
フロイト哲学、マルクス主義、現象学などが伝播するきっかけに
シュッツ、コーンハウザー、アドルノなど
A.80〜90年代の第三世界知識人の受け入れ
ナショナリズム、ポスコロの台頭の背景に大きく作用
社会学、文学研究、歴史学の一部でそれがおこる、その他の分野にも多数
→アメリカの学問の活性化につながる
こうした人々は米社会内での自分の位置、祖国内での自分の社会的位置、ナショナリ
ズムの問題、アメリカから第三世界がどう見られているかという問題、第三世界内部
でのナショナリズムの問題というものを考えざるをえない
・第二の要因、人類学、地域研究などからの影響
クリフォードギアツ:バリ島を中心とした人類学研究
社会秩序と文化の関係性の問題を扱う(人類学者の十八番)
未開社会と呼ばれている地域では文化と社会秩序(村・国家の形成過程など)の連関性、「文化の政治性」が見やすい
「劇場国家」という言葉が有名に(演劇に社会の縮図の論理が現れる)
現実の国家の方が劇場で行われているものの模倣でありうる(聖書の似姿)
国家と文化の関係性を問題に→後の文化方面からのナショナリズムへのアプローチ
・歴史学の中での変化
歴史学の中で文化史は低い位置、経済史と政治史が偉い(マルクス主義が強いところ
では経済史が強い、一般的には王朝の流れなど政治史が強い)
文化史、思想史はことのついで(思想史も偉い人、インテリ中心)
今世紀後半(70〜80年代以降)に文化史、社会史の台頭
民衆生活、生活文化、民衆のもっていた思想の重視
「人民派」民衆生活を見たいというのがどの流派にも通低
民俗学(フォークロアの学問)文章資料に頼ることをよしとしない(⇔歴史学:文章
資料中心)
柳田邦夫「文章にかかれていない歴史をやる」、文章に頼るとどうしても文字を書ける
やつ中心の歴史になる、文字を書けるやつは支配者に決まっている(紙は貴重品)ど
うしても都市部、支配者中心になってしまう、一般庶民が何をやっていたのかは全然わからない
→昔話、農歌などを対象にする「文章によらない歴史学」(民衆を視野に入れようとした)民俗学というのはある意味非常にナショナルな学問、自分の国でやるのが民俗学で他の国に行ってやれば文化人類学になる(「日本共通文化」が存在、それを探るのが民俗学)→基本的にナショナルアイデンティティをつくるための学問
・歴史学と民俗学との提携
民衆のもっている文化の連続性と変容、また国家権力との関係性とは
当初日本において民衆を調べようとする人々は民衆ロマンチシズム(国家に左右され
ない反権力の芽がここにある?)のようなものを考えていたが実際に調べてみたらそ
うでもなかった(むしろ下層民衆の方にいけばいくほど天皇を崇め奉っている)
→ならばそうした民衆文化はどのような経緯で出てきたのか?
エリック・ホブズボームはこういうタイプの歴史家(英の民衆反乱を扱う)
左派系の歴史学者は民衆反乱を重視する傾向(サバルタン・スタディーズ、色川大吉、
安丸良夫など)
マルクス主義者や共産主義者が民衆を誘導して立ち上がらせるという方針への疑い
頭からインテリの党員がやってきて言うことを聞けといっても聞かない
民衆が立ち上がってくれるのはどういう状況かということを歴史的に研究
→民衆のもっている思想の独自性、正義感、コスモロジー(世界観、宇宙観)が脅か
されたときに民衆は立ち上がる(宗教思想、伝統文化、迷信など)
マルクス主義が指導しない民衆反乱はどのように起こりうるのかというのが中心テー
マ(ホブズボーム『反乱の諸形態』:ロビンフッド伝説のようなものを取り上げる)
そうした「伝統文化」はあまり昔からあるものではないというものを発見したという
のが『創られた伝統』(本人からすればこちらが売れたのは本意ではない?)
このナショナリズム研究の古典は民衆の中に内在している文化を研究した結果の副産
物として出てきたものといえる
これは人類学・民俗学と類似(民衆文化を調べているうちに国家と民衆文化の関連性
が明らかになっていったという点で)
→ナショナリズム研究はそこから発展
・今世紀の歴史学の中においてはマルクス主義歴史学とどのように距離をとるかという
ことが重要なテーマに
社会史、文化史という領域はある意味それとは一歩距離をおきながら出てきた領域
左派系の歴史学者の中でも共産党や知識人が一方的に民衆を誘導するということを良
しとしない人々がまず民衆のモラルを調べ始める
・アナール派
仏の歴史学派、民衆生活の重視(『モンタイユー』村の歴史をひたすら調査、フェルナ
ン・ブローデル『地中海』国家で輪切りにするのではなく地中海世界として見る)
ものすごく長いタイムスパンを取るのが特徴(3〜4世紀くらい)
従来の国家政治史、国家経済史とは別のものを書こうという思想
国家を脱するということになった場合に小さい村などに向う場合と国家を超えた地域
に向うという2つのコースが存在
・こうしたものが歴史学の中で混ざり合ってくる過程で国家の相対化が進む
もともと歴史は偉い人(王様)が書くもの→王朝の歴史(国家の歴史と一体に)
「民衆の移動」などに注目するのが現在のトレンド(倭寇など)
→近代史の特殊性が浮き彫りになってくる
日本で近代ナショナリズム研究がさかんになったのはここ10年間くらいの現象
それ以前は中世史、江戸史ブーム(→国家の枠組の相対化、網野義彦など)
もとも中世史はNationの枠組をみるのに一番やりにくい領域
近代的なNationというのは古代国家の再建というかたちで行われる(明治の王政復古
など、古代と近代をつなげるのがナショナルヒストリーとして描きやすい⇔中世は暗
黒期)中世はナショナルヒストリ−として描きにくい(分裂の時期でもある)
中世の民衆文化を調べると近代のそれとは随分違う→では近代の民衆文化はどのよう
に出来上がってきたのか→民衆文化史、社会史研究へ
3.近年の歴史学・社会学・人類学におけるナショナリズム研究の動向
・歴史的なものに重点をおいたものがナショナリズム研究として多い
現在のナショナリズム及びNationの文化の相対化ということをしようとした場合に歴史的な比較(「縦」の比較、通時的研究)がやりやすい
社会科学というものは実験ができないため比較対照としては横軸をとるか縦軸をとるかのどちらかしかない、横軸をとると国際比較になるがこれだと民族文化やナショナリズムの相対化という方向にはなりにくい(「国民性」比較のような研究になりやすい)
・フーコーが大きな刺激に(三段階にわたって言説エピステーメーの移り変わりを描く)
『〜の誕生』シリーズが増えてくる
・現在のナショナリズム研究の諸流派
@ディスクール分析(論じられ方、概念の変遷を重視)
A人類学延長線上にあるもの(民衆の身に付けている文化の変容を重視)
民事裁判の記録を使う(アナール派、フーコーなど)
B図像学(イコノロジー)シンボル的な図柄から見ていくという手法(お札の図柄、教科書の挿絵などへの中止)
C身振り立ち居ふるまいへの注目(「実践」「プラティーク」昔の風俗画、「万歳」のやり方、運動会・国家事業の儀式への注目→フーコーの規律/訓練の話へ)
D犯罪・社会政策研究(犯罪取締り、社会政策など民衆領域に最も密接な政策領域)
どのようなものが犯罪として規定されたか、また民衆がそれにどう反応したかなど
どぶろく生産の禁止、ペスト・コレラなどの隔離政策などがどのように行われそれがどのように民衆意識に作用したか
・現在この領域は花盛り
この領域の研究はナショナリズム研究だけでなくジェンダーも考えなくてはならないテーマに、いろいろな意味で「区分の仕方」を問題にするという歴史研究になるので「区分の仕方」がどのように出来たか、またそれがどのように変遷してきたかということが主眼に(ナショナルなエスニックな区分、男女の区分といったジェンダー関係や階級区分を重視するというのはほぼ定石化)
・このような最近の歴史研究ものは国民国家論、歴史民俗学、民俗誌(エスノグラフィー、人類学方面)などと呼ばれる
・理論的なお話
Linguistic Turn(言語論的転換)
人の社会秩序が言語によって成り立っていることを重視する立場から主張される
人間の社会秩序のつくりかた、人間の表象の仕方は言語に規定されている
→言語の描かれ方である把握が出来る(テキスト分析を行うと世界が見える?)
反論も多い(立ち居振舞いを重視する立場から言語だけでは不十分と指摘)
そうしたものの総称が構築主義(本質主義に対するアンチ)
4.政治思想の領域におけるナショナリズム
・国民がどれだけ公共性を共有しているか、政治に参加しているかという観点でナショナリズムをはかる(⇔歴史学・社会学方面:一般の人々がどの程度ナショナリズムを内面化しているか文化形態としてもっているかもっていないかというところに比重がかかる)
扱っている領域の違い、政治思想はどうしても偉い人の思想で国家論とかいうものを相手にするので一般民衆がどうしているかとういようなことはあまり眼中にはいっていない、社会学は何でもやる領域ではあるが基本的に政治学経済学からこぼれた領域を扱う学問なのでどうしても人種主義など見やすいナショナリズムに目が行き勝ち
一方政治思想の分野からすると人種主義などはナショナリズムではありえない(ナショナリズムはNationのismなので国民の中の分断を作り出してはいけない、国民の中に分断をおこすような人種主義はナショナリズムではないというのが政治思想のオーソドックスな回答)この流れは現在でも連綿として存在
・社会学というのは非常にいいかげんな学問なので(?)政治思想よりの社会学者というものも一群存在(ハーバマス、ロールズ、ノージックなど)
この人たちはナショナリズムに関してかなり違った見方をする
日本では橋爪大三郎、稲葉シンイチロウ、橋本ツトム、宮崎テツヤ、西部ススムなど
「公」と「私」というのが得意技(歴史的な変遷、民衆の内面化の問題などより公にどれだけ参加できるか/できないかということを重視)
この流れのほうが日本の学問形態においては昔から存在
元祖は丸山真男(「公」と「私」へのこだわり、Nationへの参加の重視)
その系統をついで東大法学部政治哲学系及び政治学系ではこの流れがずっと続く
(現在では藤原帰一など)
・この手の人たち(政治哲学系よりの人々)は「公」への参加ということを重視するのでナショナリズムをあまり悪く言わない
ナショナリズムに問題があるとうことは認めるがそれはナショナリズムが「いい形」で定着していないから問題(「良いナショナリズム」とは皆が公平に参加できるもの
→人種主義や帝国主義は本当のナショナリズムではない、ハンナ・アーレントはその典型?)
ナショナリズムは利用すべきもの、もしくはきちんとつくっていくもの
⇔フーコーの影響が強い社会学、歴史学系の人になると「公」に「主体的」に参加していくこと自体が罠だという発想になる
この2つが現在日本の論壇で2つの潮流をつくっている(対立関係に)
・欧米では必ずしもこうした関係にはなっていない
『国を愛するということ』(アメリカのインテリへのインタビュー)
ウォーラーステイン「愛国心そのものは悪くない」
日本におけるナショナリズムの存在位置が現在の論壇の位置関係に反映している感も
5.近年の日本でのナショナリズムというものの受け止められかた
・ナショナリズムが「戦前ではよいもの」とされていて「戦後では悪いもの」とされているという位置付けは安直
戦後の日本でも「愛国心は悪い」と真正面から言った人はほとんどいない(そうした人がでてきたのはせいぜい60年代の後半から)
戦前の愛国心は悪くてもこれから良い愛国心をつくっていけばいいんだというのが大半の意見、これはヨーロッパ政治思想史の教養の影響(「良いナショナリズム」の強調「戦前のものは愛国心までいっていない」、天皇が残っている=身分制度が残っている、だからこんなものはNationとは呼べないという議論が強かった)
日本はこれから国民国家になっていくんだという意見が強かった(=天皇の首を切れ)
・当時の日本は階級格差、貧富の格差が非常に激しい社会
上層と下層の隔絶は経済的な側面だけでなく文化的な側面でも激しい(1950年代の調査で新聞の漢字が全部読めるのは総人口の4%)
経済的な隔絶は生活様式の隔絶とも密接な関係に
高度成長以前の日本では「金持ち=西洋風の生活」「貧乏人=「和風」の生活」が常識
このような状態だとNation Stateをつくれというのがリアリティをもった(身分格差が大きすぎるので平準化の必要性が訴えられる、そのためにナショナリズムがあまり否定的に語られなかった)
・これは現在の第三世界と同様の状況
ナショナリスト、原理主義者と呼ばれるものが「貧民の味方」という形で人気を集める(彼らの基本的なスローガンは「金持ちは西洋にかぶれやがって」というもの)
こういうところではナショナリズムは非常に強い力をもつ
この原理は高度経済成長以前の日本でも同じ(それ以降この図式が崩壊)
・ナショナリズムというのはある意味国内均質化・平準化の機能をもつが高度経済成長以後国内の均質化・標準化をこころよく思わないという論調が出てきた
それまでは国内を平準化するという要望はかなり強いもの(貧富の格差が大きすぎる、またそれが文化的な相違にもつながる、高度経済成長以前の知識人にとって「洋服を脱いで和服を着る」という行為は「民衆に近づく」という行為でもあった)
そうしたものが成立しなくなった
→現在のナショナリズム批判というものは均質化に対する抵抗という部分が大きい
・社会学・歴史学方面のナショナリズム議論では政治的要素が落ちる傾向が強い
Nation Stateとしてのナショナリズムがどの程度形成されているかという問題はどの部分を指標とするかによって異なってくる
ルソーの民主主義が民主主義の完成形?(→絶対に実現不可能、実現したためしがない)
完全に民主化されて天皇の首を切らない限りは国民国家とはいえない?(→日本はいまだに国民国家ではないこの見方をする人は政治学者、政治思想史の人に多い)
社会史・社会学・文化史研究者などはある程度文化の平準化が進めばNation Stateは完成したと見がち
政治思想を中心とする人々がナショナリズムを論じている場合には主に政治的な側面、日本がどれだけ民主化されているかという点に重点を置く傾向が強かった
近年の論じられ方、特に社会学、文化史研究などの分野においては国民文化がどの程度形成されてきたかという部分に比重があたっている(文化領域に傾きがち)
→政治思想方面の人との論じ方のズレの原因に
文化的な側面だけに注目しすぎていると方手落ちになりやすいので注意
歴史学のなかでも文化史方面の研究者と政治史方面の研究者はあまり仲がよくない
社会学方面でもポストコロニアル論やポスト構造主義を応用してナショナリズムを論じている人々とエスニック研究の多民族統合などを研究している人々では仲があまりよくなかったりする(エスニック方面の多民族統合をどうやっていくかという研究をやっている人々は国家のなかでどうやってエスニック集団に平等な権利を与えていくべきかというような国家体制の問題を重視しているので、そうした人から見るとポストコロニアルのようなものは文化ばかり注目していて権利を全く無視しているように見えるといったような批判が存在←必ずしもそうではない)
この手の議論をどうしても文化人類学や文化史、文学研究方面から出てきたものが非常に強いのでどうしても政治的権利の問題や経済的背景の問題は抜け落ちてアイデンティティや文化を論じるという傾向が強いのでそうした面への批判はある
・この両者の接点も存在
エスニック関係の現場の調査に出かけている人は国家体制としての無権利状態に現地の人々が置かれていて現地の人々が困っている様と、実際の文化がどんどん変容している様の両方を見ることになるので両方必要になってくる
6.アメリカでの動向など
・ポストコロニアル論とカルチュラル・スタディーズなどは文学、映画研究的なものが多い、そうしたものも大切だがそれだけやっていては問題(この手のものは80年代から90年代末までがピークで現在は下火という説も)
アメリカのようにある一定以上にマイノリティの権利が確立している社会と日本のようにマイノリティにほとんど権利が付与されていない社会では全く別なのでそこを意識したほうがベター
・人類学の凋落
アメリカの大学では人類学部が軒並み凋落、どんどんつぶれていく
日本での人類学は80年代が人気のピーク、現在はぱっとしない(民俗学は70年代がピーク、全共闘運動の挫折後、全共闘の活動家達が学問に戻ったときに民衆の意識を知ろうという方面に向ったのが一群存在、現在の民俗学のトップ連中は殆どその手)
・米でのポスコロ
アメリカ社会学では限定的に受け入れられている
主流は厳然として社会調査やケーススタディ研究など
日本で流行っているようなものは文学研究、映像研究の分野での批評理論として導入
歴史研究においては部分的影響(日本ではその手のものが入ってきたときにまず語学が出来る文学研究者が取り入れ、人類学者、社会学者、歴史学へと進んでいくというのが90年代いっぱいの流れ)
・これから先どうなるか
まだわからない、文化論的な議論が90年代半ばから強くなった後、ここ1〜3年くらい公共哲学系の人々が勢力を盛り返しているというのが日本論壇及び社会学関係での感想