2001年度春学期小熊研究会T
第六回(5/28)「在日」まとめ
総合政策学部二年 小山田守忠
学籍番号:7002308
ログイン名:s00230mo
<「在日問題」をとらえる3つの視覚>
T.日本政府・国家が在日に対してなにをやったか
U.在日側の歴史
V.在日内部の意識の変化
T.日本政府・国家が何をしてきたか
1.国籍法による「日本人」の決定
・1899 国籍法を決定、「日本人」になってもいい条件を定める
父系血統主義(婦人差別撤廃のなかで85年に両系主義へ)
・日本の対欧諸国に対する条約改正の時期、文明国としての認知の必要
日本は対外関係を確定する必要に迫れる→国籍法、旧土人保護法成立
→内外で「日本国民」について考え直した時期
・帰化条項の決定、どうすれば「日本人」になれるか
@ 経済的自活力があること−「お荷物」にならない
A 犯罪歴がないこと−立小便、駐車違反もだめ
B 帰化した後の権利制限−国政には触れさせない
(当時の日本は弱小国、「どうあがいても勝てない」欧米人の侵入を恐れる)
C 素行が善良(→品行が端正)−故意に曖昧な条項にすることで政府側の解釈の余地を残しておく(憲法解釈にも通じるものあり)
→「手続き、法律上は差別しないが、その運営上でなんとか転がす」が基本方針
・外圧による権利獲得(1980年代以降、国際条約への加盟)
文明国としての認知の必要からしぶしぶ承認、しかし@いかに「お荷物」にならず、A権利(国家の意思決定)を制限し、Bいかに法律の抜け穴をさがすか、は大筋としてかわらない
2.在日に対する権利付与
・52年 国籍選択権を一斉剥奪(年金、国保、その他認められず)
→70年代の在日側の運動、各種国際条約(難民条約、婦人差別撤廃条約、人種差別撤
廃条約など)加盟問題から変化
→国内体制の整備の必要性→地方自治体レベルで変化→国が追認
・社会保障関係から変化(60年代末〜80年代半ば)
健康保険、年金、公営住宅、児童手当等が認められる
言論の自由は認められていた(ほったらかし?)
・「3種の近代的市民権」(−欧米の歴史)
@ 基本的人権(17〜18C)
A 公民権(19C)−普通参政権
B 福祉関係の権利(20C)−社会保障
「在日は@→B、Aはまだ(朴一)」
日本政府としては「@は隅のほうで喚いていてもいい、B社会保障くらいはくれてやってもいい」というのが本音、Aについては難しい
1899年当時、日本は弱小国(朝鮮、中国人は怖くない、「能力がない」)
しかし欧米人(「こいつらには競争しても勝てない」)が帰化して大臣になるのは怖い
→植民地化の恐怖が背景にある中で国籍法が成立
3.民族学校の問題
・国民意識の再生産に関わるため非常に認めたがらない
・上からの近代化の結果「政府の品質検査」の傾向が強まる
民間の技術力が信用できない、(「ろくなものができない」)
→「政府が民間を指導」という姿勢が明治から一貫
・私立学校でも文部省の検査(カリキュラム、教員等)をうけなくてはならない
それ以外は各種学校扱い(「日本のために何の役にも立たない」→受験資格なし)
・補助金が出ないため授業料が高い、一条校になろうとしても、カリキュラム・教科書・教師の問題が出てくるなど問題は多い
U.在日側の歴史
1.在日団体の歴史−冷戦と本土の状況に振り回され続ける
・45年当時日本国内に在日は230万
38年に80万人が日本に(土地をとられた→半島では食っていけないので日本に)
「近代化政策」の結果、貧富の格差が広がったため、渡航制限をしたにもかかわらず
38年の段階で80万人が日本に(その後、強制連行で150万人が日本に)
・解放後、150万は帰国するが様々な理由から残った人々が朝連(在日朝鮮人連盟)を結成、帰国準備の一環として民族学校をつくりはじめる(ほったて小屋で塾)
・後に朝連は総連(在日本朝鮮人総連合会)に、朝連から弾かれた民族主義・親日系の人々は後に民団(在日本大韓民国(居留)民団)を結成
・48〜49年に政府はこれらの団体をつぶしにかかる(「日本人」の教育は日本がやる)
(団体等規制令、阪神教育闘争など)
2.冷戦と南北分断の影響
・47〜48年頃から冷戦が本格化、世界的な陣取り合戦の中48年南北分断
・南は事実上の軍事独裁政権、選挙弾圧、元日帝の下級官吏を使う(行政的に頼れるため)など評判が悪く、50〜60年代には経済的に北より悪かった(80年代に「民主化」)
→在日にとっては帰るに帰れない状況続く
・48年ごろの日本では共産主義の権威が高かった(共産党以外はほとんど戦争協力者(協力しなければ投獄)、唯一と言っても良いほど戦争協力しなかった団体だったため)
これは在日団体内でも同じ(日共は朝鮮人を受け入れた)
結果なし崩し的に「朝連(北)VS 民団(南)」という図式に
・50年代前半に朝鮮戦争が勃発、日本は「西側」に位置付け
朝鮮人党員が民戦(在日朝鮮統一民主戦線)を結成、反米を掲げる
(民戦の目的:日本の改革→在日朝鮮人の地位向上)
在日内部でも東西対立
・54年、北朝鮮政府は在日朝鮮人を「海外公民」であると宣言
→内政不干渉方針に切り替わる(→地方参政権に反対、指紋押捺問題に反対せず)
・55年朝鮮総連結成(在日の55年体制)、朝鮮人の地位向上を目指す
・50年代後半から北への帰国運動が始まる(南は軍事独裁、北のほうがまし?)
・65年日韓条約締結、「西側」の団結(韓国に有利になるようにする(永住権の付与など))
→韓国籍へ切り替える人が増加(朝鮮籍:外国に出るのが大変)
一方、条約締結に関しては、在日内部、韓国国内でも反対が多かった(「軍事政権に援助」)
・70〜80年代にはいり、在日問題が日本国内で有名に(日立裁判、弁護士問題など)
二世の台頭、「日本社会でやっていくしかない」(定住志向の確立)→権利の獲得
・市民運動形式の登場(それまでは組織(民団・総連)主導)、草の根レベルの運動へ
・日本社会全体の国際化:全体的な外国人の増加、在日以外の韓国人の増加、国際条約への加盟など→認識の変化へ
V.在日内部の意識の変化
・二世はまだしも三世、四世はほとんど言葉が喋れない
文化・言語的にも日本人と変わらず、混血も増えて帰化者も増加してゆく
→子供は「何人」?(「日本人」になるケースが多い)
・各世代による意識変化のパターンその一(米などのケース)
一世:祖国の文化をもっている
二世:ホスト社会に適応しようとして一世と反発
三世:祖父の意識に戻る、「取り返す」
この場合「民族意識」をもつのは若い人々に多い(回復志向)
しかし孫が取り返すのは元の文化と同じものではない(「民族文化」は不変のものではない)
「象徴化された朝鮮文化」を学ぶ→体系化している可能性(伝統の発明に近い)
(例:民族学校で「言葉」「(標準)文化」を学んでもおじいさんと話せない)
そうした「言語」「文化」は日本国内で変容したものである可能性が高い
韓国、北朝鮮の文化は常に変容しつづける→真似ても違うものになることも
喋れるようになってもタメ口がきけなくなることも
「取り返すもの」が体系化されたものである可能性は払拭できない
・各世代による意識変化のパターンその二
一世:地元の文化をもっている
二世:「失われた」文化を求める
(体系化されたものに固執するため悲惨な結果になることも)
三世:その「呪縛」から自由になる
(親を見てバカバカしいのでやめる)
「民族」が選択的アイデンティティの問題として捉えられる
・在日の若者意識はかなり複雑、現在も変化しつづけている
文化的多元主義、共生志向も今は流行らない