4回 小熊英二研究会 2002.5.13

吉見俊哉 「<声>の資本主義」

  総合政策学部2年 今井義浩

mails01109yi@sfc.keio.ac.jp

1、主題:メディアの形態とそれによる「声」の流通の歴史的な変化から社会をみる

 

2、手法

テクノロジーとその消費のされ方に注目した社会史的なアプローチ。対象は、電話、ラジオ、蓄音機の音声複製技術。基本的にはその誕生から1920年代、30年代まで。

 

3、内容

序章

・音声複製技術に対する視点

永井荷風   −音の遠近感、場所性、沈黙の喪失とそれに対する嫌悪

  マクルーハン −・テクノロジーによる人間の感覚の変容 

→全感覚的な共在状態 −再部族化、地球村へ

・メディアの「性格」に注目「メディアはメッセージである」

  グールド   −聴衆の在り方の変容、「社会が音環境の解釈=編集を織り成す」(p.25

 

     問題意識の提示 :新しい技術と社会との相対的な関係

 2つの問題関心

■「アマチュア」と呼ばれる人々 

−専門のエリートではなく、一方的に聴取するだけの大衆でもない存在。

「与えられた音楽をただ受動的に消費するのではない、むしろ聴き手であると同時に送り手でもあり、音環境をともに編集していく協力者でもあるような人々の原型」(p.28

 →メディアを送り手から大衆への一方的なマス・コミュニケーションとしてではなく、むしろその分節を相対化して捉えるため。

何故、現在のようなエリート、専門家と大衆とに二極化したのか?

 

■ 草創期のメディア、技術に境界を引いた技術的変容の力線

「初期の電話が同時にラジオでもあり、ラジオが電話でもあったこと」(p.30

〔引用1〕

その境界が曖昧な状態から、現在見られるような具体的なメディアへの収斂の過程には、どのような力が働いていたのか?

 

この二つの視点から、「声」の変容そのもののなかに作動している近代という時代を見る。

第一章:前提−アマチュアと大衆の想像力からエリートへ

新しいテクノロジー=電磁気を扱う「魔術師」、「いかさま医者」と大衆の熱狂(18世紀) 

→エリートの登場とその差別化 科学的権威を欲しがる「エレクトリシャン」(19世紀末)

 

第二章:音声複製技術の登場と、その消費

蓄音機は当初、現在の電信や電話の機能に近い用件伝達メディアであった 

その後、大衆の音楽を消費することに対する関心と公衆蓄音機の流行

音楽を聴取する中産階級の誕生 →音楽の消費のされ方の変化(“家庭”で“音楽”を楽しむ。演奏会のシュミラークル化)と複製技術(大量生産の可能な円盤レコード)

 

大衆の欲求とテクノロジーの結びつきとその再編

日本の例:大正期、教養を身に付ける大衆文化の成立と家庭的な空間で消費される蓄音機

街頭音楽隊、大道蓄音機の消滅 

 

〔引用2〕 〔引用3〕

 

第三章:「テレフォン」:共同体的なメディアからパーソナルなメディアへ

     当初、業務用の情報の伝達手段(距離を越えた友人、家族とのおしゃべりは「間違った」使い方とされた)

188090年代 有線ラジオ的な娯楽メディアとして(ミサ、スポーツ、音楽、ニュース)

・農村部、独立系の組織の共同回線による地域コミュニティの井戸端会議的な電話

(一対の関係を閉鎖的な回路の中でつなぐ密室的なメディアではなく)

ローカルなネットワーカーとしての役割を担った女性交換手の存在

 

3つの要因

 ・大手電話会社(公と私領域を分けるブルジョワ的価値観を持つ)によって全国一元化

「都会のデパートと郊外の住宅をつないでいくことになる消費社会的なライフスタイルが階級的な断層や都市と農村の境界を越えて広がっていく過程ともパラレルであった」(131

・(19世紀末〜20C初頭にかけて)監督により電話交換手の声が機械のように標準化、規格化、マニュアル化

・電話産業が「おしゃべりの市場」を発見、誘発

―広告における電話のイメージ変化が見られる。

「必要を満たすための手段から、快適なライフスタイルを楽しんでいくための消費財としての電話」

 

 

第四章:日本における電信、電話の発展と国家の統治システムの発展

電信 −「御巡幸線」1876年以降 明治天皇の全国巡幸に合わせて急造

明治政府が地方を支配するための装置

電話 −国家による管理のための軍事、警察メディアとして普及

・警察や官庁、鉄道駅を結ぶ私設電話システム

・国家が国民を監視、管理するためのメディア、或いは国家的な産業政策に利用

女子交換手 −経済的な待遇の悪さ

      −明治40年代頃から、監督システムの強化と労働の規格化

 

農村に広がった「有線放送電話」(195060年代)

「コミュニティを自生的かつ網目状に組織するメディア」(156)−放送と通信機能が一体

村の電気マニア、地域の電気店、村民により草の根的に発展

往診医の手配からラジオの共同聴取、自主制作ドラマの放送まで

 

相互ネットワーク化により、国家主導の電話制度が変容させられる警戒 →規制

 →電電公社による全国を直接、瞬時につなぐネットワークに組み込まれていく

 

「声」によるコミュニケーションの均質な社会空間の全国的な広がりへ

「電話の会話を、地域的な生活圏の広がりとは無関係な、どこでもない空間で営まれる距離を欠いたパーソナル・コミュニケーションとして経験していく」(276

 

第五章:アマチュアの無線通信からマス・メディアとしてのラジオまで

音声無線技術―当初は有線電話の延長線上としての使われ方

大衆に向けて放送(=ラジオ)はまだ別物

 

1906年頃から、アマチュア無線家達が網目状のネットワークを形成

−「商業的な無線局や海軍の無線技師をも凌駕する技能をみにつけていた」(181

 

第一次大戦後、マニアが自分の無線局から音声を送信

百貨店(受信機を売りたい)が後押し−マニアだけでなく、家族の誰もがラジオの聴衆に 空前のラジオブーム 娯楽メディアとしてのラジオ市場の出現

KDDAラジオ(1920〜)−定時放送、産業活動の一環としての放送、膨大な聴衆(放送を興味本位で消費していこうとする)を受け手として想定 

→ラジオ無線は一方的な関係へと機能的に限定されていく 結果としてマスへ浸透

ラジオ概念の転換(引用4)1925年頃

全国的なメディアへ(「都市のむらびと」から農村まで)

第六章:日本におけるラジオ放送

1922年、博覧会にて初公開 

−新時代テクノロジーと大衆娯楽を混合させた格好の見世物 新聞社

24年         アマチュアと役人の論争 (ラジオマニアの存在)

逓信省側−国家的な「通信」システムの延長として掌握

あるアマチュア−活動写真や蓄音機と同類のものとして、大衆娯楽メディア

 

25年         東京、大阪、名古屋の放送局がそれぞれ放送開始

26年         三放送局の解散と日本放送協会の設立 幹部は殆ど逓信省の役人 

34年   中央集権的な中央局制(支部の解散) →ラジオの国家装置化

30年代以降 −

「ファシズム体制に向けてより能動的に大衆意識を動員していくメディア(215)」へ

 

第七章:テクノロジーとアヴァンギャルドの関係

マリネッティ「ラジア宣言」(1933、イタリア)

 −「雑音の芸術」や「無線の想像力」を現実化していくメディアとしてのラジオのイメージ 演劇、映画、書物とは違う、新たな芸術の形態

それは、あらかじめ秩序付けられた番組を一方的に流すものではなく、制度化された音楽や言語活動を解体するもの。

しかし、イタリアのラジオ放送は30年代以降、ムッソリーニによる全体主義的なものへ。

 

ドイツのラジオ芸術の流れ

・劇場の演劇とは異なるリアリティの次元を持つものとして捉えていった試み

・既存の文学的な慣習を廃棄し、音響的な芸術としてのラジオを想像させようとするもの

→モンタージュやコラージュの手法を取り入れる

ブレヒト「ラジオ芸術論」

聴衆を能動的な生産者に転換させる、コミュニケーション装置としてのラジオ劇

 

一方的な分配のメディアから聴衆が自分で社会を組織していくコミュニケーション装置へ

しかし30年代以降、ラジオ放送は国営化、一元化。国民をヒトラーの声の均質な聴取者とする政策

 

日本:「摘まれていった芽」

1925年、放送開始当時、ラジオドラマの新しい文化が芽生えていたが、翌年の合併に伴い、検閲は強くなり、時代も戦時体制に飲み込まれていった。

 

終章 30年代以降における国家的な声の文化の組織

・ナチによるラジオの一元的管理

より多くの大衆を、より強く、集会の中心点に向けていくこと −国家の拡声器

 

・ローズヴェルト −ラジオの声の浸透力を有効に利用した最初の大統領

ラジオの受信機を通じて、家庭の大衆に呼び掛ける戦略

1930年代の世界では、ドイツとアメリカのそれぞれにおいて、政治的現実を構成するモードが活字メディアから電子メディアへと地滑り的に変容しつつあった」(264

 

・日本 国家的な声の流通システム(拡声器)の完成と無音によって表現された天皇の声

 

 

4、結論

1930年代以前には、今日とは違った成り立ちのメディア文化があった。

音声メディアは、最初から国土の均質な広がりのなかで一元的に、或いは個人と個人を繋ぐ私的なものとして声を流通させる現在のような形として現れたものではなかった。それは、共同体の草の根的なネットワークであり、「アマチュア」やアヴァンギャルドによるインタラクティブな文化として発展する可能性もあったのだ。しかし、社会的な変化とともに、産業により市場化、そして国家により均質化され、当初の声のネットワークは失われた。逆に言えば、メディア形態の変化から、上のような社会の変遷を読み取ることができる。

 

 

5、研究史上の意義、研究の位置付け

近代になって人間とその感覚がどう変わったのかという社会学的な歴史研究のメディアへの応用。そして、その日本社会への応用。

 

 

引用1

「『蓄音機』『電話』『ラジオ』といったメディア概念そのものが、19世紀末から20世紀初頭にかけての歴史社会的過程の産物であったという事実なのである。この時代、今日では最初から区別してかかってしまう各種の音響メディアの境界ははるかに曖昧であった。そしてこの曖昧な境界をつなぐ仕方で、何らかの技術的な変容の力線がそれぞれの形成期のメディアに同時に作用し、今日の状況に直接つながるようなメディア文化の布置が確立されていったのである。」(p.30

 

引用2

「つまり、エディソンの発明をレコードという20世紀のメディアに収斂させていったのは、19世紀を通じて膨張しつづけた音楽を消費する大衆のブルジョワ的欲望にほかならず、レコードというメディアには、この社会的変容の力線が技術構成の根底に刻印されているのである。」(p.31

 

引用3

「この場合、音楽を家庭的に消費される大量生産品としていった複製テクノロジーは、それぞれの装置が置かれていった場で、そうした音の商品を自ら消費していく主体としての聴衆も産出していた。」(p.100

 

引用4

「このようなラジオ概念の転換、すなわち単に無線の声を受信していくだけでなく、みずから発信していく能力を持ったさまざまな主体の間での相互媒介的なメディアから、大多数の大衆の嗜好に合うように、その音や声の中身を巧みに調整し、商品化していく主体としての放送局と、商品化された言語活動を消費していく受け手としての大衆を両極とする関係を再生産していくようなメディアへの転換」(p.190

 

引用5

「アマチュアたちの電波メディアにおける活動が、国家的に管理されつつあった声のメディアの境界線をその裾野から溶解させていたとするならば、同時期のアヴァンギャルド達の活動は、そうした境界線をその先端においてやはり溶解させていたのである。」(p.243