小熊研究会プレゼン・『「国語」という思想』

総合政策学部三年  南 智佳子  s00884cm@sfc.keio.ac.jp

 

はじめに

■「国語」と「日本語」のあいだ

「大阪府のある小学校が四年前、教科名の「国語」を「日本語」に変えたことがある。外国籍の児童にとって「日本語」は「国語」ではないという判断からだった。しかし二年後、「国語」に戻した。

直接のきっかけは、産経新聞が「『国語』がない」と大きく報じたことだった。 同紙は「『国語』は日本人の児童・生徒が、自分たちの生まれ育った国の言語という意味だけでなく、感情の機微に応じた細やかな使い分けや、母国語に秘められた文化・伝統を学ぶ授業である。これが『日本語』という教科名では、『英語』『ドイツ語』『中国語』など外国語の授業と変わらず、いったい、どこの国の授業か分からなくなる」と主張した。

(朝日新聞:19991210日より)

 

*「国語」と「日本語」にはどんな違いがあるのか

*「国語」が付随する意味とは何か

 

<序論>

■『「国語」という思想』の主題

「国語」という概念はいかにして作られ、どのように広まっていったのか

 

■研究対象と研究手法

本書は「国語」を近代に作られた概念であるとして捉え、「国語」の理念の歴史を、近代との関わりのなかで言語思想史的な視点から論じている。主な研究対象は、明治以降の「国語」概念の変遷と、「国語」「国語学」の確立に重要な役割を果たした上田万年・保科孝一の活動とその思想である。本書では、特に保科孝一に焦点が当てられている。研究手法は、上田や保科などの言語学者や国語学者、歴史学者等の著作、論文集、政策提言、講演記録、書簡、法案、政府機関の記録・提言等の分析である。

 

■著者について:1956年韓国順天生まれ。延世大学校文化大学卒業。一橋大学大学院社会学研究科修了。大東文化大学国際関係学部助教授を経て一橋大学大学院言語社会研究科教授。専門は社会言語学。

 

<本論>

本書は三部構成(明治初期の「国語問題」、上田万年の言語思想、保科孝一の言語政策)になっている。

1、明治初期の「国語問題」

■江戸から明治にかけての言語状況

書きことばと話しことばの断絶

話すことばによって身分が特定できる(資料1

文字、文体、文法には確固とした標準がなく、そもそも統一された、均質的な「日本語」が存在するという観念自体がない

 

■「英語採用論」

1、森有礼の「英語採用論」

     森の言語意識

「日本の言語」は、日本語(やまとことば)と中国語(漢字、漢語、漢文)とが無秩序に混合した「貧しい」言語。

  ↓

「日本の言語」では近代化できないと考え、簡易化した「英語」を採用することを提言

 

2、「英語採用論」に対する馬場辰猪の批判

   英語を採用することによって社会的格差が広がることに懸念

   日本語が不完全でないことを証明するため、英語で日本語の文法書を作る

   だが、馬場本人は英語でしか文章が書けず⇒話しことばと書きことばの断絶を象徴

 

     国字問題

・前島密の「漢字廃止論」

  普通教育による国家富強をはかるため、学習に時間のかかる漢字は廃止すべき

・「仮名文字論」、「ローマ字論」、「新国字論」

・国字問題が生まれた背景

中国文明圏から脱出したいという欲求

西洋文明への同化渇望(ローマ字論者において)

・国字問題の限界

仮名文字やローマ字を用いても、文章が擬古文や漢文訓読体になってしまう。(資料2)⇒言文一致運動の機運

 

     国字改良から言文一致へ

・「東京語(東京中流社会の言葉)」の普及

二葉亭四迷、山田美妙、坪内逍遥などによる「東京語」の言文一致小説

  首都東京と地方の交流が盛んになったこと

  新聞や雑誌、学校の教科書による言文一致

・言文一致と帝国意識

  日清戦争以降の国家意識の高揚が言文一致と結びつく

    →欧米諸国の言文一致を目標/言文不一致の中国・朝鮮への蔑視

  言文一致が国家事業に

 

     「国語」の創成

○明治期の「日本語」を指す言葉

  「本邦語」、「御国語」、「邦語」、「日本語」、「日本の国言葉」

○明治初期〜明治20年代初頭の「国語」の混乱状況

  意味、読みともに混乱していた「国語」

・「国語」意味

@漢語・洋語と相対する日本に固有の語句を指す

Alanguageの訳で、言語表出全体を差し示す(同義語に「国言葉」)(資料3)

  ・「国語」の読み

「コクゴ」または「クニコトバ」

○日清戦争(18941895/明治2728)で「国語」統一の萌芽

     ナショナリズム高揚(官民一体による統一的な「国民」創出/「国家」意識高揚)

→学校令(1886)によって、「和漢学科」→「国語及漢文科」(中学校)、「国語科」(師範学校)設立、「和文学科」→「国文学科」(帝国大学)

・このころの「国語」は言語文学と国家が有機的に結びつくという意識、伝統に基づきながら漸進的改良を果たそうとする意識によって支えられた。だがこの「国語」は「伝統」との調和に終わり、言文一致もされていなかった。

 

 

2、上田万年の言語思想

■上田万年・・・帝国大学和文学科卒業。1894(明治27)、ドイツ留学から帰国した後、東京帝国大学博言学講座教授。1898(明治31)、文部省専門学務局長兼文部省参与に就任。

 

■上田に影響を与えたドイツ留学

上田はもともとチェンバレンを通じて比較言語学を学んでいた。その後、上田はプロセイン統一後、ナショナリズムの隆盛を迎えていたドイツに留学。ドイツ青年文法学派の科学的言語研究手法と、全ドイツ言語協会の言語純化運動に影響を受ける。

 

     上田の言語思想

・言語の本体は書きことばではなく話しことばにある(比較言語学の影響)(資料4)

⇒国内の国学者を批判(昔の文章を調べるだけで、現在話されている言葉を研究しない)

 

     上田による「国語」の確立

・比較言語学に基づく言語研究

・「国語」に「日本精神」を付与(資料5

・「国語」に歴史性を付与(資料6

・疑似科学的論証と心情的訴えかけによって「国語」と「国家」とを結びつかせる

・疑似科学的論証(国家概念の普遍的な本質規定とその属性の分析)

・心情的訴えかけ(国体の内面化を行うために、「父母」「故郷」のイメージを最大限利用。「父母」「故郷」に対して抱くセンチメントを「母語」と一体化させる(資料7)。

・「国語」の世界進出を想定し、標準語普及と言文一致を進める

 

■上田による「国語学」の確立

・「国語学」の役割

   ・「国語」の相貌を明確にする

   ・国民を同質化・均質化する「国語」を作動させる

 

3、保科孝一の言語政策

■保科孝一・・・1872(明治5)生まれ。東京帝国大学国文科卒業。1911(明治44)1913(大正2)にかけてヨーロッパへ留学。臨時国語調査会、国語審議会幹事をつとめ、「国語改革派」の中心人物となった。

 

保科孝一は上田万年から、日本の科学的国語学の構築と確固たる国語政策の確立という課題を引き継いだ。彼は日本語の支配圏の拡大と植民地の異民族に対する同化政策を模索した。

 

     保科孝一の国語政策

・国語教育、国語政策の場を通じて、国語学を体系化

・伝統的国語学を批判

・ヨーロッパの比較言語学に対応する「東洋言語学」確立を構想

・「国語」の簡易化

→表音式仮名遣い、漢字廃止を最終目標とする漢字制限、公的機関での口語文の採用を提言

・標準語の制定

政府の力によって標準語を作り、方言を撲滅しなければならない

→「標準語」「標準文体」が制定されないと、「国語学」が確立しえない 

  (=「標準語」制定は「国語学」の認識対象を作り出すために必要な理論的要請)

 

■国内における「国語改革」

・改革派と保守派の対立

1905(明治38)の国語調査委員会による「国語仮名遣改定案(表音式仮名遣い(資料8))、1942(昭和17)の国語審議会による「標準漢字表(漢字節減の動き)」に対する保守派の猛反発(資料9)

 

・改革派・・・漢字全廃、表音式仮名遣いなどの国語の簡易化である「国語改革」を提唱した人々。「標準語」を話しことばのレベルで実現しようとした。

 

・保守派(国粋派)・・・「国語」の書きことばの伝統を重んじ、「国語改革」を反国家的なもくろみとして攻撃した人々。古典の価値を絶対視した。

 

■改革派と保守派の対立の背景

保守派と改革派の対立の背後には「ヨーロッパ」と「日本」、「話しことば重視」と「書きことば重視」、「言語学」と「文学」、などの対立があった。

 

■保科の同化政策

○ヨーロッパの言語政策の影響

・ヨーロッパ留学中に朝鮮総督府からヨーロッパの国語問題と国語政策の調査を行うよう要請

・ドイツ領ポーゼン州のポーランド人に対する言語政策(「ゲルマン化政策」)を研究

○保科の「同化論」

・異民族を同化するには、言語政策、特に言語教育が有効的である

・民族語を絶滅させるなど、強圧的な政策は取らない

  ・言語政策は長期的かつ着実に実施する

  ・一旦決めた政策を変更しない

○「国家語」構想

・多言語多民族国家において統一的な言語体制を構築するために、四つの言語領域(公用語、教育語、裁判語、軍隊語)を統括する「国家語」を法的に規定

・「国家語」のもとには各州により規定される「地方語」、「地方語」の下には、各民族が話す「民族語」が存するという階層的ヒエラルキーをなす

○「国家語構想」への反論

   ・保守派のみならず、改革派からも反論

   (「国家語」が政治の場面に限定されることで、かえって「国語」の地位を揺るがす)

 

 

■植民地における同化政策

○実際の同化政策

日本は植民地に対しては「内地延長主義」を取り、被支配民族に対する同化政策を遂行

→だが植民地において一貫した「政策」と呼べるようなものを設け、それを組織的に遂行することはなかった。

○「同化」そのものの矛盾

   日本は「国民精神」そのものを自然主義的な概念で規定しようとしていたため(生まれながらにして持つ)、異民族の「同化」は論理的に不可能。

植民地の被支配民族はあらゆる政治的・社会的権利を奪われ、従属的な地位におかれたまま。

○植民地における日本語

・どの植民地においても日本語の教育は最も重要な課題

   →「国語」によって「日本精神」を被治者に注入する

・日本語教育に付随する問題(未解決に終わっていた国語国字問題の再来)

⇒「国語」の簡易化

・保守派の攻撃

  「外国人」教育のために日本語を改革しようとするのは、「国語」の伝統への冒瀆

 

 

結論

■「国語」とは

・「国語」は、均質な「国語」を話す「国民」を形成することによって近代国民国家を創造するために作られた概念

・「国語」の形成過程において、「国語」には「日本精神」が宿るとされた

   →「国語」は日本語をあらゆる言語のうちのひとつとして捉えることを拒む

   →「国語」は植民地における同化政策の道具に

・上田万年・保科孝一らは国内外において「国民」を形成するために、「国語」の簡易化を進めようとした

 ・1980年代の「日本語の国際化」ブームは上田・保科の思想の延長上

 

本書の研究史上の意義

・これまであまり取り上げられることの少なかった保科孝一の思想と研究を分析したこと

→保科は日本初の本格的な言語政策を研究した学者だが、現実には保科の提言が実現したことは少なく、彼の活動は保守派の反発に晒されてきた。

・戦後の「国語改革」に影響を与えた保科の思想を知ることによって、国語学はどのように構想されたか、またその認識のもとにどのような言語政策が提起されたかということを言語思想の展開として眺めることができる

 

資料

 

資料3

「抑世界に多くの国語あり、たとへば英語、仏語、独語、支那語のごとし、皆それぞれの文法あり。」(同書、p81

 

資料4

「言語とは、音でありますから、書いた文字は言語ではありませぬ。」(同書、p98)

 

資料5

「日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最もつよき最も永く保存せらるべき鎖の為に散乱せざるなり。」(同書、p122

 

資料6

「国語は其の民族発生以来の国民の思想を醞醸して来たのであるから、国民が十分に此れを使用し、互に交通するは、全体がすべて、同一の祖先の子孫たるの観念を明にし、国民的統一を鞏固にする所のものである。」(『帝国日本の言語編制』安田敏朗、p45)

 

資料7

「其言語は単に国体の標識となる者のみにあらず、又同時に一種の教育者、所謂なさけ深き母にてもあるなり」(124)

 

「そは如何にまれ、此自己の言語を論じて其善悪を云ふは、猶自己の父母の評するに善悪を以てし、自己の故郷を談ずるに善悪を以てするに均し」(『「国語」という思想』、p127)

 

資料8

「禁酒、禁煙とゆーことわ出来るが、節酒節煙わ出来ないとおなじで漢字の節減わどーも六かしい。」(同書、p197

 

資料9

「国語には祖先以来の尊い血が流れて居り、その中には国民精神が宿って居るのであるから、之を改めんとするは、日本人としての考へ方の改革であり、国民精神の改革であるといふことになる。そんなことを平気で審議しようなどと云ふのは、気狂の沙汰だと云はれても仕方があるまい。」(同書、p207)

 

     参考文献

塩田紀和「日本の言語政策の研究」(くろしお出版)、1973

 山本正秀「近代文体発生の史的研究」(岩波書店)、1965

 安田敏朗「帝国日本の言語編制」(世織書房)、1997

 小熊英二「<日本人>の境界」より第411章(新曜社)、1998

 小熊英二「崩壊する『日本語』」(西川長夫・渡辺公三編「世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成」に収録(柏書房))、1999