序論
『遅刻の誕生』のテーマ
日本の近代化の過程において、どのように時間規律が定着するようになったのか、また、なかなか定着しなかったのか。近代的な時間制度の導入に伴うさまざまな戸惑い、努力、葛藤、強制、そのような近代化が伴う様々な社会変化を社会生活の各局面において迫っている。
本の構成
第一部:鉄道制度の導入と時間規律。定時運行と社会的技術的背景。
第二部:地域社会の時間、労働時間、科学的管理法と時間。
第三部:教育と啓蒙の諸場面。小学校、家庭領域における時間規律。
第四部:暦と時計の普及。
第五部:時間地理学の視点。「時は金なり」の意味。
本報告の構成について
今回の報告では、近代化に伴う時間観念の変容の様子を概観するとともに、なぜ時間の近代化が起こるのかという問題を考える。また、近代国民国家の成立に不可欠である「時間の同時性」がどのようにして創られていったのかについて、『遅刻の誕生』の内容も交えながら整理する。「時間を共有する地域の拡大」と植民地化の問題についても触れる。
本論
1、村の時間
・具体的な気象現象や活動と結びついた時間→共同態内部でのみ通用
ヌアー族の牛時間、潮時計、アンダマン島民の花ごよみ
・有限の射程を越えない(生態的な時間)→未来を表現する言葉はない
数字的な時間が存在しない、「時間」という言葉がない、具象化された時間概念がない
2、時間の近代化(村の時間→国家の時間)
・交易関係の多角化(ヌアー族、
X族、Y族、Z族、W族、V族、、、、、)交易関係が深まる→具象化された時間表示のシステムが必要
「遠くの村」が成員にとって切実なものにならないと具象化された時間は提起されない
・
人々をつなぐメディアとしての時間貨幣がそうであることとおなじに、「交通的分業」のシステムを可能にする媒体
・グローバリゼーションによる他者接触の結果として時間観念ができる
3、想像の共同体と時間秩序(同じ時間を共有する「われわれ」)
・「藩」や「村」が壊れて「国家」と「個人」ができる
身分や地方を越えた均質な共同体→均質な時間
/空間を共有する「国民」・ナショナリズムの成立には近代的時間観念が不可欠
「ここでの出来事があそこでの出来事と同時に存在している」
・出版資本主義の発達によって、同時性が構築される。
大量生産
/消費される新聞が同時性を構築する・一世一元の制、太陰太陽暦→太陽暦、日本標準時の設定、祝祭日の設定
巡幸型ページェント→帝都型ページェント、大正大礼の万歳
4、何が時を伝えたか 技術の発達と時間
・交通
/通信技術の発達によって近代的時間観念は創られる・鉄道の普及が近代的時間観念を創る
定時運行・時刻表が時間観念を創る、速度に優劣の尺度が発生する。
・交通システムが複雑化するには厳密な時刻の制定が必要
・時計の普及が時間観念を浸透させる、輸入→国産
5、時の啓蒙活動(ディシィプリンによる支配)
・なかなか時間規律は浸透しなかった(旧暦で生活する民衆)
・学校教育における時間観念の啓蒙
週休制導入、太陽暦に基づく年中行事、時間割の設定、個人教授→一斉授業
・工場における時間規律の励行(自己管理能力の要請)
賃金体系の変化、遅刻は制裁・減給、労働時間と休日の設定、科学的管理法の導入
・軍隊における時間規律
標準時がないと軍事作戦上不利、厳格な時間規律がないと軍隊はまとまらない
「生活の合理化」→「国民総動員」、「国民精神総動員は”時”の尊重から」
6、時間を征すものと支配されるもの
・時間をめぐるヒエラルキー
(役人/庶民、資本家/労働者、宗主国/植民地、文明/非文明)身分差を利用し時間を調節、「文明人ほど時間観念が進んでいる」
・時間を共有する地域の拡大=植民地化
植民地に暦を強制、大東亜暦の模索
結び
・ナショナリズムの成立には近代的時間観念が欠かせない
・グローバリズムによる他者接触の結果として近代的時間観念ができる
・交通
/通信技術の発達によって近代的時間観念は創られる・システムの精緻化は厳密な時間制度を必要とする
・なかなか時間規律は浸透しなかった→啓蒙と自己管理
・植民地化、文明化、国民化される過程で均質な近代的時間を強制した
時間意識の研究
・哲学的アプローチ
・近代日本研究での関心
太陽暦導入と祝祭日をめぐる問題、および民衆生活への影響
・「新しい歴史学」の展開
角山栄『時計の社会史』(
1984年)ゲルハルト・ドールン
-ファン・ロッスム『時間の歴史』(1992)スティーヴン・カーン『時計の文化史』(
1993年)マイケル・オマリー『時計と人間』(
1994年)アラン・コルバン『レジャーの誕生』(
2000年)・ナショナリズムと同時性に関する問題関心
マクルーハン→アンダーソン→
T.フジタニ、原武史成沢光「近代日本の社会秩序」(
1991年)成田龍一「近代日本の「とき」意識」(
1999年)参考文献
橋本毅彦・栗山茂久(編)『遅刻の誕生』(三元社
2001)見田宗介『時間の比較社会学』(岩波書店
1981)エバンス・プリチャード『ヌアー族』(岩波書店
1978)ゲルハルト・ドールン
-ファン・ロッスム『時間の歴史』(大月書店1999)マイケル・オマリー『時計と人間』(晶文社
1994)角山栄『時計の社会史』(中央公論社
1984)岡田芳郎『明治改暦』(大修館書店
1994)マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(みすず書房
1986)ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(
NTT出版1997)T.
フジタニ『天皇のページェント』(NHK出版1994)原武史『可視化された帝国』(みすず書房
2001)成田龍一「近代日本の「とき」意識」(『ときの地域史』山川出版社
1999、所収)成沢光「近代日本の社会秩序」(『現代日本社会
4』)(東京大学出版会1991)(1)
一日を刻む時計は、牛時計であり、牧畜作業の一巡である。・・・・・。そのうちわかりやすいのは、牛舎から家畜囲いへ牛をつれ出す時間、搾乳の時間、成牛を牧草地へつれていく時間、山羊や羊の搾乳の時間、山羊、羊、子牛を牧草地へつれていく時間、牛舎や家畜囲いの掃除の時間、山羊、羊、子牛をキャンプにつれ戻す時間、成牛の戻る時間、夕方の搾乳、牛舎に家畜を入れる時間、等である。ヌアー族が出来事を対置させるとき、彼らが一般に用いるのは・・・・・こうした諸活動の区切りとなる時点である。だから、ヌアー族は、「乳しぼりの時間に帰ってくるだろう」とか、「子牛たちが戻ってくる頃、出発するつもりだ」という表現をする。(Evans-Pritchard 『ヌアー族』岩波書店1978、p162)(3)
アウエルバッハは、こうした同時性の観念が我々にはまったく異質のものであることを正しく強調している。この時間観念は、ベンヤミンがメシア的時間と呼ぶ、即時的現在における過去と未来の同時性に相当する。そして、現象をこのようにみるとき、「この間」という言葉はいかなる現実的意味ももちえない。我々自身のもつ同時性の観念は、長期にわたって形成されてきたもので、その成立は確実に世俗科学の発展と結びついたものであったが、この成立の過程についてはなお十分に研究されているとは言いがたい。とはいえ、この観念は、ナショナリズムの成立にとって決定的な重要性をもつので、これを十分に考察することなしに、ナショナリズムのあいまいな起源を探索することは難しい。中世の時間軸に沿った同時性の観念にとって代わったのは、再びベンヤミンの言葉を借りるならば、「均質で空虚な時間」の観念であり、そこでは、同時性は、横断的で、時間軸と交叉し、予兆とその成熟によってではなく、時間的偶然によって特徴付けられ、時計と暦によって計られるものとなった。
この新しい観念は我々の精神のうちにきわめて深く根を下ろしており、その意味で本質的に近代的なあらゆる概念は〔この間〕という概念の上に成立しているとすら言うことができる。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』
NTT出版1997、p49)新聞を新聞たらしめる本質的な文学的約束事とはなんだろうか。たとえば、ニューヨーク・タイムズの一面を見てみよう。そこにはソヴィエトの反体制活動家、マリの飢餓、残忍な殺人、ミッテランの演説〔中略〕などの記事がある。なぜ、それでは、これらの事件がかく並置されているのか。なにがこれらの事件を相互に結びつけるのか。〔中略〕これらの事件はほとんど、明らかに独立に起こっており、これら事件の当事者たちがおたがい顔見知りだったり、他人がなにをしようとしているのか知っていたりするわけではない。これらの事件がごく恣意的に並べられること(後の版ではミッテランが野球に組替えられるかもしれない)、このことは、事件のあいだのつながりがあくまで想像されたものであることを示している。
この想像のつながりは、間接的に関連しあう二つの要因から生まれる。第一はたんなる暦の上の偶然である。新聞上すみの日付、新聞のもっとも重要な表象、これが、本質的なつながり、ゆるぎなく前進する均質で空虚な時間を提示している。この時間のなかで「世界」はゆっくりと着実に進行していく。
想像のつながりが生まれるもうひとつの源泉は、本の一形態としての新聞とその市場の関係にある。(中略)新聞は、本の「極端な一形態」、途方もない規模で販売されるが、その人気たるやきわめてはかない本にすぎないともいえよう。一日だけのベストセラーとでも言おうか。新聞が印刷の翌日には古紙になってしまうこと―――この初期の大量生産商品は、その意味で、奇妙なほどに、時間のたつにつれ陳腐化していくという近代的消費財の属性を予示するものであったが―――まさにその故に、それは、異常なマス・セレモニー、虚構としての新聞を人々がほとんどまったく同時に消費(「想像」)するという儀式を作り出した。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』
NTT出版1997、p61)一国内の人間が同じ時間を生きるという時間的同一性という点からは、この様式の国家儀礼はふさわしくなかったといえる。この意味では、天皇の巡幸はやはり国民的結合の焦点とはなりにくかった。近代国民国家にとっては、時代遅れの儀礼様式だったのである。(
T.フジタニ『天皇のページェント』NHK1994、p222)(
1889年の)憲法祝賀行事は東京や大都市だけでおこなわれたのではない。新聞には各地のとりくみが競争をあおるかのように列挙されており、実際どこの町村でもなんらかの記念式典が催されたはずだ。〔中略〕しかもここでは、新皇居での憲法授与式とその時間が念頭におかれており、自分たちの儀礼が全国的におこなわれている行事の一環であることも十分に意識されていた。〔中略〕これ以後、紀元節・天長節のたびに小学校に住民が参列させられるが、それはまさしく「全国一斉」であることに意味があり、「君が代」をうたい「万歳」をとなえるなかで、人々は「日本国民のひとり」であることを実感させられることになる。(牧原憲夫『客分と国民のあいだ』吉川弘文館1998、p171)(5)
寺子屋時代の畳をあげて板敷きとし、腰掛けで、読み書き算盤を習ふといふ仕組にはなつて居たが、教育内容は、依然として、寺子屋を一歩も出て居なかつたと言つてよい・・・・・そら病の人だとなると、生徒をそのまま放り出して、薬籠下げて出かけて仕舞ふ。放課時間になつても帰つて来ない、生徒は、勝手に騒ぐだけ騒いで、銘々勝手に帰つてしまふといふこともあつた。(唐沢富太郎『教師の歴史』創文社1955、p18)登るはだんだん重い役に取り立てられましたが、日日のしごとのじこくをさだめておいて、毎日その通りおこなひました。このやうにきりつただしくしましたので、ゑも大そう上手になり、がくもんもすすんで、のちにはえらい人になりました。(国定第U期『尋常小学校修身書 第三巻』「第六 きりつ」)
皇軍の赫々たる戦果の陰に正確な時間がいかに重要であるかを痛切に感じ次代を背負ふ第二国民に”時間の観念”を徹底させたいと再起不能を早くも悟つた同勇士は○○陸軍病院のベットから郷里の神谷時計店を通じて母校である関第二国民学校へ柱時計一個を寄贈する旨を申出た」(昭和
16年(1941年)6月10日付『朝日新聞岐阜版』)・・・全国を挙げての大戦争をしているのに地方にはいまだ「京都時間」とか「舞鶴時間」とかいふものがあつて30分間くらい会合に遅れることは何でもないと聞いている、もし全国民がかうした時の浪費をやつてをるとすれば一人一日十分間としても一億国民の損失といふものは大したものだ、自分は再び繰り返していふ、海軍の五分前精神を是非全国民の精神として貰ひたい、少なくとも全国の大学校、高等、中等、国民各学校ではこの五分前を励行して将来国を背負うて立つ者に時の観念をしつかり植付けて貰ひたい、これが聖戦完遂の第一歩だと痛感する。(「全国民”五分前精神”で大戦果も時の厳守から」田中舞鶴海兵団長の談話。昭和18年(
1943年)6月11日付『大阪毎日新聞』)(6)
電気工学者八木秀次は東北帝国大学で電気通信の研究を本格的に手がけ、その過程でいわゆる「八木アンテナ」を発明し、戦時中は技術院の総裁にもなった人物であった。その人物が講演のために地方を訪れた際、応接室に通されてしばらく講演時刻まで待つことになった。定刻通りに講演を始めようとすると、担当者が八木を引き留めた。「この地方では、知事、市長などえらい人は三十分以上一時間遅れて行かねばだめなヤツといわれる。時間通りに行けば、けいべつされる」というのである。そう聞かされた八木は憤慨し、時間通りに講演をすますと、「えらくない」列車に乗りさっさと帰ったという。(橋本毅彦「蒲鉾から羊羹へ――科学的管理法導入と日本人の時間規律」『遅刻の誕生』所収、p153)cf.(八木秀次『技術人夜話』河合書房、1953年、p209)其地方の工場において始業終業の時刻は予め工場の規則を以ってこれを定めたるが故に、この規定以上に労働時間を延長せんとするときは時計の針を後戻りせしむることしばしばこれあり、この場合においてもし一工場にて汽笛を以って終業時刻を正当に報ずることをせば、他の工場にある所の工女もまたこれによって終業時刻の己に至れることを知るが故に、臨時各工場主申し合わせの上、汽笛を用いざることあれりという。((農商務省商工局工務課工場調査掛『職工事情』
1903年)、復刻版、岩波書店、1998年、上巻p23)午前九時ヲ期シ「国民奉祝ノ瞬間」ヲ設定シ、式ニ参列セザル者ハ夫夫ノ場所ニ於テ全国一斉ニ宮城遥拝ヲ行フコト、此ノ為同時刻ニハラヂオ、汽笛、サイレン、鐘等ニ依リ周知方法ヲ講ズルコト(『総督府官報』第
3239号、1937年)