2002715日 小熊研究会U

中間報告資料

 

【東北稲作民の創造】  

〜日本稲作民族単一文化の終焉〜

                          

環境情報学部2年 山内 明美

現段階での構成

 序 章 問題意識、問いの設定、明治維新直後の東北稲作状況を踏まえて

 第1章 稲作民族という単一文化観 〜オホミタカノアリカタ〜 

     日本文化一元論と多元論

     食の同化

第2章           東北オリエンタリズム

異人:アイヌを包含した東北

異境:白河以北一山百文

異文化:稲作後進地

第3章           富国への道程

農本主義:「農民は単なる業種、経済主体ではない」

食糧管理法の成立

     満州事変:台湾米、朝鮮米の登場

第4章           稲作民創造 〜日本で一番日本人らしい東北の創造〜

稲作民への同化

米主食観の成立

稲作民族国家の完成

第5章           日本稲作民族観の崩壊

食の多様化

土が病み人が病む〜宮沢賢治の歪〜 

第6章           結論 

  

 ※テーマが大きいため、今後は章毎に区切り、夏、春休み等の長期休暇を利用しつつ

研究を進める予定。毎学期1章づつ取り組む。

 

 

 

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内容のあらまし

問題意識と問いの設定 

 本研究は寒冷地帯である東北が「なぜ米をつくるのか」という素朴な疑問から始まっている。「平成の米騒動」と呼ばれた1993年の稲作大冷害が、この疑問を自身に投げかけた。

日本―東北地方―は稲作に最適な気候条件にあり、日本一の米どころであるという認識が自明のように語られ始めたのは一体いつ頃からなのであろうか。明治維新直後、東北は稲作途上の地域であった。区画された田園風景が、東北の近代化の姿であるのは周知の事実である。それにしても、なぜ「飢饉」という大きなリスクを背負いながら東北は、稗や粟を作ることをやめ、稲作文化の道を選んだのであろうか。東北の稲作はアンダーソンのいう“想像”によって国家と結ばれ、ホブズボームの“創造”によって稲作民になったのではなかったか。そんな問いを論証したい。

 

現段階での作業仮説

 

 「東北は米を作ることで国民の地位を獲得した」

 

〈論証への断片的作業仮説〉

@:東北は米を作れば、豊かになれると信じていた。⇒食管法という特異なシステム。

  A:東北は、日本の内なる他者であった。⇒稲作民への同化。

 B:東北は、古き良き時代の日本ノスタルジーを背負うことになった。

  D:西欧を他者とした自己確立を行うために、東北も稲を作り始めた。

東北     

日本のマイノリティー ⇒ 稲作民へと組み込まれる ⇒    日本のふるさと

畑作農耕民                   日本で一番日本人らしい東北人

                              途上の国民

                              デクノボー

序 章

 柳田が、山人論を放棄し常民論へ移行していったのは、言い換えれば非稲作民或いは非農業民文化論から稲作文化論へ転向したということである。山人が、米を作れないということは遅れたことであり、野蛮なことであった。

 「ある人々を、文明に遅れた非合理な野蛮人とみなすことと、文明に毒されていない神秘的な自然人とみなすことは、一見反対のようでいて、じつは、相手が文明人たる自分た

 

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ちを肯定するための野蛮人であってほしいか、それとも批判するための自然人であってほ

しいかのちがいにすぎないことがある。柳田の山人論が多くの可能性を含んだものであるとしても「名誉ある永遠の征服者の後裔」を名乗りつつ山人に同情を述べ、同時に「地平人を戦慄せしめよ」とマジョリティー批判の期待を語る姿勢は、国内オリエンタリズムともいうべき危うい徴候をも示していた」(1995小熊)※@

 維新期の東北は、いわば山人の様相を呈していた。この時、すでに東北は日本の内なる他者であり、西南の支配者階級から遥か彼方の異境であった。小熊氏の指摘する「国内オリエンタリズム」は、事実存在していたと思う。そして、この国内オリエンタリズムは東北が穀倉地帯に突き進むにつれて屈折してくる。なぜなら、明治期において柳田が見た東北の風景とは異なった風景が、今東北では展開されているからである。“山人の東北”と“常民の東北”

像が見え隠れしている。

 東北は、多分に狩猟採集を基盤としたアイヌ文化を内包している。そして、寒冷な気候であるがため「稲作を拒否した」民族だったのである。それがなぜ、稲作民へと転換を図っていくのであろうか。

「東北地方の稲作は全国の約25%の作付面積で約28%の玄米を生産し、わがくに第一の穀倉地帯となっている。その理由として、夏の冷涼な気候が稲の生育に適していること、すなわち立地条件が優れていることがあげられる。この説明は現在の品種・栽培法等を前提にすれば間違っているとはいえない。しかし、元青森農業試験場の場長であり数々の耐冷性品種の育成に貢献した田中稔は、明治、大正時代には東北の単収が低かった事実を指摘し、東北は稲作に関する立地条件が良いというのはまちがいであると主張した。」※2

 ⇒ 資料1「水稲単収順位」・資料2「冷害の頻度」・資料3「岩手県下の耕作地変化」

   資料4 新渡戸稲造の「東北稲作不適論」※B

          

      @ 『単一民族神話の起源』小熊英二(20022) p210211

     ※ A  『東北の稲研究』東北農業試験場稲作研究100年記念事業会p7

      B  ノンフィクション作家である吉田司は『宮沢賢治と「遊民」芸術』のなかで新渡戸稲造

の『東北稲作不適論』が書かれた背景を以下のように書いている。

「地方ブルジョアたちは、昔から“飢饉(けがち)の風土”と呼ばれた東北の寒冷地・岩手での米作りに限界を感じ、鉱業や工場経営への大転換を夢みてゆく。花巻出身の新渡戸稲造が「東北稲作不適論」を発表し、岩手出身の内大臣・原敬は、渋沢栄一を会長に益田孝、岩崎久弥らの中央財閥を集めて「東北振興会」を設置した。「農業をやめて、鉱業とか林業に転換する必要があれば、政府としてもそれに必要な経済措置をとる」と明言したが、大正10年の原敬暗殺で挫折した。平民宰相とブルジョア連合をして公然と「農業をやめる」といわしめるほど、岩手農村の疲弊の闇は深かったというべきだろう。

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本論

第1章 日本文化一元論と多元論

 本章では、過去の研究にさかのぼって日本民族と稲作の関わりを検証し、その枠から外れた非稲作民の存在が見失われてきた事実について論証する。日本人にとって「米」とは何なのか。それはただ空腹を満たすというものではなかった。「日本の文化社会の多様性―すなわち稲作農耕以外を職業としてきた人々の存在、また米以外のさまざまな穀物を主食としてきた人々が存在しているーにもかかわらず、いかにして日本人の自己の最も重要な隠喩となり得たかを問わずにはすまされないのである。」(1995大貫)※C

 日本の食文化が米一色になるにつれて、雑穀への差別感があらわれてきたことも見逃せない事実である。「昭和2512月、当時の大蔵大臣池田勇人が「所得の多いものは米、少ないものは麦をたべるように」という問題発言を行った。この「貧乏人は麦を食え」発言に多くの国民が怒った。・・・この麦に対する差別意識は、実は、発言した大蔵大臣のみならず、日本人の意識にも根強くひそんでいるものである。それは麦だけでなく、米以外の粟や稗や黍などの雑穀全般に向けられた意識である。」(1995増田)※@

⇒ 資料5「食文化調査資料」

 坪井洋文は、イモ正月という畑作民的農耕文化の存在を指摘し、稲作民的農耕文化の影に隠れていたのはなぜかという問いを発し、古代天皇制国家の支配の在り方を問題とした。

そこにあるのはオホミタカラノアリカタ(稲作を絶対価値とする天皇制国家)とクニブリ(地域を基盤とする人々=国民、民衆=畑作農耕文化を担う人々)の2つの異質な文化であり、その接触と同化の歴史を以下のように論じた。「オホミタカラノアリカタこそが、中央の支配者の側にとって権威を備えた絶対的文化であり、国民が理想として習うべき文化であった。それに対して、クニブリは地域の人々の担う文化で、オホミタカラノアリカタに対して劣位あるいは異質文化で、オホミタカラノアリカタ文化によって教化せしめるべき対象であったということになる」(1979 坪井)※A

 「古代の拡大統一国家の形成期において、国家の主体となる国民に文化の違う多くの集団があることを前提としていたのであり、文化の違いを問題とする限り、日本国家の成立はありえなかったことを示している」(1979 坪井)古代の天皇制において、東北先住民である蝦夷はまさに教化されるべき対象であった。これは、王政復古した明治維新期に再び蘇ってくるのではなかろうか。

 

〈本章に関わる先行研究〉

『コメの人類学』1995年 大貫恵美子

『雑穀の優劣観』1995年 増田昭子

 

※@ 『食の昭和史』桜楓社 所収『雑穀の優劣観』1995 増田昭子p39

※A 『イモと日本人』未来社 1979 坪井洋文 p10

 

 

第2章           東北オリエンタリズム

 前章では、東北が稲作後進地であり、畑作農耕民という文化側面を持っていたという点を論じた。辺境が米を作らないことは、古代国家形成において致命的な痛手となりえた。そのような状況が、王政復古下の明治維新期ではどのような意味で語られてきたのかを検証する。

 さらに、本第2章では東北の異人性・辺境性について論じる。柳田をはじめとし、東北の異人・異境がなぜ明治維新期に強調されたのかを問う。これは、鎖国が終焉を迎え、西欧列強という異人が日本に入り始めたことも要因の一つではないかと考える。自己と他者の問題は、国家の“想像”には欠かせない要因である。内なる他者である東北が、稲作民として国家に組み込まるということが、日本の近代化にどんな意味を付与するのであろうか。

  「まことに驚くべきことだが、そして今日となっては信じ難いほどのことではあるが、私の幼いころの会津には、維新時の「朝敵」なる異様な一語が、なお重苦しく生きていたのであり、会津人が、この歴史的用語とも言うべき「朝敵」意識から、ようやく解放されたのは、じつに戊辰戦争から六十年をへた昭和3年の秋、松平肥後守容保の孫娘勢津子嬢が、秩父宮家に入興されてからといってよく、それほど戊辰戦争の後遺症は、会津藩人の上にながく尾を引いていたのである。」※@ 

東北の異人・異境の復活とも言うべき出来事が、戊辰戦争にたんを発しているのではないかという論証を試みたのが田中秀和である。田中は、戊辰戦争によって、東北が蝦夷地同様の「未開」の地として設定され、「未開」とは「天皇を知らないことであり、天皇に刃向かうこと」だったと論じた。※A ⇒ 資料6 「未開と非未開」

この他、東北の衛生に関する、西南支配階級の差別的な発言は、新聞紙上に多く見受けられる。東北に対するオリエンタリズム、異人観・異境観が、近代の情報化によって大量に流布することとなった。

 

〈本章での先行研究〉

『東北』―つくられた異境 中公新書2001 河西英通

 

     @ 『散華 会津藩の怨念』永岡 慶之助 まえがき

     A 『東北』つくられた異境 河西英通P1011

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 本章では、富国強兵と米増産の道程を論じる。日本は明治期から、米輸出国であり1960年代に至るまで、米増産政策を推し進めてきた。米増産への道程は、西南日本の先進地から東北へと稲作技術が普及していった過程でもある。江戸時代の“分断された生産力”が維新によって解き放たれ、一国の統一した生産力を体現した。食糧管理法の成立が、日本の稲作、とりわけ東北にどのような影響を与えたかを概観する。そして、日本人が今日「日本の米」であると認識しているのが、稲作後進地であった東北で作られている米であるという事実を確認したい。東北で作られた米は、古代国家で作られていたのと同じ味の米ではないのである。それは度重なる品種改良のもとにつくられた、まさに“異人の米”なのである。

 

 

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 本章では、1960年代に米不足が解消され、その後1970年以降米余りによって、減反政策がしかれる過程を概観する。近代化の結果東北地方には、区画された田園が広がり、東北はブランド米を作るほどに米と密接な関係をもつ地域へと変貌を遂げる。高度経済成長下での公害問題や環境汚染は、日本の田舎東北へのノスタルジーを感化させ、東北は稲作民族であるという“想像”が完成したのである。

 

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米一色のモノカルチャーになったことで、連作障害が発生し土が病む。米が作れなくなることで、地方は過疎化に苛まれる。東北の今後の課題も交え、稲作民族観が崩壊への道を辿っている、今日の日本の状況を論じる。

 

6章:結論

 

 

 【今後の課題】

 政府の農業政策と、東北の開発事業について調べる。

 東北の民衆レベルでの稲作観を調べる。

 古い雑誌・新聞等の稲作事情等等

 

 

 

 

【主要参考文献】

 

小熊英二『単一民族神話の起源』(2000 新曜社)

赤坂憲雄『東北学へ』(1998 作品社)

赤坂憲雄『王と天皇』(1988 筑摩書房)

赤坂憲雄『東西/南北考』(2000 岩波書店)

網野善彦『中世の非農業民と天皇』(1984 岩波書店)

坪井洋文『稲を選んだ日本人』(1982 未来社)

坪井洋文『イモと日本人』(1980 未来社)

半谷清寿『将来之東北』(明治39 丸山舎)

岩本由輝他『対話「東北」論』(1984 福武書店)

大貫恵美子『コメの人類学』(1995 岩波書店)

新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第21巻』(2001 教文館)

河西英通『近代日本の地域思想』(1996 窓社)

河西英通『東北―つくられた異境』(2001 中央公論)

佐々木高明『イネと日本人』(1983 小学館)

佐々木高明『稲作以前』(1971 日本放送協会)

栗原百寿『日本農業の基礎構造』(1992 農文協)

東畑精一『日本農業の展開過程』(昭和62 農文協)

山田勝次郎『米と繭の経済構造』(昭和56 農文協)

高橋富雄『東北の歴史と開発』(昭和48 山川出版)

『東北の稲研究』(1996 東北農業試験場稲作研究100年記念事業会)

『宮本常一著作集32・33』(1986 未来社)