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フランツ・ファノン 『黒い皮膚・白い仮面』 コメント

≪ポストコロニアリズムにおけるファノン≫

                       環境情報学部2年 山内 明美

                                          t01980ay

 

ファノンが1952年『黒い皮膚・白い仮面』を出版した当初、ポストコロニアリズムという概念は存在しなかった。アジア各地の植民地独立運動を経て、1978年『オリエンタリズム』をエドワード・サイードが刊行することによってポストコロニアル理論が認知され、ファノンが読み直されたという経緯がある。

 

 ポストコロニアリズムの研究動向は、ヨーロッパの植民地主義の諸制度、とりわけ帝国主義時代の支配が、被支配の地域社会にどのような衝撃を与えたのかを分析したところにあった。なかでも、植民地主義的な言説(世界を文明と野蛮・征服者と現地人、中心と周縁、本物と偽物など)に2分割し、そうした一連の二項対立主義的な対概念を真と偽、聖と俗、善と悪といった超越的2項を頂点とするヒエラルキーのなかに封印する言語システムのなかで構成される主体と、それに反抗、抵抗し対抗する主体の双方を分析することに戦略的力点がおかれた。

 

≪キーワード≫

オリエンタリズム・自己オリエンタリズム・擬態・模倣・主体化・隷属化・アンビバレント・アイデンティフィケーション・ポストコロニアル・フェミニズム・自己植民地化・植民地・ネイティブ

 

≪ホミ・バーバにおけるファノンへの言及≫

 

 ホミ・バーバ:1949年ボンベイ生まれ、「ポストコロニアル批評御三家」と呼ばれる、

(他はサイード、スピヴァク)

 

【ラカンの鏡像関係】――「大文字の他者」(Autre/「小文字の他者」(autre

  乳幼児が鏡の中に見出す視覚的像を、自己像であると認知する直前の段階までの

 鏡像をラカンは「小文字の他者」として規定している。鏡像は乳幼児の身体や表情の動きを反復するがゆえに、「小文字の他者」は乳幼児にとって予測可能な行動しかしないし、そのことが「小文字の他者」を支配しうるという幻想を生み出す。

 これに対して、「大文字の他者」とは言説を中心とした記号的世界としての「象徴界」を総括する「表徴的他者」である。

  (⇒伝統的な考え方では、鏡は自己を映しだすもの、第二の自己を、ほぼ正確な類似物、模倣を、すでに構成された起源としての自己の翻訳されたものを作り出すものとされている。しかしラカンは、鏡の方こそが自己を構築するのだ、まとまった実体としての自己は、実は一貫性のある鏡像の模倣であるのだと考えている。)

 

比喩的に言えば:「大文字の他者」帝国主義の言説を司る中心/「小文字の他者」植民地化された地域の周縁かされた他者

 

 参照⇒コジェーブの「二元論的存在論」。我々は、あらゆる現実界を超越し−超えて

―否定することによって「存在の中で無化する」非自然的な存在をも有しているのである。例えばそれは、「精神は言述によって開示される現実である。ところで言述が生まれるのは、自然と対立する人間においてである。[]人間と自然への現実のこの〈分裂〉から悟性とその言述が生まれ、それらが現実を開示し、そうして現実を精神に変換する」。

(⇒ハイデガー)

この「分裂する」二元性をのちにラカンは「象徴界」と「現実界」の「分裂する」二元性と語ることになる。

 

ラカンは、コジェーブを師としていたわだが、彼から見れば「他者の欲望に中に自らを承認することによって、自己の欲望が充足されること」などできはしない。これは、ヘーゲルの弁証法に対する異議申し立てである。

 同じ門下のバタイユの言葉で、ラカンとバタイユ(ヘーゲル批判)はこの点で同じ考えを持っていた。

 

〈補足〉バタイユにおけるヘーゲル論

 「死を認識することは、策略つまり光景なしには成立しえない」なぜなら「実際、死は何ものも開示しないからである。[]結局人間が自ら自身を開示するためには、人間は死なねばならないだろう。しかし、人間は、生きながら−自らが存在するのを止めるのを眼差しながら−それを行わなければならない」

バタイユが続けて言うには、人間はそれを行うことができるのは、像や光景を経ることによってであり、この像や光景において

「重要なのは、死んでいる何らかの人物にわれわれを同一化し、そして生きながらにして死んでいると信じることである。しかも、それは想像力だけで十分だ」

 

「像」「光景」「眼差し」「同一化」というのはラカンのキーワードでもあり、鏡像関係という意味で照らせば、人間は自ら決して見ることができないような自ら自身を鏡の中に見るという意味で、鏡像は人間に彼自身の現前化できない死を現前化する。

 

バーバはこのようなラカンの鏡像をファノンの中に見出した。

 

[引用]『黒い皮膚・白い仮面』p213214

     「私はニグロを憎みはじめる。しかし、私はニグロであることを確認する。この葛藤を免れるために二つの解決がある。私の皮膚に注意しないように他人に要求するのか、あるいは逆にひとが私の皮膚に気付くことを欲するのか、のいずれかだ。この場合、私は悪しきものに価値を付与しようと試みるわけだ。―― というのは非反省的に私は黒が悪の色であることを容認しているからである。この神経症的な状況 ―― そこにおいて私は不健康な、葛藤を惹き起こす、幻想に養われている。拮抗の原因となる、要するに非人間的な解決を選ばざるを得なくされているのであるが ―― に終止符を打つためにはただひとつの解決策しかない。すなわち他人が私の周囲にでっちあげたこの不条理なドラマを飛び越え、共に受け入れがたい双極を斥け、特殊的人間を通じて普通を目指すことだ。ニグロが沈潜するとき、言い換えれば下降するとき、ある驚くべきことが起こるのである。[]今また私は変態の果てに見出す」

 

 

 

【鏡像関係から擬態と模倣へ】

 バーバはラカンの鏡像関係を、植民者/被植民者との間に現象する関係であるとし、戦略的にアンビバレントな関係として捉えなおした。つまり、植民地の被植民者は、帝国の中心に存在すると想像した支配者の像を延々と擬態しつづけなければならず、しかし、決してその像と同一化することはできない。

こうしたアンビバレンス(相反する力が1つの事象や行為に同時に作用している状態を、あえて見出し続けることによって、確固とした二項対立主義の枠組みを構築した帝国主義的言説をひっくり返し、撹乱することが可能になる。→『ポストコロニアル』pviii

 

 

 

 先のラカンとのかかわりでいえば、「小文字の他者」が周縁化された植民地の被支配者で「大文字の他者」が中心化された植民者であるという2分法が反転する可能性がある、ということに他ならない。もちろん、両者の関係は根源的に、どこまでいっても非対称であるのだが、転位と逆転位のダイナミズムに曝されているという点で、両者は植民地的状況にまきこまれてしまっているということに変わりはない。

 

資料1 引用『ポストコロニアル』p52

 

 西洋人は日本の進歩に驚く、驚くは今まで軽蔑しておった者が生意気なことをしたりするので驚くなり、大部分の者は驚きもせねば知りもせぬなり、真に西洋人をして敬服せしむるには何年後のことやら分からぬなり。

 

「擬態に擬態を重ね、模倣に模倣を重ねても決して「西洋」にはなれない「日本」、いったい「何年」たてば、「日本」は「西洋人」を「敬服せしむる」国になれるのであろうか、という焦燥がはっきりとあらわれている文面である。

 

ex.ペリー黒船の模倣→台湾出兵

 

このように、バーバの議論は植民地的言説を撹乱しながら、編みなおすという楽観的な展望を切り開く方向を示したのだが、こうした既に一定の方法論を構築した言説に対して、正面から批判をしたのがスピヴァクであった。

 

 

≪周蕾におけるファノンへの言及≫

 周蕾:香港生まれ

 79年の国連女性差別撤廃条約をきっかけとする。

 ポストコロニアル・フェミニズムは帝国主義をジェンダーの視点から捉える。周蕾は白人男性によるネイティブ(黒人)への「ポルノグラフィックな眼差し」が有色人種まで内面化され、有色女性は白人、有色男性の間で沈黙を強いられていると語る。

 

 

 

引用 『黒い皮膚白い仮面』p105

「私の皮膚の色は、いかなる場合にも欠陥と感じ取られてはならない。ヨーロッパ人によって押し付けられた裂け目を受け入れる瞬間から、ニグロはもう休息を知らない。そして「それ以来、彼が白人にまで上昇しようと試みるのは理解できないだろうか?皮膚の色階に一種の階層を設け、その上で上昇しようと試みるのは?」

 私たちは、別の別の解決がありうることを見ていこう。それは、世界の再構造化を内に含んでいる。

 

例えば、このような文章に見られる世界の構造化というものは、男

 

 

 

 

 

〈参考文献〉

『黒い皮膚・白い仮面』フランツ・ファノン 2002 みすず書房

『革命の社会学』フランツ・ファノン 1969 みすず書房

『ポストコロニアリズム』姜尚中 編 2001 作品社

『オリエンタリズムの彼方へ』姜尚中 2002 岩波書店

『ディアスポラの知識人』周蕾(レイ・チョウ) 本橋哲也訳 青土社

『ポストコロニアル』小森陽一 2001 岩波書店

『思想』19968「対抗と遡行―フランツ・ファノンの叙述をめぐって−」冨山一郎

『思想』2002.1「「ポストコロニアルとはいつだったのか?」ステュアート・ホール 

『ラカンの思想』ボルク・ヤコブ 1999 法政大学出版局

『ラカンを読む』ジェーン・ギャロップ 2000 岩波書店

『純然たる幸福』ジョルジュ・バタイユ 1994 人文書院