小熊英二研究会1 最終レポート
資本主義の今後を考える
環境情報学部2年 生田目啓 学籍番号:70147155
1.まずは資本主義を考えるうえで欠かせないと思われる、マルクスの思想について考えたいと思います。
マルクスが『ドイツ・イデオロギー』の冒頭で、
「ドイツ観念論はあらゆる他国民のイデオロギーとなんら特別な相違によって区別されるものではない。他国民のイデオロギーもまた、世界を理念によって支配されるものとして、理念や概念を規定的な原理として、特定の思想を哲学者たちが手にしうる物質的世界の秘儀として考察する」(広松渉訳、岩波文庫p15)
と述べているように、当時の哲学界の間では世界や歴史は理念によって動くと考えるほうが優勢でした。しかしマルクスはこの考えに異議を唱えます。
「『歴史を創る』ことができるためには、人間たちが生活できていなければならないという前提である。生活しているからには、何はおいても最低限、飲食、住居、被服、その他若干のものがそこに含まれている。それゆえ、第一の歴史的行為は、これらの欲求を充足させる手段を創出すること、つまり、物質的生活そのものの生産である」(同p51)
つまりそれまでの哲学者たちが人間の理性を(おそらくそれまで有力だったキリスト教に対し人間の理性の優位を説いているにせよ)偏重していたのに対し、マルクスは人間の物質的・生物的な側面を第一に据えます。
しかし原始共産制の時代以降は、人間社会全体に一つの矛盾・不平等が生じてきます。それが分業=私的所有です。
「妻と子供たちが夫の奴隷であるような家族の内に、すでにその萌芽、その最初の形態をもっている。家族内における、もちろんまだ極めて粗野で潜在的な奴隷制、これが最初の私的所有である」(同p65)
「分業に伴って精神的活動と物質的活動−活動と思考、つまり思想なき活動と活動なき思想−享楽と労働、生産と消費とが、別々の個々人に帰属する可能性、いや現実性が与えられるからである」(同p63)
このように家族内の性差から始まる分業体制は社会の隅々までいきわたり現在の資本主義社会を構成しています。ではこのような社会を変えるにはどうしたらよいのか?マルクスはそのためには共産主義社会をつくる運動をしなければならないと述べます。
「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を止揚する現実的な運動だ。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる」(同p71)
マルクスは自分たちが批判した論者と同じように人間の頭のなかで描いた理想の社会を実現させようとするのではなく、あくまで現実の生活・生産している人間の状態から出発して共産主義を実現させる必要があることを説明しています。
2.では現代においては、マルクスが批判した分業=私的所有制を軸とした資本主義社会はどのようになっているのでしょうか?
マルクスの理論を受け継いだ社会科学者にはイマニュエル・ウォーラステインのような優れた論者がいますが、ここでは主に見田宗介の『現代社会の理論』を中心として話を進めていきたいと思います。
見田宗介はまず、現代は豊かな・消費化/情報化社会であると定義します。
「『現代社会』の特質として多くの人によって語られてきた、「ゆたかな」社会、消費化社会、管理化社会、脱産業化社会、情報化社会、などなどという徴標の群れが、人間の歴史の中で、初めて前社会的な規模と深度とをもって実現されたようにみえたのは、1950年代のアメリカである。『現代社会』の古典とも言うべき時代である。(中略)
それから20年くらいの間に、『スイス、西ドイツ、スカンジナビア諸国』だけでなく、西ヨーロッパと日本を含むいくつかの社会が、基本的に同様の局面に入り、同じ世紀の末までに、東アジアの他のいくつかの国々を含む、ほとんどの大陸の内にこの『新しい社会』は飛火し、圏域を拡大している」(見田宗介著『現代社会の理論』p2)
マルクスは分業体制が同じ人間を生産者と消費者という二つのものに分断してしまったと分析していますが、20世紀の後半において、いくつかの恵まれた国々ではこのような分断が行われてはいないことがここで説明されています。
しかしマルクスの生きていた19世紀とは違い、現代は格段に通信や交通が発達しており、そのため他国との貿易量を格段に伸びているので、その国家の内部だけでの20世紀後半の人間が生きている社会の生産様式を考えることは適当ではありません。そこで外国、特に後進国と先進国との現状をを比較してみるとそこには明らかな差、つまり先進国と後進国との経済格差が浮かび上がってきます。
「国連統計では、『1960年には世界の上位20%の富裕層は、下位20%の貧困層の30倍の所得を得ていたが、91年には61倍になっている』」(同p88)
ではなぜ、このような不平等が成り立っているのか?これについての説明はウォーラステインの理論が明確な答えを示しています。
「世界システムは『中核』と『周辺』、あるいはさらにその中間的存在としての『半周辺』からなっている。『中核』は『周辺』との間の壮大な分業体制を利用してシステム全体の経済的余剰の大半を握っている『周辺』は経済的に『中核』に従属させられ、文化的にも『中核』のそれが優位に立っている」(川北稔編『ウォーラステイン』p73)
先進国を中心とする「中核」をマルクスの理論の中の資本家、後進国を中心とする「周辺」をマルクスの理論における労働者と考えるとウォーラステインのマルクスからの影響を見ることができます。マルクスの理論では、資本論の冒頭にも「資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は、一つの『膨大な商品集成』として現象し、個々の商品は、こうして富の原初形態として現象する」とあるように、今までの社会では「商品」とはみなされなかったもの、つまり人や精神的なものまでもが商品とみなされ、貨幣によって交換可能になっています。つまり
「貧困な層の定義として世界銀行などで普通に使われるのは、一日あたりの生活費が一ドルという水準である。(中略)世界銀行はこのほかに、極貧層として、年間所得275ドル(一日あたり75セント)以下というカテゴリーを作った」
という定義づけは貨幣によってあらゆる物を交換すること(=物象化)を肯定するものであり、
「アメリカ原住民のいくつかの社会の中にも、それぞれちがったかたちの、静かで美しく、豊かな日々があった。彼らが住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離され、共同体を解体された時に、彼らは新しく不幸となり、貧困になった。経済学の測定する「所得」の量は、このとき以前よりは多くなっていたはずである。貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が貧困の概念である」(『現代社会の理論』p104)
ではなぜ、先進国(中核)は後進国(周辺)を搾取しようとするまでに膨張しようとするのでしょうか?見田宗介は[大量採取 → 大量生産 → 大量消費 → 大量廃棄]という図式を使って説明しています。つまり、現代の先進国の経済は、例えば今の日本の不景気は日本人が消費を控えているために起こっていると論じられているように、大量生産したものを大量消費することによって現在の豊かな生活を築いているわけですが、大量生産のためには大量採取、つまり大規模な農業や工業を必要とすることになります。そのためには、それまで共同体の内部で自給自足的に生活してきた人々を世界全体の経済分業体制(世界システム)に組み込むことが必要になります。このように世界システムに後進国の人間が組み込まれる(貨幣への疎外)ことにより先進国の人間が後進国の人間を搾取すること(貨幣からの疎外)が発生することになります。
では、これの状態を解決するためにはどうすればよいか?見田宗介はここで情報に着目します。
「情報化は、資源/エネルギー消費的な商品、サービスを直接に代替してしまうこともできる。電子文章化やテレコミュニケーションによる、「ペーパーレス化」、人間や物材の移動を省略する「交通の通信化」などはその典型である。TV会議システムの外部効果についての郵政省の試算を例にとると、1990年代の半ばの技術水準で、一定数の普及を前提すると、出張回数の減少などによる運輸部門の代替をつうじて、Co2排出量を約9分の1に低減することができる。等々」
このように、情報は物質と同じく消費することができるが、情報は原料が不要なために「大量採取」をする必要がないことを述べています。これにより、後進国を搾取して先進国を潤すような物質中心型の消費社会ではなく、情報を中心とした消費社会に現在の社会を変えていけば、現在のような後進国の貧困問題は起こらなくなるだろうと見田宗介は提言しています。
このように、今の社会とは無関係な社会を構想して、それに向けて今の社会を変えようとするのではなく、現在あるものをもとに違う社会に移っていこうとする見田宗介の姿勢はマルクスの考えに近いといえると思います。
参考文献
マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(岩波書店2002)
内田義彦『資本論の世界』(岩波書店1966)
広松渉『今こそマルクスを読み返す』(講談社1990)
I・ウォーラステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波書店1985)
川北稔編『ウォーラステイン』(講談社2001)
見田宗介『現代社会の理論』(岩波書店1996)