2002年度秋学期小熊研究会T最終レポート
カルチュラルスタディーズ
総合政策3年
70009983
横川大輔
この論文においては最近注目を集めているカルチュラルスタディーズの流れを重要な概念にふれながら追い、その後、いくつかの主要な研究テーマについてもふれたい。また最後にはカルチュラルスタディーズから若干離れてしまうかもしれないが、『ハマータウンの野郎ども』でも明らかにされている社会的再生産、階級の問題などについてピエール・ブルデューの考えにふれたい。(私自身の勉強不足で論じるまでにいたらずこれまでの流れを追うので精一杯でした。すいません。)
@カルチュラルスタディーズの源流
カルチュラルスタディーズとは様々な学問を横断するような形で行われている文化に対しての新しい批判的なアプローチであり、芸術などだけでなく、あらゆる日常生活や生活世界の問題を対象としている。そしてある社会的、政治的、文化的問題に具体的な文脈、特定の場において実践的に分析、解釈を行い、問題解決の方向を示すことを行っている。またカルチュラルスタディーズは文化を定義しない。カルチュラルスタディーズにおいては文化の定義ではなく、文化がそれぞれの人が育った環境や受けた教育、時代や社会的地位によって多種多様であるということをどのように受け止めるかということを重視する。そしてここでもうひとつ強調しておきたいのはカルチュラルスタディーズは単なる学際的なアプローチではなく、社会学の下位分野でもなく、学問をするということ自体、既存の知の体制をそのものを考え直していくものである。
(1)現代的文化の発生
イギリスにおいて発達したカルチュラルスタディーズについて考える時にはそれが、エリート主義的な文化の社会から出てきたことに注目する必要がある。マシュー・アーノルドによれば「文化」の定義とは「これまでに語られ、思考されてきた最高のもの」である。アーノルドがこの定義を下した1869年においては「文化」とは今日で言えば高級文化であった。そしてこのころ知識人たちは近代化の過程で庶民が形成しつつあった文化、とりわけ労働者階級の文化を粗野なものと軽蔑し、そして脅威に感じていた。彼らは文化を粗野な大衆から守るべきものとして認識していた。つまり、この時代においては現在の我々がイメージする文化という概念は存在していなかったのだ。アーノルド的文化観はその後第二次世界大戦前後に多大な影響力を持った文芸批評グループ、リーヴィス主義によって受け継がれた。しかしながらこの時代においてはもはや大量生産された大衆文化の影響を免れなかった。この当時ヨーロッパに浸透しつつあったアメリカ文化はマルクス主義的批判理論においては資本主義社会のイデオロギーと共犯関係にあるとみなされていた。その中においてリーヴィス主義者達は産業革命以前のイギリスの文芸作品を文化として称賛した。このリーヴィス主義の功績は高級文化を維持するの啓蒙運動が目的であったにせ大衆教育の必要性を説いたことだ。
(2)リチャード・ボガードとレイモンド・ウィリアムズ
左派リーヴィス主義の影響を受けたともに労働者階級出身のリチャード・ボガードとレイモンド・ウィリアムズがカルチュラルスタディーズの先駆者である。彼らが左派リーヴィス主義者であったことからもわかるようにカルチュラルスタディーズはリーヴィス主義からの断絶ではなく、連続の中で現れてきたことを強調したい。リチャード・ボガードは一方的にリーヴィス主義的な文化を教育するのではなく、学生達が所属している労働者階級の文化を記述する必要性を『読み書き能力の効用』において説いた。しかしながら、ボガードはアメリカ文化が労働者階級文化を、特に若者達を蝕んでいると主張して労働者階級の文化を救い出すことを主張したのにとどまった。ノスタルジーの対象が労働者階級というだけでリーヴィス主義の枠内から出ることはできなかった。しかしながらボガードは労働者階級の中に古くからの階級文化を大切にする姿勢とアメリカ文化を受け入れる姿勢という2つの相反する姿勢を見ていた。ここにボガードは文化のせめぎあいを見出していたのだ。一方レイモンド・ウィリアムズは文化に「文化は、生活のある特定のありかたの記述であり、それは単に芸術や教育だけでなく、制度や日常生活の中にある一定の意味や価値を表現するものである。」という新たな定義を与えた。このときに狭い意味での文化だけでなく、あらゆる日常生活、生活世界を問題とするカルチュラルスタディーズが生まれたといったもよいだろう。
(3)アントニオ・グラムシのヘゲモニー論
ウィリアムズはまた既存のマルクス主義の理論に疑問を感じた。マルクス主義によれば下部構造である経済(生産諸関係、生産様式)が上部構造である政治、文化などを決定する。つまり経済が究極的にはあらゆるものを決定し、文化は副次的なものだと考えられていたのだ。しかしながら、それでは経済的には貧しく、従属的な階級に属している人々はどのようにして生き生きとした文化を生み出してきたのだろうか。ウィリアムズは文化は決して静的なものではなく、プロセスであると考えた。そしてウィリアムズはイタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシのヘゲモニー論を念頭におきながら文化を支配的な力、残余的な力、そして創発的な力の三つに分類した。文化とは支配者の論理だけで生み出されるものではなく、支配からこぼれおちた残余的な力と積極的に文化を創造する自律した創発的な力が絡み合って生み出されると考えた。言い換えれば様々な権力がせめぎあう場所として文化を理解したのだ。
ウィリアムズに影響を与え、今日のカルチュラルスタディーズにおいてもなお多大な影響力を持つグラムシのヘゲモニー論にふれたい。ヘゲモニーとは日常的な権力が作動する様子をあらわす概念である。繰り返しになるが旧来のマルクス主義においては下部構造決定論を使用し、「支配=被支配」というように権力像は直線的かつ一方的なものであると考えられていた。しかしながら、グラムシはこのような権力像を批判した。グラムシは権力が生み出される過程においては矛盾や対立や共犯などの関係が絡み合っていることを指摘した。つまり、グラムシによれば支配者が被支配者に対して一方的に強制を行うのではなく、被支配者の側の民衆からも心情的な支持、共犯的な利害関心といった下から上への力学も作用している場合がある。特に近代においてはナショナリズム形成の際の権力にもこのようなへゲモニックな想像力が作動していると考えられる。
ウィリアムズはこのグラムシのヘゲモニー論をとりいえることによって従属的階級に属する人々が生き生きとした文化を生み出して表現しているか見ることができると考えたのだ。
最後にもう一人カルチュラルスタディーズに影響を与えた人物としてエドワード・トムソンをあげたい。彼はイギリスの歴史学者である。トムソンは労働者階級の研究において、労働者が立ち上がるのは必ずしも経済的な要因ではなく、労働者が立ち上がるのは自律した文化空間が侵されたと感じたときに立ち上がるということを見出し、モラル・エコノミーという概念を生み出した。モラル・エコノミーとは文化の秩序ということである。
Aメディア研究
メディア研究はカルチュラルスタディーズの主要な研究テーマのひとつである。実際、カルチュラルスタディーズの親玉的存在のスチュアート・ホールは当初はメディア論で注目を浴びた人物である。ここではホールの概念にふれつつカルチュラルスタディーズのメディア研究の流れを見ていきたい。
(1)エンコーディーング/デコーディング
これはホールの理論であり、それぞれ「コード化」、「脱コード化」と日本語に訳されている。コード化とは発話者が送りたいメッセージを加工することである。例えばテレビのニュース番組を考えてみたい。ある事件がおきたとするとスタッフは現場で取材をし、映像を撮り、場合によっては専門家に話を聞きに行ったりする。しかし、それだけではニュースにならない。恐怖を与えるような殺人事件の場合、それを恐怖を助長するようなBGMが流され、切迫した様子のナレーションやテロップが付け加えられてニュースになるのだ。これらは当たり前の作業のように感じられるがこのようなコード化なしにニュース番組は成り立たないのだ。例えば、殺人事件の報道において優雅なクラシックを流してしまえばそれはコメディーに堕落してしまう。つまり、素材はそれだけでは意味を持たず、編集されることによって初めてある構造に組み込まれてニュースとして成立する。ホールはこのコード化の過程においては三つの条件が必要だと述べている。
@知識の枠組 A生産関係 B技術的なインフラストラクチャー
知識の枠組みとは例えばコマーシャルである。我々は番組の途中にコマーシャルがはいっても対応できる。しかしながら我々にコマーシャルという概念がなければ我々は突然意味不明の映像を見ることによって混乱してしまうだろう。二つ目の生産関係とはメディアもあくまで資本に組み込まれた労働の生産物であるということだ。いいかえれば商品の生産過程であるともいえるだろう。三つ目は文字通りである。
ホールは脱コード化をコード化から相対的に自律したものとして考えている。そしてまた、脱コード化においてもホールは三つの読み方があると考えている。
@支配的読み A対抗的読み B交渉的読み
支配的読みとは支配的なイデオロギーにそって受話者がメッセージを受け取ることである。対抗的読みとは逆にことごとく支配的イデオロギーと逆の読み方をすることである。交渉的読みとは前の二つの読みの中間に位置するものであるが、それは同時に様々な意味がせめぎあい、意味を奪い合う場所である。
このようにメディアとは単に発話者と受話者をつなぐ透明なパイプではなく、円コーディング/デコーディングを通して意味がせめぎあう場所である。カルチュラルスタディーズにおいては作品、作者よりもこのようなオーディエンスによる意味の生成過程に注目する。つまり、作品そのものだけで意味が生成されるのではなく、受け手に伝わる過程によって意味が生成されると考えるのだ。(記号論の影響)そしてそのメッセージはせめぎあいを通じて多様な読み方をされると考える。
(2)アルチュセールのイデオロギー装置論と重層的決定
上のようなホールの視座の背景にはフランスの哲学者ルイ・アルチュセールのイデオロギー装置論の影響がある。アルチュセールはいかなる社会構成体も社会的再生産(生産諸力、生産諸関係)の再生産が必要であり、それを可能にしている権力装置をグラムシのヘゲモニー論を念頭におきつつ二つに分けた。
@国家装置・・・軍隊、警察、監獄、裁判所など
A国家のイデオロギー装置・・・学校、家族、教会など
国家装置とは国家がその権力を暴力という形で行使することで支配するものである。それに対して国家のイデオロギー装置とは国家から比較的自律した領域でイデオロギーを行使することによって支配を強化し再生産を可能にしている。この考え方の根本には「意識が生活をきていするのではなく、生活が意識を規定する。」という視点がある。そしてアルチュセールは国家のイデオロギー装置が必ずしも下部構造である経済によって一元的に決定されるとは限らず反対に重層的決定においてイデオロギーが経済基盤を決定していく過程にも着目している。
その重層的決定とはなんだろうか。重層的決定とは旧来のマルクス主義の下部構造決定論的考え方ではなく、社会全体を様々な諸審級が絡み合う構造として考えるものである。審級とはもともとは裁判の段階を示す言葉である。この場合、諸進級とは経済、政治、文化、イデオロギーなどである。アルチュセールによれば諸審級は相対的に自律している。それゆえ、様々な進級において重層的決定がなされ、時には矛盾や不平等発展があらわれるのだ。(しかしながらアルチュセールは最終審級においては経済が決定すると主張しており、このことに関しては批判も多い。)このようなアルチュセールの考えの延長戦上にホールがいるのだ。
B人種・エス二シティ
(1)エスニシティとは
「人種」と言う時にはそこには肌の色や「日本人は勤勉である。」、「黒人はダンスがうまい。」といったように本質主義的な概念がいまだに残っている。いいかえれば、実際には黒人と言っても多種多様であり一概に定義できないのにも関わらず、固定化されたアイデンティティを与えることといえる。それゆえ、ホールはエスニシティというあらたな概念へと移行させる。つまり、アイデンティティとは本質的なものではなく、歴史的、文化的、政治的に構築されたものであるならば、エスニシティという概念によって指し示すべきだというのだ。
(2)ポストコロニアル論の流れ
ここではエスニシティ研究という点でカルチュラルスタディーズとポストコロニアル論に共有されている認識を追っていきたい。まず最初になんといってもエドワード・サイードの業績を抜きには語れない。サイードはその著書『オリエンタリズム』において東洋について書かれた西洋によるオリエント研究の膨大なテキストを元に、「西洋」が理性/文明となるために野蛮/文化として「東洋」を発見し、表象する知の体系を問題にした。そしてまたその知の体系が学問世界に言説として存在し、現実の政治と共犯関係を持っていることを論じた。そしてまたサイードはその著書『文化と帝国主義』においてはカリブ海世界や西洋で暮らす他者の文化実践を広く考察した。ここで提示された問題を「認識論の暴力」と言ったのはガヤトリ・スピバックである。認識論の暴力とはまなざしの連続性である。それはつまり、いかなる場合においても「黒人」という痕跡を発見することである。例えば、アカデミー賞において初めて黒人としてデンゼル・ワシントンとハル・ベリーが主演賞を受賞したが、表象されたことはまさに「黒人」ということであり、その他のことはひとまずおいておかれるのだ。そこにおいては黒人とはなにかと問われることはなく、単純化され単一のカテゴリーに分類される。例えば、上に書いたハル・ベリーという女優は白人と黒人の混血である。彼女は黒人なのだろうか。これは知の体系の暴力である。
フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』によれば黒人はある日突然「命名」される。ファノンはパリの街角において突然命名され、己の一切の差異を否定され、一方的に黒人というカテゴリーに入れられる。ファノンのこの経験は黒人とは白人によって一方的に命名され、構築されることをも示している。しかし、こうした命名にたいして
“Black is beautiful”といった対抗的アイデンティティを構築しようとするとますますカテゴリー化されてしまう。そのような問題意識からホールのいうニュー。エスにシティーズの概念が出てきたのである。
(3)アイデンティティ
ポール・ギルロイはアイデンティティの不安定さに注目し、レゲエがジャマイカに存在したリズムにブルースやテクノロジーの変革といった要素が加わってできた混血的な音楽であることを明らかにした。ギルロイは動揺に黒人固有の音楽とされてきたヒップホップも起源に先行して混血的な音楽であることを明らかにした。ギルロイはこのような中、「ディアスポラ・アイデンティティ」という概念を提示する。ディアスポラ・アイデンティティとは起源(roots)に向かう直線的アイデンティティの関係性よりも
経路(routes)という移動のプロセスや、それによって生成された媒介的なものに会いデンティティを見出す方法論である。いいかえれば、それは過去と未来という時間を、そして複数の場所をつなぐネットワーク的アイデンティティといえる。ホールも会いデンティティとは既に達成された完成品ではなく、不断の生成過程にある「生産物」として考えている。
Cブルデューにおける再生産と階級論
ここではカルチュラルスタディーズにも影響を与えているブルデューについて述べたい。実際『ハマータウンの野郎ども』でもウィリスがブルデューを引用している。ブルデュー社会学において一貫している方法論は関係主義的思考様式である。
(1)ハビトゥス概念について
ブルデューは独特のこの概念を考える際に主観主義と客観主義のどちらにも陥らずに行為の理論をうちたてることを目的とした。ブルデューは「実践」を重視する。そして「実践」とは「諸構造とハビトゥスの弁証法の場である。」という。「構造」が行為主体から独立した客観的なものであるのに対して、「ハビトゥス」は行為主体に内面に身体化されたものである。そしてハビトゥスとは社会において実践主体が占める「位置」、すなわち「階級」において生産される。
「ハビトゥスとは持続性を持ち変換可能な人的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の算出・組織の原理として機能する事前に傾向化された構造化された構造である。」
つまり、ハビトゥスとは心的傾向のシステムであり、その働きは実践と表象を生み出すというのだ。例えば、ワインの飲み方、フォークの使い方といったものがあげられるだろう。またブルデューはハビトゥスによって行為体は客観的可能性と主観的願望との相関関係が成立し、出来る可能性のあることしかしなくなるのがハビトゥスとなっていくと主張する。言い換えれば可能性の薄い実践は最初からできないものとして排除しているというのだ。そしてまたハビトゥスは階級の中でもとりわけ家族において生成される。家族において両性の分業形態、物のありさま、消費の形態、礼儀などの表れを通じてハビトゥスは生産され、あらゆる経験の知覚と評価の原理となる。
(2)再生産
ここでいう再生産とは諸関係の再生産であり、集団間、階級間における力関係の再生産である。ブルデューは教師と生徒の間のコミュニケーションの不在を例にだして述べている。教師と学生の間では「誤認」が存在しないことになっているというのだ。これは教師が生徒の不理解を黙認し、生徒はどっちつかずの姿勢で身を守るという共犯関係が成立しているからだというのだ。もっと言えば、お互いに利益を得ているから手を引くことが難しいというのだ。ブルデューによればこうした「共犯関係」が悪しき制度、構造を維持させ、再生産を可能にしている。
(3)支配の論理
ブルデューは人間のあらゆる行動は物的、象徴的な利潤の極大化を目指すものに他ならない。ブルでューは「物的支配」と「象徴的支配」を普遍的な支配様式として認識し、どちらの支配様式が選択されるかは支配者と被支配者の力関係に依存すると述べている。ブルデューは現実の世界において女性、土地、名誉などといった多様な資本を見出し、経済、非経済という二項対立の無意味さを主張する。またブルデューは象徴資本の特殊な性格について述べている。象徴資本を生産するのは人間の精神的活動である。そして、この象徴資本とは社会関係によって生産された資本であり、誤認と承認という人間の認識の産物であり、主観の生み出す客観性であり、社会的現実の一部を構成しているという。そしてまたブルデューは文化資本が機能するためには学校制度が必要不可欠であることを述べている。これら象徴資本は象徴的暴力を卓越化という機能に変えてしまう。またブルデューによれば今日の社会は教育制度や法制度と言った客観的、制度的メカニズムに媒介されているため、支配関係が個々人に自覚されにくい。この制度的客観性によって資本の分配構造の再生産、支配・服従関係の再生産も可能にしているというのだ。
(4)階級論
今日世界においては、またとりわけ日本においては階級格差があいまいであり、その境界も不明確になりつつある。このような状況においては一見すると階級の死について語るほうがたやすく感じられるが、そんな中ブルデューは「階級が存在しているか否かについて、あるいは最良の階級の分類方法についての意見の一致が成立しないこと自体がまさに階級が存在している証拠だ。」と主張している。
ブルデュー社会学の特徴は関係論的思考様式であり、それは階級論においても変わらない.ブルデューによれば階級のハビトゥスは構造における地位と客観的な状況の両者の統一性によって説明しうるものであり、どちらに強く比重がおかれるかの程度問題はその階級の社会的構造における地位によるというのだ。ブルデューはまた時間の問題も重視する。つまり、ある階級が上昇局面、下降局面のどちらかにあるのかという側面にも注意を払っている。これらが共通している場合においてのみ同じ属性を保持しているとブルデューはいう。またブルデューは階級格差の問題も指摘している。そもそも自他をどの階級に属するかを決めるやり方そのものが階級によって異なるというのだ。下層階級は特にお金によって、中産階級はお金と道徳によって、上流階級は出自と生活スタイルによって階級帰属を決定する。つまり、階級帰属を決める指標自体が「階級闘争」の対象でなのである。そしてまた「卓越化」のゲームに参加できるのは一握りの特権階級であり、経済的に恵まれないもの卓越化のゲームに参加できない。このようにブルデューは依然として、物質的、象徴的な階級格差が存在していると述べている。
参考文献
グレアム・ターナー『カルチュラルスタディーズ入門』作品社
吉見俊哉編 『カルチュラルスタディーズ』講談社選書メチエ
吉見俊哉 『カルチュラルスタディーズ』岩波書店
上野俊哉/毛利嘉孝 『カルチュラルスタディーズ入門』ちくま新書
上野俊哉/毛利嘉孝 『実践カルチュラルスタディーズ』ちくま新書
ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫
AERAMook 『社会学がわかる』朝日新聞社
情況出版編集部『ブルデューを読む』情況出版
安田尚 『ブルデュー社会学を読む』青木書店
今村仁司『現代思想の冒険者たち22巻 アルチュセール』講談社
ヴィジョンと社会システムレジュメ『文化研究(カルチュラルスタディーズ)』