小熊研究会T最終レポート

社会史・家族史研究はエリザベート・バダンテールにどのような影響を与えたか

〜フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』を中心に〜

総合政策学部二年 渡辺朋昭 学籍番号:70230217 ログイン:s02521tw

 

(1)要旨

本稿の主旨は次の通りである。『母性という神話』は随所でアリエスに言及している。家族史をはじめ、本書が社会史研究に与えた衝撃は大きかったが、それはバダンテールの研究においても全く例外ではなかった。本稿においては『<子供>の誕生』のおおまかな内容理解と、いかなる点がバダンテールに影響を与えたのか検討することを目的とする。

 

(2)『<子供>の誕生』の主題

まずフィリップ・アリエス『<子供>の誕生』の主題について述べることから始めたい。本書はそのタイトル通り、主に子供について書かれている。そこでは、中世には存在しなかった子供という意識が、近代化の進行する中で一体どのように発生したのかということについて述べられている。しかし、本書を理解するにあたって、より注意すべきは、子供意識は家族意識とほぼ同時発生するのだということである。本書の中でアリエスは次のように述べている。

十六世紀から十七世紀にかけて、こうして迸り出る家族意識は子供の意識と不可分である。私たちがこの本の最初に分析した子供期に向けられた。関心は、このさらに普遍的な意識である家族意識の一つの形態、一つの個別の表現に過ぎない。(『<子供>の誕生』330頁)

要するに、子供意識も家族意識も片方だけ単一にそれだけで存在するのではなく、両方がペアになって存在する意識なのだ。この二つの意識がどのように発生したのか明らかにするのが本書の主題である。

 

(3)アリエスについて

 ここで著者フィリップ・アリエスについて少し述べたい。「新しい歴史学」の一員であるアリエスは、人びとの意識のあり方に焦点をあわせるマンタリテの歴史学の流れを代表する歴史学者の一人とされている。アリエスはずっと大学には籍を置かなかった。しかし、『<子供>の誕生』と『死を前にした人間』が世間で認められることによって大学にポストを得ることになる。彼は歴史雑誌『アナール』に結集する歴史学者たちの拠点となっている社会科学高等研究所の研究主任として迎えられることになる。なお、『<子供>の誕生』は先にアメリカで注目され、フランスに逆輸入されて入ってくるという形になる。

 

(4)研究手法について

次にアリエスの調査手法について述べたい。フランスの「アナール派」の特徴は人間の心性に注目するという点である。心性とは、いわゆる意識、ものの考え方、感じ方、世界観のことを指す。アリエスに限ってその調査手法の特徴を述べれば、「4世紀にわたる図像記述や墓碑銘、日誌、書簡などの豊かな駆使によって、遊戯や服装の変遷、カリキュラムの発達の姿を描き出し、日常世界を支配している深い感情、mantaliteを叙述」(N.Y.Review of Books)した。アナール派ついては後ほど改めて論じたい。

 

(5)「<子供>の誕生」

(5−1)子供期の二つのまなざし〜「小さな大人」から<子供>へ

中世と近代とでは子供へ向けられるまなざしが明らかに変化するが、ここではその変遷を具体的に追っていくことにする。

中世の社会では「子供」期という概念は存在していなかった。これは子供が無視され、見捨てられ、あるいは軽蔑されていたのではなく、子供と大人を分けて考えるということがなされていなかったということを意味している。現代であれば、子供はその特殊性に注目して、大人とは異なる子供特有の服や遊びがある。しかし中世の社会では「子供」という概念が存在していなかったために、子供特有の何かというものも存在しなかったのである。

その理由を考える上で重要なことの一つは、中世において乳幼児死亡率が非常に高かったことである。まずは資料を参照されたい。

小さな子供は死去する可能性があるゆえに数のうちには入っていなかったのである。「私はまだ乳呑み児であった子供を二、三人亡くした。痛恨の思いがなかったわけではないが、不満は感じなかった」と、モンテーニュは述懐している。子供はその生存の可能性が不確実な、この死亡率の高い時期を通過するとすぐに、大人と一緒にされていたのだった。(123頁)

中世では子供はどんどん生まれ、どんどん死んでいた。したがって、死んで当たり前とまではいかなくとも、子供が死んで親が悲しむということはむしろ異例であるとされていた。このように小さな子供は死ぬ可能性が高いために、人間の範疇には入っていなかったのである。それゆえ家族の一員とも考えられない。そして、子供は生存可能性の不確実な時期(七歳くらい)を越えると大人の一員とされ、「小さな大人」となる。「小さな大人」となった「子供」は徒弟や家庭奉公として他人の家に送り出されることになる。

 子供と大人が未分離であったことを理解するために、ここでいくつか例をあげたい。一つ目は服装についてである。私たちの子供の頃を思い出してみても分かるように、いわゆる「子供らしい」服装というものが存在する。男子なら半ズボン、女子ならスカートといったところだろうか。しかし、中世の社会では子供と大人の服装は一緒であり、分化していない。幼児は産衣を外されると、自分の属する身分の他の男性や女性と同じ服を着せられていた。この慣習はおよそ十七世紀まで続くことになる。

 次は遊びについてである。現代であったら境界がそれほど明確になっているわけではないにしても、確かに「子供らしい」遊びは存在する。ママゴトや人形遊び、鬼ごっこ等は「子供らしい」遊びの範疇に入るが、麻雀はまずそちらに分類されることはない。また家族以外の大人と子供が一緒に遊ぶことはあまり多く見られない。ところが中世の社会では、ある程度年長になると(五歳くらいから)時には子供たち同士で、時には大人と一緒に、大人と同じ遊びをするのである。このように、遊びにおいても子供と大人は分離していなかったのである。

 具体例の最後は「性」についてである。現在では大人が子供に対して淫らな猥談をもちかけることは、一般的には倫理的および道徳的に悪とされる。しかしながら中世の社会では、そのような道徳的気風は存在していなかった。当時は子供を大人の猥談に引きずり込むことはむしろ普通であった。子供を前にしても性的な冗談は頻繁になされ、周りもそれを自然であるとみなしていた。以上の三点を具体例として紹介したが、これらは大人と子供は未分離であったということを理解する上で有効であろう。

 しかし上で説明したような中世の社会状況は、近代になると一変する。それは「子供」という枠組みが出来上がるからに他ならない。しだいに人びとの心の中に「子供」という意識が生まれてくるのである。ここで大人と子供を分離させる新たな意識が発生する。今まで未分離だった子供と大人が分離してしまうことで、大人とは異なる子供の特殊性が注目されることになるのである。この特殊性への注目は、子供への新たなまなざしを生むことになる。それは次の二つである。

 一点目は子供に対する愛らしさからくる可愛がりのまなざしである。これは現在私たちが子供を見て愛らしいと思う感覚と同じであると考えて差し支えない。この感情は当然のこと、家族環境の中や、幼児たちを相手にする際に現れてくる。

 もう一方のまなざしは、家庭内部から源を発するものではない。文明的で理性的な装束を待ち望む聖職者やモラリストより発せられるものである。モラリストたちは「自分たちの気晴らしのため」だけに子供を可愛がるだけの大人たちを非難する。彼らは、大人と違って子供は未熟な存在であると考え、理性的である人間に、よきキリスト教徒に育て上げるべきだと主張した。要するに、子供というのは理性的でないから、理性を持った人間に育て上げることが必要だとモラリストたちは論じているわけである。

 一八世紀になると、以上の二つのまなざしは結びついて家庭の中でみとめられることになる。こうして、保護され、愛され、教育される対象としての「子供」が誕生する。

 しかし、ここで一つの大きな疑問が発生する。それは、なぜ中世の社会では子供期は存在しなかったのかということである。逆に言えば、中世では子供と大人は未分離であったのに、なぜ近代になると「子供」という新たなカテゴリーが発生したのだろうか。この疑問を解く鍵は、「近代家族」に隠されている。これから説明するように、中世の人びとの家族意識と子供意識は同時発生的であり、切り離して考えることはできない。したがって、家族意識を持つ近代家族がどのような経緯で形成されたのかを追うことによって、子供意識がなぜ、どのように生まれたのかも理解することができるのである。

(5−2)「近代家族」の発生

@     教育の担い手 

はじめに中世および近代における教育の担い手の比較をしてみたい。まず中世の社会では、教育機能を持っていたのは家庭や学校ではなく、徒弟修業や家庭奉公であった。十五世紀までの中世ヨーロッパでは、子供が七歳になると徒弟や家庭奉公として他人の家に送り込まれ、一方であかの他人の子供たちを自分のところで受け入れるのが一般的な習慣だった。上で述べたように、子供たちはここで「小さな大人」になって大人たちの世界に入っていくことになる。そして「小さな大人」たちはそこで見習修行生活を通して知識と実務経験を積むことになる。教育はすべて見習修行によってなされていた。こうした見習によって、ある世代から次の世代へ直接に伝授がなされていた時代には、学校の占める余地は存在し得なかった。実際、聖職の見習者やラテン語の学習者のみを対象としていた学校、すなわちラテン語学校は、ごく特殊な人びとを対象とする孤立的な例に過ぎない。大部分に共通する慣例は見習修行だったのである。このように、ある世代から次の世代への伝授は、子供たちが大人の生活に参加することで保証されていたのである。上述の子供と大人が混じって生活していることが、ここで理解できるだろう。つまり、このような習慣を持つ社会では子供と大人の分離がなされていないのである。

 ただしここで注意しなければならないことは、中世の慣習では自分の子供を他人の家に送り出してしまうということである。自分の子供たちを自分の手元には置かないのである。実際、徒弟や家庭奉公にだされた子供は、大人になって生まれた家に戻ることがあったとしても、必ずしも全員が全員そうだったわけではない。したがって、この時代の家族は、親子の間で深い愛情を培うことができなかったとアリエスは述べている。

 しかし、十五世紀を起点とした近代化の過程の中で、以前は例外であったはずの学校に通う子供の数が増加していくことになる。当然学校が普及するのは経済的に余裕のあるブルジョワジーといった新興の中産階級からになる。中産階級から徐々に学校へ行く人びとの範囲は拡大されていくことになった。この流れの中で教育の担い手は、それまでの徒弟修業から学校へと移っていくことになる。教育はしだいに学校でなされていくことになる。近代的な学校では、生徒と教師という構図が生まれる。これは言い換えると、大人と子供の分離がなされたと言える。そして学校では、大人である教師が子供である生徒に対して知識・教養はもちろん、社会的道徳なども教えられる。こうして学校は子供から大人への過渡期の社会的な手ほどきの通常手段となるのである。

 学校に通うようになると、徒弟や家庭奉公とは異なり子供たちを他人の家に手放すことがなくなる。学校が見習奉公に置き換わっていくことで、かつて分離されていた家族と子供たちが接近することになる。こうして親子間の感情的な交流が深まることになる。すると家族は子供にまなざしを集めるようになる。このように学校へ教育機能が移ったことは、家族意識と子供期を接近させることになるのである。

A     家族構成と地域の社交形態

 しかし、学校教育が普及したことで子供たちが家庭に戻ってきただけでは「近代家族」が成立するのに十分ではない。なぜなら地域共同体において、旧来の社交の形態が全面的に存続しているからである。これは、中世の家族が共同体に対して開けているということである。中世の共同体においては、職業生活、私生活、社交ないし社会生活の間に区別が存在しなかった。家族は生産組織であると同時に、友人や取引相手との重要な社交場でもあったのだ。夜中まで友人が家を訪問しているといった事態が頻繁に見られていた。また、血縁関係にないものも住んでいる人数の多い大所帯であり、上で触れた徒弟や家庭奉公も同居していた。とりわけ、富裕な家では奉公人や使用人、書生、事務員、商店の小僧、徒弟、友人等々も同居していた。こられを踏まえると、中世社会には家族のプライバシーという発想は存在しなかったと言える。社会的に密であったために、家族の占める場所が存在しなかったからだ。以上のように、家族は共同体で独立して存在していたのではなく、あくまで地域の一部であったのである。

 しかしながら、その地域の社交性も近代化の中で徐々に失われていくことになり、家族は共同体に対し閉じた存在になる。一八世紀以後、家族は社会とのあいだに距離をおき始め、社会をそこから押し出すようになる。人びとは、社会生活、職業生活、私生活をそれぞれ分離させるようになるのである。発端はやはりここでも新興の中産階級であるブルジョワであった。彼らは、道徳としてプライバシーの厳守と尊重の義務付けを主張した。それに加えて、自分たちの家から奉公人や顧客、友人たちを遠ざけた。そして、親子だけの私的空間において家族は私生活をおくるようになったのである。こうして家族は友人、顧客、奉公人たちに絶えず介入され世間に開かれていた十七世紀以前の家族ではもはやなくなり、「近代家族」となったのである。近代家族は血縁関係にある者だけから構成され、情緒的結びつきを持つ。これは中世の家族と比較すると大きな相違点である。

 以上のような経緯で形成された近代家族は、「子供」は以前に比べてはるかに重要な登場人物となった。そして親の関心が子供へと向かうようになる。ここまでで、なぜ近代になって子供意識が生まれたのかということについて理解できる。そして家族意識と子供意識はペアであり、同時発生的であるのかについても理解できる。すなわち、近代家族が誕生した結果として子供に関心が向くようになったのであって、あくまで同時発生なのである。

 しかし、最後に一つ補足しておかねばならない点がある。それは、近代家族というものはブルジョワジーから普及した形態であるということだ。中世的家族が近代家族へと変化していくといっても、それは長い間、貴族やブルジョワ、富裕な職人、富裕な勤労者に限られていたのである。それ以外の階層では、慣習として徒弟修業は根強く残ったのであり、実用的な教養を教えない学校は嫌われる存在であった。十九世紀においてもなお、人口の大部分を占める最も貧しく最も人数の多い層は、中世的な家族のあり方、暮らしようを保持していたのであり、子供たちは親元にとどまることはなかった。しかし時が経つに連れ、近代家族は貴族階級やブルジョワに起源を持つことも忘れ去られてしまうほどに、社会のほぼ全体に拡大したのである。

 

(6)バダンテールへの影響

 これまで見てきたように、家族意識の出現するのは十六世紀から17世紀以降である。それはとりもなおさず、近代家族とは歴史的にみると普遍的ではないということを意味する。つまり家族形態は唯一普遍なモデルが存在するのではなく、変化するものであると言える。これに関連して落合恵美子は次のように述べる。

「近代家族」という概念を社会史が打ち出したことの一番の功績は、わたしたちが「これが当たり前の家族だ」と思っている家族は、けっして当たり前なわけではなかったと、目を開かせてくれたことではないでしょうか。(『21世紀家族へ』107頁)

このような社会史や家族史の「歴史化」という試みにバダンテールは影響を受けたのではないだろうか。要するに「歴史化」という発想が母性愛は普遍的な本能ではなく、歴史的産物に過ぎないのではないかという問題意識につながったのではいか。バダンテールは研究の結果、中世には母性愛が見られない場合が多いと論じ、母性愛は決して普遍ではないという結論付けをしたのである。

 

(7)アリエスへの批判

 ここまで、『<子供>の誕生』の概要と、それのバダンテールへの影響について考察してきたわけだが、アリエスの研究に対しては批判もあった。『<子供>の誕生』では、家族についての近代的感情、すなわち親子の情緒的結びつきは、ブルジョワ階級および貴族階級から発生して、十九世紀末になるとプロレタリアートを含むあらゆる社会階級に同心円状に拡大したと論じられている。したがって、中世と近代の家族形態の差異については説明されている。しかしながら、中産階級から生じたモデルばかり論じられる一方で、同時代のそれ以外の階層についてはほとんど論じられることはない。つまり一つの時代における内部の差異は明らかにされていない。この点がアリエスの弱点であるとエドワード・ショーターは述べる。と同時に、ショーターはまさにここを問題意識として研究した。ショーターは次のように述べる。

アリエスの研究は上級ブルジョワジーや貴族階級のものだが、私の関心は一般庶民にある。本書の狙いは、アリエスの古典的分析に一つの修正を加えることである。(『近代家族の形成』)

このように、ショーターはあくまで一般庶民の心性に力点をおいた。そこでは、資料として主にフランスの都市や農村の医師や行政官の記録等を使用するという方法論を用いた。

 また、ジャック・ドンズロは『家族に介入する社会』でアリエスが無視した国家という視点を持ち出した。そこでは国家の政策が家族に与えた影響を指摘している。

 以上のように、アリエスに対してはいくつか批判がなされている。しかしながら、『<子供>の誕生』は家族史および社会史の古典となっており、その影響力を無視することはできない。事実ここ最近の文献を読んでいると、ほとんどの文献でアリエスについて言及されている。バダンテール『母性という神話』もそれは例外ではない。そのように考えると、批判するにせよ、そうでないにせよ、『<子供>の誕生』は近代家族論を考える上で決して外すことはできない文献であるということはまず間違いないだろう。

 

(8)アナール派の特徴と研究背景について

 先にアナール派について少し説明したが、補足として最後にそれについてより詳しく論じたい。アナール派の研究領域は様々だが、政治史とか事件史ではなく、もっと末端の庶民に注目した点がその特徴である。また中世史が多いことも特徴として見て取れる。

必ずしもアナール派全般に共通するのではないのだが、国家を単位にした歴史ではなく、それにとらわれない歴史を書いていったことも大きな特徴である。ル・ロワ・ラデュリ『モンタイユ村』では一つの村に限って非常に狭い地域のみ研究されている。その一方で、地中海世界という形でフランスとイタリアをまたいだ地域を研究した。

さらには統計を重視した。アナール派はそれほど理屈をこねるのが好きではなく、統計を重視した。特に人口統計に根拠を求めた。『地中海』では表面的な事件ではなくて、気候に注目した。以上のようなアナール派の特徴はアリエスやショーターにもある程度共通するものであった(ショーターはカナダ人だが)。以上のような特徴があるわけであるが、なぜこのような研究がなされたのだろうか。

 それはそれまでの歴史学に流れに対抗するためだった。一つはマルクス主義歴史学への対抗である。マルクス主義的歴史学では、基本的なマルクス主義的発想である「下部構造が上部構造を規定する」という考え方をとる。マルクス主義においては必然的に経済史に重きが置かれることになる。それに対し、アナール派はメンタリティの変化を追及し、政治や経済、革命や事件によらないものから人間の意識の変化を追う。そのような意味でマルクス主義とは距離を置くようになるのである。

もう一つは、通常の歴史学、すなわち国の中央の政治史を中心に書いていくということに対するアンチである。それに対抗するために、「民衆のマンタリテを知らなければならない」としてアナール派はあくまで地方の無名人に注目して歴史を書いた。

 また、フランスでは近代の歴史を「輝かしいもの」として正当化するため長い間重視されてきた。そのため十九世紀、二〇世紀の歴史研究は近代史に傾きがちだった。そのような流れにアナール派は対抗したために、アナール派は中世史にこだわったのである。以上がアナール派の研究の背景である。

以上のような特徴を持つアナール派は、1960年から70年代以降評価されるようになる。それにはいくつかの要因がある。一つ目は、近代社会の相対化という観点から注目を集めたからである。アリエスの本はフランスよりもアメリカで先に評価されたが、それは自然環境破壊やヒッピーカルチャーの流れの中で、近代社会批判する動きと結びついたからである。日本においては80年代にそれ以前の社会を相対化するという意味で台頭し始めた。日本の場合はすぐに中世史に注目が向かわず、まず柳田国男や民族学ブームになった。そのようにワンクッションおいて中世史に注目が向かった。

 アナール派が受容されるようになった背景の二つ目は、マルクス主義的歴史学との距離をとるための方法論である、アナール派の重視した心性の歴史が注目されたからである。政治的事件ではなく、数世紀に渡り変化する民衆を中心にした人間のものの感じ方や考え方(「子供」「共同体」「家族」「愛」「死」等々)の変化を追うアナール派の研究に注目が集まったのである。これは人口統計を重視したということとも重なる。民衆は大概において自ら歴史を書き残すことはしない。というより、能力という面で書けない場合が多かったのだ。そのため資料がなく、統計を使わざるを得なかったのである。その場合に大体使われたのが教会の簿冊である。その記録から人口統計・結婚統計・死亡統計が出るのである。このような方法を駆使して心性の歴史が研究され、その成果がアナール派の台頭を支えたのである。

 

参考文献

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生−アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房、1980

エドワード・ショーター『近代家族の形成』昭和堂、1987

エリザベート・バダンテール『母性という神話』筑摩書房、1998

ジャック・ドンズロ『家族に介入する社会−近代家族と国家の管理装置』新曜社、1991

上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店、1994

落合恵美子『21世紀家族へ(新版)』有斐閣、1997