2002年度秋学期 小熊研究会T
最終課題
『人種・国民・階級』
エティエンヌ・バリバール
イマニュエル・ウォーラーステイン
所属 総合政策学部3年
学籍番号 70005145
ログイン名 s00530ms
氏名 鈴木麻衣子
1.
本書について
本書は1985年から1987年にパリ人間科学会館で開催されたセミナーで発表された論文を元に構成され、1988年に刊行された。ウォーラーステインとバリバールは西欧マルクス主義を代表する論客である。従来のマルクス主義では、80年代以降先進国で目立ってきた移民労働者に対する排撃運動などの人種、民族、エスニシティ、国家などに関する問題の数々を分析するには限界がある。西欧マルクス主義はこれらの分析に取り組み、ウォーラーステインとバリバールも本書の中でメインテーマとして扱っている。
本書がかかれた背景は、アメリカとフランスという著者の出身地、特にフランスで「新人種主義」が台頭してきたことがある。旧植民地から旧中心部に移民として人口が流入する「脱植民地主義」時代のなかで、肌の色などの身体的な諸特徴を理由に差別する生物学的な「人種主義」ではなく、属しているとされる共同体の文化的諸特徴にそって差別される、文化的差異に基づく人種主義が目立つようになる。たとえば、現在のフランスではこの10年の間に「外国人」や移民の排斥を公然と主張する極右政党、フロン・ナショナルが急速に支持を拡大した。フロン・ナショナルが支持されるようになったのは本書が刊行されたころである。新人種主義は諸文化の多様性と平等の承認したうえで、文化の差異は普遍で触れることができないとして距離を置き、かつての人種主義の政治闘争であった「差異への権利[1]」が横領された姿をみることができる。
本書は「人種・国民・階級」と3部に分かれているが、ウォーラーステイン、バリバールともに理論は3部にまたがっており、はっきりと分けることはできない。また「「マルクス主義者」は常に同じ概念に対して同一の意味を与えることができない[2]」とバリバール自身述べているように、ウォーラーステインとバリバールの対抗している部分も多い。本稿ではウォーラーステインとバリバールの論をそれぞれ紹介し、最後にその相違をまとめる。
2.ウォーラーステイン 〜世界システム論から見た分業体制〜
彼は「世界システム論」で知られるように、本書でも彼の基盤となっているのが「世界システム論」である。世界システムとは、広大な地域に散在する多種多様な共同体を単一の分業体制に組み込むようなシステムのことである。この分業体制は世界の諸地域にまずヨーロッパが課したもので、辺境および反辺境地域の富を中核地域が不等価交換によって収奪することで資本蓄積をする。資本主義システムが労働力を中心部と周辺部へ分裂させて、結果的に人種主義、国民、階級を生み出した。彼の特徴は人種・国民・階級すべてにおいて「中心」と「周辺」の関係の「世界システム論」に収拾されることである。
近代世界における人種主義はエスニック集団を特定の職業に就くこと(=労働力のエスニック化)を可能にする。資本主義は万物の商品化を妨げるものは流れを制限するように作用するが、生産効率を最大化するために能力主義(=普遍主義)が生まれた。しかし、能力主義体制は流動的で政治的に不安定である。そこで費用の削減と、政治的安定のために人種主義という能力主義とは無関係な基盤=人種、を創設することで低賃金、特定の職業を受け入れさせた。ここに人種主義が生まれた。
彼は「国民」は主権国家が統合を強化するために創出したとする。しかしここでは社会政治的集団である「国民」よりも、文化的に差異に基づく「少数国民(ナショナルマイノリティ)」により注目している。「エスニック集団」はバリバールが「新人種主義」と呼んだ一国内での「外国人嫌い」の人種主義を説明する。「人種主義」が政治的安定とコスト削減のために人種を創出したように、生存費以下の賃金で働く労働力を作り出すために、社会的に力の弱いマイノリティ集団を生み出す。彼が「国民」ではなく、国民の中のマイノリティ集団により注目するのは「国家は一つの国民(ネイション)と多数のエスニック集団を有する傾向がある[3]」という国家の典型、アメリカ出身であることが大きく影響している。
マルクスの捉え方もウォーラーステインとバリバールでは異なる。マルクスは資本主義の敵対関係はブルジョワジーとプロレタリアート、生産手段の所有者と非所有者とのコンフリクトであるとしたが、戦後西欧諸国の産業労働者は以前と比べ格段に生活水準が上がったことなどを受け、両極化は時間とともに縮小するのではないか、と批判された。しかしウォーラーステインは反論する。マルクスの最も大胆な仮説であり、現代もなお生きていると考えるのは「階級闘争」と「貧困化を伴なう階級的両極分解」とい2つの仮説である、と。彼は「過去400年間にわたって資本主義世界経済のうちに大きな物質的両極化が存在してきた[4]」、そして現在も世界規模でブルジョワジーとプロレタリアートの社会的分極化が起こっていると主張する。
ウォーラーステインによると、ブルジョワジーは自分が創出したのではない剰余価値を取得し、その一部を資本蓄積に充てることで財を得る。本来、ブルジョワジーは金利生活者になり貴族のように生活することを目指すが、労働者からの不正を排除しようとする圧力や国際競争の激化で常に企業の内部変革を求められる。アメリカの多国籍企業がよい例だが、経営者と資本家が分化する現象が起こり、ブルジョワジー化が拡大する。一方、プロレタリアート化は賃金所得への依存度を高めていくことで拡大していく。現金を手にし、購買力が増加する、その一方で市場経済の広がりで「賞品」が増える。その結果賃金所得への依存度が高まる。
3.バリバール 〜アルチュセールの重層的決定〜
バリバールはアルチュセール派の理論家である。マルクスの「下部構造によって一元的に規定される歴史」に対して、アルチュセールは重層的に捉え、歴史とは「主体なき過程」であると主張した。「資本主義の諸矛盾と階級闘争は構造化された全体としての社会において複雑に絡みあう関係の中で理解されなければならない」とした。バリバールはアルチュセールの考えを継いで、多様性の問題を提起し、この世はどのように動いているのかカトリック的な哲学の立場に立って考えを展開している。機械論的因果律やヘーゲルが唱えた目的論的自然観も基盤となっている。「すべての社会構成体は複数の生産様式の編成に基づいている[5]」としたバリバールはマルクスにもウォーラーステインにも批判的である。
バリバールは一貫して「国民」国家を固定した形態とは捉えていないが、「国家」の役割にこだわる。歴史的に見ると、それ自体は国民的ではない「前国民」国家装置が国民的な国家へと社会編成する過程のなかで一番の大きな要因は植民地化とそれに伴なう戦争であると考える。「ある意味で、すべての近代的「国民」は植民地化の産物であった[6]」。帝国主義、植民地化でもたらされた世界経済システムは「中心」と「周辺」に分け、「中心」に資本のコントロールを集中させた。その結果中心化がもたらすさまざまな衝突を制御するため、強固な国民的社会が作られた。
しかし時代は変化し、人口移動の国際化や国民国家の政治的役割の変化で「中心」と「周辺」という区分をも無効にしてしまった。そこで生まれたのが「新人種主義」である。移民の増加でマイノリティは増殖し、マジョリティとの境界はあいまいになってくる。これまで国境に付与されていた社会的予防機能を個人レベルに適用することで制御機能を維持した。
さらにバリバールの注目すべき論は「虚構的エスニシティ」だろう。国家が介入することで「民族」を創出するために「想像の共同体」ならぬ「虚構的エスニシティ」を作り出し、国民国家を強固にする。虚構的エスニシティは言語共同体と人種共同体の2つによってシステムが作られる。前述した「新人種主義」とも大きく関わるところだが、多民族国家に「国民」という政治的・文化的統一性をもたせるために、共通の内部の敵(=特定の人種、言語)を創出することで一体感を図り、「真」の国民と「虚構的に」国民であるものとに分類する。極右政党フロン・ナショナルのスローガンの一つ「国民的選好」は休職にフランス社会に浸透しているが、このスローガンはフランスにおいてナショナリズムと人種主義が分かちがたく結びついていることを示している。さらに、学校制度と家族制度が言語共同体と人種共同体の形成を支える。
したがって「国家装置は市民社会の外部にある」とした国家が不在のマルクス主義に対しては一面的に否定はしていないものの「国家が果たしている役割を無視している[7]」と批判している。マルクス主義は階級搾取に関する機能を国家から除去し、「公的サービス」や「社会の共同機能」を遂行する機構へ存続させることを拒否する。しかし、バリバールは「ブルジョワ階級も被搾取階級も国家機構の中に存在する」として国家機構の分析の重要性を説く。ブルジョワ階級は国家機構を利用する限り支配的になれるのであり、一方の労働階級は教育、社会保険などの(再)生産機能があるから労働力を生み出すことができる。「階級闘争、階級形成は国民的構成体のレベルで分析されなければならない。」
国家の役割と国民への従事との関係にさらに注目し、国民への帰属が社会的な権利を獲得し享受するための条件となる市民権を論じたのが1998年に刊行された「”Droit de cite;culture et politipue en democratie”(『市民権の哲学』)で論じられている。
4.ウォーラーステインとバリバール
「彼があまりにも「アメリカ人」であり、私があまりにも「フランス人」であるためであろう[8]」とバリバール自身述べているように、バリバールとウォーラーステインの間にはっきりと意見の相違が見られ、その違いは二人の出身地に大きく依存していると考えられる。「ウォーラーステインの議論が少数集団(マイノリティ)のエスニック化をうまく説明できるのに対し、私(バリバール)の議論は多数集団(マジョリティ)のエスニック化をより良く捉えている[9]」というように、ウォーラーステインがアメリカ人的な捉え方をしているというのは、世界システム論の基盤となっているものが連邦国であるアメリカという国家であると言えるからである。マイノリティ集団としてのエスニック集団として捉えている。一方のバリバールの出身地であるフランスでは資本主義化は国家中心に行われてきた。国家や学校を重視する考えがフランスの移民排斥運動につながっている点をバリバールは重視した。
また、フランス独自の問題としては、フランス革命以来、フランス国家は普遍主義を重視しており、自由・平等・友愛を大事にしていた、だが、多数の移民が流入し新たな差別問題が顕在したことなどからその普遍主義自体にも疑問を抱く。「祖国のために死ぬこと」から「祖国のために殺すこと」とのジレンマの可変性を論じ、「フランス革命そのものも、自らのうちに、その二つの軋轢を「既に含んでいた」[10]」としてフランス革命に対する彼なりの考えや同国出身のアーレントに対する批判している。フランスの人間中心的で普遍主義的な文化を尊重する風潮に疑問を抱き、人種主義を見出した。
ウォーラーステインとバリバールの大きな違いは、バリバールも批判しているように、ウォーラーステインはすべてが世界システム論が基盤になっており、経済決定論であること。バリバールはアルチュセールの影響もあり、重層的決定を重視している点である。確かにウォーラーステインの論は「世界システム論」そのものでありわかりやすいが、「社会的要因」の重要性を無視し、分業の重要性に過度にとらわれすぎていると感じる。
バリバールは経済決定論を唱えるウォーラーステインをある程度評価してはいるが、「経済主義」に傾きすぎていると批判する。歴史的アクターの利害だけを考えるだけで良いのか。歴史の中には多様でお互いに相容れないようなさまざまな普遍性が存在するのに、一つのヘゲモニーが資本主義世界システムの枠組みの中に存在するすべての支配関係を一括して包容できるのか疑わしい。「支配的イデオロギーの普遍主義は資本の世界的拡大よりも深層に根ざしている」とここでも重層的に捉えることの重要性を説く。
一方、ウォーラーステインもバリバールに反論する。バリバールは世界ブルジョワジーの存在を認めないが、ウォーラーステインに言わせるとブルジョワジーは世界レベルにおいてしか存在し得ない。彼らは国民国家の中に存在し国民主義者であると考えられているが、ただ単に彼らの利益に叶っているからだ。国家の枠組みよりも世界経済全体で人種や国民、階級などの現象を捉えるべきだと主張する。また、経済決定論であるという批判には、「確かにあらゆる種類の抵抗があるとはいえ」と認めつつ、まずメカニズム、制約、制限を強調することから始める必要があり、一方、システムが終焉を迎えているならばありうべき飛躍について、構想可能なユートピアに思いをめぐらす必要があると述べる。
二人の議論を見るとバリバールが優勢に感じた。日本のエスニック化がフランス的なマジョリティのエスニック化であることと、アメリカでは19世紀から国内の人種主義が問題となっていたのにもかかわらず、「新人種主義」として問題を提起したバリバールが中心となって編著したことが影響しているのかもしれない。
■ 参考文献
イマニュエル・ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波書店、1997年)。
大沢真幸『ナショナリズム論の名著50』(平凡社、2002年)。
萱野三平「ナショナリズムをどうするか?」『現代思想』(青土社、1999年5月)。
姜尚中「世界システムの中の民族とエスニシティ」『岩波講座 社会科学の方法 第11巻 グローバルネットワーク』(岩波書店、1994年)。
松岡利道「ウォーラーステインのマルクス論」『龍谷大学経済学論集』32−4号。
松葉祥一「バリバールと「移民問題」」『情況』(2001年12月)。
柳内隆「フランスにおける現代国家論の一潮流」『法と政治』(関西学院大学法政学会、1981年3月)。
Balibar,Etienne ,Immanuel Wallerstein ,Race,Nation,Class ,New York,Verso, 1989.