2003131

 

小熊研T最終レポート

フランスにおける母性愛の研究および日本との対比

 

総合政策3年 石井幸代

 

【目次】

1.『母性という神話』について

1−1.主題(メインテーマ)

1−2.要旨

1−3.母性が本能になるまで

2.『近代家族の形成』〜フランスの近代家族形成における愛情の役割〜

 2−1.仮説の設定

 2−2.ショーターの論点

 2−3.母乳保育と母性愛(*フランスのケース)

 2−4.母性愛と男女の愛情(ロマンティック・ラヴ)/ 家族の愛情(家庭愛)

 2−5.資本主義と母性愛 / ロマンティック・ラヴ

 2−6.仮説の検証

3.フロイトと母性愛 / マゾヒズム

              フロイトの説く女性的マゾヒズム

              男性社会のマゾヒズム

4.男性は女性よりも優位なのか?

 ■ 生物学レベルでの女性優位性とジェンダーレベルでの男性優位性

5.『<子供>の誕生』と母性愛

 ■ 中世の日本の子供観と西洋の子供観

■ アイヌ文化にみられる子供観

6.「母性」のその後(バダンテール『男は女 女は男』より)

 ■ 「母性」に近づく「父性」

「突然変異」としての両性具有の到来

■ 母とは誰のことか?

7.終章 〜母性のゆくえ〜

■ 母性に目覚めた男たち(男が妊娠する社会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.『母性という神話』について

 1−1.主題(メインテーマ)

 いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。

 

 1−2.要旨

バダンテールの分析によれば、17世紀~18世紀のフランスでは、里子に出される赤子は全体の90%にものぼり、その習慣は貧しい階層だけではなく上流階級やブルジョワとよばれる家庭においても普通のこと(流行)であった。そして、多くの場合、乳母の適性や過去の養育暦などは考慮されず、しばしば赤子は死亡してしまっていたが、彼女たちはそれでも自分で育てようとはしなかった。また、アリエスの指摘によれば、なかば意識的に秘密裏に捨て子や嬰児殺しが行われていたようだ。ところが19世紀になって、国家は子どもの死を人的資源の損失と考えるようになり、「母性愛」の推奨を始めた。お陰で母親としての女性の地位は向上したものの、「母性愛」を発現しない女性を非難する風潮が一般化し、母性は本能であるとする母親業への縛り付けと男性の育児疎外が進んで今日の近代家族が形成されるに到った。バダンテールはこれらの事実から、「『母性』は『本能』と呼ぶにはあまりにも例外が多く、普遍的な愛情とは言い難い。むしろ、社会の要請(国育主義など)によってコントロールされてきた付加的感情であり、母性愛神話は、近代国家の成立や近代家族の誕生の中で生まれた、新しいイデオロギーである」と結論付けた。

 

1−3.母性が本能になるまで

 実は、「母性愛が本能ではない」という見解は、1987年にエドワード・ショーターの『近代家族の形成』という研究で発表されたものである。一般には、ルソーの『エミール』が母性愛を創出したと言われているが、ショーターは研究の中で「母性愛の出現の原因はルソーの『エミール』出版以前にあった」と述べている。そしてバダンテールも『エミール』については同じくアンビバレントな立場をとっている。

バダンテールは『母性という神話』の第2部第2章、“新しい母親”で、「ルソーやモラリストたちや医師たちの著作がすぐに風俗習慣を変えたと考えるのは誤りである。女たちの大部分は、ぐずぐずして、なかなか「犠牲の試験」を受けようとはしなかったのだ。」(『母性という神話』p246)と述べ、、女たちの経済力と、彼女たちの(社会的地位によって異なるが)家庭内で、あるいは社会の中で、より特権的な役割を演じようという希望の有無が、良い母親の役割を引き受けるかどうかの選択に影響を及ぼしたのだと言っている。その上で、ルソーについてこう述べる。

 

ルソーやその後継者たちの強力な布教が、限りなく献身する母親になるようすべての女たちを説得することには成功しなかったとしても、ルソーたちの主張は女たちに深い影響を及ぼした。…女たちは自分の子どもにたいする責任をしだいに自覚するようになった。だから、自分の義務を果たすことができないと、罪悪感に責められたのである。この意味で、ルソーはひじょうに大きな成功を収めた。罪悪感が女の心を占めたのである。(同p287

 

 次に、第3部“強いられた愛”の第1章“ルソーから受け継いだ道徳論”では、ジャン=ジャックの考え方の根本と称して、『エミール』から以下の引用を抽出する。

 

  「真の母親は、社交界の女などになったりせず、修道女が修道院にいるのとほとんど変わらぬくらいに、家の中にひっこんでいるものだ。」(『エミール』第五巻、p737

 

 彼女はこれを、「良い母親は良い修道女のようなものだ、あるいは修道女に似るように努力すべきだ、というのである。あと一歩前へ進めば、母親は「聖女」の肩書きを得るだろう。」と解説している。また、『エミール』のもっとも熱心な読者であったナポレオンが、孤児のための学校であるエクーアンの創立に際し、次のような覚書を残していることを引用する。

 

   これ(覚書)を読めば、エクーアンの少女たちにどんなカリキュラムがあたえられたかは容易に想像がつく。まず何よりも宗教。宗教は「母親にとっても夫にとっても、もっとも確かな保証である。理屈を言う女ではなく、信じる女を育てなければいけない。女の頭の弱さ、社会秩序の中における彼女たちの使命、つねに服従していることの必要性、一種の寛大な思いやりの必要性、これはすべて宗教によって、そう、寛大で温和な宗教によってしか得られない。」(エクーアン創立に関する覚書)

 

 そして、ミシュレの女の理想像「母性本能が他のあらゆるものを支配する…というのも、ゆりかごにいたときから女は母親であり、母性にあふれているのだ。」(同、p301)を持ち出し、また、バルザックの『二人の若妻の手記』に登場するルネ・ド・レストラードの考え方について「母性本能だけがこうした仕事(だれも知らない、こまごまとした配慮、たえざる献身等)をまちがいなく導く案内人であり、この真の聖職こそ女の義務であり存在理由なのである。」(同、p309)と分析することを経て、徐々に女性が母親に囲い込まれていく様子を表現するのである。ショーターと違って彼女の論旨の特徴は、こうした文学作品が社会に与える影響力も考慮したところにあると言える。

 

このようにして、女性たちは周りから母性が本能であると信じることを強要され、後にそれはフロイトにおいて、「女性的マゾヒズム」となって権威付けされることになる。これがバダンテールが描く母性が本能になっていく過程の概要である。

 

それでは、次に「母性という神話」の土台となった研究であるE.ショーターの『近代家族の形成』について検証していく。

 

2.『近代家族の形成』〜フランスの近代家族形成における愛情の役割〜

 ショーターによるこの研究は、『近代家族の形成』を当時のフランス庶民の心性の変化から説明しようとしたものである。資料は、主にフランスの都市や農村の医師や行政官の記録等を使用している。ここでは、私の作業仮説を提示した後、ショーターの3つの論点について、ショーターの研究成果を紹介することとする。

 

 2−1.仮説の設定

 ショーターの研究を読むにあたって、ここでは予め心性にかかわる2つの大きな仮説を用意した。

    @ 母性愛は本能とは言えない

A            母性愛の出現と男女の愛情は密接な関連がある

 

これについては、この章の最後に検証することとしたい。

 

 2−2.ショーターの論点

 ショーターはこの本の冒頭に載せたペーパーバック版へのはしがき(1977.4月)で、以下の3点についての主張をおこなった。ショーターがこの本で述べたかったことは、

 

1.庶民階級の平均的な女性にとって、すくなくとも彼女たちの立場から見て、「資本主義」は全体として恩恵をもたらした。(女性の解放)

2.多くの人々が、性抑圧の世紀とされている19世紀に、伝統的な農村社会の強烈な性抑圧から解放された。(ロマンティック・ラヴ)

3.質の高い子育ては、女性の胸の中に宿っているある種の普遍の「本能」というよりも、まさに150年前の発明であった。(母性愛)

 

である。3の“母性愛”についての研究部分が『母性という神話』のメインテーマでありバダンテールの主張の多くはショーターの研究を土台にしていることがわかる。それでは、その母性愛がいつ頃生まれたのか、また、母性愛とロマンティック・ラヴの関係、母性愛と資本主義(女性の解放)の関係についても、逆順に論点を紹介していくことにする。

 

            ショーターはこの他にセクシュアリティの変化(例えば20世紀に起ったエロティシズム=第二次性革命−感情よりも性的本能でセックスするようになる−など)についても研究しているが、こちらは今回は対象外とした。

 

 2−3.母乳保育と母性愛(*フランスのケース)

19世紀半ば、仏では毎年約33000人の捨て子があった。当時、幼い子を母親から引き離すことは、貧富にかかわらずあらゆる階級で組織だった慣行となっており、子どもの遺棄はまさしく伝統的な慣習であったといえる。そんな中、何故母性愛というものが生まれてきたのかを知る手掛りとして、ショーターは母乳保育に目をつけた。

ショーターは、母乳保育が子どもの幸福への関心と関連があり、「乳児に対する保育方法の全般的な変化は、母性愛の革命を示すものと言えるのではないか」と仮定した[1]。しかし、母乳保育が広まっていった理由については『エミール』ではない、と主張する。ショーターは、以下のように述べる。

 

1762に出版されたジャン・ジャック・ルソーの『エミール』そのものが、母乳保育の普及を主導する役割を果たしたとはいえない。というのも、それが出版されるずっと前から母乳保育の考えは流布しており、1760年代には、中流階級の間で母乳保育への切り替えがかなり進んでいたからである。」(『近代家族の形成』p191) 

 

そして、例として、1766年頃、田舎の乳母に里子に出した子どもの死亡率の高さに衝撃を受けて、ラ・ロシェルの裕福な婦人たちは母乳保育を始めていることをあげている。だが、これは『エミール』が出版された4年後であることを考えると、この事例が『エミール』の影響を受けていないという証明ができないうえに、逆に『エミール』を読んでいた可能性は否定できないことになって、全く彼の主張をサポートしていない。ショーターは母性愛の出現の明確な理由については、これ以上踏み込んだ説明をしておらず、私としては、これをもって『エミール』ではないという彼の主張を支持するわけにはいかないと感じた。それはともかくとして、この時期に母性愛なるものに世間が注目し始めたことには変わりない。

 

 

母性愛という時、預ける側としての母親の変化と、預かる側としての乳母の変化がある。先ず、母親側の変化として、以下のことがあげられる。伝統社会の母親は子どもを乳母に預けるのが慣行であった。しかし、1780年代、田舎の乳母の間で梅毒が流行し、母親たちはわが子を自分の手で育てるようになったという。これが「母乳保育への移行の始まった原因を解く鍵である」とショーターは述べている。つまり、このような何らかの外的要因が母性愛を生起させたのではないかと。勿論、『エミール』が出版されたのが1762年だから、その影響もあったであろう。しかし、それだけではなく、「梅毒による里子の死」という切羽詰った状況が都市の中流階級を襲ったとも考えられるのである。ちなみに1796年末の人口調査では、乳飲み子の98%が母親から授乳されるようになった。

次に、乳母側の変化であるが、伝統社会の乳母にとって子どもは商品であった。経済至上主義とも言える子どもの扱いの例として、7歳になったら別の乳飲み子と交換するということが行われた。それは、乳飲み子の方がお金になるからであり、子どもの成長には関心がないことの現れである。しかし、1835、ギゾー政府の捨て子移管政策が行われた際、それに落胆し身銭を切ってでも預ろうとする乳母が現れたという。これがつまりは「乳母の母性愛の出現ではないか」とショーターは述べている[2]

その他の母性愛の指標として、彼は以下の2つを挙げた。1つは、巻き産衣からの解放である。巻き産衣とは、生まれたての赤子をくるむ独特のもので、次のような構造を持っている。「おしめを着せたら、子どもの腕を胸の上で押え、帯でしっかり固定する。お尻まできつくぐるぐる巻きにしておむつを押し込め、別の帯で足元まできれいに巻く。」こうすることで、子どもは身動きが取れなくなる。野良仕事に忙しい当時の母親にとって、大変都合の良いものであったし、吊るしておくことで、赤子を野生動物から守ってあげることができたという。しかし、これでは肝心の母子のコミュニケーションがとれず、母性愛は育たないし、だいいち子どもの身になっている扱い方だとは到底考えられない。だから、この巻き産衣を止めるということは、母性愛の指標になる、と彼は考えた。上流階級では、1780年頃から巻き産衣が少なくなった。都市では、1790年代に巻き産衣の廃止が行われ、19世紀初に禁止となった。一方、遅れて農村でも、1850年に巻き産衣はすたれていった。

2つ目は、両親による非嫡出子の認知というものである。籍に入っていない子を自分の子であると認知するというのも、親としての自覚の現れであり、子どもに対する愛情の証であるといえる。こちらは、1885年から第1次大戦前夜まで着実に増加していった。

 

以上、これらの事実から察するに、母性愛は18世紀中までに都市の中流階級で生まれ、19世紀末までに庶民に定着したと考えられるのである。*但し、ヨーロッパ各国の近代化過程に、はっきりした差異があるのと同じように、母性愛の発達においても差異があった。であるから、フランス以外の国の母性愛の過程についてはわからない、とショーターは述べている)

 

 もう1つ、ショーターが明らかにしたかったことがあった。それは、「乳幼児死亡率の減少が先なのか、母性愛の出現が先なのか」という命題である。つまり、「子どもが死ななくなったから、結果可愛がるようになったのか、それとも可愛がるようになったから、子どもが死ななくなったのか」、そのどちらなのかということである。これは言い換えると、「高い死亡率だから母性愛をかけていられなかった(心が持たない)のか、それとも母性愛がないから高い死亡率であったのか」という問いでもある。これについて、ショーターは次のように冒頭で要約し、論旨を展開する。

 

 1900年以前のヨーロッパにおける乳幼児死亡率の恐ろしいまでの高さは、人間の力ではいかんともしがたい疫病に原因があるのだろうか、それとも幼児に対して無関心な母親の世話のまずさにその原因があるのだろうか。(ジフテリアなどの疫病もあろうが)研究をすすめていけばいくほど、多くの幼児が天然痘やしょうこう熱で死んだだけでなく、不適当な食事やとてもひどい世話のやり方のために死んだことがわかってきた。すなわち、(母乳ではなく)小麦粉と水のまぜものを与えたり、(経験豊富な産婆が注意深く分娩させるのではなく)野蛮きわまりない方法で分娩したり、(あたたかい産衣につつんで、幼児をやさしくあやすのではなく)幼児を包帯でかたく巻きつけたまま、何時間もほっておいたり等等。われわれが扱っている社会は、妊婦が陣痛のはじまる直前まで野良仕事をし、母乳をやるのはほんのときどきで、早く離乳をさせ、そして幼児の命にほとんど価値が置かれていない社会なのである。(ペーパーバック版へのはしがきix

 

 この根拠となる調査として、農村では、ゆりかごは気絶させて寝かすために使用する、アルコールやアヘンを与えて黙らせる、排泄物にまみれて長時間放置する等の扱いをしていたことを挙げている。これに反論する学派の意見として、「母親が幼児に愛情が持てないのは、自分に課せられた苦しい生存のための闘いのためであって、愛情の欠如を一つの通例とする文化的世界のためではない」(同、ix)というものがあるが、これについても、

 

   「悲惨」派の解釈に対する主要な批判点は、子どもを明らかに冷淡に扱ったかなりの人びとは悲惨な状態にはなかったことである。…かれら(中流階級の人々)は事実、妊婦に出産前の1か月仕事をやめさせ、新生児にいたわりながら母乳をやり、手なれた産婆に分娩をたのむ余裕は十分にもっていた。…しかし、これらの村の中流階級の人びとは労働者同様、生きている子どもに母乳を与えようとしなかったし、子どもが死んでも悲しむことはなかったのである。(同、x

 

と述べている。例えば、都市の中流では子どもの生死に無頓着であったり、子どもは自分と同じ人間ではないと考えられていたことや、農村でも、「それ」とか「その生き物」などと呼ぶ、葬式に出席しない、また、苦労しなくてよいから子どもの夭折は喜ばしいことだなどと考えられていた事実からも、当時の社会の幼児観がみてとれる。このように階級を問わず幼児に対する無関心は甚だしく、たまたま育った子どもだけが、アリエスの言うように「小さな大人」として認知されていったということが、伺われるのである。かくて、ショーターは以下の結論に達する。

 

近代初めの乳幼児死亡率のデータが示唆していることは、母性愛の欠如こそが高い死亡率の原因であったゆえに、伝統社会での母性愛の欠落を高い乳幼児死亡率から説明することはできないのである。少なくとも母性愛の欠如が高い死亡率の原因の一端であったと考えられている。非常に多くの子どもが死んだのは、両親の力の及ばない運命の神のなせる業だとはいえない。むしろそれは、両親の努力でかなり変えられるはずの環境によるものであった。すなわち乳幼児の食事、離乳年齢、ベッドシーツの清潔さなど子どもをとりまく全般的な衛生環境に問題があったのである。…(この頃のヨーロッパでは)母親たちは関心さえ持てば賢明なアドバイスを得ることができた。問題は母親たちがそうした配慮をしなかったことであり、それゆえにこそ、彼女たちの子どもたちも伝統社会の子どもたちと同じように大量虐殺の嵐の中で死んでいったのである。(同、p213

 

 一方、バダンテールもこの命題に着目し、『母性という神話』の中で以下のように論理展開を行っている。

 

 生まれたばかりの赤ん坊にたいする無関心という点は、しばしば次のように解釈される。

 

1年も経たないうちに死んでしまう可能性がきわめて高かったというのに、どうして赤ん坊に関心を抱くことなどできたであろう? …言いかえれば、あとで苦しむよりは、最初から愛情をもたないほうがいいということだ。18世紀まで幼児の死亡率はきわめて高かったから、もし母親が子どもの1人ひとりに強く愛情を注いだとしたら、きっと彼女は悲しみのあまり死んでしまっただろう。−

 

  …しかし、暮らしの楽な階級の女たちについては、なんと言えばいいのだろう。この女たちは子どもを自分のもとで育て、子どもに愛情を注ぐことがいくらでもできたのに、何世紀ものあいだ、そうしなかった。…彼女たちはこの仕事を、自分たちがするには値しないと判断し、この任務を放棄するほうを選んだように思われる。…それに、著述家たちが愛情深い(例外的な)母親に、ほとんど関心を示していないという事実は、当時そうした愛情が社会的にも精神的にも価値をもっていなかったことを証明しているように思われる。…そうすると、一般に流布している命題を逆にしなければならなくなるだろう。子どもたちが虫けらのように死んでいくから、母親が子どもにほとんど関心をもたなかったのではなく、彼女たちが関心をもたなかったために、おびただしい数の子どもが死んでいったのだ。(『母性という神話』p103105

 

 このように、ショーターの 母性愛に対する根本的な問題意識はバダンテールに受け継がれ『母性という神話』の核の一部となったと言っても差し支えないだろう。

 

 2−4.母性愛と男女の愛情(ロマンティック・ラヴ)/ 家族の愛情(家庭愛)

 次に、母性愛がどのように近代家族形成に影響を与えたかについてのショーターの研究を紹介してみたい。伝統的な農村社会では、個人の結婚やセックスに関して厳格な共同体管理(公的介入)を行っていた。そこでは、財産やリネージが優先され、人々の感情はそれによって支配されていた(愛情の欠落)。例えば、17世紀の農村では、ヴェイエ[3]と呼ばれる村落が管理する交際システムがあったり、18世紀にはドナージュ[4]という集団見合いが行われていた。19世紀になると、共同体全体の管理からナイトコーティング[5]と呼ばれる若者組織の管理へと移行していくが、これらの公的介入の縛りはきつく、もしもルールを逸脱するようなことがあれば、シャリバリ[6]という厳しい制裁(見せしめ)を受けなければならなかった。何故そうしたかというと、農村という運命共同体にとって、一人でも村のルールに従わないものが出ると、統率が乱れ、ひいては村全体の存亡を脅かしかねないからである。そのため、自由恋愛よりも、村の人々に認められて生きることが必須条件であって、個人の感情や愛情は優先されなかった。ところが、近代化にともなってこれら人々を縛っていた慣習や伝統は感情のうねりとともに破壊され、母性愛が根を下ろすことになる。ショーターはこの母性愛が発展して近代家族特有の男女の愛情(ロマンティック・ラヴ)や家族の愛情(家庭愛)が生まれたのではないか、と考えている。以下がショーターの見解である。

 

   幼児に対する純粋な母性愛、つまり、自発性とか感情移入にもとづいた母親の愛の誕生は、新しく愛情に基礎をおく家庭をつくりだし、一方では、ロマンティック・ラヴを生み出し、家庭と共同体の結びつきを希薄にさせたのである。(同、p176

 

そして、アリエスの研究である「家族と共同体の分離」の考え方を導入して、近代家族の形成過程を次のように結論付ける。

 

母性愛は近代家族形成の核となった。子どもの幸福についての<意識>が中流階級に芽生え、母親と乳児の情緒の輪がやがて年長の子や夫を包み込む。かけがえのない幼子の命のためにデリケートな環境が必要だという意識が生まれ、家庭愛が現れた。この愛の炎が共同体(慣習と伝統)を焼き尽くしてしまった。(同、p215

 

 正に、この家庭愛の出現こそが近代核家族の誕生を意味するものであって、ショーターの研究は、このような人々の心性の変化が近代家族の形成をもたらしたのだ、ということの論証だったと言ってよいのではないだろうか。

 

 2−5.資本主義と母性愛 / ロマンティック・ラヴ

 最後に、資本主義と心性の関連について述べる。ショーターは、「感情革命の起源は資本主義にある」と言っている。資本主義は、自由放任の市場組織や資本主義的生産、プロレタリアートの出現を可能にし、女性の心性にも変化をもたらした。

ロマンティック・ラヴ、つまりロマンス革命の原因は、主に「未婚の若い人々、とりわけ女性が多く自由な労働市場に参入した」ことによると考えられる。彼女たちは伝統社会では男性以上に厳しい管理下に置かれ、人々の目を盗んで自由恋愛をして万一妊娠でもしようものなら大変なことであった。しかし、都市へ出て行ったなら、それら農村社会の目は行き届かない。賃金を得て自活できるようになった若い女性たちが何より求めた自由が、恋愛であったというのは当然のことのように思える。

また、母性愛の原因は、「資本主義の浸透によって性的分業が進み、女性が生産活動よりも育児に専念できるようになった」からではないかと考えられる。農村社会は一般に貧しく、女性は家の内でも外でも重労働を強いられていた。であるから、幼児にかまっている暇などないに等しく、母性愛も育つはずがなかっただろう。しかし都市化とともに「主婦」が誕生すると、家庭の仕事をしながら子どもに手をかけるゆとりが生まれて、母親の中に育児に対する意識の変革が起り、母性愛が根付いたと考えられる。

 

 これらのことを総合すると、次のような連関図が描けるだろう。

 

近代家族形成の3要素

 

          資 義(自由の希求・都市化)

                       

母性愛の出現       ロマンティック・ラヴの出現

 

                        家庭愛の出現(近代核家族の誕生)

 

 これは、アリエスの研究である「子供意識と家族意識のつながり」のショーターなりの図式と言える。つまり、これらの要素が絡み合って、近代家族は形成されていったということだ。

 

これが、本研究におけるショーターの結論である。

 

★ 補足

ショーターは以下の3つの点で、資本主義は女性の抑圧ではなく解放(恩恵)だという見方をする。

     (a) 女性の賃労働への大量参入は、農村の家父長制を分解させた

     (b) 18世紀の女性達は、非常に劣悪な地位(牛の価値>妻の価値)にあり、それよりましになった

     (c) 核家族は男女の情緒的安息を与え、夫と妻の位置関係は全般的にいって平等になった

 

 しかしながら、近代社会は決して男女平等ではなかった。そのことに対してバダンテールは、フロイトの理論の批判等を通して異議申し立てをしたかったのではないか、と私は感じた。

 

 2−6.仮説の検証

仮説1.母性愛は本能とは言えない

 ショーターとバダンテールの研究によって、上記の仮説は、より真実味を増したと言ってもいいだろう。母性愛が本能であるためには、すべての時代のすべての女性に備わっていなくてはならない。しかし、ここまで述べてきたように、1750年頃までは、一般社会に母性愛は認知されておらず、そのような愛情を持った母親は居てもごく少数派であったと考えられる。近代化とともに、子どもを可愛がるという行為が浸透していき、母性愛とともに家庭愛が生まれた。その後、国家の家族政策としてそれらは強化され、専ら女性たちに押し付けられてきた。それが今日の「母性神話」の起源である。

そもそも、母性愛が女性にだけ存在するかのように考えること自体が誤りであり、また、男女とも本能のレベルで存在すると考えることも誤りである。これらは、環境などによって身につく後天的な感情であり、すべての人が等しく持っているものでもないし、持たなければならないものでもないだろう。「母性愛は本能ではなかった」、長い間タブーとしてきたこの命題の確かさを、これらの研究は明らかにしたといっていいのではないだろうか

 

仮説2.母性愛の出現と男女の愛情は密接な関連がある

ショーターは2−4で示したとおり、母性愛の出現が男女の愛情や家庭愛を出現させたと結論付けている。その意味で、上記の2つにはやはり密接な関連があったと言える。それでは、その逆(男女の愛情から母性愛が生まれる)はなかったのだろうか?

 

イヴォンヌとカトリーヌの著した『母親の社会史』によると、ルソーは『エミール』出版の1年前(1761年)に、『新エロイーズ』という小説を書き、驚異的な成功をおさめている。実はここで最初の理想的な母親像が提起されているのだ。主人公のジュリは家庭教師のサン=プルーに夢中であり、身分の違いで引き離そうとする父親に対抗して彼の子どもを身ごもる。しかし、流産してしまう。その後ジュリは、母親を病気で亡くし、打ちひしがれて、ウォルマールと結婚するが、年上の夫には尊敬しか感じなかった。ところが、結婚式のあいだに、ジュリはある種の恩寵をうける。

 

結婚の純粋さ、気高さ、神聖さが、聖書のなかになんといきいきと書かれていることでしょう。貞節で崇高な義務は、幸福や秩序や平和や人類の継続のために、どんなに大切なことでしょう。そしてそれらを遂行することは、どれほど心地好いものでしょう。すべてが、私のなかにすみやかに革命を起こしたようです。突然、未知の力が、私の無秩序な情熱を矯正し、秩序と自然の法にしたがって立て直したようでした。(『新エロイーズ』)

 

ここでジュリは、母親の模範となる心がまえができた。自分のしようとしていることが、神聖なものであることを自覚し、自分に与えられた夫に対する貞節をはっきりと認め、おだやかで思慮深く、従順になり、情熱とはいっさい縁を切った。ルソーにとっては、情熱的な恋愛感情は、母性的な徳とは、相容れないものだったようである。(『母親の社会史』p181)この後、ジュリは3人の子どもを産む。子どもたちへの模範的な教育は、小説の中に長々と書かれ、そして、1年後の1762年に『エミール』へと受け継がれていくことになるのである。

このように、ルソーの描く母性愛は全く男性による「理想の母親願望」から生まれたものであり、実際の母親をする女性自身から想起されたものではなかった。母性愛にとって夫とのロマンティックな愛情など必要なく、しかも、神聖化された結婚や夫への貞節が母性愛の背景に選ばれている。さらに、この母親の役割の理想化には、以下のような限界があった。

 

私は子どもたちを養いますが、男性を育成しようなどという思いあがりはありません、とジュリは言った。私は女であり母親です。自分の立場はわきまえてます。もう一度言いますが、私が負うべき役割は、息子を育てることではなく、息子が教育を受けられるように準備することなのです。(『新エロイーズ』)

 

 つまり、母親に割り当てられた母性の範囲は、子どもの身の回りの世話であって、子どもの教育ではなかった。教育は専ら夫(男性)の知的活動であり、女性にはそのような能力も権限も与えられていなかった。しかし、逆を言えば、このような限られた母性でも、当時の女性にとって目を瞠るような地位の獲得であったのかもしれない[7]。とにかく、「母性愛には恋愛は必要ない」ということだけはこの引用から理解されたと言えるだろう。

 

最近、「夫はいらないが子どもは欲しい」という女性の話を聞くことがある。また、「夫は愛しているが、子どもは要らない」という既婚女性も珍しくなくなってきた。これらは恋愛と母性愛がリンクしないことの証明なのではないだろうか。一昔前までは、「愛する夫の子を産む」ことはあたり前の感情として世間で認知されてきた。しかし、元来、夫を愛することと、子どもを持ちたいという感情は、全く別のところから発生するのであり、その二つは必ずしもリンクするものではないのだろう。「母性愛に恋愛が必要ない」というのは、乳母が里子を可愛がる論理と共通する。そこには恋愛感情は存在しないからだ。究極の母性愛とは、このように見ず知らずの子でも自分の子どものように慈しみ育てることができる感情であり、そのような感情を女性たちが開拓したことこそ、母性愛の革命と言えるものだったのではないだろうか。

 

 

****************************************

 

 

ここからは、このプレゼンでの疑問点や関連情報、並びに私が考えたこと等について、まとめてみました。そして、「母性」のその後についてのバダンテールの研究を紹介し、締めくくりとします。

 

3.フロイトと母性愛 / マゾヒズム

 ■ フロイトの説く女性的マゾヒズム

  フロイトの弟子へレーネ・ドイッチュは、「正常な女性」の本質を3つの言葉によって規定した。すなわち、受動性とマゾヒズムとナルシシズムである。(『母性という神話』p370)フロイト世代までの古い時代には、女性は男性に尽くし、献身し、自分のことをさしおいて、まず相手(夫や男性)の成功や幸せを優先するのが当たり前だと思われていた。女性は、いろいろな苦しみや悲しみに耐えながら男のために尽くしていた。このような傾向を「女性的マゾヒズム」と呼ぶ。(『フロイト思想のキーワード』p282)この女性のマゾヒズム的傾向は、女性の人生のいくつかの主要な段階、すなわち性行為、出産、育児など、苦痛と緊密に結びついた再生産の諸段階を乗り越えるために必要なのである。(『母性という神話』p373)このように、女性は苦痛が快楽にでも変わるかのような解釈が精神分析学の世界で長いことなされてきた。つまり、母親は子どもや夫のために自己犠牲的精神を持つことが正常である、というものだ。第1章の“母性が本能になるまで”でも紹介したとおり、この「犠牲テスト」に合格するために、女性たちは宗教によって「修道女」から「聖女」への道を歩まされ、常に服従する主体としての母性を内面化させられた。しかし何故、女性だけが自己犠牲を強いられるのだろうか?

 

■ 男性社会のマゾヒズム

 ここで、男性社会に潜むマゾヒズムについて語りたい。女性が子どもや夫に対して払う自己犠牲の構造とよく似たものに、男性が国家や企業に対して払う自己犠牲の精神がある。

例えば、自分の命や健康、家庭を犠牲にしてまで、会社の業績のために尽くす企業戦士は、「男性型マゾヒズム」(筆者仮称)と言えるのではないか。特に、「日本的マゾヒズム」[8](小此木啓吾による)と呼ばれる精神構造は、武家社会に古くからある「殿様」と「家来」の間に発生する「忠義」という概念に良く現れていると思う。歌舞伎では、「忠義のために(強制ではなく自発的に)我が子を殺す」苦悩を表現した「熊谷陣屋」[9]という演目があるが、このおぞましさは西洋人には理解しがたいものだったようだ。一般に、男性はひとたび戦争になれば、命を投げ打って国家の犠牲にならなければならないし、日本の近代においては、「主君への忠義」の代わりに「企業への忠誠」が求められることになった。その結果、日本社会の病理現象として「過労死」という事態が発生することになる。とすると、日本の近代化というのは、家庭内では女性たちが夫のために犠牲になり、家庭外では男性たちが会社のために犠牲になった、その2つのマゾヒズムが合体して日本の高度経済成長を実現させたといってよいのではないか。つまり、我々日本人は、性別に関わらず、殆んどが(集団的)マゾヒズム状態であったと言えるのである。

 

4.男性は女性よりも優位なのか?

■ 生物学レベルでの女性優位性とジェンダーレベルでの男性優位性

アリストテレス以来、権威主義的解釈のもと、女性は男よりも本質的に劣るものとされてきた。「女は否定的原理である物質を体現しているから(これに対して男は、思考や知性と同義である神聖な原理、すなわち形態の人格化である)、形而上学の視点からみて価値が低く、したがって受胎においても二次的な役割をもつと見なされた」(『母性という神話』p41) シモンヌ・ド・ボーヴォワールは名著『第二の性』で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な格言を残した。では、本当に、男が「第一の性」であるのだろうか?脳科学者である養老孟司氏(北里大学教授、東京大学名誉教授)は、生物学の見地から2つの性についてこのように述べる。

 

「人間の原初は女性であり、男の中にも女の中にもXが1つ働いているが、7週目から男の中のYが変化していき、精巣ができて男性ホルモンがつくられ、ペニスが育ち、膣を塞ぐ。男性は睾丸をとる(去勢する)と女性化するが、女性が卵巣をとっても女性のままである。男は女の変形であり、無理をしてつくられているから寿命が短いのではないか。」「男性の脳と女性の脳が違うかということについては、“科学的に同じである”ということは証明できないものだ。まあ、男の脳と女の脳は、大して違いはない。但し、性行動に関する部分は違わないと困るのだが、脳の奥なので調べられない。」(「女性のこころ・女性の脳」H14.9.7講演にて)

 

 つまり、生物学的(sex)には、女性が“主”であり、男性はその“分化”したものということなのだそうだ。ならば、何故、社会的(jender)レベルでは、男性優位となったのだろうか?このことと関連して、バダンテールは『男は女 女は男』の中で、次のように述べている。

 

ストーラーはフロイトと違って、(ジェンダー・アイデンティティの獲得に際し)男の子と母親との最初の関係が異性愛であるとは考えなかった。ストーラーによれば、男性性は生まれた時には存在していない。それどころか、母親と喜びを共にするという体験は潜在的に男性性を脅かすものであるという。男の子は自分の母親およびその女性性と決裂できた時、やっと男性性という遅まきのアイデンティティを発展させることができる。ストーラー的な見方からすると、女性は「強い性、第一の性」になり、根源にあるのは女性性であって、男性性でないということになる。(『男は女 女は男』p252254

 

 男の子は女の子と違い、その発達段階で「自分は母親とは違う」ということをはっきり示さなくてはならず、自分の性的アイデンティティを獲得するために努力をしなければならない。バダンテールは人類学者であるマーガレット・ミードの次のような言葉を引いて男性のジェンダー・アイデンティティの獲得を解説する。

 

   ミードは次のように言っている。「文明がかかえる永遠の問題は、男の役割とは何かということを満足のゆくように定義することである。男性が人生のなかで重大なことをなし遂げたという確固とした感情を持てるようにすることである。」そのために大部分の社会では、女性には禁じられた権利や、女性が参加できない活動を作り上げてきた。それは男性たちに男らしさの傲りと、重大なことをなし遂げたという感情からくる平和な気持ちをもたらした。(同、p252

 

 男性が女性よりも優位であった理由、それはフェミニズムがいろいろと検証を試みていることであろうが、本当のところはこのように案外可愛いものだったのかもしれない[10]

 

    * 養老氏も「女は放っておいても元気だが、男はケアしてあげないと元気でいられない生き物なのだ」

と語っていたのが印象的であった。

 

5.「<子供>の誕生」と母性愛

■ 中世の日本の子供観と西洋の子供観

アリエスの『<子供>の誕生』(1960)では、子ども期の不在(=大人と子どもの未分化)が指摘された。また、中世ヨーロッパにおいて、子どもは神の意志で生まれ、神の意志で死ぬものであり、人間とは違った生き物として説明される。西洋では、子供というものがすでに一人前の人間のあらゆる体裁をそなえているとは考えられていなかったし(『<子供>の誕生』p40)、子供は「小さな大人」になる前は、単なる“生き物”であった。だから、母性愛が出現した時、西洋人は初めて子どもというものが愛情をかけるに相応しい価値ある対象であることを発見する。では、東洋では、子どもはどのような存在として認知されていたのだろうか?

 

実はアリエスの研究より11年早い19491月に石川謙(教育学者と思われる)が日本の児童観の発達について調査をしている(石川がこの研究を思い立ったのは大正6年−1917年だそうである)。その目的について石川はこう語っている。

 

  児童観といふのは、児童についての大人の考へ方を指すのであり、裏返していふと、大人の頭に描かれた子供像を意味するのである。時代々々の生活と文化―砕いていふと、政治経済の仕組や思想・信仰の在り方や、それらが絡み合って運ばれて行った具体的な社会運営の生態やが、因となり果となり、経となり緯となって、時代々々の児童観を織り出して来るのである。…この意味では児童観の歴史は社会史の或る方向を代表する。そんな廣い立場から発言することを差し控えて、狭い意義での教育史の圏内にたてこもって考へて見ても、それぞれの時代の、児童教育に関する多くの問題、1.入学年齢と学習年限 2.教材の選択と排列の方法 3.学習の方法と教科課程 4.学校の編成法と学制 などは、いづれもその時代の児童観との深い関係において成立したものである。かう考へて来ると、児童観の発達を研究することは教育史研究の、極めて重要な仕事の1つと言はなければならぬ。にも拘らず、この方面の研究は我が国においてだけでなく、米国でもヨーロッパでも、まだ権威ある報告が出ていないやうであって、私の深く遺憾とするところである。(『我が国における児童観の発達』序p1〜2)

 

 それでは、石川の研究を追ってみたい。先ず石川は、第1章第1の1で“大人の延長としての子供”と題して、以下のように述べる。

 

  (少ない資料のなかで中世の軍事物語に登場する子供の場合には)子供はカント哲学における物其自体の如く、触れることも知ることも許されぬ「厳粛なる闇黒」として据え置かれるだけで、その周辺をてんめんとして圍繞(とり囲む)する大人の情緒のみが、目指された當の対象である。児童観の正しい資料をここに求めることは出来ない。子供を大人の延長とし、継続として見る観方は、中世においてもまた支配的であった。といふことが、文献に徴し得るものだけからなら、一應言っていはれぬこともない。自叙伝や一般の伝記類の多くは幼いものの中に顔をのぞけている後の日の彼を、つまり大人を、−大人の姿だけを、かい摘んで描いている。…神童とは「子供の大人」を呼ぶ名であったとしか、今の我等には受け取れない。(同、p4

 

 そして、中世がそのような児童観であった社会的根拠として(同、p823

 

1.  再誕信仰(生れ替りの思想)の普及

仮にこの世で親子のすがたを呈しているにしても、過・現・未の三世に亙る廣い立場から見ると、何れを親、何れを子とも定め難い輪廻の一齣(コマ)に過ぎない。だとすると、子供は子供ながらに大人である。

2.  武家による社会統制形態の確立

家庭生活に主従関係が持ち込まれて家長制度が成立しており、武家集団にあっては、主君でもなく家来でもない、嫡男でもなく次男・三男でもない人間そのもの、児童そのもの、といったやうな生活は見出されず、児童観の発生し生育する見込みも先づまづなかった。

3.  縁坐法の勵行

重罪になると、親なり兄なりが犯した罪の巻添いを受けて、子弟もまたお仕置きを蒙らなければならなかった(謀反、大逆は同罪とみなす)。こうした法律の下では、個人の自由や、大人の世界の外に立つ子供の世界が認められなかったのも自然な成行であった。

4.  公家の子弟の早期出仕

公家、特に摂政関白になり得る家柄の子息は、2030年で関白に辿り着くため、振出を急がなければならなかった。言葉を変えていふと一日も早く元服して、子供の内に大人の仲間に入らなければならなかった。(8歳で元服、左中将になった二條良基の例等を紹介)

5.  皇室における御践祚の御年齢

鎌倉時代にあっては御践祚の平均年齢は10歳〜11歳の間で、御譲禪のそれは凡そ20歳。朝廷側の御政策や政治上の意味合いがあったにせよ、10歳そこそこで御位におつきになった天皇には、子供らしい生活を楽しまれる児童期が、事実上はなはだ短かったことと察せられる。

6.  奴隷制度の残存と子供売買の悪習

農民を主体とする中古の庶民階級は公民の名に呼ばれていたけれども、その生活は農奴に近いところの、貧しくも惨ましいものであった。庶民階級の下は事実上の奴隷であって、しばしば売買されていた。奴隷制度は公認されており、それに乗じて、親にして子を売るもの、年少ない娘や息子を質物にするもの、人買いや小児の略奪・誘拐を業とするものが族出した。このような社会情勢の中に、児童観の正しい発達を期待することは無理な相談である。

 

 を挙げている。また、第4章の“児童期の区分”では児童の発達は年齢によって4段階に分けられていたこと[11]、出生以前の子供への教育的配慮として、女子の結婚適齢期を18歳とし、昼夜の均衡がとれている2月と8月が結婚(妊娠)に適している等の記述があることを紹介。また、「胎児の成長のある段階が仏像の大きさを規定する標準となっていると説く点は、仏像に向ける崇敬の念を移して胎児に接すべきだ、とする要請が言外に溢れていて注目に値する」(同、p70)とも述べている。

 

 また、女性に関するものについてはこのような記述がある。

 

  夫と妻の闘争猜疑の中に産れた子は橋にもかからぬ無道者となるし、明るく朗かな家庭に生れた子は正しく賢いものになる。といふのが趣意のこの一文である。また別に、根性も行状もよくない妻とはいそいで別れてしまへ。でないと二人の間に「儲タル子モ嫉妬ノ心ヨリ生ジタレバ。男ナガラ女義」みたいなものしか出来ないとも言ひ、人柄と心掛けとの優れた婦人に対しては「妻ナガラ敬ヒカシヅクベシ。」とも説いている。(同、p69

 

参考までに乳母についても紹介しておくと、

 

   「誕生ノ蟇目ヨリ7歳マデノ学文始メマデ」が取別け大切な時期だとし、その内「君ハ又ヲチ・メノトノ膝ニ三歳マデ」(*四歳からは教育段階が変わる)居るものとした『世鏡抄』が、乳母の責任を重いものとして其の選択に注意を払ふと同時に、乳母その人の心掛けをこまごまと説いているのは極めて當然である。…養育すべき幼い君に向って、心身を捧げつくすべきを説くのであった。乳母はまたそれ故に、我が乳房を清潔にすると共に我が栄養を豊かにしなければならなかった。(同、p73

 

 これらから、日本では「子供は大人」であって、子供は大人と対等の罪や責任、仕事を任されていたため、児童観の発達は望めなかった。そして、(少なくても上層社会では)西洋とは違って生まれたときから人間として扱われていたらしいことがわかるのである。石川の研究はまだまだ分析がたらないとか、組織が完全でないといった様な国内の批評を受けるが、海外においても同じような反響があり、「ロンドン大学の助教授アール・ピー・ドゥさんなども、はるかに手紙をよせて英国において従来この方面の研究を欠いているが、今後多いに研究する必要があると思う、と言って来られた。」(同、序p5)と述べている。果たして、アリエスはこの研究を知っていたのであろうか?

 

■ アイヌ文化にみられる子供観

それでは、中世よりもっと以前の日本はどうだったのであろうか?太古の昔、そう縄文時代、我々(と言っていいのだろうか)の祖先は独特の宇宙観を持っていたようだ。哲学者であり仏教学者でもある梅原猛氏(現在、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター顧問)は日本の8世紀の文化をずっと調査してきたが、まだ奥があると感じ、1万年前の縄文文化に辿り着く。そして縄文文化にみられる土偶の謎について、アイヌ文化と比較してこのような結論を導いている。

 

アイヌの5つの神の言葉がすべて日本の古語と同じである。宗教は外国から輸入しないだろうから、自然人類学的にアイヌは縄文の人間(移民)である可能性が高い。縄文の世界観を知る上で土偶の意味は重要であるのだが、今までよくわからなかった。それが、アイヌ社会の妊婦の葬式のし方を聞いて謎が解けた。アイヌの社会では、すべての生命の誕生は祖先の霊が帰ってきたものと考え、死んだ場合は祖先の待っている天の一角にあるあの世に送られる。胎児をはらんだ妊婦が死んだ場合、妊婦は無事送られるが、胎内に閉じ込められた胎児はあの世に行けない。そこでアイヌの社会では、胎児をはらんだ妊婦が死ぬと、一度埋められるが、再び神事を司る女性が墓から妊婦を掘り出し、妊婦の腹を裂いて、退治を妊婦に抱かせて葬るということをする。土偶が妊婦埋葬に用いられたと考えると、土偶を構成する不思議な5つの特徴にぴったりと当てはまる。この話を雑誌に発表したところ、福島県のある民俗学者から、福島県には明治になっても胎児を妊婦から取り出し、妊婦をわら人形とともに葬るという習俗が残っていて、それを行った人間が死体損壊罪で訴えられるという事件があったという知らせを受けた。このわら人形は土偶の名残であると私は思う。(アイヌ文化フェスティバル2002 H14.10.19「アイヌ文化の世界史的意味」講演)

 

 この他にも、イヨマンテは、熊の皮をかぶった人間を、神が熊の皮と肉をプレゼントしてくれるために遣わしたものであるとか、貝塚は貝のゴミ捨て場ではなくお墓であった等、その世界観は西洋のものとは全く違うといって良い。西洋において、子どもは、(親が)葬式に出席しなかったり、「それ」とか「その生き物」などと呼ばれて人間扱いされていなかったのに対し、東洋では、祖先の生まれ変わりとして、死後もここまで大切に扱われていた。何より、貝にまで墓を用意するという発想は、生きとし生けるものに対する母性的な畏敬と崇拝の顕れでなくて何であろう[12]

 

以上、2つの研究から、西洋で母性愛が出現したずっと以前から、日本社会には母性愛に近しい感情(母親以外の人間にもある母的意識とでも云おうか)があったと私は考えたい。勿論、日本の農村でも乳幼児は大量に死んでいったし、幼児にかまう暇などないくらい貧しく、忙しかった[13]。それでも我々は、子どもに対して、西洋とは異なるある種の温かいまなざしを持って接していたのではないかと考えた方が、違和感なく受け入れられように思うのであるが如何だろうか?

 

6.「母性」のその後(バダンテール「男は女 女は男」より)

■ 「母性」に近づく「父性」

バダンテールは、1980年の『母性という神話』出版の後、1986年に『男は女 女は男』という大変ショッキングなタイトルと興味深い内容の本を出版した。彼女はこの本の冒頭で以下のように述べている。

 

   差異の中の平等、つまり対称は、フェミニズムのスローガンであるだけではない。民主主義社会において、父権制失墜が(男女の)補完性モデルの失墜を道連れにしたのは、この対称をないがしろにしたためかもしれない。だが、補完性モデルの特性である役割区分と男女の不平等な関係とは、きわめて密接に結びついているように思われる。だからこそ正しいか間違っているかわからないままに、私たちは不平等な関係を変えるためにあらゆる手段を講じ、「生まれつき」の持ち札をひっくり返すことになるのは承知の上で、役割の区分にも終止符を打とうとしているのである。(『男は女 女は男』序、p6

 

 要するに、「男女は補完し合うものだ」という普遍的とも思われた旧来のモデルを放棄するということは、「男も女も両性的であり、同じ役割を持たなければならない」という有史始まって以来の新しい男女のモデルを確立するということを意味する。「男女平等」を掲げて女性が男性化することは、一方で、男性が女性化するということなのだ。

15年ほど前から、大部分の西洋社会ではすこしずつ父性と母性を分ける境界線がぼやけてきている。男たちは親であることの意味を、受け売りではなく直接的に学び始めた。女が子どもに対してずっとやってきたことを、いま男がやり出したのである。新しい父性を獲得した彼らは、「養育者としての自我」と女性性を自分の中にみとめる。それまでそんなものが自分に存在していたなどとは知らなかったのだ。(同、p228

 父性と母性の違いについての研究がなされる一方で、一般的な育児書からは父母の違いは消えつつある。「妖夫」とか「初産夫」のことが話題になり、正常な初産夫(男性の擬娩)について詳細な研究を行った民族精神分析学者は「出産に直面した時、男性と女性は驚くほどそっくりな幻想を抱く」という結論に至っている。(同、p231)また、ハーバード・メディカル・スクールの小児科医であるヨグマン博士も「妊娠から新生児の世話までの体験を見ると、心理的な面では父親と母親はそっくりであることに驚かされる」と告白している。(同、p232

 このように、出産に立ち会った父親には、間違いなくこの時期に男性の生涯のうちで一番はっきりと心理的両性性が現れる(同、p232)のであり、これらの研究結果から、女性だけのイベントであった妊娠や分娩という経験も、心理的レベルにおいて、男女に及ぼす影響に思ったほど差異がないということがわかったのである。

 

■ 「突然変異」としての両性具有の到来

両性具有とは、辞書によると、「自分の性ではない性の特質をあわせ持つ個体である」というのが正しいそうだが(『男は女 女は男』P239)、端的に言って、心理的に男でも女でもあることが可能であるということである。個人の開花は自らの両性性を認識することから始まるということは、今日ではおおいに認められている(同、P240)らしい。では、この新しい概念が注目されるきっかけとなった研究について、『性役割』の著者、鈴木淳子のテキストを引用しよう。

 

   男性性および女性性についての概念である性度に関しては、従来、パーソナリティ理論における男性性と女性性は同一次元上にあって対立する二つの極としてとらえられ、各個人はそのどちらか一方しか持たないとされて来た。しかし、Bemは男性性・女性性に関して新たな視点を取り入れた研究を1974年に発表した。文化に規定された男性性・女性性のあり方にとらわれない健全な精神という概念を発展させるため、男性性・女性性を独立した二つの次元ととらえ、別々に測定することができるようBem Sex Role InventoryBSRI)を作成した。…その結果、ある個人が男性性と女性性の両方の特性を兼ね備えた心理的両性具有(androgyny)であることが可能なこと、しかも心理的両性具有者が最もすぐれた社会的な適応力を所有していることを示した。(『性役割』p22

 

 とある。では一体、この両性具有とは何を意味するのか? バダンテールは『男は女 女は男』の第3部1章の1“両性具有の到来”で以下のように述べる。

 

   (男女の)補完性のモデルは、人間は二元的であるという考えを軸として世界像を作りあげてきた。調和の力が行きわたるためには、一方の性がもう一方の性と違っており、また一方の性はもう一方の性なくしては無力であることがどうしても必要であった。…神がふたつの異なったタイプの人間を作ったのは、ただ自分の作品に豊かさと多様性を盛り込むためだけではない。人間に有限性を意識させるためでもある。…創造力のある1人の人間になるためには、2人の人間が合流しなければならない。そうでなければ、神の地位と力が脅かされることになる[14]。(同、P240

 

 そして彼女は次のように警告する。

 

もしも男と女がもっとそっくりになってお互いの区別がつかなくなったら、もしも男女ともに相手の性の重要な部分を自分が持っていると認識したら、彼らは2人になる必要がなくなったと感じるのではないか?自分が神のような全能を持っているという幻想に耽る誘惑に負けるのではないか?こうした疑問はある不快感を催させる。誇大妄想、狂った唯我論、家族や社会の絆の崩壊、つまるところは人間性の死といったことを考えてしまうのである。どう考えても、二元性の必然に従ったほうがいい。なぜなら人間は男と女なのだし、差異と相互的依存関係の絆を抱え込んで、男と女でいなければならないからである。これだけが種の生殖、社会秩序、幸福を守ることができる。(同、p241

 

 「無意識の両性性」を浮き彫りにしたのはフロイトの功績であるのだが、学会が認めてきたフロイト理論は、「前性器期に特有な生まれつきの両性性は、−エディプス的葛藤とその乗り越えのおかげで−しだいに曖昧さをはぎ取った心理的「性の分化」(sexion)に席をゆずる」というもので、つまり、両性性は正常の理想形からは遠いところに置かれ抑圧されてきた。これに対しユングやグロデック、フェレンツィのような理論家は、両性性に「根本的で」ポジティブな位置を認め、全人類に見られるものとした。(同、244〜246) アメリカのストーラーやフランスのクレイレール、クリスティアン・ダヴィッドは両性性について注目すべき研究を行い、ダヴィッドは病的な美や未熟さと両性性を同一視しようとする分析学者に異議を唱え、両性性を逆に評価しようと試みた。

このように、近年、従来異常と見なされてきた両性性が新しいジェンダー・アイデンティティの形として理解されるようになってきている。そして、この両性性をよく実現している性が実は女性なのである。女性は、男性役割と女性役割を造作なく取り替えるが、この両性性のせいで、女性のアイデンティティが脅かされるとは感じない。それどころか、女性はこの他性を、より豊かな、そしておさだまりではない人生を送るための条件であると感じている。(同、P249)そして女性たちが男性に期待しているのは、女性が自らの他性を生きているのと同じように、男性も他性を経験してほしい、自分が女性の双生児であることを認めてほしいということである。(同、250)要するに本音は、「女性にはもともと家事本能も母性本能もない、なのに無理やり押し付けられてきた。この状態を打開するには、ぜひとも男性の家庭参加(女性化)が必要だ」と言いたいのである。勿論もっと積極的な意味で、男性の両性性を支持している場合もある。何故なら、女性たちは女性であるが故に経験してきた幸せの感覚を男性とシェアしたいと真剣に考えているからだ。

しかし、困ったことに、両性具有者にとって自我は最も大切な財産になってしまった。…彼らが熱中するのは「他者」を開拓することよりも、自分自身を最大限に開拓することである。(同、P279)両性性を獲得した人間は、もはや自分の外に足りないものを探すのではなく、自分の内を開拓すればいいと考え、他者に関心が向かなくなるというのだ。そして孤独に勝つためにさらに自我を磨く。もはや愛すべきは自分しかいなくなる。究極のナルシシズムと完全性への憧れがそれを可能にするのだ。しかし、バダンテールはこう述べる。

 

私たちは不完全な両性具有であるから、満足のいく完全性はけっして得られない。孤独でいることを学ぶことは一つの力を得ることであるが、目的ではない。二つの存在がお互いの自由を尊重し合いながら融合するという今日のカップルの極端に困難な要求を、この学習が可能にするのである。(同、p293

 

 エドガール・モランのように、「男性の女性化、女性の男性化は、人間性を完全に実現するための一つの進歩だ」と考える楽観主義者らは、両性性をないがしろにすることは、「個人の破壊」であり、男女が根本的に理解しあえないのは結局このせいだと主張する。デュニはニュージーランドのマオリ族の観察からこう結論付ける。「本当のカップルは、それを構成している二人のそれぞれのなかに、まずカップルが存在していなければならない。」(同、P258)それに対し、バダンテールは次のようにコメントしている。

 

   現実主義と言われようと、楽観主義と言われようと、この説(デュニの結論)こそ明日の社会のモデルになるに違いない。このモデルが社会に受け入れられることを祈る。(同、258

 

 私も同感だ。私たちは新しい未知の航海に向けてマストをあげてしまったのである。

 

 ■ 「母親とは誰のことか?」

 バダンテールは母親についてこのように述べる。

 

 生殖の新しい技術によって、生殖についての古い馴染みの基準が混乱してしまった。子どもを産む過程に複数の女性が関与するかもしれない今日、そのうちの誰に「生殖能力がある」と決められるのだろうか?「母性が分裂」した場合、母親は卵母細胞を提供した女性なのだろうか、それとも受精卵を受け入れた女性なのだろうか?それが判らないままに、私たちは欲望を重視して、生命に関することにはフタをしたがるのである。遺伝的母親、子を宿した母親、育ての母親のうちで、私たちは結局育ての母親が母親という名を名乗るべきだと思われる。その場合、母親と父親との違いは何もない。こうしたことは例外ではあるが。(p273

 

 男と女の役割がないのなら、父親と母親の役割もなくなってしまうのか。バダンテールは「父親と母親の違いはいまや身体的なものというより、ジェンダーについて彼らが抱いているアイデンティティからくる。その違いは性的というよりは個人的である。」(p273)と述べる。そして、この章(第1章“男女の類似性”)を以下のように締めくくる。

 

    両性具有的な人間観は、男女を可能なかぎり最大限の類似にまで近づける。こうすることによって、個人的な差異のあらゆる表現が可能になる。人間社会はもはや二つの異性のグループに分けられるのではなく、多数の個人から成り立っている。そして個人はそれぞれ、あらゆる意味あいで互いに似かよっていながら、また異なっている。(同、p273

 

7.終章 〜母性のゆくえ〜

■ 母性に目覚めた男たち(男が妊娠する社会)

 

〜訳者あとがきより〜

バダンテールの『男は女 女は男』は、出版されるやいなや、ただちにベストセラーとなり、それも長いあいだ続いた。新聞や雑誌もこぞってこれをとりあげた。『ヌーヴェル・オプセルバトゥール』誌などは、この本を「今年最も挑発的な論文」と呼んだ。その後同誌は、フランスの16歳以上の男女を対象にアンケートを実施した。それによれば、「新しい医学のおかげで男も子どもを産めるようになったとしたら、それを進歩だと思うか、それとも人間に対する冒瀆だと思うか」という質問に対して、35歳以下の男女の46%が「進歩」だと考えている。さらに「女性の代わりに自分が妊娠してもよい」と考えている35歳以下の男性は、積極的・消極的あわせて(つまりぜひそうしたいという人と、そうするかもしれないという人を合わせて)、32%を占めた。つまり3人に1人の男性は女の「大事業」を肩代わりしてもよいと考えている。一方、35歳以下の女性のほうでも、パートナーの男性にぜひ妊娠を代わってほしい、あるいは妊娠してもらってもいいと答えたのが47%も占めるという結果が出たのである。「子どもは女が産むのであって男ではない」という事実は、強力なコンプレックスとして男性の深層心理に一番奥にかくれているということは、神話学や人類学、精神分析学などによってすこしずつ明らかにされてきた。もしこのコンプレックスが先端技術によって一挙に解消されてしまうとしたら?ジェンダーの混乱は重大なものになるだろう。

 

 男性の中の女性性を目覚めさせるということは何を意味するか?それは、男性の中に女性と同じように「子どもを産みたい」と思う心が芽生えることを理解してあげるということだ。それを私たち女性が押さえつける権利はない。母性を身につけるとはそういうことであり(子どもを産むだけが母性ではないが)、よって、将来、それを実現したいという男性の願いに、社会は何らかのかたちで応えなければならなくなるだろう。それは、望むと望まないとに関わらず、女性たちが主体となって起こした変革の行き着く先であり、両性具有となるための避けて通れない課題である。

 男と女は、精神的にも肉体的にも完全平等を目指すのか、それとも肉体だけは差異を残すのか?(そんなことをしたら、男性の神経症が増えると思うが…)または、人間から“出産”という機能を切り離すのか?(最近、自分の子宮を使わないで子供を持ちたいという女性が増えてきたようだ)

 ともあれ、バダンテールのこの挑発的とも言われた命題は、既に我々の現実的議論の射程内に入ってきており、クローン人間の是否とともに21世紀の大きな論点となっていくだろう。

 『「男女共同参画社会」は単に「男性+女性」ではなく、全く違った社会を生み出す』とした私の予感は、このようなかたちで私に深刻な命題を突きつけてきた。私たちは、これからも「母性のゆくえ」に細心の注意を払って、「男女共同参画社会」を進めていかなければならないということだろう。

 

『ヌーヴェル・オプセルバトゥール』誌によるインタヴューに答えて:バダンテール

「(この本のなかで)私は学問という仮面をつけて驀進しました。けれど、私がいちばん言いたかったことは、たとえ男女がそっくりの双子になって、根源的な革命が起りつつあるとしても、人類は生き延びることができる、楽観的に現実を直視しましょうということなのです。」

 

Fin

 

 

 

 

<参考文献>

             エリザベート・バダンテール、『母性という神話』(1980)鈴木晶訳、筑摩叢書(1991

            エリザベート・バダンテール、『男は女 女は男』(1986)上村くにこ、餐庭千代子訳、筑摩書房(1992

             エドワード・ショーター、『近代家族の形成』(1975)田中俊宏・岩崎誠一訳、昭和堂(1987

             フィリップ・アリエス、『<子供>の誕生』(1960)杉山光信、杉山恵美子訳、みすず書房(1980

             ジャック・ドンズロ、『家族に介入する社会−近代家族と国家の管理装置』(1977)宇波彰訳、新曜社(1991

             フックス、『風俗の歴史2ールネサンスの恋愛と結婚』(1912頃)安田徳太郎訳、光文社(1953

             ヴェルナー・ゾンバルト、『恋愛と贅沢と資本主義』(1967)金森誠也訳、(有)論創社(1987

             ブリジット・ヒル、『女性たちの18世紀−イギリスの場合』(1984)福田良子訳、みすず書房(1990

          イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ、『母親の社会史』(1977)中嶋公子・宮本由美訳、筑摩書房(1994

             小此木啓吾、『フロイト思想のキーワード』講談社現代新書(2002

             山本七平、小此木啓吾、『日本人の社会病理』講談社(1982

             河合隼雄、『母性社会日本の病理』講談社+α文庫(1997

             鈴木淳子、『レクチャー「社会心理学」V 性役割<比較文化の視点から>』垣内出版(1997

             脇田晴子編、『母性を問うー歴史的変遷』(上、下)人文書院(1985

          グループ・母性解読講座、『母性を解読する−つくられた神話を超えて』有斐閣(1991

          井上輝子、上野千鶴子、江原由美子、『日本のフェミニズムD 母性』岩波書店(1995

          上野千鶴子、『近代家族の成立と終焉』岩波書店(1994

          石川謙、『我が国における児童観の発達』(1949)日本<子どもの歴史>叢書2、久山社(1997

             林俊一、丸山博、『農村の母性と乳幼児、乳児死亡の実態』(1932)日本<子どもの歴史>叢書10、久山社(1997

          養老孟司、「女性のこころ、女性の脳」女性のためのメンタルケア講演(2002.9.17

          梅原猛、「アイヌ文化の世界史的意味」アイヌ文化フェスティバル2002講演(2002.10.19

          Bem, S.L., The measurement of psychological androgyny.Journal of Consulting and Clinical Psychology, 42, 155-162 (1974)

          Bem, S.L., Gender schema theory : A cognitive account of sex typing.Psychological Review, 88, 354-364  (1981)

 

<人口学関連文献>

             富田富士雄、『人口社会学の基本問題』新評論(1967

           NJG・パウンズ、『近代ヨーロッパの人口と都市』(1985)桜井健吾訳、晃洋書房(1991

             阿藤誠、『現代人口学』日本評論社(2000

             阿藤誠、早瀬保子編『ジェンダーと人口問題』大明堂(2002

             津谷典子研究会、「戦後先進諸国における出生率の国際比較」H14年度三田際論文

 

*今回は、人口学と母性の関係は調べることができませんでした。収集した参考文献だけ載せておきます。



[1] ショーターは「母乳保育をするかどうかが子どもの生死に関わるものであれば、それを母性感情の発達の1つの指標と考えてもいいだろうし、伝統社会で母親が母乳で子どもを育てようとすれば、収入を犠牲にしなければならない(「犠牲テスト」に合格する必要があるということ)。だからこそ、母乳保育は母親が子どもの健康に第1の価値をおいているという明確な指標となるのである。」(『近代家族の形成』p190)と述べている。

 

[2] 18世紀末あたりから捨て子が極度に増加したのは、実はこのような事情による。「養母に給料を払うことによって、捨て子の条件に規則が適用されて以来、新しい種類の捨て子が急に始まり、たちまち異常なほど拡がった。いまや、養育院の捨て子収容口に子どもを連れて行く母親には、捨て子をするという意識はない。もしも子どもと別れたとしても、数日後には連絡してくる女性と共謀して再会することになる。養育院があまりにも多くの赤ん坊を預かると、その施設では充分な面倒が見れないことがわかり、農村の養母が必要になる。そこで彼女たちに子どもを預け、それに対する手当てが支払われた。連絡係の男が、養育院から養母のところへ赤ん坊を連れて行くが、やがて重大な混乱が生ずる。農村の未婚・既婚の女性たちが、自分の産んだ子どもを捨てた方が大きな利益になると考えたからである。つまり、赤ん坊を連れてくる男と共謀して、数日後に自分の子どもを取り戻すならば、何ヶ月かのあいだ自分の子どもに授乳する喜びがあり、そのあと手当ももらえることになる。あらゆる調査にもかかわらず、こうしたいかさまが行われていた。何か特に配慮しなければならないことがあって、さしつかえのある母親が、自分の家で子どもを育てられないばあいは、近所の人が正式な手続きをへてその子の世話をしたのである。」このため、フランス政府は1827年の通達で、養育院の子どもたちを別の県に移すことを命じた。その結果、1837年までに、通達によって移管された32千人の子どものうち、この処置が取られたあと、8千人は母親が名のり出てまもなく引き取られたが、残りのほとんどは、乱暴な移送のために死亡した。国はこの処置の失敗を認め、母親に在宅のまま乳母と同じ手当てを支払う制度を導入。それによって捨て子を止めさせることが可能になり、他方では、母親の状況を行政当局が調査し、それに基づいて手当てを配分することができるようになった。これが20世紀初めに家族手当が生まれる原型となった。(『家族に介入する社会』p31)つまり25%の捨て子の母には母性があったのだ。だとすると、ショーターがここで指す「身銭を切って預かろうとした母性愛に目覚めた乳母」とは本来の母であったのか、他人である乳母であったのかは検証の必要があるだろう。

[3] 適齢期の女性たちが夜なべ仕事の小屋に集められ、若者たちが小屋をまわって知り合う。母親たちがその交際を監視するというもの。

[4] 祭りの時、村の広場や通りで適齢期の若者が一堂に会し、関心を持っている若者たちをマッチングする。村人たちがその様子を監視する。

[5] 少女の品定めをしに集団で家々を訪ねた後、一人ずつそれぞれの家に止まってその家の女性と純潔なまま一夜を過ごす。

[6] 逸脱した行動をした個人を共同体員の面前ではずかしめるための騒々しい公的示威行為(引き回しや藁人形で火刑等)

[7] 『エミール』の後、母性は別の意味を持つようになり、やがて人びとは、母親は子どもの教育と彼らの知的形成の重要な一部をも受け持つべきだ、と考えるようになった。人はこの母親の任務の偉大さや高尚さをたたえる一方で、それを完璧にこなすことができない女たちを非難した。責任は罪悪となり、子どもの問題は何でも母親のせいにされるようになっていった。(『母性という神話』p290

[8] 古沢平作氏が日本人の精神構造を分析する上で、西洋の「エディプス・コンプレックス」に対して「阿闍世コンプレックス」を発見したが、その阿闍世の特徴(憎んだ相手に救われたり許されることによって生まれる自発的罪悪感など)を応用して小此木氏が命名したマゾヒズム論のこと。日本人は自我(自由意志)がないのではなく、縁や報恩など見えないものによって自発的に行動する。その結果が、「上司は率先して他人より自分の負担を重くする」「部下以上に骨を折る」という「マゾヒズム型支配」を成り立たせる(『日本人の社会病理』p95)としている。

[9] 熊谷直実が平敦盛を救うため、敦盛をかくまった場所に自分の16歳の息子を置き、発覚した時に身代わりとして自分の子の首を差し出させた。直実は我が子の首と知りながら、「敦盛に間違いなし」と言って目の前の首の確認をするという場面がある。この後、直実は出家するが、「16年のひと昔、夢だ〜、夢だ〜」と語るところは有名である。

[10] 男性のジェンダー・アイデンティティ獲得のプロセスについては、バダンテール『XY 男とは何か』(筑摩書房、1997)に更に詳しい分析があるので、そちらも参照することで、より明らかになるだろう。

 

 

[11] 第1は生まれてから髪置が行われるまでの嬰児期であって、乳母などの手によってひたすら体の発育に注意される時期。第2は髪置がすんで深曾木・著袴が行われるまでの間で、幼児期である。この期間には身体の発育に注意が向けられると共に、躾に格別の注意が払われる。第3は著袴から紐落しがすんで十歳十一歳にいたる間であって、これを少年期の前半期と見ることができる。手習・学問がこの期間に始められるし、射術・馬術の稽古もはじまる。第4は十一二歳から十五歳までで、少年期の後半期に属する。学問も武術も一通りの稽古がここで完成して、元服を待つばかりとなる。これは大体の模型的な進路であるが、個々には違ってこよう。(同、p67

[12] このような「母性原理」は、特に日本文化に特徴的であるが、「全世界にわたって古くから存在する大地母神のようなものであり、そのような「母性」はすでに現実の個人としての母親の機能をはるかに超えており、すべての母に共通に普遍的な無意識の中に存在するものと考えられるので、このような母なるものの元型をグレートマザーと呼び、個々の母親と区別して考える」(『母性社会日本の病理』p60)ということである。

[13] 1941年の秋田の農村調査によれば、婦人の苛酷な農業労働により流早死産が多発し、育児及び家事の著しい荒廃を招いているとしている。例えば、幼児は全く一人ポッチに放任され、小川や井戸で墜落溺死したり、空腹で不消化物を食し屡それが基で死亡する。又不潔な堆肥や糞尿が混入した水溜りで泥いぢりした汚れた衣服を長時間そのまま纏って居たり、挙げればきりがない。乳児は一般に長い間隔を置いてしか哺乳されず、…秋田地方では労力不足の家で、「嬰詰子」と云って盥様なもの(たらい?)に乳児を入れて長時間放任して置く事が稀でない。等等…(『農村の母性と乳幼児』p6)これらからは、18世紀のフランス農村の母性愛とよく似た状況が見て取れる。流早死産の原因として、1.母親の年齢が低く(初婚年齢14,5歳)、母性としての任務を充分果たしえない 2.母親の教育が低く、衛生思想や育児方法に無知である 3.母親の健康状態が極端に悪い などが考えられる。(同p26

しかし、母性を理解したとしても、社会はそれを許さない。「母の年齢の向上するに従ひ、相次いで来る子女の出産は子女の養育の母性的任務の質量を増大し、一方に於ては、更に労働の荷重は年齢と共に増強し、遂に子女の死亡率の高率と死流産率の増高結果し来るといふことである」(同p42、農業労働調査書報告13号より)。母性保護が求められるゆえんであった。こうしてみると、母性愛の有無はやはり文化よりも経済的要因の方が先行するということなのだろうか…

[14] プラトンの『饗宴』のなかでアリストファネスが報告している両性具有の神話では、人間は男と女と両方の性を持った三種類だった。両性具有の人間たちは並外れた力と勇気に恵まれていたので、神々を攻撃した。神々は罰として彼らの体を2つに切った。それぞれはゼウスによって補完しあう別々の二種類の人間として生まれ変わった。だから、我々は片割れを捜し求めて恋をするというのだ。バダンテールはこの物語の解釈を替えて、「男と女に二分された」のではなく「どちらも男性と女性の混合物だった」と想定して、両性具有を説明している。(同、p242