j2002年度秋学期小熊研究会1
スピヴァック『サバルタンは語ることができるか』コメント
総合政策学部三年 小山田守忠
1.インドの概況
◎スピヴァック:インド人女性、ベンガル地方出身、現米コロンビア大学教授
ヒンドゥー文化内の男女差別/身分差別をどう考えるか、が一つのテーマ
@インドの独立運動と女性の表象
・ヨーロッパ諸国に対する対抗意識から「伝統文化」を植民地独立運動の過程で持ち上げる、その中でも特に「女性」「母」の存在を強調
例)バーラート・マータ(わが国・母→母国)
ベンガル地方は特に文化主義的な独立運動とマルクス主義の強いところ
・サティや女性の集団自殺の問題がインドのナショナリズムの中で賞賛されるということに対してどういう姿勢をとるべきか、がインドフェミニズム内で問題に
先進国/ヨーロッパのフェミニズム思想をそのまま持ってくると「裏切り者」扱いされるが、在来の女性の位置では問題
→その回答としての近代化論(「近代化すればよくなる」)
A近代化論の行き詰まり
・インド独立運動の担い手(ガンジー、ネルーなど)は合理的なナショナリズムを学んだ西洋からの留学帰り組、近代的なナショナリズムを形成し産業開発をする中で伝統文化も取り入れる(伝統文化を全否定するとナショナル・アイデンティティがつくりにくいが、全面的にうけいれることもできない)
→一部階級(バラモン階級)の文化が「インド文化」に
→インド全体の文化というよりは「ヒンドゥー文化」に
・西洋合理派の開明官僚の特権階層化
インディラ・ガンジー率いる国民会議派による開発独裁体制、長期の統制経済の中でネポティズムが横行、ジャナタ(反国民会議派の連合体)による「異議申し立て」の挫折、ナクサライト運動の武力弾圧による鎮圧
2.サバルタン・スタディーズの登場
・そうした西洋合理的な中央のナショナリズムに対し、野党の立場から「下層民の文化」「人民の政治」を掲げる一派が(主に歴史学方面で)存在
・80年代初頭のインドで「Subaltern Studies Group」が結成
サバルタン:伊マルクス主義思想家グラムシの用語で従属階級の意
・グラムシへの遡及
グラムシの革命論:民衆による民衆のための真の革命を追及しつつ、ブルジョア革命のみならず、社会主義革命も含めて歴史的な革命がいかに民衆から離れた、むしろ民衆を支配するものであったのかを指摘(するところに特徴)、サバルタン階級の歴史を描くことの重要性を説く
当時のインドでも何故「真の革命」が起きなかったのかという問題が歴史学方面で議論→サバルタンの歴史における主体性の回復、「国民が自己実現に失敗した歴史」の叙述へ
・特にエリート主義による歴史叙述の独占と単純なマルクス主義的歴史観を問題化(p.39)
エリートの歴史叙述では植民地支配の正当化や独立後のインドの政治を追認するだけ
→永続的な競合状態におけるサバルタンの主体性の確認へ
・ラナジット・グハ「植民地インドにおける農民反乱の初期的側面」(1982)
農民の意識における政治的な側面を強調(農民の反抗的な行動は全て熟考され計画されたもの、失うものがあまりにも多かったから考えもせずに反乱をおこさなかった)
「歴史」の中で失われたサバルタンの「主体性」や意識の復元という方向へ
断片化されたサバルタンの意識の痕跡、かけら、もしくは変形された彼らの声を復元
・そうしたサバルタン・スタディーズの「成果」に対して80年代後半にスピヴァックが「介入」を行なったのが『サバルタンは語ることができるか』
3.スピヴァックの「介入」
@「サバルタン性」の復元に伴う問題点
サバルタン性の宿る(とされている)「声」「かけら」などの全ての歴史的記録は予め構築されたものではないのか?
あらゆる「事実」や「出典」など証拠となるはずの全てのものが実は構築されたものであり、何人もの人間の解釈をくぐった後の産物でしかありえない
→資料をテクストとして「読む」必要が発生
そのテクストの権威を支えているものの再検討へ(p.31)
「歴史の中で何がおこったか?」だけではなく「何がおこったのかをどのように我々が知るのか?」という点についての歴史を書く必要
例)ヒンドゥー法の法典化事業(p.32)
イギリス統治によるヒンドゥー文化の確定・分類・構築の問題
英が入ってくるときに上層部のバラモンの協力をとりつけてヒンドゥー法典を書いていく、「インド文化」が両者の協力関係の中で構築されていく
「インド文化」を野蛮な文化として構築し確定していったのはイギリス
それをナショナリズムの核としていったのがインドのナショナリスト
お互いが補完関係に立つ(「白人の植民地主義者と原理主義者の共犯関係」)
→その中で発生する「権威あるテクスト」をもとに第一世界の知識人は他者を構築
Aサバルタン・スタディーズの実証主義/本質主義への傾倒
元来サバルタン・スタディーズはエリート主義的な「植民者」や「国民」(国民主義的エリート)の語りに還元されるような、非歴史的な歴史記述を批判
するためのものそうした批判対象と「同じ土俵」でたたかう(サバルタン主体の産出)中で、そうしたエリート主義と同じく本質主義的/実証主義的な
操作がサバルタンに加えられてのではないか?
例)「反乱者」としてのサバルタン(p.49)
サバルタンの人々は反乱をおこすこともあるが、もともと反乱者として存在しているわけではない。しかし、サバルタン・スタディーズにおける記述が進展するに従って「主体」としてのサバルタンは一貫して本質主義的な「反乱者」へと収斂していく。(そもそも断片化されたサバルタンの「痕跡」や「声」といったものは、最初からサバルタンを「反乱者」として規定している資料からとってくるしかなかったため、そうした資料に「忠実に」アプローチした当然の結果とも言える?)
Bサバルタン女性の「二重の排除」
サバルタン・スタディーズに属する(男性)知識人たちが歴史記述における主体化を施すことによって、サバルタンを固定された主体として産出し、サ
バルタンに「なりかわって」言葉を発し、その結果サバルタンを二重に排除してはいないか?
その中でも最も<搾取>されているのは女性(p.50)
例)ブヴァネーシュワリー・バッドリーの自殺
・スピヴァックのサバルタン・スタディーズへの参入
サバルタンの歴史記述の可能性とは?
実証主義的本質主義の戦略的利用(権力構造の「差違」としてのサバルタン、「語ることのない」というサバルタン性)
→「表象」による他者性の搾取の危険性を徹底的に排除することによって、そうした存在に「語りかける術を学び知ろうと努める」(p.74)ことの重要性を説く
*最後に言い訳を・・・。
「日本人」で「男性」の私がインドのサバルタン女性の状況について偉そうに云々抜かしていること自体「表象」による他者性の搾取であるとは思いつ・・・。失礼しました。
<参考文献>
スピヴァック『サバルタンは語ることができるか』みすず書房、1998年
R.グハ『サバルタンの歴史』岩波書店、1998年
崎山政毅『サバルタンと歴史』青土社、2001年
片桐薫編『グラムシ・セレクション』平凡社、2001年
『現代思想』1999年7月号、青土社、1999年