2003年1月15日 小熊研究会
「60年安保闘争 ―大衆と外交―」
総合政策学部三年 南 智佳子
E-mail: s00884cm@sfc.keio.ac.jp
1 序論
1−1 問題意識
1−2 研究対象と研究方法
1−3−1 安保闘争の通史
2−1 安保改定の概要
2−1−1 保守政権による安保改定の動機
2−2 60年安保闘争について
2−2−1 60年安保闘争の概要(資料1・年表参照)
2−2−2 60年安保闘争の参加主体
2−2−3 安保闘争の経過
2−2−4 60年安保闘争の特徴
3 結論
4 今後の予定
5 参考文献
6 資料
1 序論
1−1 問題意識
1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安保条約(1951年調印)を改定しようとしたとき、日本では大規模な反対運動が巻き起こった。当時、日米安保条約の内容について詳しく知っていた人は、決して多くない。反対運動の最中にも、大衆にとって「安保は入りにくい[1](難しい)」ということがよく言われ、大衆にとって安保条約が馴染みにくいものであったのは、世論調査でも明らかである[2]。このような背景を持ちながらも、なぜ安保闘争は多くの大衆を巻き込んだ大きな反対運動となりえたのだろうか。
本研究では、安保闘争が生まれた背景、安保闘争の特徴などを追いながら、安保闘争が大規模な運動になった理由、また大きな反対運動になりながらも新日米安保条約が発効した後は闘争が急激に盛り下がった理由などについて、資料調査に基づいて考察する。
1−2 研究対象と研究方法
安保闘争が盛んであった1960(昭和35)年前後に発行された新聞・雑誌、その他の資料を調査。
1−3 先行研究
1−3−1 安保闘争の通史
・ 井出武三郎『安保闘争』、保阪正康『60年安保闘争』など
@小熊英二「六〇年安保闘争」『<民主>と<愛国>』第12章
当時の「言葉づかい」や「心情」を中心に、安保闘争において見られた知識人や民衆の意識が描かれている。著者は、60年安保闘争では久しく言語化されていなかった戦争への記憶や感情が噴出した時期であり、戦争の記憶や悔恨の想起は、岸内閣への不信、全学連主流派への同情、竹内好らによる教職辞任への行動などに繋がったとする。
また安保闘争においては、既存の組織に不満を持っていた人々が自分達で組織を作り始め、のちの「新しい市民運動」の萌芽が生れた。さらに運動の速度は電話、テレビなどのテクノロジーの発達によっても促進されたとしている。
安保闘争においては、愛国心とデモクラシーを求める感情が結びつき、民主主義を希求する国民による下からの「革命」が起こっていた。そして安保そのものへの反対よりも、岸に対する反感と、全学連に代表される「素朴」な正義感に裏打ちされていたため、岸が退陣し、安保の自然承認によって敗北が明らかになった以上、運動が退潮するのは避けられなかったとしている。
さらにこの時期には、言語の転換が起こり、「市民」という言葉が肯定的な意味を持って定着した。
A 高畠通敏「「60年安保」の精神史」『戦後日本の精神史』
60年安保闘争を戦後から展開された「革新国民運動」の一形態とし、その構造を明らかにするとともに、当時の知識人の言論について言及している。「革新国民運動」とは、既成の法や制度を守る、本来保守的な運動のことを指し、戦後の新憲法体制の最大の受益者層であった青年と女性、都市の住民によって支えられた。この「革新国民運動」の基盤は、企業や大学などの組織の構成員が全員加入的に組み入れられた組合や自治会などで、このような組織は大政翼賛会などの伝統を汲む共同体意識、<第二のムラ>的意識のあらわれであると規定した。
また著者は、安保闘争において民衆運動のリーダーとなったのは知識人であり、安保闘争は全面講和運動や原水爆禁止運動を経て、次第に高まってきた知識人の社会的影響力の頂点として生まれてきたものとした。そしてこの時期における知識人たちの言論の特徴として、安保闘争が目指す目標として、社会主義的革命社会ではなく、本来あるべき市民社会の理想が掲げられていた。そして個々人の発想の根拠は異なるが、丸山真男、鶴見俊輔、竹内好らの知識人の言論に共通していたのは、それまでの日本においては民衆が既存の権威主義的秩序を解体し、連帯と協力の下に自らの手で権力秩序を再構成する<下からの>革命としての市民革命が未成立であり、安保闘争にその機会を読み込もうとしたという姿勢である。
2 本論
2−1 安保改定の概要
60年安保闘争が起こるきっかけとなった岸信介内閣による安保改定はどのような内容で、どのような動機から生まれたのかを検証する。
2−1−1 保守政権による安保改定の動機
1、日米安保条約への不満
@ 極東条項(第一条):「極東」における米軍の軍事行動に日本が巻き込まれる可能性
米軍による日本防衛義務が記されていない
A 内乱条項(第一条):「独立国としてふさわしくない」との議論
B 米軍の配備に関して日本が関与する余地なし:核兵器を持ち込まれる可能性
日米安保条約第一条「この軍隊(米軍のこと)は、@極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、A一又は二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することがBできる。」(下線部は筆者)
2、在日米軍基地問題の盛り上がり
1950年代には本土において、内灘事件[3]、砂川事件[4]、ジラード事件[5]などによって激しい反米基地闘争が起こり、安保条約に対する不満が高まっていた。
3、保守政治家らのナショナリズム
保守政治家が安保改定を志向した背景には、「不平等条約」と呼ばれた日米安保条約を改定し、双務的で対等な同盟関係を得ようと考えており、安保改定交渉は鳩山一郎内閣のときから水面下で行われていた。
「日本は米国の経済的その他いろいろの援助を受けて立ち直ってはきたが、内心には一種の劣等感があり、一方米国は優越感を持っている。これらは占領時代の残りかすであり、それを払いのけることによって真の平等の立場が生まれてくる」(岸信介『岸信介回顧録』330頁)
@極東条項:「極東」における米軍の軍事行動に日本が巻き込まれる可能性
→事前「協議」の記述(新安保6条)
米軍による日本防衛義務が記されていない
→日米による対日防衛の宣言(新安保5条)
A 内乱条項 →削除
B 米軍の配備に関して日本が関与する余地なし:核兵器を持ち込まれる可能性
→事前「協議」の記述(新安保6条)
だが事前「協議」の実効性は疑問視され、また日本の防衛力を発展させることが条文に明記されていることなど、様々な点が問題になった。
2−2 60年安保闘争について
2−2−1 60年安保闘争の概要(資料1・年表参照)
岸内閣によって安保改定は着実に進んでいた。この動きに対して、日本国内では安保改定への反対運動が組織されつつあった。この反対運動が後に60年安保闘争と呼ばれるものである。日米安保条約をより双務的な条約に改定しようとした岸内閣に対し、社会党・共産党・全学連などが中心となって反対運動を繰り広げた。
この反対運動は、岸内閣が国会で新安保条約を強行採決すると、一層の盛り上がりを見せ、1960年の6.4ストでは560万人が参加した。反対運動においては全学連主流派などの過激派と警官隊との衝突が度々起こり、1960年6月15日には警官隊との衝突で東大生樺美智子が死亡する。樺が死亡して数日後の6.18ストに参加した学生は、全国学生数の12%(8万1000人)を記録した。また安保闘争中に集められた請願署名も2000万を超えたとされている[6]。だが新安保条約が国会承認されると反対運動は急速に盛り下がった。
2−2−2 60年安保闘争の参加主体
1、「安保条約改定阻止国民会議」(以下「国民会議」)
1959(昭和34)年に結成された組織。総評[7]を中心に、原水協[8]、護憲連合、社会党、全国基地連[9]など13団体を幹事団体とし(共産党はオブザーバー)、実行団体として134団体が加盟して結成された団体。地方における共闘組織は約1700組織(1960年7月時点)。結成されて以来、1960年7月下旬まで、22次にわたる統一行動を組織した。
@社会党と共産党との対立
社会党と共産党との間には、闘争目標などにおいて常に対立があった。社会党は闘争目標を「日本の独占資本とこれを代表する岸政府」におき、「アメリカ帝国主義」に対する闘争は必ずしも積極的ではなかったが、共産党は闘争目標を何よりも「アメリカ帝国主義」においたため、ことあるごとに両党は対立した[10]。
A全学連(全日本学生自治会総連合)の動向
全学連には、主に反日共系の全学連主流派と、日共系の全学連反主流派の二派がある。全学連主流派は闘争の中で過激な運動を展開していたので、マスコミからは「赤いカミナリ族」「革命の尖兵」「坊ちゃん革命家」[11]などと呼ばれており、整然なデモを目指す国民会議の指導者層と対立した。
一方、全学連反主流派(日共系)は激烈な街頭闘争はいっさい行わず、整然なデモを繰り返したが、1960年6月10日のハガチー事件では、日共系労組員とともに最初にして最後の実力行使に出た。
2、「安保問題研究会」
1959年7月結成。1959年3月23日、「安保改定は憲法の精神に反し、国際緊張を激化させる恐れがある」という声明を発表し、署名活動を開始した国民文化会議と日本文化人化意義を中心とする学者、文化人など86名が結成した。中心人物に青野季吉、上原専禄、清水幾多郎など。
3、「安保批判の会」
1959年10月結成。作家、評論家、新劇人などによって結成され、「請願デモ」を考案した。中心人物は中嶋健蔵、吉野源三郎、清水幾多郎など。
4、その他の団体
新日本文学会、日本ジャーナリスト会議、民主主義を守る学者・研究者の会、民主主義を守る音楽家会議、民主主義を守り、安保を阻止する全国美術家会議、声なき声の会など
5、右翼団体
右翼団体は、国民会議結成に呼応して共闘組織を結成しはじめる。「安保改定促進協議会」、「安保改定国民連合」、「日本国民会議」、「全日本愛国者団体会議」などが結成された。このような右翼団体は、反安保勢力に対する宣伝活動やデモへの妨害活動を行った。
右翼団体の姿勢に共通して見られるのは、中ソ両国の共産主義勢力から日本の国土を防衛するためには米国との安保条約は必要であること、従来の安保条約は不平等かつ片務的なものであり、日本の自主独立を妨げるため、双務的なものに改定する必要があるという姿勢であった。
2−2−3 安保闘争の経過
@闘争初期(1959/3-10)
国民会議の行動は、地方共闘組織の結成と大衆啓蒙などの準備活動を行っていた。当時安保改定交渉が行われていたものの、交渉内容が公表されていなかったため、運動自体もそれほど盛り上がらなかった。
A調印阻止期(1959/11-1960/1)
安保闘争が盛り上がったのは11.27の第8次統一行動からであった。全国で200万人がデモや集会に参加し、全学連主流派を中心とした国会突入事件が起こる。また1月16日には調印のため訪米しようとした岸を、羽田空港で妨害しようとした全学連主流派と、それを阻止しようとした警官隊との間で衝突が起こる。
B批准阻止期(1960/2-5)
国民会議は闘争を強化。このころから総評は反米基調を強める。また国会内でも新安保条約批准を巡って自民党と社会党との間で論戦が繰り広げられる。
C強行採決以後期(1960/5.19-7)
5月19日の国会強行採決を経て、反対運動は大きな盛り上がりを見せる。6.4ゼネストという大規模な反対ストが行われ、約560万人が参加した。6月15日には樺美智子の死で闘争がさらに激化したが、6月19日の新安保条約の自然承認後、反対運動は下火に。
(また1960年11月の衆議院議員総選挙の結果は、自民党は287→296議席、社会党166→145議席(1960年1月に社会党から分離した民社党は16議席獲得)、共産党1→3議席であった)。
2−2−4 60年安保闘争に見られた特徴
1、闘争そのものに関して
A 安保闘争と春闘などとの結合
B 強行採決(5.19)を境とした闘争の質的転換
C 中央と地方の乖離
安保闘争においては、組織自体や組織を支えるエネルギー、心情などにおいて反基地闘争、警職法闘争などと連続性が見られた。第1、3、6次統一行動では反基地闘争との連携がされていたし、また国民会議の前身は警職法改正阻止国民会議であった。
坂本義和「戦後の基地反対運動その他を通して現れてきた日本のナショナリズムが安保改定の初めの出発点だった。」「現代の政治状況」『世界』7月号
「警職法反対国民会議に集まった国民のエネルギーは、そのまま安保改定反対のエネルギーに転化することになった」保阪正康『60年安保闘争』、35頁。
A
安保闘争と春闘などとの結合
反基地闘争、勤評反対闘争、春闘、秋季年末闘争などとの結合。
プラカードには「安保反対」にまじって「大巾賃上」「週休二日制」の文字も。
B
強行採決を境とした闘争の質的転換
安保闘争は強行採決をきっかけとして、「安保改定阻止」から「民主主義・擁護」に質的転換した。総評は6.22ストに当たって「岸退陣、国会解散」という基本要求に加え、「より民主的な政府の樹立」を掲げている。
江藤淳「5月19日において、問題は転換したということ、安保の賛否を超えた問題になった[12]」
D中央と地方との乖離
また安保闘争は東京、大阪などの都市圏では大きな盛り上がりを見せたが、農村では都市圏ほどの運動は行われず、運動には温度差が見られた[13]。
隅谷三喜男「私が心配するのは、都市のインテリや学生の多くが安保改定反対・民主主義擁護を当然の論理として考えているのに、農村や地方都市の市民の場合には必ずしもそれが当然の論理になっていないことです。政治に対する受け止め方が質的に違っているわけです。[14]」
5.19以降は高校生や主婦、老人などの労働組合などの組織に属していない一般民衆が数多く参加したと言われているが、実際デモやストに参加していた大半は労働組合や学生団体に動員された組合員や学生なのではないだろうか。そもそも総評と警察がそれぞれ発表している統一行動の参加人数には開きがあり、デモの参加人数などに関する詳しい資料を引き続き探してみたい。
2、闘争を支えた大衆の心理
@岸政権への不信
A戦争への危機感
Bナショナリズムの現れ
C市民による「革命」とされた安保闘争
@岸首相への不信
岸信介内閣の閣僚には10人が元戦犯、公職追放された過去を持つ。岸自身、東条英機内閣の商工大臣として宣戦詔勅に署名した1人であった。敗戦後、岸はA級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンへ収監される。その後占領政策の転換で不起訴になり、1953(昭和28)年政界復帰した。
岸は首相就任後、内閣に憲法調査会設置、教員への勤務評定制度の導入決定、警察官職務執行法(警職法)の改正(警察官の職務執行権限を拡大しようとしたもの)などを進めようとしたため、国民の不興を買っていた。そして5.19の強行採決を経て、強権政治ともとれる岸の政策に対し、民衆の間で大きな反発が起こった。また岸が強引に国会を通過させようとした新安保条約そのものに対する大衆の疑念も一層増した。
田口富久男「5.19以後は種種雑多な形で出されていた国民の願望は、6月18日までは、「岸退陣」というかなり人格化されたシンボルに収斂することができた。「岸」というシンボルは、国民各層の怒りや不安の一切を盛り込む、最大の否定のシンボルだったわけでしょう。しかしいまや岸が退陣することによってそのスローガンに託された感情が分解し、運動が全体としてその方向を見失う心配がある[15]」
大河内一男「多勢をたのむ政府の強引な態度と調印内容の不明朗な事態に対しては、安保条約などというものについての大抵な知識をもっていない多くの国民、ましてそれの改定の意味するものについての判断に迷う善意の人々すら、一様に言いようのない反撥を感じていることは疑えない。政府が改定をあんなにまでして急ぐ底には、きっと何かあるに違いない、と誰もが思っている[16]。」
A戦争への危機感
『思想の科学』上のアンケートより「このU2型機事件によって、その緊張を作り出しているのがアメリカであり、アメリカの基地をもつ日本であると考えた時、私の根底にあった、戦争の火付国民にはなりたくない!なってはならぬとの決心が湧きました。長い間に朝鮮民族、中国民族、その他アジアの民族に対して行った恥ずべき残虐行為を思い出す時、それを自分の過去として持つ私のような戦争参加者の苦痛を再び子供達に味わせてはならぬ、今の青年にわだつみの声をあげさせてはならぬ、と決心しました。[17]」
Bナショナリズムの現れ
安保闘争の中で、知識人たちの間にはナショナリズムに関する論調が見られる。こういったナショナリズムは「憂国」という形を取ることもあれば、大衆の連帯によって民主主義を擁護していることに対する、一種の「感動」の形を取ることもあった。
「どうか皆さんも、それぞれの持ち場持ち場で、この戦いの中で自分を鍛える、自分を鍛えることによって国民を、自由な人間の集まりである日本の民族の集合体に鍛えていただきたい。愛国という言葉が、一度は警戒されましたけれども、私は今やはり愛国ということが大事だと思います。日本の民族の光栄ある過去にかつてなかったこういう非常事態に際して、日本人の全力を発揮することによって、民族の光栄ある歴史を書きかえる。将来に向かって子孫に恥かしくない行動、日本人として恥かしくない行動をとるというこの戦いの中で、皆さんと相ともに手を携えてきたいと思います[18]」
編集部「私はいままでは国籍離脱の欲求が非常に強くてナショナリズムとか愛国心とかいう言葉を聞くとぞっとするという感じがあったんです。ところが5.19以降はじめて「よくぞ日本に生れける」という感じ、日本がはじめて世界の中につながるという感じを持ったんですがね[19]」
だが新聞や雑誌への投稿にはナショナリズムが現れる記述は見当たらなかった。一般民衆はナショナリズムを言語化しなかったのだろうか。
C安保闘争は「市民革命」だったのか
竹内好など一部の知識人は、安保闘争では民主主義を求める民衆の「革命」が起こったと規定した。
竹内好「一種の革命はすでに始まっていると思う。しかし、これはいわば政治革命でなく、民衆による民主主義の自発的債権としての精神革命だ[20]」
大内兵衛「われわれが人心の高揚と見たものは、その一般的な性格は日本のデモクラシーそのもの力の至現であるといってよいのである。・・・(略)・・・日本の支配の精神と方法とは戦後においても固定的または退歩的であるが、日本の大衆の政治に対する要求とそれを表現する方法とは、ずいぶん長足に進歩した[21]」
また竹内らと違って、安保闘争における民衆の動きを単なる「開放感の発散」として考えている知識人もいた。
上山春平「5.19をさかいとして運動の性格に質的転換があったことも否定できない。安保反対闘争の流れに大正デモクラシー的な護憲運動の大洪水が合流して、運動の様相は一変した。これを革命的高揚と見る人もあった。しかし「ええじゃないか」の近代版ともいうべき開放感の発散が大勢をなし、少数派をのぞいて革命的決意は稀薄だったのではあるまいか。[22]」
もし二人の意見どちらもが正しいとすれば、二人の意見の違いは「革命」という言葉に対する感覚の違いから起因しているのか、それとも民衆は「革命的決意」を意識せずに「革命」を成し遂げていることから起因しているのだろうか。
結論
そもそも60年安保闘争は、反基地闘争や警職法闘争の延長線上で組織された。闘争の内では、しばしば「安保条約は分かりくい」という言葉が発せられており、5.19以前では運動自体、警職法などと違ってそれほど盛り上がりを見せなかった。そのため運動の指導者たちも安保条約について啓蒙活動を繰り広げながら、春闘などと組み合わせて反対運動を展開していった。
国民会議を中心に闘争が広げられる間、全学連主流派は国会突入を始めとした過激な行動に出る。このような全学連主流派に対するマスコミの反応は冷たく、また国民会議の指導者たちも世論の非難を恐れて、全学連主流派に対し再三注意を繰り返した。
しかし闘争の様相が一変したのは5月19日の強行採決の日であった。日米修好100年のためアイゼンハワー大統領が訪日する6月19日までに、安保条約を批准させようとした岸内閣は国会で安保条約を自民党議員だけで採決し、可決させてしまった。この事実は、戦争を経験した人々に戦時中の苦しい記憶や経験を思い出させ、民主主義の危機を痛感させた。戦時中の苦しい記憶が思い出されるとともに、国際情勢の不安定化で戦争に対する忌避感は一層高まった。また元戦犯であり、それまでも国民の不信を買うことの多かった岸首相は、強行採決という事件でファシズム再来の象徴とされた。この岸首相が強く勧める安保改定を、簡単に是認できないという心理も大衆に広がり、闘争はさらに広がったと考えられる。
5 参考文献
井出武三郎『安保闘争』三一書房、1960年
NHK放送世論調査所編『図説戦後世論史 第二版』日本放送出版協会、1982年
大野明男『全学連 その行動と理論』講談社、1968年
大橋成行『安保世代1000人の歳月』講談社、1980年
女たちの現在を問う会編『女たちの60年安保―銃後史ノート戦後編』インパクト出版会、1990年
樺俊雄、小山弘健『反安保の論理と行動』有信堂、1969年
小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、2002年
岸信介『岸信介回顧録』廣済堂、1983年
公安調査庁『安保闘争の概要 闘争の経過と分析』、1960年
国立国会図書館編『安保闘争文献目録』湖北社、1979年
坂元一哉『日米同盟の絆』有斐閣、2000年
塩田庄兵衛『実録60年安保闘争』新日本出版社、1986年
田中明彦『安全保障』読売新聞社、1997年
テツオ・ナジタ、前田愛、神島二郎編『戦後日本の精神史』岩波書店、2001年
西原正、土山實男『日米同盟Q&A100』亜紀書房、1998年
平田哲男『戦後民衆運動の歴史』三省堂、1978年
保阪正康『60年安保闘争』講談社現代新書、1986年
新聞
『朝日新聞』朝日新聞社
『読売新聞』読売新聞社
雑誌
『思想の科学』思想の科学社、1960年1月〜12月
『世界』岩波書店、1960年1月〜12月
『中央公論』中央公論社、1960年1月〜12月
『文芸春秋』文芸春秋社、1960年1月〜12月
6 資料
資料1 安保闘争年表
1951(昭和26)/9/8 |
日米安全保障条約調印。 |
1954(昭和29)/7/1 |
自衛隊発足。 |
1955(昭和30)/10/13 |
両派社会党統一。 |
1956(昭和31)10/12 |
砂川町・米軍基地の強制測量で地元民、全学連と警官が衝突。 |
1957(昭和33)9/7 |
日教組が勤評闘争開始。 |
1958(昭和33)/10/4 |
安保改定第1回会議開かれる。 |
/10/8 |
警職法改正案、国会提出。 |
1959(昭和34)/3/28 |
安保改定阻止国民会議、結成。 |
1960(昭和35)/1/6 |
安保改定交渉、終了(延べ21回の交渉)。 |
1/16 |
岸首相の渡米調印を阻止する全学連が羽田空港に座り込み(「6.4」)。 |
1/19 |
日米新安保条約調印。 |
2/19 |
衆院安保特別委員会で新安保条約審議、開始。 |
5/19 |
衆院安保委での質疑が打ち切られ、本会議で新安保条約、強行可決される。 |
6/4 |
6.4ストが行われ、560万人が参加。 |
6/10 |
ハガチー事件。アイゼンハワー大統領の秘書ハガチーが訪日。羽田でデモ隊と衝突。 |
6/15 |
全学連主流派が国会構内へ入り、警官隊と衝突。東大生樺美智子死亡。 |
6/17 |
7新聞社が共同宣言を発表。 |
6/19 |
新安保条約が自然承認。 |
[1] 井出武三郎『安保闘争』、58頁
[2]『朝日新聞』1960年1月11、12日の世論調査で安保改定の問題点を挙げられるのは17%。『読売新聞』1960年4月4日の世論調査では、「国会が安保条約を承認することを望む」/21%、「反対」/28%、「分からない」51%であった。
[3] 1952年11月、米軍が金沢市郊外の内灘村海岸を試射場にしたいと申し入れたのに対し、住民が反対運動を起こした事件。日本政府は内灘を試射場として提供することを決定し、1953年には米軍が使用を開始したが、反対住民は浜辺に小屋を建てて抵抗した。
[4] 東京都立川米軍基地の拡張に対して砂川町民が反対運動を起こした事件。1955年9月、政府は強制測量を行ったが、10月に警官隊と反対派が衝突し、重軽傷者1000人以上が出た。
[5] 1957年、群馬県相馬ヶ原米軍演習場で、演習地に入り込んで空薬莢を拾っていた農婦をジラードという兵士が死亡させた事件。
[6] 国民会議による発表『安保闘争の概要』91頁。
[7] 正式名称:日本労働組合総評議会
[8] 正式名称:原水爆禁止日本協議会
[9]正式名称:全国軍事基地反対連絡協議会
[10] 共産党は、「日本の現状が依然としてアメリカの半従属国の地位にあること、日本を支配しているのはアメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本独占資本であること」となどの点から反米闘争を行った。これに対しサンフランシスコ条約によって日本は基本的に独立したとみる社会党と対立。
[11] 『安保世代1000人の歳月』24頁
[12] 「運動・評価・プログラム」『思想の科学』7月号
[13]民学研と長野県農村文化協会によって行われた調査によると「民主主義に対する危機意識が希薄で、警官導入についても「またやったか」程度の反応しかしめさない。戦争に対する不安は強く、基地の拡張、徴兵制への心配を訴える。依然に何らかの闘争が行われた地域では安保についても運動が進んでいるが、運動の形は署名、統一行動への参加などで、農民の自発的運動とはなっていない。地域的にもやっと町村段階までで、保守の基盤である部落までは浸透していない。(以上三県(千葉、埼玉、群馬県)の例)」井出武三郎『安保闘争』236頁より。
[14]「現代政治の状況」『世界』7月号
[15]「現在の政治状況」『世界』8月号
[16] 「安保改定をめぐる「前進」と「後退」」『世界』4月号
[17] 東京・文化手帳同人、大加田一夫「日本の地下水から」『思想の科学』8月号
[18] 竹内好「私たちの憲法感覚」『世界』8月号。
[19]
「5.19と8.15」『思想の科学』8月号
[20]
『思想の科学』7月号
[21] 「もう一歩前進しよう」『世界』8月号
[22] 「思想的プログラムのための覚え書」『思想の科学』8月号