2003.1.11       小熊研究会U

中間報告資料

≪東北稲作民の創造≫

〜東北オリエンタリズムの系譜〜

 

                        環境情報学部2年 山内明美

                                          t01980ay@sfc.keio.ac.jp

 

【本研究の目的】

 前回の研究報告では、寒冷地東北での稲作がいかに困難であったかを概観した。

 稲作民族主観は、単一民族主観に非常に近いように思われる。この眼差しが、アイヌ民族を内包する東北で違和感なく語られてきたことを疑問に思う。

 混じり気のない白米信仰は、単一民族論や国家神道論とリンクしてこないだろうか。

 稲作民族という形容詞は、日本を形容する代名詞であった。この形容詞があとくされの地[1]東北にどのような過程を経て冠されるのであろうか。

稲作をめぐる東北オリエンタリズムがいかに付与されてきたのか、さらに東北は中央偏重の中でいかに自己オリエンタリズム化してきたのか。これらの過程を検証するのが本研究の目的である。

 

 

【断片的なテーマ群】

 

 その1 「日本風土論に見る稲作主観と東北への眼差し」

       〜日本で一番日本らしい東北の創造〜

        

 その2 「宮沢賢治の多重人格性」

       〜日本で一番日本人らしい東北人の創造〜

 

 その3 「植民地政策と東北の新田開発」

       

 その4 「近代東北知識人の認識」 

 

テーマ その1

「日本風土論に見る稲作主観と東北への眼差し」

〜日本で一番日本らしい東北の創造〜

〈本研究の意図〉

  日本研究における論文には、日本の風土や自然観が記述されている項目が非常に多く見られる。その中で特に、稲作について語られた言説を収集し、その言説がどのように東北に付与されてきたかを検証する。

風土論に見られる日本人の気質や国民性は、例えば「和辻によれば、日本は湿潤なモンスーン地帯で豊かな自然をもち、したがって受容的忍従的であるが、南洋とちがい四季の変化に恵まれている。しかも、台風という「季節的ではあっても突発的」という「弁証法的な性格」をもつ季節風があり…」[2]のように語られている。しかしこのような「「日本人」全員に、特殊な風土が生み出した「日本的」性質があるなどは、もちろんフィクションにすぎない。」[3]のである。しかし、このようなフィクションが「近代についてみれば、明らかに明治国家は風景のテーマを意図的に用い、自然のなかに国民的統一の基盤を固めようとした。この点から見ると、自然感情に割り当てられた役割は明白に価値論的である。」[4]ということも語られてきた。日本における風土論や自然観が、日本人の人格に表徴されていると語られる場面は、現在でも少なからず存在しており、稲作民族観と日本人の気質に関して記述されたものも非常に多い。

同時にこの〈稲作民族気質〉とでも言うべき言説が、中央ではなく、穀倉地帯の東北で語られていることは想像に難くないだろう。さらにこの〈気質〉は今や東北固有の代名詞にすらなってしまっているのではないだろうか。

日本人全体の風土論が、どのような経過を経て、東北固有の風土論にすりかえられるのか。その経過をたどる作業が本研究の主要目的である。

 

〈先行研究〉

 「風土」「自然観」と名の付く研究は多いが、ここではそれらに言説について、何らかの検証が加えられている研究を取り上げる。

・ 『日本人論−明治から今日まで−』[5]南博

       『風土の日本』[6]オギュスタン・ベルク

       『日本人の自然観−縄文から現代科学まで−』[7]伊藤俊太郎 編

〈本研究における作業仮説〉

@       稲作民族主観に関する言説には、なんらかの型≠ェ存在するのではないだろうか。

A       稲作民族主観に関する言説は、時代変遷とともに変容しているのではないだろうか。

B       稲作民族主観に関する言説が、時代変遷とともに変容しているとすれば、それは単一民族主観の変遷と合致するところがあるのではないか。

C       稲作民族主観が東北に付与されはじめるのは、植民地政策と同時期ではないだろうか。

 

〈本テーマのおおまかな構成〉

1.       維新期における東北への眼差し

2.       維新期における東北の稲作と米食の普及状況

3.       日本風土論における〈稲作民〉の言説

4.       〈稲作民〉言説の系譜

 

 

〈本論〉

【@維新期における東北への眼差し】

 

→資料1参照

 まず、本研究において前提として考えておかなければならないことは、「明治初期において、東北が稲作民族であるという認識をされていたの否か。ということを検証しなければならない。」ということである。(前回自身が行った研究報告では、東北の気候が稲作に不向きであり、反別収量も関西圏の方が多く、畑の面積の方が田んぼのそれよりも大きかったことを思い起こしていただきたい。)

 [資料1]は明治14年における、「東北地方の民情」を朝野新聞が掲載しているものと、明治16年に東京日日新聞が「陸稲栽培の実益多大」と報じている記事である。大まかに読み取れることは「民情は怠け者が多く、荒野はたくさんあるが耕さないでいる」といったものであり、16年の東京日日新聞では「陸奥国三戸(青森県三戸)で陸稲栽培がはじめられ、8年経過したこの年の収量が良好だった。同地の民ははじめてその実益を知った。」と報じられている。

 

→資料2参照

 柳田国男が昭和28年、民俗学研究者との間での対談。ハレの日に用いられていた米が近代になって常食化したことを指摘し、日本人の米への認識が変容していることを語っている。

 

 

【A維新期における東北の稲作と米食の普及状況】

→資料3

 柳田は「米が乏しいから米をつくりだしたという理由はどうしても考えられない。」[8]と語っているが、米飯が広まってくる1890年以降、日本は中国・朝鮮・英国領印度などから大量の米を輸入していたのである。「米穀消費は人口の増加と一人当たり消費量の増加によって膨張した。」[9]したのであり、「この急速な需要の伸びは、第1に都市の需要拡大によるものであった。産業革命期には労働者・技術者など多くの人々が都市に集まった。[…]農業生産とかかわりをもたない都市の農産物純消費者の増加は、米穀需要の急増をもたらしたのである。」[10]「米がつくれないところは移住する張り合いがない」[11]という柳田の言葉とは裏腹に、近代化した日本の都市には稲穂を目にすることのない日本人が爆発的に増加したのだった。また、「後年の臨時産業調査局の調査によれば、大阪・京都・神戸・名古屋などの大都市では、すでに明治初期から米穀消費がさかんで、「米食」「米単用」が一般的であった。[…]だだし、いうまでもなく、農村における米穀消費の進展には一定の限界があったことも確かである。つまり、消費が拡大を遂げた「明治三十年頃より大正元年頃」の農村の米穀消費の実態は[…]都市との間になお隔たりが大きかったのである。」[12]

 

〈@Aの現段階での小さな結論として〉

 維新期における東北の稲作と米食の普及状況を概観してきたわけであるが、結論として言えることは、当該次期において東北に稲作民族という形容詞は、まだ付与されていないということである。東北どころか、大都市以外の日本の周縁地域では、未だ米食も進んでいないことが統計資料からも明らかとなった。

 後年の、にいなめ研究において幾度となく言及されているのが「日本は米だけを食べていたわけではない。」ということであるが、白米だけの飯はハレの場で用いられるものであり、近代以前、周縁地域の庶民の間では、むしろ白米の飯をタブー視する向きもあったようである。さらに、アイヌについていえば、稲作民族でないことは明らかである。

 ここで、新たな仮説が生まれた。それは、「日本稲作民族主観には二面性があるのではないか。」ということである。つまり、民俗学者の言う〈稲作民族〉と一般に流布している〈稲作民族〉という認識は異なっている可能性がある。ということである。前者は「稲作信仰民」(これは決して米主食民をささない)という意味での〈稲作民族〉主観であり、後者は「昔から日本人は稲作をしており、米を主食としてきた」という(米主食という)意味での〈稲作民族〉主観である。

 

 【B日本風土論における〈稲作民〉の言説】

→資料4

 

 資料は無作為に「風土論」や「自然観」をキーワードに検索しピックアップしたつもりであったが、稲作との接点で日本人論を展開しているのは、保守系の論客に多いのかもしれない。

 風土についての言説は、まだ収集しきれていないため、この文脈からだけの分析・結論は、次回の研究報告で行うこととする。

 はじめは、この言説を語られた時期で時系列的に並べることで、稲作民族主観の変遷が現れてくるのではないかと考えていたが、諸所の論者の世代や時代背景とともにこの言説を検証しなければならないことに気が付いた。

 

【C〈稲作民〉言説の系譜】

この章は、検討したうえで、次回の研究報告で発表することにしたい。

 

 

 

「宮沢賢治の多重人格性」

〜日本で一番日本人らしい東北人の創造〜

 

〈本研究の意図〉

 1992年の『アエラ』は、宮沢賢治の文学作品について次のように報じた。「全国研は三十七年間、教科書教材調査を行ってきたが、「一作家」の作品が原文のまま小学校・中学校・高等学校に採用され、登場した例は(賢治を除いて)かつてないという」[13]。昨今の社会状況や学校崩壊という様々な社会問題の中で「〈私〉をめぐる問題が自覚されてきたことを示すものとみることもできる。」[14]このような中で「わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です…」[15]という賢治の〈心象スケッチ〉が、病んだ社会の癒しとして広く人々の心を掴んだ。ちなみに、慶応大学図書館の蔵書検索で〈宮沢賢治〉をキーワードで引くと、268件という夥しい量の〈賢治研究〉が出現してくる。岩手県花巻市という、日本の偏狭の一童話作家は、生前ほとんど注目されなかった人物であった。この研究の数の多さは異常とも思える。生誕百年を経て、宮沢賢治の作品は一体人々の何をとらえたのであろうか。

 そしてまた、この研究群の中で論者が表象する賢治の姿は、まさに分裂症とでも表現すべきほどに、多様なのである。「宗教詩人」「森のゲリラ」「ブルジョア」「プロレタリアート」・・。書き上げれば枚挙に暇がない。賢治を表象する言葉は、なぜこれほどまでに分裂し、さらには多重人格化してしまったのであろうか。「それはあるときは地域主義的な東北主義へと傾斜し、またあるときは東北コンプレックスを露骨にあらわした端的なコスモポリタリズムへと向かった。」[16]

 本研究の意図は、宮沢賢治の多重人格障害とも呼べる状況を作り出した、賢治研究の言説を取り上げ、その言説がどのような東北像や東北人像を作り出し、東北オリエンタリズムに加担していったのかを検証する。

 

〈先行研究〉

 賢治研究はあまりに多いため、今現在手にとった研究の中からあげておく。

       『宮沢賢治 −存在の祭りの中へ−』[17]見田宗介

       『宮沢賢治』[18]吉本隆明

       『森のゲリラ 宮沢賢治』[19]西成彦

 

〈今後の課題〉

 宮沢賢治に関する言説がどのように語られているのか、収集し検証する。賢治に関するイメージは非常に多様に語られており、資料にしっかりあったたうえで、作業仮説を立てたい。

 

 

「植民地政策と東北の新田開発」

〈本研究の意図〉

近代東北の新田開発は、大東亜共栄圏のもと展開されたアジアの植民地米増産計画と、平行して展開された。さきの資料1で見たように、維新期の東北は愚民と称され、未開人同様に語られていた。戊辰戦争で幕府軍として戦った東北(秋田は除く)は、「「今や薩長の人に非ざれば、殆ど人間に非ざる者の如し、豈歎息すべき事に非ずや」」[20]と藩閥政治を批判した陸奥宗光の言動からも、伺うことができる。また色川大吉は農民詩人真壁を取り上げ「「東北は長い間未開野蛮の地とされてきた。古い東北の歴史は、差別支配とそのための攻略の記述によっていろどられている。化外の民の住む世界、飢餓と貧困の風土として、おくれた文化と経済しか持たず、社会的な秩序もなく、骨肉近隣相食む凶暴な世界として描かれている」。真壁氏はこうした屈辱をはねかえすために、まず東北自身が征服史観を克服し、中央史家の力を借りるのではなく、東北の民衆自身の手で歴史を内側から書きかえなければならないと呼びかける。」[21]2次大戦以前までの、東北の根強い差別感は、植民地そのままのありようであった。

この東北コロニアリズム状況は、日本穀倉地帯としての低開発化をもたらすことになった。その経緯を、主に統計資料をもとにした、分析作業によって検証したいと考えている。

 

〈今後の課題〉

 明治期を中心とした統計資料と、植民地政策及び国内米増産政策の資料の検証。新聞、雑誌等から東北への眼差しを拾い集める。

 

〈先行研究〉

       『東北−つくられた異境−』[22] 河西英通 

       『幕末維新における宗教と地域社会』[23] 田中秀和

 

 

「近代東北知識人の認識」

〈本研究の意図〉

 東北は、今、自他共に日本の穀倉地帯となり稲作民族と呼ばれても何の違和感も感じない〈国民〉になった。しかし、明治、大正期には東北を穀倉地帯化することに異論を唱えた論者は少なくなかった。

東北知識人たちは、どのような危機感をもって、新田開発に異論を唱えていたのだろう。

新渡戸稲造、後藤新平、原敬、陸羯南など、東北知識人の言説を読み直し、東北の将来をどのように展望していたかを検証する。

 

→資料7

 

 

 

 



[1] 『ポストコロニアリズム』(姜尚中編 作品社2001) 127項で西成彦が東北を形容した言葉。

 

 

 

 

[2] 単一民族神話の起源』(小熊英二 新曜社 2002)引用は315項。

なお『風土』(哲郎和辻 岩波文庫 2000)「第3章モンスーン的風土の特殊形態」に詳しい。

[3] 同上書 315項 

[4] 『風土の日本』(オギュスタン・ベルク ちくま学芸文庫 2000)引用は300項。

[5] 『日本人論−明治から今日まで−』(南博 岩波書店 1994

[6] 同上書。オギュスタン・ベルクはフランス国立社会学高等研究院教授であり、198488年まで日仏会館フランス学長を務めた。他に『空間の日本文化』などがある。

[7] 『日本人の自然観』(河出書房新書 国際日本文化研究センター共同研究書 1995

[8] 資料3参照

[9] 『近代日本の食糧政策』(大豆田稔 ミネルヴァ書房 199343

[10] 同上書 43

[11] 資料3参照

[12] 同上書47

[13] 『アエラ』(朝日新聞 1992 7.22号)

[14] 『〈私〉の思想家宮沢賢治−『春と修羅』の心理学』(岩川直樹 花伝社 20001

[15] 『春と修羅』宮沢賢治

 

[16] 『森のゲリラ』(西成彦 岩波書店199712

[17] 『宮沢賢治−存在の祭りの中へ−』(見田宗介 岩波書店 2001

[18] 『宮沢賢治』(吉本隆明 筑摩書房 1996

[19] 同注釈16 西成彦はポストコロニアリズムの視点から宮沢賢治を研究している

[20] 『日本人論−明治から今日まで』(南博 岩波書店 199417

[21] 『東北−明治大正図史−』(色川大吉 筑摩書房 1978

[22] 『東北−つくられた異境−』(河西英通 中公新書 2001

[23] 『幕末維新における宗教と地域社会』(田中秀和 清文堂 1997