『<みんなのうた>という思想』

―――日本における音楽教育の目的とその変遷―――

 

総合政策学部三年

木村 和穂

s00327kk@sfc.keio.ac.jp

 

問題意識

・なぜ学校で「音楽」を教えるのか? 音楽教師のジレンマ

・現代の音楽教育研究への違和感

「感性の豊かな子どもを育てる」「人間教育の一環」「自ら進んで表現する工夫」

・唱歌研究への違和感

共通する「日本の伝統音楽がないがしろにされてしまったことへの怒り」

士気高揚音楽は否定し、本来あるべきはずの日本の伝統的な音楽感性を求める

・安易な国民国家論に基づく研究への違和感

たしかに「国家のイデオロギー装置」であるが、そんな単純なものでもないだろう

・国家が歌をつくり、教育を行ない、みんなで同じうたを歌うということの意味が真剣に問われてこなかった

・国家が「文化」や「芸術」に熱心に興味をしめすことの意味は何か

 

「「日本のうた」というような、どうしようもなく私たちを包んできたものが変わるとき、そこにはきっと、地球大のパワーシフトが絡んでいるはずです」[1]

 

テーマ

そもそも音楽教育はどのような目的で始められたのか?その目的を遂行するため何がなされたのか?そしてその目的はどのように変遷してきたのか?

明治国家の成立から現在に至るまで、音楽教育が何を担ってきたのかを明らかにする。音楽教育に関わった人びとにとって音楽とはいったいなんだったのだろうか。

 

仮説

・音楽は「手段」(技術)としての役割を担ってきた

・音楽という「手段」(技術)は、様々な目的のために使われてきた

・「替え歌」(読み替え)合戦が繰り広げられた

・音楽は「技術」(手段)として使われていたが、次第に「目的」とされていった

・敗戦後、音楽教育が担っていた目的の意図的な切り離しが行われた

これにより目的の記憶喪失が起こり、音楽教師のジレンマを生むことになった

 

先行研究

日本の音楽通史

専門別音楽史(人物、軍隊、楽器)

西洋音楽受容研究

音楽教育史

君が代研究

外国人音楽教師研究

大衆音楽史

 

国民国家論の視点から音楽研究がなされはじめたのは90年代に入ってから。

 

研究方法・対象

資料調査による。先行研究を土台に、周辺の資料を調べる。

関係者の著作、文部省関連の資料、雑誌、人物史、楽器の編成、歌詞などに注目。

音律などの議論には出来るだけ立ち入らない。

それぞれの人物が音楽に何を見出していたのかを明らかにする。

 

本論

第一章 明治維新と音楽

・徳川幕府の開国政策決断後、洋式軍事体制整備の一貫として導入される

軍隊統率の技術としての鼓笛隊(戊辰戦争で活躍)、国歌制定の必要性は軍楽からでてくる

・幕府の保護を失い武士階級の音楽が没落する

能楽の大衆化が起こる(三味線と長唄などを入れる)

・王政復古により雅楽が浮かび上がってくる

三方楽人が東京へ集められ宮内省の雅楽部ができ、「伝統の創出」が行われる

・軍隊における技術/形式として必要、西欧国民国家の形式にならうための伝統の創出

 

第二章 音楽取調掛―――国楽(National Music)を創る――

・明治5年学制発表、小学校では「唱歌」、中学では「奏楽」が教科目に入れられる

ただし「当分之を欠く」[2]  西欧にならってひとまず教科だけはつくった

何をどのようにして教えるか、教師や教材、使用楽器をどうするかなどがまったく未知数

・音楽取調掛設置への動き、目賀田種太郎と伊澤修二はアメリカへ留学

「夫レ音楽ハ学童神気ヲ爽快ニシテ其ノ勤学ノ労ヲ消シ肺臓ヲ強クシテ其ノ健全ヲ助ケ音声ヲ清クシ発音ヲ正シ聴力ヲ疾クシ考思ヲ密ニシ又能ク心情ヲ楽マシメ其ノ善性ヲ感発セシム」「燃シテ社会ニ善良ナル娯楽ヲ与ヘ自然ニ善ニ遷シ罪ニ遠カラシメ社会ヲシテ礼文ノ域ニ進マシメ国民揚々トシテ王徳ヲ領シ太平ヲ楽ム」[3]

・国楽(ナショナルミュージック)を創る

「燃シテ終ニ我カ国楽ヲ起スヲ得ベシ国学トハ我国古今固有ノ詞歌曲調ノ善良ナルモノヲ尚研究シ、其ノ足ラサルハ西洋ニ取リ終ニ貴賎ニ関ハラズ雅俗ノ別ナク誰ニテモ何レノ節ニテモ日本ノ国民トシテ歌フヘキ国歌、奏ヅヘキ国調ヲ興スヲ言フ」

「西洋音楽ノ理ヲ知リ又此ノ知識モテ西洋ト日本ノ音楽ヲ折衷シ我ニ適応スヘキ歌共ヲ編輯シ我国楽ヲ興ス」[4]

・音楽取調掛の設置1879年 「東西ニ洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事」[5]

外国曲に歌詞を付ける、教材を作る、楽器の改良を行う

 

第三章 国楽としての「文部省唱歌」

・洋楽の模倣、翻訳唱歌「替え歌」、唱歌の基本形ができる

『小学校唱歌 初編』1882年、『幼稚園唱歌集』1887

・「ぴょんこ節」と「ヨナ抜き音階」

・日清戦争1894-95年をきっかけに軍歌集の出版が相次ぐ

・「翻訳唱歌」から「和製唱歌」へ 

『尋常小學讀本唱歌』1910年、『尋常小学校唱歌』1911年―1932年まで使われる

・簡単で実用的な紋切り型の唱歌伴奏

1900年『地理教育鉄道唱歌』〈歌による知識の収得〉

・田村虎蔵、滝廉太郎による「言文一致唱歌」

 

第四章 童謡運動―――ロマン主義と洋楽コンプレックス―――

・雑誌『赤い鳥』(1918年創刊)を中心として、童謡運動(創成運動)が起こる 「唱歌批判」

「従来の教育はその詩をも認めなかつたばかりか、ほとんど彼らの口をふさいで了って、代わるに子人の詩(いや詩とも云へない、大人にとっては極めて利己的な教訓歌や無味乾燥な観念詩)を強ひつけ、子供の一々の個性をも凡て一様の鋳型にはめこみ、いよいよその自然の成長を押し曲げるといふ風の事のみ没頭してゐました。これはおそろしい冒涜であり、罪悪であり、子供に対してあまりにも不遜であり、圧制であり、また真実の意味に於ての愛と親切とが少なくとも欠けてゐたものと思わねばなりません」[6]

・「唱歌批判」とナショナリズムが結びつく(反体制ではない) 「唱歌」=「西洋の模倣」

「日本大正期に於ける芸術童謡の提供は、初めて日本の諸詩人たちによって、自覚され、協力された一つの大なる新運動であった。此の新運動の精神したところは何か。意図したところは何か。祖国愛である。日本童謡の伝統の開展である。而して、かの非芸術的であり功利的である小学唱歌の排撃である」[7]

「唯我々は当時の作曲界が微々として振はない状態に飽きたらず、徒に外国曲の模倣のみに走るを避け、将来の我国特有の国民音楽を建設しやうと云う希望を常に持っていた」[8]

・「芸術」の草創期、演奏はなんとか可能になるが、創作は単純な管弦楽か歌曲がやっとこ

「伝統音楽」がないがしろにされたことへの怒りではなく、西洋音楽を直輸入することへの反発(一等国意識)であり、コンプレックスの現れでもあったのではないか?

・プロレタリア童謡も作られたが、あまり広がらなかった

童謡・童話雑誌は労働者・農民階級の子どもには高すぎた

「童謡」という発想自体が「ブルジョア的」だったためか?ロマン主義による子供の発見

・童謡を作っていた作詞家・音楽家たちはその後、軍国唱歌をつくるようになる

・童謡を学校で教えるようになるのは戦後

・音楽教育研究における童謡運動の過度の讃美はどこからくるのか?

戦後に起こった「切断」が原因?

 

第五章 工場音楽―――大正デモクラシーと啓蒙音楽―――

・「平民的」「通俗音楽」を普及すべし 大正デモクラシーの影響を受けた啓蒙運動

「音楽は上流社会の独占すべき芸術でない」「彼の朝から晩まで営々として汗水垂らして稼いでいる労働者にも容易く慰藉を興へ得るものは音楽である」[9]

・マルクス主義ではなくアメリカ合理主義的な工場管理の思想から出てきた

「工場労働者に音楽を学ばしめよ」「穏健なる思想と優美なる情想を養ふ」「我儘なる同盟罷工や危険なる社会主義の思想等が発生する事は有るまい」[10]

・女工たちが歌えて、しかも卑俗に流れない音楽、「改良盆踊り」「工場歌」

「平和の春」「春はよいものエササノサー/山はみどりにラーンラランラララーンラ」 

・工場側の娯楽の企画に女工はすべからく参加を強いられた[11] 

「工場音楽は工人工女にとって地上の楽園である。天国の声である。宗教である。であるからいづれの工場でも、一たび工場音楽が入ると、淫蕩な下劣な俗謡は立ちどころに声をひそめ、廊下にも食堂にも工場歌を口すさむ声で満ちわたり、工場は新しい光明に蘇へるのである」[12]

 

第六章 唱歌教育の改革―――「絶対音感」はレーダーに勝てるか

・「時勢ニ適シタ小学校唱歌用教材ノ充実ヲ計ルコト」[13]

 唱歌教育の立て直し 「皇国ノ道」 軍国主義教育の強化

・「絶対音感」=「敏感な聴覚」

「日本の文化方面で音楽だけがまだ西洋に負けているのは、これ迄の教育法が低能児教育、音痴教育であった(からだ)と云へます。われわれ大和民族は低能児でも音痴でもありません。絶対に西洋人に劣らない立派な能力を持っているのです。ここに目覚めた教師と親は第二第三の国民に正しく新しい音楽教育を施し、わが国楽を作興して世界に示すやうにしなければなりません。この教育法とは笈田氏が完成した世界に誇る『絶対音感早教育法』であります」。絶対音感を身につければ「自動車のブウブウでも、電車のチンチンでも、正確に音名で答えるのであります」[14]

・「(絶対音感は)国防方面――防空、水中戦に於ける聴音其他――にも亦あらゆる産業の部門に於ても――−発動機、機械等の音によるその能力及故障等の感知―――絶対に必要な能力で、音楽的訓練の高度に達している独逸・仏蘭西に比し我国の兵や職工の素質がこの一点でのみ一籌を輸さなければならぬ一つの感覚才能であります」[15]

1941年4月から国民学校で「聴覚訓練」の時間が設けられた

1943年、ニッチクから「聴覚訓練」のための教材『敵機爆音集』

 

第七章 厚生音楽――1941年以降の工場音楽、「文化国家」――

・翼賛体制強化のため1941年日本音楽文化協会が発足

ドイツのKDF運動(Kraft Durch Freude=「歓喜を通じてえられる活力」)

ファッショ党のドポラヴォ運動(Opera Nazionale Dopolavoro=国立勤労時間後活動機関)

国家が大衆に芸能やスポーツを提供する余暇善用機関、「厚生音楽」

1940年『工場鉱山音楽調査』

音楽の「精神作用を通じて疲労恢復が行はれ、気分転換し、気持ちが明るく朗らかになるので作業中の尖った気持ちが緩和されて和やかになり相互の親しみを深める。無意識の裡に音楽に対する趣味が培はれ、斯くて情操陶冶、場内明朗化、精神的団結等といふ目的は漸次に達せられるのである。・・・一方身近に吹奏楽其の他のもたらす男性的な律動的な奏楽が士気を鼓舞し、精神が高揚され延いては団体の士気を統一せしめるに至り、無言にして円滑に団体訓練が行はれ、共同生活が統一されて来る」[16]

・「情操馴化」(大正時代の工場音楽)から「軍楽の代替物」へ

1941年警視庁工場課のかけ声で、産業厚生音楽巡回指導が始まる

音楽挺身隊(山田耕作隊長)、放送協会、音楽学校、隊日本舞踏連盟などと連結

指導歌「さうだその意気」「大政翼賛の歌」「産業戦士の歌」「空襲なんぞ恐るべき」「海の進軍」「世紀の若人」、歌の指導後には「大日本厚生体操」

健全な身体を作る体操と健全な精神を作る歌は切り離せない

・人々がふつうに口にする歌と、国家が教え込みたい歌との隔たり

「曲目をアナウンスしただけで『ワーッ』と歓声をあげて悦ぶ曲」は「荒城の月」「宵待草」「暁に祈る」「めんこい仔馬」「髯に未練はないけれど」「上海の花売娘」「広東の花売娘」[17]

・大部分の人々は浪花節や漫談を喜んだが、唄うと「神聖な工場をけがす」と叱られる

ある工場長「とにかくお題目なんかどうでもよく、ほんとうに心に触れるというようなものが大事じゃないかと思います」。ある女工がでたらめな節を作ると、それが職場に広がり皆に喜んで歌われる。「作曲にも何にもなっていないが、ただ何となくぴんとくるものがある。みんなの気持ちから出たというものでしょう」。作曲家「プロの作ったものは本当に喜ぶのか」。工場長「教えれらる歌は好みません」[18]

 

第八章 植民地における音楽政策

・比較音楽研究、朝鮮・中国・琉球・台湾・樺太・南洋の音楽の実地調査

・田辺尚雄による日本初の「民族音楽」フィールドワーク、1922年台湾をはじめとして

田辺尚雄「日鮮同祖論」を唱え、「東洋音楽」「大東亜音楽」の構想

「西洋音樂史に對抗すべき東洋音樂史という學問は・・・・何うしても我が日本人が之を爲さなければ到底完成しない」[19]

1936年東洋音楽学会発足、1941年コロムビア『東亜の音楽』全10枚が発売される

「一脈連々と通ふ、呼吸、血、正にその血は水よりも濃しである」。全体を貫く「何か悲痛の暗さ」は、「アジアが長く白人に圧迫され搾取されてきた」[20]からだ。

1942年続編『南方の音楽』全6枚が発売される

「徒らな異国趣味を追はず、宣伝意識に囚はれず、終始真面目な編輯態度を以って、音楽情緒あふるる東亜諸民族の中に育った美しい代表的音楽をあつめ、遂に大東亜を描く一大交響楽の完成を見ました」[21]

1942年『ウタノエホン大東亜共栄圏唱歌集』が日本音楽文化協会によって企画される

「これによって南方諸民族の心の隅々から米、英依存の残滓を払拭し、日本の指導下に同甘共苦、彼等をして積極的に対米英戦争に協力せしめんとする」[22]

・「我が国情を知らしめる」とともに「爽快明朗な曲」であるために「児童の共感を呼び日本語普及の役割」[23]も担う

 

第九章 植民地台湾出身の作曲家

植民地台湾出身の作曲家「紅文也」1910-1983

彼にとって音楽を作るとはどういうことだったのか

 

第十章 ラジオ放送と総動員体制

1936年4月〈新歌謡曲〉という番組を開始。6月からは番組名を〈国民歌謡〉に変更

巷の低俗な流行歌に対して、家族みんなで歌える、清新なホーム・ソング

毎日昼の娯楽番組の最後の10分間。次第に合唱団の出演が増える。

「総選挙の歌」「靖国神社の歌」「靖国神社招魂際の歌」「愛国行進曲」「国に誓ふ」「太平洋行進曲」「南進男児の歌」「出せ一億の底力」「出征兵士を送る歌」「紀元二千六百年」「国民進軍歌」

・〈われらのうた〉1941年2月より 「産業報国歌」「防空の歌」

・〈国民合唱〉1942年2月より 「特別攻撃隊」「戦闘機の歌」「勝ちぬく僕等小國民」

・敗戦後、1946年5月以降〈ラジオ歌謡〉 「平和の花」「バラとリボン」

〈うたのおばさん〉1949、テレビ放送〈みんなのうた〉1961

・〈國民歌謡〉〈國民合唱〉から戦後の〈ラジオ歌謡〉まで、詩人や作曲家の顔ぶれはほとんど変わっていない

 

第十一章 戦後の音楽教育―――音楽とは民主主義のことである

・「軍国的思想及政策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ」[24]目指す、「平和新日本建設」のための音楽

「旧思想を根本より払拭して新しき文化国家を建設」するためには、「人類に愛と平等、平和と協調とを教え、人間生活の根元を植えつける音楽教育こそ重要」[25]

・音楽とは民主主義のことである

 音楽の場合、「多くの音はそれぞれ固有の高さや強さや長さを保ちながらも、全体がよく統一され調和されて、美しい調子と旋律とをあらわす」わけで、いってみれば「民主的な社会において、人々がそれぞれの個性を発揮しながら、秩序と協同とによって結びつき、平和な生活をいとなむことと同じ原理に立っている」[26]

「合奏によって養われる秩序への習慣は今後の社会生活において極めて価値の高いものである」[27]

「純真な子供の感覚のうちに長音階を基礎とする明るい健康な音階感をしっかり植えつけることが大切である」「われわれに欠けておりしかも明日の日本の建設に絶対に必要な健康性と明朗性を獲得するためでもある」[28]

・「手段」ではない「芸術としての音楽」 音楽=手段の切断と、存在意義の喪失

「音楽美の理解・感得を行ない、これによって高い美的情操と豊かな人間性とを養う」[29]

「従来の考え方のうちには音楽教育を情操教育の手段として取り扱う傾きがはなはだ強かった。即ち、情操を教育するために音楽教育を行うという考え方である。しかし、音楽は本来芸術であるから、目的であって手段となり得るものではない。芸術を手段とする考え方は、芸術の本質を解しないものである」[30]

・唱法の問題、「音名唱法」(「絶対音感」)から「移動ド階名唱法」へ   現在も続く対立

「事実、国民学校でイロハ音名で歌を指導するには全く困ってしまった。否困ったどころではない。腹立たしくさえなった。誰があんなことを決めたのかと怨みたい位だ。七音の中で人間の笑い声が三音も含まれている。『ハハハ』や『ホホホ』などはまだよい。『へへへ』は全く人を馬鹿にしている。『この音は何ですか』『ヘの音です』これで国民学校の先生が怒らなかったのは、畢竟あの時代だったからであろう」[31]

・「わらべうた」の再発見   1957年、音楽教育の会「わらべうた教育」

 「子どもたちの内部にある基本的なものに開放感を与え、そこから無理なく大きく発展していく」「子どもの生活にふさわしく、子どもの発達段階にも即している」[32]

 音楽教育を行う限り付きまとう「手段」としての側面を覆い隠すために「大人」が何かの手段のために作ったのではない「わらべうた」「童謡」がちょうど都合がよかった

・なぜこれほど「童謡運動」の評価が高いか

存在意義を喪失した現在の音楽教育を肯定するのにぴったり

 「唱歌批判」をしている(軍国主義を否定)、「子供たちの歌」(子供の自主性)、「模倣音楽ではない芸術としての童謡」(芸術=目的によって豊かな感性を持った子供が育つ)

・音楽教育は存在意義を失う  音楽教師のジレンマの発生

1960年代に現れてくる「伝統音楽尊重」の主張 

世界的に民族音楽がもてはやされた時期  「喪失」した存在意義を新たに「創出」か?

 

終章

・手段(技術)としての音楽

・「音楽教育」は何を担ってきたのか  音楽教育批判

・音楽=手段を切断することで、音楽=芸術が成立するが、それによって目的が喪失された

 

 

 

 

参考文献

中村理平『洋楽導入者の軌跡』刀水書房、1993

吉川英史『日本音楽文化史』創元社、1989

吉川英史『日本音楽の歴史』創元社、1965

小学校音楽教育講座2『音楽教育の歴史』音楽之友社、1983

細川周平「西洋音楽の日本化・大衆化」『ミュージック・マガジン』1989年4月号〜19944月号

細川周平「踊るナショナリズム―――「東京音頭」の輪と櫓」『ExMusica2000

奥中康人「国民のつくりかた 伊澤修二:唱歌による身体の国民化」『ExMusica2000

植村幸生「田辺尚雄の朝鮮宮廷音楽調査(1921)が問いかけるもの」『ExMusica2000

西島央「国歌としての「にっぽん」、故郷としての「にっぽん」――唱歌の国民統合機能に関する社会学的一考察―――」『ExMusica2000

渡部裕「近代国家日本の「国民劇」――宝塚と東宝の「戦時体制」」『ExMusica2000

三浦雅士『身体の零度』講談社、1994

丸山忠璋『田村虎蔵の生涯』音楽之友社、1998

安田寛『唱歌と十字架』音楽之友社、1993

赤井励『オルガンの文化史』青弓社、1995

倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、1992

三浦俊三郎『本邦洋楽変遷史』日東書院、1931

堀内敬三『音楽五十年史』鰌書房、1942

秋山龍英編著『日本の洋楽百年史』第一法規出版、1966

堀内敬三『音楽明治百年史』音楽之友社、1968

大森盛太郎『日本の洋楽1・2』新門出版社、1986

田辺尚雄『東洋音楽史』雄山閣、1930



[1] 佐藤良郎「安室奈美恵への道」『新・知の技法』p101

[2] 日本教育音楽協会『本邦音楽教育史』音楽教育出版会、1934年、p61

[3] 目賀田種太郎、伊澤修二による文部大輔田中不二麿に提出した上申書、187848

[4] 目賀田種太郎、文部大輔田中不二麿への上申書「我公学ニ唱歌ノ課ヲ興スベキ仕方ニ付私ノ見込」、1878420

[5] 伊澤修二、文部郷寺島宗則に提出した上申書「音楽取調ニ付見込書」187911

[6] 北原白秋『幼き者の詩』(『幼児の詩・音楽・舞踏』所収)1938

[7] 北原白秋『新興童謡と児童自由詩』(岩波講座 日本文学)19327

[8] 弘田龍太郎『童謡作曲の変遷に就て』(『音楽教育の思潮と研究』所収)1933

[9] 東京音楽大学長、湯原元一『音楽』19118月号

[10] 山本正夫「工場労働者に音楽を学ばしめよ」『音楽界』19176月号

[11] 『女工哀史』に詳しい

[12] 小林愛雄『工場音楽通解』愛音会、1922

[13] 『新訂尋常小学唱歌』の諸言、1932

[14] シンキャウ社パンフレット『新響』78号、19353月1日号

[15] 佐藤謙三「音楽文化上の一問題」『レコード音楽』19416月号 

[16] 財団法人協調会産業福利部『工場鉱山音楽調査』1940

[17] 吉本明光(音楽文化協会戦時対策委員)『国民の音楽』1942

[18] 「前線に続く職場の音楽」『音楽文化』19441月号

[19] 田辺尚雄『東洋音楽史』雄山閣、1930年、序説

[20] 翼賛会東亜局長・永井柳太郎、レコード解説『東亜の音楽』コロムビア、1941

[21] 『南方の音楽』の広告、『音楽之友』1942年、5月号

[22] 『音楽文化新聞』1942年、1010日号

[23] 『音楽文化新聞』1943年、41日号

[24] 文部省『新日本建設ノ教育方針』1945915

[25] 小松耕輔「教育音楽家の重責」(『教育音楽』19461月号)

[26] 文部省『新教育指針』1946

[27] 諸井三郎『音楽教育論』1947

[28] 諸井三郎『音楽教育論』1947

[29] 『学習指導要領 音楽編』(試案)<まえがき>1947

[30] 同上

[31] 中野義見「ドレミ唱法の長所」(『教育音楽』創刊号194612月)

[32] 『音楽と教育』(第12回大会資料)19678