小熊研究会T 

 

「当事者」による不登校論に向けて

               環境情報学部4年 70053927 斎藤綾子

 

     著者について

貴戸 理恵: 慶応義塾大学総合政策学部卒 小熊研究会OG 

卒業論文として「横浜学童保育のゆくえ〜家庭でも学校でもない、子供の居場所として」がある。80年代後半の自身の不登校経験を元に「当事者による不登校論」をテーマに研究中。現在東京大学大学院生 

 

     論文の主題

親や精神科医によるものではなく不登校をしている、またはしていたこども達本人による不登校論の構築・対抗言説の創出

 

◆「当事者の語り」へいたるプロセス

誰がどのように発話するのか。発話者の「立場性」(Positionality)と「文脈」(context)により意味合いが変わる。

@     病理、治療対象(1970年頃までの精神医学者たちが担ったもの)

A     不登校は病気ではない(80年代半ば)不登校に肯定的な言説

 

・フリースクール関係者による「選択的不登校」

不登校を積極的に選びうる選択肢だとして肯定する。 「不登校は不利にならない」

→不登校は逸脱・病理でありまともな人生を歩めないという通念に対する反論  

→しかし学歴により職が閉ざされるという現実は依然としてある。また学歴が無くても立派にやっていけている人はいると反論すると、やっていけていないと認められないという事になり不登校者のなかで新たな抑圧が生まれる。

 

・親による「子供の自己決定」子供の主体的な選択の結果として親自身の自己を正当化

自分とは異質な他者である「子供」が自ら選び取ったとする事により親としての自分を肯定していく。

 

・不登校者による「選択の結果」

自分で不登校を選んだとする。自己肯定のためには有効であり、必然であったが、「不登校」という現象が個人的な選択の問題になり「選択の余地が無かった」ことが見えなくなる。また学校に行かなかったことの「責任と困難さを引き受ける」ことを余儀なくされる。

→自己選択以外の言葉で不登校を肯定する方法は無いのか。

 

親を思って言えない、自分でもわからない、誤解されるから言いたくないのに不登校の理由説明が求められる→逃げ道が無い。不登校は「選択」の前に来る。親たちは自分を肯定するための論理を編み出す必要があった。しかし子どもの側にはまだ言葉が足りていない

 

不登校のわたしは、「怠けている」「わがまま」といわれれば「悩み」「苦しみ」を強調するし、「かわいそう」「助けたい」に対しては「楽しんでいる」「放っといて欲しい」と返す。そのうえ「学校にこだわらない」といいつつ自分の不登校を誇り、「原因は社会・学校に」としながら「個人の選択の結果」を主張する。(p14.15

 

◆ 言説・表象にまつわる問題     

     「病理化」 権力が正常と病気の差異を作り出すことにより「患者」を生み出し排除していく(注1)不登校論では1970年頃から始まり今でも見受けられる、精神科医や知識人による言説の形成において

 

     「表象・代弁・代表」(representation)の問題。

語りえない「サバルタン」である不登校者を表象するということ(注2)

不登校の子の学校に行かない、行けない理由は一人一人違い、本人もわからない、親にも混乱させる事が分かっているので言葉に出来ない。→言えないのをいいことに、(リプリゼントすることが出来ないのを知っているからこそ)権威のある者が表象することにより不登校者を支配していく。(不登校者は怠慢だと言う、人と付き合う能力や発達面で問題だとする。親も批判対象となる。)

→治療と称して心理療法・薬物投与。理由づけることにより自分の優位を確認する。

 

また不登校者の代弁を親やフリースクール関係者が行なうと、(たとえその場の自尊心を回復するために必要であっても)当事者である子供達とは、ずれてゆく。

 

・「言葉」にすること責任を負うこと。

自由といったとたんに責任をとらされる。個性、と言ったとたんに人と違っていなくてはならなくなる。(P14

正当化しようと言葉にしたとたんに現実とはずれる。

→1つの策として、そのままを受け入れる(ex病気であることを含めて認める、治そうとしない べてるの家の精神障害者の例)

 

◆ 誰のための誰による不登校論であるのか 留意点 

「不登校の理由はわかってはいけない」(貴戸)

「不登校」の理由を問いただされつづけるあいだは、子供は自分にとっての「学校」という経験をうまく語れない。(山田 p235

 

→すっきりしたら嘘になる、しかし当事者外の語りでは不十分であり、表象され、支配される事をさけるためにも沈黙ではなく語る言葉を捜さなくてはならない??しかしサバルタンであるがゆえに語れない?

→不登校OGの貴戸さんの立場性は?表象はどのような意味を持つのか?

 

注1)

フーコー:(19261984)フランスの哲学者・思想家。構造論的手法による歴史の分析を通して西欧的人間像の系譜を明らかにした 時代や制度から目に見えない形で及んでくる権力の働きに注目。おもな著書に「狂気の歴史」「言葉と物」「監獄の誕生」「性の歴史」など。

注2)

ガヤトリ・スピヴァック:(1942−)インド西ベンガルのカルカッタ生まれ。主著に従属的地位にあるサバルタンの表象の問題について論じた「サバルタンは語ることができるか」がある。現在 コロンビア大学教授

 

 

     参考文献

「登校拒否のエスノグラフィー」    朝倉景樹    1995年       彩流社

「東京シュ―レ物語」         奥地圭子    1991年   教育史料出版会

「ベてるの家の非援助論」    浦川べてるの家    2002年      医学書院

「不登校」だれが、なにを語ってきたか  山田潤    2002年   現代思想4月号

当事者による不登校論に向けて     貴戸理恵    2002年   修士論文構想