2003年度春学期小熊研究会T 714日報告

環境情報学部3年 山内明美 t01980ay@sfc.keio.ac.jp

 

「マルクス主義における民族の問題」

1950年代国民的歴史学運動を軸として〜

 

本発表の目的

 1950年代の進歩的知識人は国民主義や民族主義を大きなテーマとして掲げていた。それは排外と侵略のためではなく、「反動的な悪しきナショナリズムと対抗しつつ、ナショナリズムから独立と解放の部分だけを純化しようという試み」[1]だった。しかし、後に「革新ナショナリズム」と呼ばれた彼らの試みは大きな痛手を抱えて終息することになる。この「純化されたナショナリズム」の問題と限界を考える。

 

【マルクスおよびエンゲルスにおける民族の問題】

日本共産党の機関紙である『前衛』には、マルクス、エンゲルス、レーニンと一貫して民族自決権の主張があったという論文が散見される[2]。しかし、マルクス、エンゲルスが

民族自決権のような「権利」を認めていたかどうかについては疑問視されている。

 

〈エンゲルスにおける「「歴史なき民族」の理論〉

 民族自決権を認められるのはあくまでもヨーロッパの歴史的大国民のみであり、「歴史なき民族」や「諸民族の残片」は、これらの生命力ある大国民の中に吸収されてしまうのが歴史の必然である。[3]

 

EHカーにおけるマルクス・エンゲルスの民族問題分析における4つの基準〉

@       マルクスおよびエンゲルスは、中央集権的巨大国家形成の方向を歴史に発展方向として受け入れ、大国を分割して小国を創設しようとする要求は、歴史の発展に逆らうものとして拒もうとする傾向があった。

A       マルクス・エンゲルスは歴史的発展の権利とも言うべき視点をもっていた。すなわち、彼らはそれが実現すれば『共産党宣言』の中で示された世界革命の計画を促進すると考えられるような要求、つまり、ブルジョア的発展が十分に進んでおり、したがって結局はきたるべきプロレタリアートの活動にとって有利な分野を提供するであるような諸国の要求を指示する傾向があった。

B       マルクス、エンゲルスにおけるロシア帝国に対する特殊な敵意。

C       マルクス、エンゲルスの経験主義的な態度。

 

→ マルクス、エンゲルスが民族自決権を唱えていたとは言いがたい。マルクス主義は国際主義の立場にたち、階級闘争を中心に歴史の動きを見てきたため、国際主義と民族主義が両立するのは難しく、民族的利害の強調がプロレタリアートによる階級利害のさまたげになると考えていた。[4]

 

【レーニンおよびスターリンにおける民族自決理論の相違

 マルクス主義の中で、民族自決権を協力に主張したのはボルシェビキのレーニンとスターリンである。両者理論はその後の、日本共産党を大きく揺り動かしていくことになる。

 

レーニンにおける民族自決権の捉え方

民族自決権とは「各民族が自分の運命を自分で決定する権利」であり、抑圧民族は被抑圧民族に対して無条件に民族自決権を認めなければならない。かつ、被抑圧民族内部でのプロレタリアートの自決を促進する。

 

スターリンにおける民族自決権の捉え方

 「自決権とは、民族の運命を決める権利を持つものは民族自身だけであるということ、民族の生活に強制的に干渉し、民族の学校その他の施設を破壊し、その風習や慣習をうちやぶり、その言語を圧迫し、その諸権利を制限する権利を持つものはだれひとりいないということ、である」。だが、民族の問題とプロレタリアートの利益が敵対しあった場合は、プロレタリアートの利害を優先する。

 →民族自決権は革命の利益に従属すべきであるという一民族内での真理を国際次元に拡大する時、プロレタリアートの利益のためには、他民族の自決権をいくらでも侵害しうるという論理。

 

 レーニンもスターリンも、辺境の非ロシア諸民族が、ロシアに見習って、それぞれの民族内部での革命を遂行すること、また分離の権利を与えたのちも社会主義諸国の自由連合のメンバーとして自発的にもう一度ロシアと結びつくことを期待していた。しかし、現実にはそのように展開しなかった。

 

 

1950年代日本における民族の議論 −革新ナショナリズムの出現−】

 〈日本共産党の50年問題〉

 195016日 ヨーロッパ共産党・コミンフォルム(労働者党情報局)の機関紙が「日本の情勢について」を発表。→ 「アメリカ軍占領下においても「平和革命」は可能である」という日本共産党幹部野坂参三の「理論」を弾劾。[5]

→徳田球一ら「所感派」と宮本顕治ら「国際派」に内部分裂

―「民族」が近代の産物であるという見解の修正

 

【マルクス主義歴史学における民族の問題−国民的歴史学運動】

 

マルクス主義歴史学者の民族観の対立 → 所感(民族)派 と 国際派

 

国際派:「日本人」という意識は明治維新後にできた。

 

所感派:日本民族は太古の昔からある。古くからの民族文化を重視すべきだ。→広島への原爆投下による進歩史観への懐疑と民衆が政府の意のままに教育可能な人形のようにあやつられるにすぎないと言う描き方に対する批判。[6]→「皇国史観」であると批判される。

 

50年問題によって、所感派が指示されたため「民族の見解」が一転する。

 「民族」は近代の産物であるというそれまでの認識が、「民族」が古代史や中世史を含むものへ

 

〈国民的歴史学運動と石母田正〉

『歴史と民族の発見』:「古い卑屈な伝統をこわす」ために、民衆自身が「自由な創意と興味」によって歴史を書くことを提案。→ 村の歴史・工場の歴史 

 

権威への従属を拒否し、自らの「主体性」によって文化を創造すること

 

「民衆の中へ」:サークル活動・紙芝居・映画制作など → 山村工作隊

やがて、国民的歴史学運動は政治運動の側面をもつことになる。

 

〈運動の終息〉

・学生:「民族」「民衆」の権威を借りて既存のアカデミズムと大学を批判

     所感派と国際派の査問・リンチ

     サークルや農村調査が共産党の拡張手段へ

→ 現実の民衆に対する無知

 

石母田:「大正時代以来、進歩的知識人が農村にたいして持っていた偏見から、私などはいくらも抜け出ていなかったことが、国民についてのトータル・イメージに重大な歪みをもたらし、われわれの科学運動を生活者の意識からかけはなれた内容のものにした」

 

丸山真男の批判

『日本におけるナショナリズム』

「前衛的」ナショナリズムは「そのままの形では決して民主革命と結合した新しいナショナリズムの支柱とはなりえない・・・これを将来の民族意識の萌芽と見誤ったり、或いはその前期的性格を知りつつこれを目前の政治的目的に動員しようという誘惑にかられるならば、それはやがて必ず手ひどい反作用となって己に返ってくるであろう」

 

〈石母田正〉

 1912年札幌市生まれ 東京大学文学部国史学科卒業 中世史家『歴史と民族の発見』は当時の国民的歴史学運動のバイブルになった。著書『中性的世界の形成』『神話と文学』73パーキンソン病を発病し、86年死去。 

 

参考文献

『〈民主〉と〈愛国〉』小熊英二 新曜社 2002

『〈日本人〉の境界』小熊英二 新曜社 1998

『歴史と民族の発見』石母田正 東京大学出版会1952

『続 歴史と民族の発見』石母田正 東京大学出版会1953

『神奈川大学評論』38号および39号 2001年 「人類史的転換期のなかの歴史学と日本社会(上下)」

『日本国民論』ユン・コンチャ 筑摩書房 1997

『丸山真男集』第8巻 岩波書店1996年 「日本におけるナショナリズム」

『相関社会学』第5号 小熊英二 1995年 「忘れられた民族問題」

『石母田正著作集』第16巻 1990

『歴史としての戦後史学』網野善彦2000

『中央公論』1959年 4月号 加藤周一「民族主義と国家主義」

『ナショナリズムを読む』状況出版 1998

『検証 内ゲバ』いいだもも他 社会批評社2001年  

『マルクス主義と民族自決権』丸山敬一 信山社出版 1989

 

 

 

【戦後思想の主な4つの潮流】[7]

 

・戦前リベラリスト 保守派「心」グループ:和辻哲郎・津田左右吉・田中耕太郎など

 

・戦前リベラリスト 民主主義的知識人:南原繁・矢内原忠雄・末川博・横田喜三郎など

 

・「近代主義者」 西欧的近代市民社会理論:丸山真男・大塚久雄など

 

・日本共産党 マルクス主義者

 前者2つが「実証主義的歴史学」、マルクスには一定の理解を示しつつマックス・ウェーバーなど非マルクス主義に依拠する丸山・大塚、マルクス主義歴史学


[1] 『相関社会学』第5号 1995 「忘れられた民族問題」小熊英二

[2] 例えば 榊利夫「レーニンと自決権」 不破哲三「科学的社会主義と民族自決の原則」 佐々木一司ら「社会主義と民族自決」などいずれも『前衛』

[3] 『マルクス主義と民族自決権』丸山敬一(1989年 信山社出版)

[4] 『ナショナリズムを読む』(1998年 状況出版)第1部『マルクス主義と民族問題』上条勇 

[5] 『検証 内ゲバ』 いいだもも 他 (2001年 社会批評社)

[6] 『歴史としての戦後史学』 網野善彦(2000年 日本エディタースクール)

[7] 『日本国民論』ユン・コォンチャ (1997年 筑摩書房)