2003年6月23日
小熊研究会T「沖縄」プレゼンテーション
「沖縄のアイデンティティ 独立論・復帰論・反復帰論」
総合政策学部3年 s01482ts 杉山 貴昭
1.はじめに
発表の流れ
琉球処分以後の沖縄同化政策を確認した後、戦後の独立論、復帰論、そして反復帰論を紹介。本プレゼンは主に『日本人の境界』、そして反復帰論に関してはその代表的な論者新川明氏の著作を参考にしている。
発表の趣旨
運動とは実利的な要求を認めさせるためのものであるとともに、多様な願望を表現するメディアである。沖縄で行われた運動、独立論・復帰論・反復帰論を通して沖縄のアイデンティティを検証する。
2.同化政策
2-1
琉球処分
琉球処分反対論(統治コスト、差別意識)
処分推進論(欧米に対する国防)
1872年に10月に琉球王国は琉球藩となり、1879年には沖縄県となった。
台湾出兵と日清交渉→日本への琉球包摂路線が明確に
根拠
・ 歴史(為朝渡来伝説)
・ 言語
2-2同化政策
対沖縄政策―日本への包摂
教育面での「日本人」化を先行、制度面は後回し
制度:旧慣温存政策
教育:徹底した「日本人」化
沖縄人が歴史的・民族的に日本人であるという意識を植え付ける。
沖縄の「進化」した形態が「内地」である以上、「内地」に同化することが沖縄の「進化」である。沖縄の言語や日常生活のあらゆる風習を蔑視し、また沖縄人に郷土的なものに対する蔑視を生ませ、彼らに劣等感を植え付けた。
「日本化」と「文明化」:<遅れた>沖縄を「文明化」することを強調。しかし「文明化」を酔う調子すぎると沖縄住民の憧憬や忠誠心が欧米諸国に向いてしまうためあくまで「日本化」の強調を優先
3.沖縄ナショナリズム
支配者側によって「日本人」であり「日本人」でない存在とされた沖縄の人々は「日本人」との関係の中でいかにアイデンティティを獲得していったのか。
太田朝敷[i]
「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」[ii]
→沖縄が発展していくためには、結局日本に同化していくしかない。そのために沖縄は自助努力をすることが必要であり、それが沖縄の生き延びる道であると主張。
伊波普猷[iii]
日本と沖縄の対立、沖縄内部の対立を以下に調和に導くか
「日琉同祖論」
これらはいずれも「日本」が設定したディスコースの中での主張であった。このディスコース、考え方の枠組みは「日本」の側が設定するものであり、結果として「日本」側の仕組みに振り回され、また裏切られることになりうる。
沖縄戦
「それでもおまえらは日本国民か」
沖縄県民を戦争協力に立てるための決り文句。
「沖縄人はスパイだ」
戦局が不利になるとこういわれるようになる。
4.独立論と復帰論
1945年8月に戦争が終わり沖縄は「日本人」ではあって「日本人」ではない存在になった。1951年のサンフランシスコ講和条約締結まではアメリカの軍政が行われる中、沖縄の帰属は不明だった。
4-1.日本人かアメリカ人か
アメリカは暫定措置として規定された施政権の独占を行う。併合してしまえば沖縄住民に「アメリカ人」としての人権を与えねばならない、信託統治の提案は国連に縛られることとなるので行わなかった。アメリカは琉球住民の日本への帰属意識を断ち切ることにしたが、「アメリカ人」に同化する政策は行わなかった。こうして<アメリカ>であって<アメリカ>でない土地として沖縄を統治した。
日本側にとって沖縄は「日本人」であって「日本人」ではない存在だった。領土としては「日本」の一部であり、国籍においても「日本人」だが、憲法は施行されず、参政権もなく、戸籍の移動や渡航は制限され、三権を独占した軍人総督に統治されたものだった。
4-2.独立論
沖縄人は日本民族とは異なる「少数民族」であるという民族観と琉球処分は日本
の侵略であったという歴史観、アメリカは民主主義の本場であるというアメリカへの信頼と日本への不信感が独立論の背景にあった。
本土在住沖縄人
沖縄人の相互扶助で手一杯であり余り帰属議論は深められなかったがそれでも本土在住沖縄人メディアにおいては日本への批判と「沖縄民族意識」は濃厚なものがあったという。
沖縄人は人種的には日本の傍系ではあるが歴史的には独自の発達をとげ民族独自の歩みをしていたと主張し、明治以降は一連の同化政策をほどこされたが、敗戦によって沖縄人は非日本人になった。(永岡智太郎[iv])
沖縄本島
沖縄民主同盟が「独立共和国の樹立」を掲げる
本土
日本共産党が党大会「沖縄民族独立を祝うメッセージ」
社会党代表「将来は当然沖縄民族の自決の意義を考えなければならぬ」
朝鮮人連盟「沖縄人は沖縄の自由な国を作ることが沖縄人民の幸福」
→「沖縄民族独立」という主張は当時の革新勢力では一般的であった。
独立論は上記の日本観とアメリカ観、それらと連動した「沖縄民族観」に立ってのものであったが、次第にアメリカ支配に対する幻滅が広がるにつれて、この帰属論に揺らぎが生じることになっていった。
4-3.復帰論
初期:保守系運動としての復帰運動。
強固に日本との文化的一体感を強調する人々が非政治的な立場から「民族的な本能」といった言葉をつかいながら日本復帰を主張。主な論者、仲吉良光
また新崎盛暉が指摘する「文化的復帰論」というべき復帰思想が山城宗雄などの教員達から標準語奨励運動という形で出てきた。
しかし余り盛り上がりを見せなかった。なぜか?
沖縄の日本返還要求は、当時の本土では帝国主義的侵略と同等のものとみなされおり、また沖縄の日本復帰を支持する国際的な動きも余りなかったこと、さらに沖縄では本土の情報が入らず、沖縄のほうがむしろ本土よりもより良い生活を送れているという情報しか得られなかったこと、40年代の沖縄のマスメディアの間では帰属問題の関心が薄かったこと[v] 、戦争による徹底的な破壊のため、衣食住などの最低限の生活すら保障されず、生きるために精一杯であったことが理由としてあげられる。
しかし、講和会議が行われるという情報が入ることによって50年代になって帰属論議が再び盛
復帰論:人民党、社会大衆党
復帰反対:共和党、社会党[vii]
復帰賛成派
日本との同一性を主張。
日本と沖縄は不可分であるとして日本との同一性を主張し、また戦前の大日本帝国と違い民主国家日本の違いを強調し、日本に対する信頼を表明した。この頃になるとアメリカが沖縄に強固な基地を置こうとしていることが明確になる一方で、平和憲法、民主憲法を持つ日本が独立していこうとしている現実を前に平和憲法下への復帰をという言葉が生まれてきた。またこの立場の人たちは復帰反対論と違い琉球王国に対して低い評価をしていた。沖縄を一体のものとみなす沖縄ナショナリズムを掲げる復帰反対論に対し、沖縄内部の階級分裂を指摘することで対抗していたといえる。
復帰反対派
日本への不信とアメリカへの信頼。
日本はアメリカより貧しく、民主化の度合いも低く、経済的にも政治的にも復帰によって沖縄は得るものがない。むしろ復帰すればアメリカから得られる恩恵が日本に奪われ、徴兵や納税の義務だけを負うことになる。日本よりアメリカが優位にある限り、政治的にも経済的にも日本よりも自由を与え得るであろうと考えられていた。
*冷戦関係化での日米関係は不変であるという観測、すなわち冷戦体制下でのアメリカに対する従属関係を前提
世論の反応
日本観とアメリカ観との組み合わせによって復帰支持と復帰反対が分かれていたが復帰反対論は少数にとどまっていた。
(1951年の3月から4月にかけての青年連合会による世論調査によると、復帰86パーセント、信託統治7パーセント、独立2パーセント、その他4パーセント)
初期に弱かった復帰論がなぜ強まったか?
この頃の復帰論者は敗戦直後に独立論者だったものが復帰論に転換したものが多かった。表面的には沖縄人は本来日本人であるので当然日本に復帰すべきという論調が多かったが、本質的な動機としては「日本人」であるから復帰するというよりも、「日本人」になるために支払った「過去一世紀の努力」を無駄にしたくないという感情が強くなったと考えられる。戦前に制度としては一応の平等は達成されていたし、経済的な面から見ても、復帰すれば日本政府から援助が受けられると期待されていたし、文化的な面でも過去一世紀に払った努力は無視できないものがあった。
いずれにしろ復帰への賛否は、日本に同化するかアメリカに同化するかの無意識の選択を前提としていた。支配者側から「異民族視」されることへの恐怖と、そこからの脱出方法は同化であるという意識がこの復帰論には刻まれていた。この観点から考えると同化努力の蓄積という点では日本への復帰のほうが有利と考えられていたのである。
講和条約後から1950年代半ばまでの復帰運動
人権状況改善要求
日本の法規による保護を求める
ex)労務賃金の引き上げ、団体交渉権
本土と経済格差の拡大
→復帰によって日本人になれば豊かで平和な生活が待っているという期待が年とともにどんどん強まっていった。
親米反共を掲げた復帰運動
この時期の復帰運動の全てが反米反戦をうたっていったのではなく、親米反共を掲げるものも多かった。共産主義という共通の敵を排除の対象とすることで日米の一体性を協調し、日米が一体であるとすることによって、日本への復帰が反米ではないことを示そうとした。革新陣営が独立を唱えていた状況の延長上復帰論が保守の側から唱えられていたが、復帰運動をしただけで「共産主義者」とみなされ検挙されないために復帰運動が親米反共を表面上唱えていたといえる面もある。50年代の復帰運動においては目的が沖縄の民生向上であり、復帰が実現すればとりあえず前進だから反戦などの特定の思想を掲げていないものが多かった。しかし、アメリカは沖縄の既得権を手放したくないためこの復帰運動にも反発。また日本政府は沖縄のためにアメリカを刺激するリスクを払う気がなく、政府の沖縄への取り組みは熱のないものであった。
→アメリカ経由の親米反共の運動の限界
沖縄にとってのアメリカ観の悪化
琉大事件
米軍の意向を受けた琉大当局による学生処分事件。学外で原爆展を催した、灯火管制中(防空演習)に寮でランプをつけた、無届で出版物を出した等の理由に基づく第一次琉大事件(1953年)と反米的言動を理由にする第二次琉大事件(1956年)がある
島ぐるみ闘争
1956年6月、戦後初めて爆発的な勢いで燃え広がった全沖縄的規模での大衆運動。直接的な契機は米議会に提出された調査報告書(プライス勧告)が従来の軍用政策を是認し、沖縄の長期保有を勧告したことにあった。
沖縄にとっては民生の向上が第一であり、自分達の運動が右か左かなどは二の次であった。しかし本土の政治勢力にとって沖縄の運動が右左どちらなのかが意味を持っているので、沖縄も本土の支持を得なければならない関係上、止むを得ずその分類に当てはめる形で主張せねばならなかった。保守は沖縄の期待に答えられないものであったし、親米反共を掲げた運動はアメリカに拒否された。こうしたなか沖縄の期待に答え得るとされたのが革新勢力であった。また本土においても沖縄復帰は保守ではなく革新の主張となった。
革新ナショナリズム
50年代から60年代にかけての沖縄の復帰運動は、沖縄を日本の一部とし、米軍によって分断された「日本人」が民族の統一によって一体となることであるとする見解が革新勢力の主張として定着していった。そこでは本土との対立や琉球処分の侵略性を指摘することは、沖縄を「異民族視」する差別であり、アメリカ帝国に内通する「琉球独立論」であるとされた。
沖縄教職員会の国民教育運動(教職員組合が行う復帰運動)
米軍の教育に対する冷淡な待遇(教員の給与や設備)に対し、状況改善のためには本土の援助に頼るしかないという発想からの復帰運動
→単純な日本への思慕による復帰運動ではない
教育環境、共通語、「日本人意識」を「本土なみ」にすることを目指す
国民教育運動の要因
・本土への格差意識、米軍の圧力、戦前教育の残滓、規律引き締め意識が渾然となっていた
日本への幻想、美化されすぎた本土
・共通語奨励運動「方言札」の復活による沖縄語の使用の禁止
・児童生徒を通して各家庭における「日の丸」「君が代」奨励運動
文化やアイデンティティの面で「日本人」になることを先行させることで、「日本人」としての権利を獲得することを目指していたと言える。
教員:本土との格差意識により「日本人」との同化指向をめざす
生徒:日本人であろうと努力。オリエンタリズムの視線や差別が児童たちをいっそう「日本人」へのめりこませていく。
本土の人の沖縄に対する無知
「沖縄はどこにあるのでしょうね。フィリピンの近くですか」
「沖縄の人種は本当に日本人ですか。少し違うのじゃありませんか」
「言葉はどんな言葉ですか。だいぶ中国語に似ているのじゃありませんか」
「教科書は英語ですか」
(『婦人公論』1958年3月号)
「日本人」を目指した動機は現在児童たちが置かれた被差別状況からの脱却願望からであったといえる。
日本人=人間の尊厳、未来への希望
復帰が現実的な選択肢であるという認識がある一方「祖国」とは何かという心情の二重性
「教公二法」問題
・政治活動の弾圧を意図→復帰運動の弾圧の恐れ
→結局廃案になるが教職員会はこの闘争過程で沖縄保守と政党との決定的な亀裂が生じ、革新系野党人民党との共闘体制を強める。
日教組の沖縄国民教育運動批判
・「日の丸」問題は単に戦術的に理解してやるべきだということでは、かたづかないもっと本質的な、思想の統一性の必要がある。教員や児童の価値観の転換を促す。
ベトナム戦争
⇒ 経済的利害より「平和な祖国」への期待
「日の丸」復帰から反戦復帰へ
⇒「日本」や「日本人」としての象徴として「日の丸」や「君が代」に変わり「平和憲法」を掲げるが、この方針転換に対する現場の戸惑いがあった
地区報告
「祖国復帰のシンボルとして推奨してきた日の丸掲揚をいきなり180度転換した場合に児童の混乱が予想される」
「日の丸=祖国日本と考えている75.6%の児童を同説得するのか」
本土復帰後に沖縄教職員委員会は日教組の傘下に入り、文部省の日の丸掲揚方針への反対姿勢を示すよ
うになった。1980年代には「日の丸」「君が代」への抵抗が強い地域として注目されるようになっていった。
5.反復帰論
5-1.沖縄の日本復帰が意味していたもの
復帰に対する幻滅
「60年代末期になって、日米両政府が沖縄返還政策を打ち出してくる段階になってくると、僕は、いまや復帰を実現させなければならないと考えているのは、人民の側ではなく権力の側である、彼らの必要性によって、彼らの望むような形で、これまでの民衆の運動を逆手にとって復帰を実現しようとしている。したがって、これに対しては全面的な否定という話になっていく」(新崎)[viii]
日米両政府の復帰プラン、革新側の反戦復帰と民族統一路線、保守系からの民族独立論が複雑に交差して存在。
5-2.反復帰論
従来の復帰運動を問い直す思想である。この思想は「日本人」への包摂と排除を行いつづけた国民国家のありようそのものを問い直すものである。また復帰を政治経済上の問題とするよりもアイデンティティ上の問題とした。
「反復帰論」とは、現在この地球上を埋め尽くしている国家群のそれぞれが、国家という幻想空間の中で死守している統合の秩序に対する限りない申し立てであり、これを突き崩すための思想の営み、精神の働きである。(新川明)[ix]
「分権にしろ独立にしろ、非常に狭い意味での沖縄ナショナリズムみたいな閉鎖的な生存空間、社会空間をイメージするなら、これは意味ないと思います。これはまるで今の日本の血統主義をミニサイズにしただけの話で、そこからイメージされる国というのはミニジャパンになるだけの話です。」(新川)[x]
・ 「日本」を「国民国家」として独立させるために「日本民族」の統一を掲げ、「沖縄」を「日
本人」に統合させようとすること(従来の復帰論)を拒否する
・ 沖縄内部の地域格差の自覚から沖縄ナショナリズムへの複雑な姿勢
・ 単一の沖縄民族の境界をどこに設定するかの問題に直面してしまう。沖縄が独立してもそれが既存のナショナリズムと国民国家の原理によるものならば、排除と同化の関係を縮小再生産するに過ぎないことになる。
・沖縄の異族性をもって国民国家そのものの論理に対抗。「異族」とは国家の同一性かを拒否する個人の指向を意味するものである。すなわち、沖縄人が学術的な意味で日本民族の一員であるか否かという議論とは無縁。
反復帰論と沖縄のアイデンティティ
反復帰論は復帰を政治的な現象として捉えるよりもアイデンティティ上の問題として捉える。
日本国家を相対化するために沖縄国家を創りますという形だと、結局あるナショナリズムを否定するために別のナショナリズムをもってくることにしかならない。(中略)
沖縄の「もと」の文化や言語がどうなろうと沖縄のアイデンティティは崩れることはないし、沖縄の外部にいる人でも「沖縄人」になれる開放性がある。(中略)
日本に同化かそれを拒否して沖縄だけで閉鎖するかのどっちかを選べという議論にはまったらダメだと述べたわけではありますけれど、「沖縄の自立」とかいったときも、日本に同化するのがいやだから沖縄文化に閉じこもる、という発想ではまずいと思う。(小熊)[xi]
・ 沖縄にもとからあった文化や言語を基準に沖縄アイデンティティを作ろうとすると沖縄の範囲をどこに引くのかという問題にぶつかる。しかし、国家への同化を拒否する指向である異族性を持って沖縄アイデンティティを考えるなら、人種とか血統で沖縄人であるか否かという議論とは無縁になり、開放性のあるアイデンティティを創れる。反復帰論は同化か自立化という二者択一の議論を強いる言説を拒否するものであるといえる。
6.まとめ
琉球処分後沖縄は日本に「統合」されることになるが、「統合」とは国民的同一性の形成を要求する。沖縄では上記の同化政策が行われ、また沖縄人の側も進んで国家に同一化することで社会的な差別や経済的貧困からの脱却を求めて日本国民化の志向を目指した。これをささえたのが太田や伊波ら言説であった。また戦後アメリカ占領時代に米軍統治の過酷さや「平和憲法」を持つ国日本への憧憬から日本復帰運動(統合)が沸き起こった。いずれも沖縄の人たちが自分達のためになると思って選択したパフォーマンスであったといえる。しかしこうした統合を選ぶことは「日本」側が設定した選択肢、すなわち日本あるいはアメリカ=強い側のディスコースの中で選択肢の選択であったといえる。そしてこの言説内での沖縄の利益追求の負の面を負担させられたのが国民教育運動における児童であった。反復帰論とは今までの沖縄の独立論や復帰論―同化か分離を強いた支配的なディスコースを拒否する思想であったといえる。
著者紹介
新川明
1931年沖縄生まれ。
1955年、琉球大学文理学部国文科を中退、沖縄タイムス社に入社。同社八重山支局長、『新沖縄文学』編集長、『沖縄百科事典』編集長、編集局長、社長、会長を勤め、1995年退任。
沖縄出身の父親と本土出身の母親の間に生まれる。幼少期をかつて沖縄の偏狭として琉球王国から搾取された八重山で過ごす。
小熊英二
1962年東京生まれ。
1987年東京大学農学部卒業。出版社勤務を経て、98年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。
<参考文献>
新川明(2000)『沖縄・統合と反逆』筑摩書房
新川明・新崎盛暉「沖縄にとって<復帰>とはなんだったか」『世界』1985年6月号
新川明・池澤夏樹「沖縄独立の夢を語ろう」『世界』1996年8月号 岩波書店
新川明「語やびら、沖縄世」『世界』1997年9月号 岩波書店
新崎盛暉(1996)『沖縄現代史』岩波新書
小熊英二(1998)『日本人の境界』新曜社
小熊英二 (2000)「沖縄アイデンティティの行方」『ウチナーンチュは何処へ』実践社
高良倉吉・浜下武志・我部正明「<沖縄ルネサンス>その可能性」『世界』1997年9月号
比嘉春潮・霜多正次・新里恵二(1960)『沖縄』岩波新書
[i] 沖縄最初の新聞『琉球新報』の主筆
[ii]
1900年の講演
[iii]沖縄学の父。沖縄の民族的アイデンティティを想像しようとした
[iv]
ジャーナリスト。戦前には『改造』の記者やモスクワ特派員を務めた
[v]
日本本土との郵便取り扱い業務が始まったのは1947年6月、ただし船の往来はほとんどなく、実際には翌48年3月の航空便の取り扱い開始で初めて通信機能が復活した
[vi]
「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号
[vii]『沖縄統合と反逆』
[viii]
「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号
[ix]
『沖縄統合と反逆』
[x]
「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号
[xi]小熊英二 (2000)「沖縄アイデンティティの行方」『ウチナーンチュは何処へ』実践社