加藤典洋氏と高橋哲哉氏の「論争」

   〜『敗戦後論』と『戦後責任論』を中心に〜

総合政策学部3年 

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  松本 純平

T、発表の形式

  著者紹介→加藤氏の主張の論点→高橋氏の論点→具体的な論争部分

 

U、著者紹介

・加藤典洋氏

   1948年、山形県生まれ。東京大学文学部卒業仏文科卒業、現在、明治学院大学国際学部教授、文芸評論家。主な著作に『アメリカの影』、『ホーロー賞』、『戦略的思考』、『可能性としての戦後以後』などがある。

 

・高橋哲哉氏

   1956年、福島県生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス科卒業、同大学大学院哲学専攻博士課程単位習得。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科助教授。主な著作に『記憶のエチカ』、『断絶の世紀 証言の世紀』、『ナショナル・ヒストリーを超えて』などがある。

 

V、加藤氏の主張

1、戦後日本の分裂

 

・ジキル氏と、ハイド氏

  戦後において、日本社会は人格的に紳士的で、温和なジキル氏と、怖い殺人鬼のようなハイド氏に分裂している。日本の社会の中で改憲派と護憲派、保守と革新という対立をささえてきたのは、ジキル氏とハイド氏である。細川内閣時に、「日本は間違っていた」という細川発言と、それに逆行する「日本は正しい」という元中西防衛長官や、元長野法相の発言が生じた。これは、「ねじれ」を意識下に押し込め、見えなくした、深い自己欺瞞のためである。

 

  ⇒では、「ねじれ」とは何であろうか

 

2、戦後日本の「ねじれ」

 

@      憲法における「ねじれ」

    現在の平和憲法は連合国軍総司令部の発意によって作られ、押し付けられた。憲法には「武力による威嚇又は武力の行使」をどのようなことがあっても認められない、とあるものの、それは原子爆弾という「武力による威嚇」によって押し付けられたものである。

       ⇒戦後の護憲論、改憲論は、原点のねじれを受け止めることを回避し、ねじれをそのまま受け止めずに憲法の議論をしてきた。だから、国民投票によって憲法を選び直すべきである。その結果、たとえ戦争放棄条項が廃棄されたとしても、そのことによって憲法が、「われわれの」憲法になるのであるので、それは望ましいことである。

 

 A死者たちとの関係

  大戦以前まで、私たちは戦争の死者を厚く弔ってきたが、この大戦中の戦死者は、外向きの正史の中で確たる位置を与えられていない。侵略された国の人にとっては、これらの人たちは、侵略者にすぎないので、この正史は見殺しにした。ジキル氏の頭には、この侵略者である死者を引き取り、その死者とともに侵略者の烙印を国際社会の中で受けるという、侵略戦争の担い手たる責任を引き受けることができなかった。

 

  ⇒自国の3百万の無意味な死者を無意味ゆえに深く哀悼することが、そのまま2千万のアジアの他者たる死者への哀悼につながる。

 

3、謝罪主体の構築

  

日本が謝罪できるようになるためには、人格分裂の克服以外にない。分裂した主体のままでは、謝罪することができない。そのために、保守派、革新派ともに、対立者を含む形で、自分たちを代表しようという発想をもつべきである。このことはまた、国民の共同的主体としての「われわれ」の立ち上げ、ということも意味する。これに対する批判として、戦前型の共同性への復帰に道を開くのでないか、というものがあるが、私たちは、最低、謝罪主体を構築する義務があり、万が一、そこに単一性への傾斜があるとしても、その危険は、その構築を通じ、私たちの責任で、除去していくしかない。そして、新しい死者の弔い方を編み出すことの必要、汚れこそ原点にするような重層的な認識主体の形成、憲法の改正条規を国民投票による現憲法の選びなおしをしていくべきである。 

 

W、高橋氏の主張

 

1、応答可能性(レスポンシビリティ)としての責任

 

     英語のresponsibilityは、他者からの呼ぶかけ、訴え、アピールがあったときに、それに応答する態度にあることを意味する。

     私たちの身の回りには、他者からの呼びかけ(例えば、選挙ポスターや、広告だけでなく日常会話も)であふれていて、その中で無数の言葉による呼びかけを受けとりながら生活している。

     あらゆる社会、人間関係において、人と人とが共存していくための最低限の信頼関係として、呼びかけを聞いたら応答をするという「約束」がある。私たちが、他者と共に社会で生きていく場合に、私たちはこの「約束」に拘束される。

   →呼びかけに応答しないことは、人が社会に生きることをやめざるを得ない

     他者の呼びかけに応答することは、プラスイメージで、新しい人間関係を作り出したり、他者との基本的な信頼関係を確認したりする行為で、他者とのコミュニケーションそのもの。

     応答可能性としての責任とは、自分だけの孤独の世界、絶対的な孤立から脱して、他者との関係に入っていく唯一のあり方。

 

⇒ 戦後生まれの日本人にとって、戦争責任とは、罪責としての責任ではなく、レスポンシビリティとしての責任

 

2、記憶・亡霊・アナクロニズム

 

     戦争の記憶は「亡霊的な特徴」をもっている。

→「亡霊」として戻ってくる記憶が、「戦争」の記憶にとって重要

 「戦争の記憶」を左右する「亡霊」は、人々が忘れたころに、戻ってくる。

 

*「亡霊」

 →ユダヤ人へのホロコーストに関わった人たちへのインタビューを収録した、ドキュメンタリー映画『ショアー』において、シモン・スレブニクは、かつてゾンダーコマンド(ユダヤ人を殺害する作業に強制的に協力させられ、一定期間後に処刑される運命にあった人たち)であったのだが、こめかみに銃弾を打ち込まれて、奇跡的に生き残った。その人物が、30年ぶりに大量虐殺の現場に戻ってきた。このような「そこにいるはずのないこと」を高橋氏は、「亡霊的」としている。

 

     フロイト『悲哀とフランコリー』におけるトラウアーとメランコリー

→愛の対象の喪失の後に生じる感情であり、人間はこの喪失を現実として受け入れるために必ず一定の精神的な作業(=「喪の作業」)をしなければならない。その「喪の作業」がうまくいけば、トラウアーは終わるのであるが、メランコリーはそれがうまくいかない状態(憂鬱症)である。いずれにしても、他者の死をどのように受け入れるか、喪失をどう受け止めるか、これは人間にとって大きな問題である。

 

・ クロノジー:「時間の論理」、「時間の合理的秩序」

→この観点から考えると、「喪の作業、悲しみの作業」を急がせ、過去を忘れて、現在から未来に生きることを重視する。

 

     アナクロニズム:クロノジーの混乱、クロノジーの転倒、クロノジーへの反逆

→「戦争の記憶」を左右する「亡霊」は、アナクロニックである。つまり、人々が忘れたころに、忘却が支配しようとしている時に戻ってくる。

⇒過去を克服しようとするならば、「喪の作業」つまり、「苦痛に満ちた想起の作業がどうしても必要。

 

・記憶の継承は可能か

   @証人は、人間として死すべき運命なので、その証人の証言を引き継いで証言する新たな証人がいなければ、記憶は断絶してしまう。Aまた、その場合においても、決して完全に同一のものの反復ではないので、差異や忘却を含んだ反復でしかない。B「戦争の記憶」は、民族や国家を超える。

   3.ジャッジメントの問題

 

なぜ「責任者処罰」が必要か(ハンナ=アーレント)

→@「正義」の要請

・裁きがなければ、人間社会の条件をなす最も基礎的な正義感が損なわれる。

  ・「自由は人間の本質であり、正義は人間の社会的条件の本質である。いいかえれば、自由は個人の本質であり、正義は共同性における人間の本質である。」

  A過去との和解の必要性

・正義の要請に応えることを通じて、私たちの社会に傷を残している過去との 可能な限りの和解を目指す

  ・できれば見たくない、触れたくない、抑圧してしまいたい過去もしっかり直視して、それにジャッジメントを下すのでなければ、過去は「克服されざる」ままで、いつまでも残り続ける。

 

  *加藤氏の「三百万の自国の死者を先に弔う」といった発想は、日本の過去のジャッジメントに対する「抵抗」でしかない。

   B「復讐」の応酬を打ち切る「赦しの代替物」

  ・処罰は、私たちを束縛し続ける負の遺産の作用から自らを解放し、再び他者と共に活動し始めるための積極的行為(「許しの代替物」)である。

  ・いっさいの赦しを欠く処罰は、純粋な復讐の論理に近づいてしまう。

 

 

4、日本のネオナショナリズム

     自由主義史観の最大の問題点の一つは、日本人の「誇り」を回復するためと称して、否定論に突き進んでいる。また、否定論者はたいてい、「でっち上げ」の背後に普遍的な「陰謀」の存在を想定している。

例):藤岡氏は、元「慰安婦」の証言を、証言内容に「事実の食い違い」があることや、日本軍の強制連行の命令書が発見されていないことを理由として、「包括否定」している。

⇒「日本人」が被害者の告発を受けとめ、最も基本的な「歴史認識」の共有に応じることが必要。

 

X、具体的な論争

1、高橋氏の加藤氏批判

 

@ 日本社会の精神分裂への批判

  ・ 本質的な矛盾や、対立を考えておらず、国民的一体性を想定している

 A 憲法論への批判

     現在まで平和憲法が果たしてきた役割を過小評価しすぎており、「押し付け」を意識しすぎている。

     加藤氏の唱える「ゼロからの選び直し」論は、「国民主体」の起源から他者の痕跡を消そうとする一種の「純粋主体性の哲学」である。

 B 昭和天皇の戦争責任についての批判

  ・ 加藤氏は、昭和天皇の責任を「臣民に対する責任」、とくに「その名のもとに死んだ自国の兵士たちに対する責任」に限定している。

C       戦死者の哀悼への批判

     保守修正主義者たちの、「歴史の偽造」を含む「失言」・「妄言」を革新派のアジアに対する謝罪の論理への反動と解するのは無理がある。

     革新派が自国の死者を顧みずに、アジアの死者しか考えてこなかったとは考えられない。(革新派のアジアに対する加害責任の意識は、1960年代後半のベトナム反戦運動の渦中で芽生えるも、具体的な運動になったのは、80年代から90年代前半の、アジア各地の被害者が戦後補償裁判を起こしていく過程でのことだった。)

     加藤氏は、日本の戦争が「義のない戦争」という前提に立って議論しているのであるが、保守派にとってそれは受け入れがたいものであり、加藤氏の議論には有効性がない。

D       加藤氏の中心思想への批判

自国の死者への閉じられた哀悼共同体、自国の兵士の死者への閉じられた感謝の共同体として日本の「国民主体」を作り出し、結局は日本の戦争責任を曖昧にすることにつながる。

 

⇒汚唇の記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが必要。   ・・・A

 

2、加藤氏の高橋氏批判

 

・ 高橋氏の主張するように、たしかに「汚辱の記憶」を記憶され続けなければならないが、この主張では、「そんなこと知らない」という後続世代の声(「ノン・モラル」の問題)に対応することができない。

 

*ノン・モラル

   →人は、それに関与しない限り、どのような問題にも、「私は関係ない」という権利を持っているという考え。

 

・ 高橋氏は、まずアジアの死者に向き合わなければ、「われわれ日本人」を立ち上げることができない、と述べているように、自己を作るのは他者、と考えているが、自己がないと他者に出会うことはできない。

 

・ 高橋氏が、ユダヤ人問題に言及する形で、『イェルサレムのアイヒマン』をめぐるアーレントと、ゲルショム・シューレムの論争を取り上げ、ジャッジメントをめぐり、アーレントの見解を引用しているのであるが、アーレントの当事者性の重層性を見ておらず、第三者的な観点である。この場合、共同性と公共性の視点で考えるべきである。

 

  *共同性と公共性

   →加藤氏は本の中で、共同性を「同一性を基礎とした集合性」、公共性を「互いに異なる個別性と差異性を基礎にした集合性」と定義している。共同性については、精神分裂が解決されていない状態を、公共性については、精神分裂が克服された状態を示すのにも使われている。

 

⇒語り口の問題

 ・ (Aの発言に関して)高橋氏の語り口は、公共性に達しておらず、共同的である。共同的な語り口で、公共的なことを主張するのは、おかしい。

    ←精神分裂の問題の解決になっていない

 

参考文献

・ 加藤典洋 『敗戦後論』(講談社 1997)

・ 加藤典洋 『戦後的思考』(講談社 1999)

・ 加藤典洋 『可能性としての戦後以後』(岩波書店 1999)

・ 高橋哲哉 『戦後責任論』(講談社、1997)

・ 高橋哲哉編 『ナショナル・ヒストリーを超えて』(東京大学出版会 1998)

・ 高橋哲哉編 『〈歴史認識〉論争』(作品社、2002)

・ 小熊英二・上野陽子 『〈癒し〉のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会、2003)