’03年度 春
小熊ゼミ1 歴史認識発表レジュメ
(6月30日)
「慰安婦」当事者側からの運動
運動の起こりと展開、他分野への波及
総合4年 70007809
朴 佳那
序
ここでは、「慰安婦」問題を当事者を含めた運動とともに見ていく。ただ、運動の年表を参照すればわかるように、当事者そのものが一から起こした運動というものは存在しない。その逆で、たとえ政府の公式見解であろうと、彼女らを「発見」することなしにはうまれてこなかったであろう。
「思想と現実のはざま」とは具体的にどの部分を言いあらわすのかわからないが、当事者とそうでない者が互いに補完と反発を繰り返しながら「慰安婦」問題も変遷してきた。そのような社会運動の一例としてご覧いただければと思う。
本論構成
「慰安婦」運動の起こりと展開 (別途資料を参考にしながら)
@戦後補償についてどう考えるか 国民基金か国家の謝罪か その受け止め方
A水曜日デモとスローガン
キーワード
「慰安婦」・・・
第二次大戦中、占領地域内での日本軍人による性的不祥事の発生を抑え、軍紀や士気を維持し、性病を予防するために、占領地下の朝鮮半島をはじめ、東南アジアからも多くの女性が前線に送り出された。「慰安婦」という呼称は、性奴隷として扱われた真実を伝えないとして、被害者当事者たちも好んでいないため、最近では「」括弧付きで登場することが多い。また、「慰安婦」にしばしば「従軍」と形容がつくが、これも強制的に騙されて「慰安所」へ連れて行かれたことを歪曲するとして、好まれない。ここでは参考資料に従い、従来の「慰安婦」を用いる。
ナヌムの家・・・ 「ナヌム」とはわかちあいの意味。行き場のない朝鮮人元「慰安婦」ルモニたちが仏教団体の支援で共同生活をしている場所。1992年の設立時はソウル市内にあったが、95年に現在の場所、広州市(ソウル市内から車で2時間ほど)に引っ越した。都会であるソウルを離れることで、再び社会から阻害されることを予期し、引っ越すことになかなか賛成をしなかったという。(p8要約 彗真:1998)
とはいえ、現在はひとりひとりに個室があてがわれ、ソウルとはちがう広々とした田舎の生活に、みな満足しているように見受けられる。
「ナヌムの家」は共同生活の場としての意義だけではなく、水曜日デモへの積極的な参加、国内外の被害者発掘、ハルモニの証言や絵画点など、日本軍「慰安婦」問題の真相を国内外に知らせる役割を果たしてきた。「慰安婦」問題を伝えてきた運動の主体といっても過言ではないだろう。
参考文献『ナヌムの家のハルモニたち』は、この施設の建設に熱心に取り組んできた彗真僧の、いわゆるハルモニ観察記といえよう。
「慰安婦」運動の起こりと展開
1980年代になり、韓国国内で「慰安婦」問題が問いただされるようになる。尹貞玉梨花女子大教授(現挺身対策協議会名誉代表。以下、挺対協とする)がこの先駆的役割を果たす。
尹教授は1970年代より「慰安婦」資料収集を始める。日本軍「慰安婦」として沖縄に連行されたまま帰国できなかった沖縄の「奉奇ハルモニの調査をし、彼女を朝鮮人女性である日本軍「慰安婦」被害者として、韓国国内で知らせたのが運動の出発点となる。(p262−271抜粋 尹貞玉:1992)(p61要約 ナヌムの家歴史館後援会:2002)
日本国内では、社会党(当時)などから「日朝国交回復のために日本政府が植民地支配に対する詫びの気持ち」をもりこんだ国会決議を目指す運動が始まるようになる。89年に昭和天皇が亡くなったことも契機となり、少しずつ拍車がかかる。
しかし、なにより決定打だったのは、「慰安婦」当事者である金学順さんの告発であった。「それで政府も含めて、現実の問題として考え考えなければならなくなりました」(p9和田春樹の発言 インパクション107号:1998)
@戦後補償についてどう考えるか
西野:問題点は3点。1点目…責任は「応答」であるということ。「慰安婦」たち被害者にとって、基金は果たして「応答」であるのか。
2点目…1965年のサンフランシスコ条約[4]により、日韓二国間で戦後補償などやるはずがないという、政治的な現実主義の視点。
3点目…国家の責任を国民の責任に転嫁していること。国民は国家と一体であるとする考え方。慰安所にいった下手人の子孫、国家の形成者である国民といういいかたでもって償いを転嫁させていること。
和田:憲法上の手続きからすれば、戦後の国家は選挙で国民が選んだ政府が営んでいる。戦後の国家、戦後の政府が戦前の国家の責任を継承するということは、その政府を選んだ我々(国民)もともにその責任を継承するということ。
国民の償いのしるしとして被害者は受け取ってくれればいい。受け取らなければ、引き続き闘争し、国家責任を追及する努力をすればいい。むしろ、誰かが受け取ってくれてそういう努力が意味があるとなれば、そのことがかえって日本の社会をよくする。
いまの運動体、挺対協は、政府の表明より国会決議による謝罪を求めている。天皇のこの問題に対するなんらかの意思表示ならまだしも、謝罪は難しい。
日本国家は戦争犯罪をなにひとつこれまで裁いていない現実がある。「慰安婦」問題に関しては、そのそんざいすら否定する論者がいるなかで、犯罪の認定は法律的にむずかしい。だから、道義的に責任を感じて謝罪するというほうがやはり深くて、意味があるのではないか。(p6−34「齟齬のかたち」要約加筆 インパクション107号:1998)
「慰安婦」当事者たちから見ると、どうなのだろうか。お金の裏に透けるのが天皇の謝罪か、民間人の善意か。しかし責任主体がなんであれ、やはりお金はお金か・・・。
本音を垣間見る「慰安婦」たちの言動例:
・ 「(国民基金を)受け取っても地獄、受け取らなくても地獄」 在日の元「慰安婦」宋神道の発言。彼女はいまだに国民基金の受け取りを拒否している。(p99インパクション107号:1998)
・ 「アイゴー!死ぬ前に日本から民間基金(国民基金の別名)でも受け取って思い切り使ってみてから死ぬか」
誰かが吐き捨てるように言った。
この機会を逃すまいと、突然某ハルモニも曰く。
「(わたしたちも)ある日突然死んだらどうしよう?民間基金でももらわなきゃ。私たちも団結しなきゃ」
すると誰かが一言いった。
「あんた、一人で団結したら!」(p34抜粋 彗真:1998)
加害者である元兵士たちの認識:
京都「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告集編集委員会 の行った元日本兵士への聞き取り調査に対する返答例:
・ 補償は当然。戦後処理なんにもできてない。
・ 誠意をして示していかないと行けない。
・ 徹底して闘って、生きているうちに実現を!
わしらもソ連に捕虜として引っぱられて、シベリアに半年いてからウクライナまで行った。化局、我々に対して当時も労働賃金の支払いを日本政府は拒否している。・・・日本政府は日本人に対してすらそういう態度をとっているのだから、ましてや朝鮮・韓国の人たちにはそのような態度をとりますよ。
・ 補償はするほうがええと思うわ。
一応、1965年の日刊で話が終わっていると聞いているけど、個人の賠償は難しいと思いまっせ。中国からもいうとりますしね。・・・賠償要求は、個人関係やと思います。
・ せめて「慰労金」でも
賠償のことは、個人のことはどうせ1965年に韓国とはもう話ができたでね。国同士の話は終わってるはずでね。個人の賠償のほうは、ちょっと私は難しいなと思いますけど。・・・私の考えでは、すこしなりともちょっと慰労金としてやるほうがいいと思います。
・ 人道的な立場から、償いはしてしかるべき。
もちろん、人道的な立場からね、そうするのがあたりまえと思いますよ。しかし、実際に我々は、それに甘んじて、実際にその、満足感をなにしてきたということは、その時代においてはそうせざるを得なかったということもあるわけですわ。ねえ。別に罪の意識もないし。相手もプロやと思ってるしね。
・ 国と国との問題だ。
・ 軍属として行っている以上、補償は当然。日本人の「慰安婦」にも補償を。
当然しなければならないと思いますね。・・・しかし、こういうこと(補償の要求)がされてくるということも、韓国政府が日本に対して、何か嫌がらせをしているのか。・・・日本人の慰安婦はどうしたか、ということですよ。問題ですわ。
・ 「慰安婦」だけでなく、朝鮮の被害者に補償すべき。
・ 忘れられないトランク一杯の軍票、補償は当然。
宮沢(喜一)さんでも「遺憾であった、すまなんだ、悪いことだった、耐え難きをおしつけた」といってもね、口でやったら何でも言うわ。なんぼか形になるものをするのが当然やな。
・ 強制連行ではない。共生なら補償必要。
業者がね、慰安所開設する業者が、金だして買うてきて、店を開いとんやないかと。ほいで、日本が戦後少し金持ちになったような状態で、そういうような賠償問題とかが出てきたんのやと思うな。・・・強制的でなかったら身売りをしたわけでしょ。身売りしてきたんやったら、それ、日本の軍隊というものに責任がないわけやわね。日本政府に。それを、責任があったら、昔の遊郭もみた責任があるわ、政府に。
・ 慰謝料的なものも必要
そうですねえ、結局、徴発ですねえ、徴発。しかし、まあ時と場合によっては慰謝料的なもんも必要かもわかりませんなあ。(記録者:強制的に連れて行ったということもありますからね?)徴発したことは事実ですなあ。
・ 日本の若い世代が賠償に応じるかどうかです。
われわれがやってきたことに対して、今の若い年輩の方が、すんなりと賠償に応じようかという気持ちになれるかどうかですね。・・・やっぱり税金で払うんやから、今の若い人、そら・・・。
・ ほとんどが強制とちがいますか。
苦しまはったひとなら、それ相応な、いまでしてみると、1965年に請求権の調停済みと書いてあるけれどね。しかし、ある程度はそこそこにやっとかんと、しまいに、日本叩きばっかりあっちこっちから言われ出したら、こんな「慰安婦」のことかて、ある程度のことは返事して、ちょっとしたげんといかんと思いますな。
・ 被害者意識ばかり強調するな。
・ 戦後処理は終わっている。
・ 補償してあげたいけど、際限がない。
・ 補償なんてもってのほか。
・ なにをいまさら。喧嘩両成敗。わしら内地勤務の者や学徒動員の補償を先にしろ。
・ 当時は朝鮮は日本だった。いまさらなにを言うのか。
・ 補償は要らない、金を稼ぎに来ていただけ。
・ 戦後すぐに言わないと駄目だ。
・ 軍票はらった。強姦じゃない。補償は不必要。
・ 上官の言うとおり、慰安にいくだけ。
・ ニセ者がでてきて、気をつけんとあぶない。
補償が問題になってくればね、ニセ者が出てくると思うんですわ。それでね、どれが慰安婦で、どれが違う・・・。
(対面、または電話による聞き取り調査を行う一週間前に、京都市街地でビラを配り、それに対する返答。123名が情報を寄せた。 p280−300要約)
B「水曜日デモ」とスローガン
「慰安婦」当事者の運動として1992年より現在も続いている。挺対協が、80年代からの「慰安婦」問題の盛り上がりと、日本政府の不誠実な態度への対応策として講じた。ソウルの日本大使館前で現在も行われている。当初は挺対協とハルモニ数人から始まったデモも、日本や東南アジア地域の運動団体も訪れ、連帯デモが繰り広げられるようになった。
当初からの7つの要求事項
・ 日本政府は日本軍「慰安婦」強制連行の事実を認めよ
・ これに対して公式謝罪せよ
・ 蛮行の全貌を明らかにせよ
・ 犠牲者たちのために慰霊碑を建てよ
・ 生存者の遺族に対し補償せよ
・ このような過去が繰り返されないために、歴史教育の場でこの事実を教え続けよ
・ 責任者を処罰せよ (p68要約 ナヌムの家歴史館後援会:2002)
1992.1.8 日本政府に対する7項目の要求を掲げ、定期的な「水曜デモ」として始まる。
1992.12.23 50回目決行
1992.12.22 100回目決行
1995.5.3 「国民基金」慰労金反対デモ。韓国国会の日本軍「慰安婦」問題研究会などから10余名の国会議員が参加。
1996.5.29 全国女子大学生協議会と挺対協との共同主管で決行。95.7に橋本首相が発表した「国民基金」の撤回を要求する講義書簡を日本大使館に伝達した。
1997.1.29 250回目決行
1998.2.18 300回目決行
1999.2.24 350回目決行。協会女性連合会主管で開催された。
1999.10.20 「日本軍『慰安婦』責任者処罰は21世紀に持ち越すことはできない」と謳う。
2000.3.1 400回目が800人が集まるなかで決行。
2000.8.9 8.15記念デモとして決行。南北朝鮮が起訴状を共同で作成すること決議。
2000.9〜12 2000年女性国際戦犯法廷の成功を願い、全国リレーでデモ。(ソウル、広州、大邱 、釜山、昌原)
2001.7〜8 日本大使館前のデモが阻止される。
2001.10.11 小泉首相訪韓反対デモ
2001.12.26 2000年女性国際戦犯法廷最終判決報告会および、亡くなったハルモニの追悼会、および出版記念会。
2002.3.13 500回目決行。 (p71−73抜粋 ナヌムの家歴史館後援会:2002)
参考文献
・ ナヌムの家歴史館後援会 『ナヌムの家歴史館ハンドブック』 (柏書房,2002年)
・ 高橋哲哉 編 『〈歴史認識〉論争』 (作品社,2002年)
・ VAWW−NETジャパン編 『裁かれた戦時性暴力 「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか』 (白澤社,2001年)
・ 徐京植 高橋哲哉 『断絶の世紀 証言の時代 戦争の記憶をめぐる対話』 (岩波書店,2000年)
・ 同志社大学 浅野健一ゼミ 編 『ナヌムの家を訪ねて 日本軍慰安婦から学んだ戦争責任』 (現代人文社,1999年)
・ 彗真 『ナヌムの家のハルモニたち 元従軍慰安婦の日々の生活』 (人文書院,1998年)
・ 『インパクション107号 特集:齟齬のかたち 検証「従軍慰安婦」問題』 (インパクト出版会,1998年)
・ 上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』 (青土社,1998年)
・ 鵜飼哲 『償いのアルケオロジー』 (河出書房新社,1997年)
・ 吉見義明 『従軍慰安婦』 (岩波書店,1995年)
・ 1992・京都「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告集編集委員会 編 『性と侵略 −「軍隊慰安所」84か所 元日本兵らの証言』 (社会評論社,1993年)
・ 吉見義明 編 『従軍慰安婦資料集』 (大月書店,1992年)
・ 尹貞玉 編 『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」 明日をともに創るために』 (三一書房,1992年)
http://www.nanum.org/jap/index.html ナヌムの家公式ホームページ
(ハルモニたちの近況は、 彗真 『ナヌムの家のハルモニたち』に劣らず面白い。ハルモニたちの絵画作品ギャラリーは、深く胸をえぐる。掲示板から日本人ボランティアとも交信できる。)
http://www.truetruth.org 韓国挺身隊研究所
[1]95年6月、日本政府の協力の下で、「女性のためのアジア平和国民基金」が民間組織として発足し、一年後の96年8月から元慰安婦への償い事業を開始した。 政府が民間基金に運営費を出し、民間から20億円集め、元「慰安婦」たちに一時金20万円ずつを支給するという構想。一時金とともに、橋本首相(当時)の手紙が添えられた。
[2]
「日本の戦争責任資料センター」幹事・研究員。中国の「慰安婦」裁判を支援する会共同代表。
[3]
「国民基金」呼びかけ人。東京大学社会学研究所所長。専攻はロシア史、現代朝鮮研究。
[4]日本国籍を失った在日朝鮮人に対して、この日から復活した軍人恩給等戦後補償法など、いっさいの請求権が剥奪される措置がとられた。