2003年度春学期

小熊研究会T最終レポート 728日(月)

『ジェンダー・トラブル』まとめ フェミニズムの系譜学

総合政策学部3 福永 玄弥70107636; s01763gf

 

  目次

 

0. はじめに

 

1.       『ジェンダー・トラブル』を読む

 1-1. セックス/ジェンダー/セクシュアリティ

  1-1-1. ジェンダー ―― 現代の論争の不毛な循環

  1-1-2. 異性愛のマトリクス ―― 理解可能なジェンダーと理解不能なジェンダー

 1-2. 異性愛のマトリクスの生産

  1-2-1. 構造主義 ―― 近親姦タブーと異性愛主義の生産

  1-2-2. 精神分析 ―― フロイトと同性愛の忘却

 1-3. 攪乱的な身体行為

  1-3-1. ミシェル・フーコー ―― 法の機能と攪乱の可能性

  1-3-2. ジュリア・クリステヴァの戦略 ―― 「原記号界」による「象徴界」の攪乱

 1-3-3. モニク・ウィティッグの戦略 ―― 「レズビアニズム」によるセックスの転覆

 1-4. 結論

1-4-1. ジェンダー・トラブル ―― パロディから政治へ

 

2. 感想

 

3. 参考文献

 

 

0. はじめに

 ジュディス・バトラーはその著、『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』のなかで次のように言う。「女というカテゴリーを何の疑問もなく引きあいにだす姿勢が、表象/代表(リプレゼンテーション)の政治としてのフェミニズムの可能性をあらかじめ閉じてしまうことだ」と。すなわち「女」というカテゴリーは人種、階級、宗教などが、多様に絡み合う重層的なものであり、それを一枚岩的なカテゴリーとしてとらえることに警鐘を促す。けれども、バトラーは「『女』という一般に共有できる概念があるという考え方を捨て去ることは、むつかしい」とも、一方で述べる。なぜなら性的に抑圧されている「女」を解放し、「女」という主体を構築することを掲げた実践であるフェミニズムは、そのような姿勢によって、その基盤を失うことになりかねないからである。バトラーは、しかし、「女」というカテゴリーを徹底的に疑問に付す。

 フェミニズムは一般に、「第一波」と「第二波」に分類される。(井上[1992])第一波フェミニズムが参政権運動という制度的な権利獲得を主軸に据えたとすれば、1960年代後半に始まった第二波フェミニズムの特徴は、制度を支えている考え方自体を問う方向へとむかったといえる。(竹村[2000;14])第二波フェミニズムは、「(欧米や日本では)参政権を始めとする法律上の平等は一応、達成されていたにもかかわらず、現実には、なぜ女性が従属的位置に置かれているのか」という問題意識に端を発するものである。(井上[1992])「個人的なことは政治的なことである」という有名なスローガンが、この特徴を端的に言い当てていると言えよう。

私的領域における抑圧からの解放をめざす運動としてはじまったフェミニズムは、いまや制度的な学問へと移行しつつある。その過程でさまざまな理論を生みだし、もはやフェミニズムそのものを一枚岩的に説明することは困難な作業を伴うと言われるなかで、バトラー以降、つまり1990年代以降のジェンダー論の「決定的転換」をはじめとする流れを「第三波フェミニズム」と位置付ける動きもみえている。それが妥当であるかどうかについての考察は、ここでは試みないが、いずれにせよ、バトラーがフェミニズムにもたらした影響は計り知れない。『ジェンダー・トラブル』は、難解な言説の集合体だと言われることもあるが、「フェミニズムの系譜学」と言及されるこの書物に挑戦することは有意義だと思われる。それゆえこのレポートは、『ジェンダー・トラブル』をまとめることを目的とする。

1. 『ジェンダー・トラブル』を読む

 

本章では実際に、『ジェンダー・トラブル』を読み解くことを試みる。その論点は、大きく3

つに分けられると考える。事実、バトラー自身、3章に分けて執筆しており[1]、基本的にはこの流れ保持するつもりである。すなわち 1-1 では、セックス/ジェンダー/セクシュアリティに関する不毛な論争に疑問を付すことによって、それらにおける「首尾一貫性」(ジェンダー・アイデンティティ)が「異性愛のマトリクス」によって規定されていることをあばく。つづく 1-2 では、その「マトリクス」が構造主義と精神分析におけるさまざまな言説によって産出、強化されていることに言及し、最後の 1-3 で、そのような「マトリクス」を脱中心化するため、いかにトラブルを引き起こすべきか、という戦略を提示する。以上の論点に沿って、『ジェンダー・トラブル』を要約する。

 

1-1. セックス/ジェンダー/セクシュアリティ

 

 現在の覇権的な言説のもとでは、セックスとジェンダーとセクシュアリティのあいだには、内的一貫性や統一性がみられると考えられている。したがって、それらにおける首尾一貫性をもたない「ひと」は、「理解可能性」から排除され、「発達上の失敗」とか「論理的不可能性」とみなされる。このような規範にトラブルを起こす戦略を考察するまえに、アイデンティティの基盤をなすとされているそれらのカテゴリーが、いかに社会的に構築されたものであるか、ということを論じる。それゆえ、<生物学は宿命だ>という公式を打破するためにフェミニズムが採用した「ジェンダー」という概念に関する現在の論争の不毛な循環に、終止符をうつものであると言えるだろう。

 

1-1-1. ジェンダー ―― 現代の論争の不毛な循環

 

 フェミニズムが性抑圧の分析ツールとしての「ジェンダー」概念を採用したのは、1970年代のことである。「それ以来、性差をめぐる議論は、大きなパラダイム・チェンジを被ることになった」。(上野[2002;3]

 「ジェンダー」という概念を最初に定式化したのは、心理学者のロバート・ストーラーだが、その概念を採用し、広めたのはフェミニズムだった。生物学的な所与の性差と考えられている「セックス」に対し、「ジェンダー」はセックスの差異のうえに構築される「社会的・文化的な性差」、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」だと一般には理解されている。つまりジェンダーという用語は、性差を「生物学的宿命」から引き離すために、不可欠な概念装置としての働きを期待されたのである。もしも「性差」が生得的なものではなく、社会的、文化的、歴史的に作られるものであるなら、それは「宿命」とは違って、変えることができる。「ジェンダー」概念によって、「フェミニズムは『女らしさ』の宿命から女性を解放するために、性差を自然の領域から文化の領域に移行させた」のである。(上野[2002;4])こうした「ジェンダー」概念を、日本におけるリブ運動の先駆けとされる田中美津は、つぎのように述べる。

 

女は作られる。メスとして作られる。『お嫁には行けなくなりますよ』という恫喝の

中で、女は唯一男の目の中、腕の中に<女らしさ>をもって存在証明すべく作られる

……<どこにもいない女>をあてにして(田中美津[19721992;19]

 

「女」が「メス」として社会的に作られ、構築されていく過程を田中は指摘する。「お嫁には行けなくなりますよ」という社会的な恫喝、すなわち強制のもとで、「『どこにもいない女』をあてにして」「女らしさ」を身につけていく。「性差は解剖学的にも生理学的にも否定しようのないかたちでそこにある。だが、個々の人間が男または女として生きることを決定付けるのは、生物学的な性差(セックス)ではなく、それは社会的・文化的な性差(ジェンダー)である」とフェミニズムは宣言したのであった。[上野2002;6]

 だが、バトラーはこのようなセックス/ジェンダーの区分に疑問を提起する。上記のように、「そもそもセックスとジェンダーの区別は、<生物学は宿命だ>という公式を論破するために持ちだされたもの」であるが、それは「ジェンダーの方は文化の構築物だが、セックスの方は生物学的で人為操作が不可能だという理解を、助長するものである」。(Butler[1990;27])さらにこのような疑問が生じるだろう。「もしもジェンダーが性別化された身体が身にまとう文化的意味だとすれば、ジェンダーはある一つの道筋でセックスから導きだされるものとは言えなくなる」のではないか。つまり、「たとえセックスが形態においても構造においても疑問の余地のない二元体のように見えたとしても、ジェンダーもこの二つのままでなくてはならないと考える理由は何もない」のである。(Butler[1990;28])それにもかかわらず、社会において「ひと」は「つねにすでに性別化」されており、したがって「ひと」はかならず「男」か「女」かのどちらか一方であると考えられている現状はどのようにとらえればよいのか。このような問題意識から、結局、「男らしさ/女らしさ」という二つのジェンダーは、セックスによって規定されており、<生物学は宿命だ>という公式を完全には払拭し切れていないことを、バトラーは指摘する。さらには「もっと穿った見方をすれば、生物学的なセックスで有無を言わせず人を分類する思想をカムフラージュするために、あたかも社会的なジェンダーが人を弁別しているかのように語っているにすぎない」と言えるかもしれない。(竹村[2000;21]

 それではセックス/ジェンダーの関係をいかに考えるべきか。これに対しバトラーはラディカルともいえるような結論を導きだす。すなわち「セックスは、つねにすでにジェンダーなのだ」と言うのである。なぜならセックスという「自然な事実」のように見えているものは、「じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作りあげたものにすぎない」のであり、すなわち「セックスとはジェンダーと同様に、社会的に構築されたもの」なのだ。(Butler[1990;28,29])そしてその結果として「セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる」。したがって、「セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリー」であると言うことが可能となり、そうであるならば「ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味」となるだろう。バトラーは言う。

 

  ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考える

べきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装

置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に

対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手

段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する

「前=言説的なもの」――つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面―

−として生産され、確立されていくのである。(Butler[1990;29]

 

セックスという生物学的性差、すなわち身体のうえに、ジェンダーという文化が書き込まれるのではない。セックスというカテゴリーそのものが、「政治的、社会的な利害」に沿うものとして、言説的に構築されたものなのだ。あたかもそれが「自然の事実」であるかのように。そしてジェンダーという「言説/文化の手段」によって、セックスそのものが生産され、確立されていくのだと、バトラーは論じるのである。

 

1-1-2. 異性愛のマトリクス ―― 理解可能なジェンダーと理解不能なジェンダー

 

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』のなかで、「ひとは女に生まれない、女になる」と語った。[2] ボーヴォワールにとって、ジェンダーは「ひと」が身に帯びるものであり、つまり「構築された」ものである。だがこの公式では「女」になる「ひと」が前提とされている。すなわちジェンダー化される以前の、前=言説的な「ひと」が想定されている、とバトラーは言う。「社会的可視性や社会的意味をひとに与えるさまざまな役割や機能のまえに、行為体(エイジェンシー)が存在論的に存在していると主張する相も変らぬ考え方で、社会学は「ひと」という概念を理解しようとしてきた」のである。(Butler[1990;45])バトラーは「その前提をくつがえすことに焦点をあて」て論を進める。哲学的説明では、「ひとのアイデンティティ」を考察する際、たいてい、「そのひとのどのような内的特質が、時を超えて、そのひとの連続性や自己同一性を確立しているのか」という問題に陥る。だが、バトラーが提示する問題とは以下のようなものである。つまり、「ジェンダー形成やジェンダー区分を規定していく実践は、どの程度アイデンティティ――主体の内的首尾一貫性……を構築するものなのか。どの程度『アイデンティティ』は、経験を記述した特質ではなく、規範的な理念なのか」というものである。(Butler[1990;46]

 ボーヴォワールにならって言うならば、「『ひと』が理解可能となるのは、ジェンダーの理解可能性の認知可能な基準にしたがって『ひと』がジェンダー化されるとき」である、と言うことが可能であろう。(Butler[1990;45])しかしそのような考えは誤りである。「ひと」はまず人間として生まれてきて、適切な時期に女という文化の刷り込みを受けるのではなく、身体が人間の身体として(つまり『理解可能な存在』として)資格づけられるのは、「これ(it)が男の子か女の子かという問いに答えられるとき」であるからだ。「現在の覇権的な言説では、ひとは<つねにすでに>ジェンダーであり、ひとの身体は<つねにすでに>性別化されている」。(竹村[1999;287])そして「ひと」の「首尾一貫性」とか「連続性」というのは、「ひと」であるための「論理的、解剖学的な特性ではなく、社会的に設定され維持されている理解可能性の規範なのである」。事実、「ひと」という概念は、「首尾一貫しない」「非連続な」ジェンダーの存在が出現したときに、疑問に付される。

 

連続せず首尾一貫していない奇妙な代物は、連続性と首尾一貫性という既存の規範との

関係によってのみ思考可能となるので、こういった奇妙な代物をつねに禁じると同時に

生みだしているのは、まさに、生物学的なセックスと、文化的に構築されるジェンダー

と、セックスとジェンダー双方の「表出」つまり「結果」として性的実践をとおして表

出される性的欲望、この三者のあいだに因果関係や表出関係を打ちたてようとする法な

のである。(Butler[1990;46]

 

ここでバトラーが言及する「法」とは、「ジェンダー・アイデンティティを理解可能なものにしている文化のマトリクス[3]」のことである。このマトリクスは、セックスと、ジェンダーと、性的欲望および性的実践のあいだに、首尾一貫した連続した関係を設定し、維持していこうとするのである。ところが、このマトリクスは「理解可能性の規範」であるがゆえに、そこにおいては、ある種の「アイデンティティ」は「存在する」ことができない――つまり、「ジェンダーがセックスの『当然の帰結』でないようなアイデンティティや、欲望の実践がセックスやジェンダーの『当然の帰結』でないようなアイデンティティは存在できない」。(Butler[1990;47])事実、ある種の「ジェンダー・アイデンティティ」は文化の理解可能性の基準に合致しないがゆえに、その文化のなかでは、「発達上の失敗」とか、「論理的不可能性」としてしか現れない。だが、そのようなマトリクスにおいては「失敗」とか「論理的不可能性」とされている、ある種の「ジェンダー・アイデンティティ」が「つねに存在し、増殖している」ことこそが、マトリクスの領域に限界があることや、それが規制目的をもっていることをあばき、その結果、その「マトリクスの枠のなかでそれに対抗し、それを攪乱させるような、ジェンダー混乱の多様なマトリクスを切り拓く批判の機会を与えるもの」となるのである。(Butler[1990;47]

 「ジェンダー・アイデンティティを理解可能なものにしている文化のマトリクス」において、ひとが「理解可能」となるのは、セックスと、ジェンダーと、セクシュアリティのあいだに首尾一貫性がみられるときである。すなわち「セックスがなんらかの意味でジェンダー(自己の精神的および/または文化的な呼称)と欲望(異性愛の欲望、つまり欲望の対象であるもう一つのジェンダーとの対立的な関係をとおしてそれ自身を差異化するもの)を必然的にともなう」ときである。(Butler[1990;54])ということは、男女それぞれのジェンダーの内的一貫性や統一性には、「安定した対立な異性愛が必要である」ということになる。「欲望の異性愛化」は、「オス」や「メス」(セックスのこと)の表出と考えられている「男らしさ」や「女らしさ」という明確に区別された非対称的な対立を生産するよう要請し、その対立を制定するものである。それゆえ、セックスとジェンダーとセクシュアリティとの関係だと考えられているジェンダー・アイデンティティは、強制的異性愛[4]とみなしうる規則的な実践の結果である。すなわち、「男女二元的な身体のあいだのエロスの交換を規範として強制する性の体制」である「異性愛のマトリクス」こそが、ジェンダーに関する現在の覇権的な規範を構築しているのである。

 

1-2. 異性愛のマトリクスの生産

 

 女/男の身体をもつ者は、女/男の性的欲望をもち、女/男の社会的役割を果たしているというように、セックスとセクシュアリティとジェンダーのあいだには、前者から後者へ向けての首尾一貫した因果関係、または表出関係があるということを「起源的な事実」とみなすのは誤りである。バトラーの主張は、「現在の性体制ではまず最初にはっきりと二分され階層化された男と女の二つのジェンダーがあり、それを正当化するために、男女の二つの性欲望や男女の二極的な身体が「結果」として捏造されている」というものである。(江原・金井編[2002;397])そして明確に二分されたジェンダーが存在するのは、現在の性体制が「異性愛のマトリクス」によって構造化されているからに他ならない。

 本章では「構造主義や近親姦タブーに関する精神分析……の見解こそ」が異性愛のマトリクスを構築し、強化するメカニズムであると捉え、それらのテクストを批判的に読解するものである。具体的には、レヴィ=ストロースの親族関係の説明を深めるゲイル・ルービンの分析に同調し、また、エディプス構造における男児と女児の非対称性を、フロイトのメランコリー論によって説明することを試みる。

 

1-2-1. 構造主義 ―― 近親姦タブーと異性愛主義の生産

 

 「あらゆる親族組織には、それを特徴づける規則的な交換という普遍構造が存在すると述べるレヴィ=ストロースに同調して、構造主義の言説は、<法>を単数とみなす傾向がある」とバトラーは言う。(Butler[1990;83])『親族の基本構造』[5]によれば、親族関係を強化すると同時に差異化する役目をする交換の対象は女であり、それは結婚という制度をつうじて、父系的な氏族から別の氏族へと、贈与として与えられる。「花嫁、贈与、交換の対象は、交換通路を開く『記号と価値』となるものだが、これには交易を容易にする機能的な目的のほかに、この行為をつうじて差異化される各氏族の内的結束――つまり各氏族の集合的アイデンティティ――を強めるという象徴的、儀礼的な目的もある」。すなわち花嫁は、男によって構成される集団をつなぐ関係項として機能するのである。花嫁はアイデンティティをもつことはなく、「まさにアイデンティティ不在の場所となることによって、男のアイデンティティを反映する」。(Butler[1990;83])また、重要なことに、「男と、男同士を差異化させる女とのあいだの『差異』においては、ヘーゲル的な弁証法は機能しない」。つまり「社会的な交換がなされるこの差異化の瞬間は、あくまで男たちのあいだに社会的結束をもたらすものであり、男たちのあいだにのみ種族的結束と個別的分化を同時にもたらす、ヘーゲル的な統一なのである」。(Butler[1990;86])このように「女の交換」は、結局は「男同士の絆」に関わるものであるにもかかわらず、「異性愛的な女の交換と配分をとおしてのみ形成される男同士の関係」を結束させるものである。そのような父系列の氏族関係の基盤にあるのは、抑圧されているセクシュアリティ、「つまりホモソーシャルな欲望」である。レヴィ=ストロースは近親姦タブーとホモエロティックな絆の強化とのあいだの関連性について語る。

 

  交換――およびその結果としての族外婚の規則――は、単なる事物の交換ではない。

交換――およびその結果としての、それを表現する族外婚の規則――は、そもそも社

会的な価値をもっているものである。それは男同士を結束させる手段となるのである。

  Levi-Strauss[1969;496]

 

近親姦タブーは「男同士を結束させる手段」として、族外婚の異性愛を生産する。したがって、族外婚の異性愛とは「レヴィ=ストロースが理解しているように、規制を受けていない自然なセクシュアリティを禁止することによってのみ得られる非近親姦的な異性愛という、人工物である」と、バトラーは言う。(Butler[1990;87]

 さらに、レヴィ=ストロースを「異性愛主義の生産」という視点から読み解くゲイル・ルービンは言う。「近親姦タブーは族外婚と同盟という社会目的を、セックスと出産という生物学的事象に押しつけるものである」と。[6]Rubin[1975;173])あらゆる文化はそれ自身を再生産しようとする。そしてそのためには個々の親族集団の社会的アイデンティティは保持されなければならないので、族外婚が制定され、また「その前提として族外婚の異性愛が制定される」のである。(Butler[1990;139])したがって近親姦タブーは、字義どおりに同族の成員のあいだの性的結合を禁じるだけでなく、同性愛タブーを包摂するものでもある、とルービンは言う。

 

近親姦タブーが前提とするのは、それに先立ち、それよりも分節化されていない同性愛

タブーである。いくつかの異性愛の結合の禁止は、非異性愛の結合に対するタブーとい

う形をとる。ジェンダーは、ひとつのセックスに自己同一化しているというだけでなく、

性的欲望がべつのセックスに向けられることも、当然ながら意味している。性の分業は、

ジェンダーの両面に関与し――男と女を作りだし――異性愛者を作りだす。

Rubin[1975;180]

 

こうして近親姦タブーによる「いくつかの異性愛の結合の禁止は、非異性愛の結合に対するタブー」を生みだす。これは近親姦の欲望を禁じる法であると同時に、強制的な同一化のメカニズムによってある種のジェンダーの主体性(異性愛者)を構築していく法制的な法」でもある。(Butler[1990;143])それゆえ、近親姦は「異性愛の近親姦」でなければならないのだ。

このように、バトラーはルービンによるレヴィ=ストロースの読解に同調して、「異性愛のマトリクス」を生産するメカニズムとして、近親姦タブーに先立つ同性愛タブーを挙げる。「女の交換を文化の原型とみなすレヴィ=ストロースの公理はパフォーマティヴに機能して、男同士の互恵的なホモエロティシズムを社会的絆と読み替え、返す刀で、男女の非互恵的な関係を隠蔽し、女性性や女の同性愛を抑圧する機構を生産していく」のである。(竹村[1999;287])したがって、異性愛の近親姦タブーは、異性愛の近親姦の欲望を禁じているだけでなく、そのような欲望を(禁じるものとして)「生産」し、それによって「始原的な欲望という地位を得た異性愛」の近親姦が、異性愛を「文化のマトリクス」として制定し、異性愛セクシュアリティへの同一化を強制するのである。(竹村[1999;287,288])ところでルービンは、精神分析が親族関係に関するレヴィ=ストロースの記述を補完したものだと理解している、とバトラーは述べる。「とくに彼女が理解を示すのは、『セックス/ジェンダーの制度』――生物学的なオスとメスを、明確に区分され階層化されたジェンダーに変容させる規制的な文化のメカニズム――は文化の制度(家族、『女の交換』の残余形態、義務的異性愛)からお墨付きを得ているが、同時に、個人の精神発達を構造化し推進する法をつうじて繰り返し教えこまれる、ということである」。(Butler[1990;139])これにつづく次の章で、バトラーは、近親姦タブーを中心に、フロイトやラカンによる精神分析に関する言説に潜む「異性愛主義」を読み解いていく。

 

1-2-2. 精神分析 ―― フロイトと同性愛の忘却

 

 欧米のフェミニズムの特徴の一つは、拒絶し批判するにせよ、換骨奪胎させながら取り入れるにせよ、精神分析に大きな関心を払ったことである。事実、第二波フェミニズムの初期には、「フロイト攻撃がフェミニズムの側から熾烈におこなわれた」。(竹村[2000;33])とりわけその矛先は、エディプス・コンプレックスと呼ばれる、「正常な」性自認を形成するメカニズムに向けられた。なぜなら母子癒着の段階から、父の禁止の言葉によって去勢の可能性におびえ(「去勢コンプレックス」)、母への欲望を諦めて「正常な」性自認――したがって「正常な」自我形成――がおこなわれるという『エディプス・コンプレックス』のメカニズムは、男児にのみ適用され、他方、女児は、去勢の可能性におびえるのではなく、実際に去勢された者と解釈され、そのためにつねに不満(「ペニス羨望」)や精神の不安定さ(ヒステリー傾向)を抱える劣位の存在とみなされる」からである。(竹村[2000;34])ベティ・フリーダンやファイアストーンといったフェミニストたちは、フロイトを、「近代社会の性抑圧を生物学的な性差に還元して、性差別を昂進している元凶」だと弾劾した。

 バトラーが着目する点は、やはり、エディプス・コンプレックスにおける男児と女児の非対称性であり、これをフロイトのメランコリー論を用いて説明しようと試みる。1923年に出版された『自我とエス』のなかで、「フロイトは『自我形成』や『性格』の根幹にかかわるものとして、メランコリーのメカニズムをとくに取り上げた」。(Butler[1990;114])フロイトを説明するくだりでバトラーは次のように言う。「自我は、自分が愛した人を失う経験をするとき、その他者を自我構造のなかに体内化(インコーポレイション)し、他者の属性を自分の身におびて、模倣という魔法のような行為をつうじて他者を『とどめておく』。こうして、自分が欲望し愛する他者を喪失した経験は、その他者を自己の構造の内部に住まわせようとするこの同一化の行為によって、克服することができる」と。つまり、愛する他者を失うとき、「体内化」という行為をつうじて、その他者を体内のなかに「とどめておく」ことが可能となり、そのような同一化の行為によって、他者を喪失した経験を「克服することができる」、とフロイトは説明するのだ。また、このような同一化は、「一過性のときたま起こるものではなく、アイデンティティの新しい構造となっていく」とも言う。(Butler[1990;115])そしてフロイトは、これがジェンダー・アイデンティティの獲得に大きくかかわるものであると説明し、つづけて、次のように主張する。「自我の性格は、断念した対象備給の沈殿であり、対象選択のこれまでの歴史を含みこんでいる」と。これを受けてバトラーは、フロイトを次のようにまとめる。

 

他のどれにもまして近親姦タブーが、自我にとっては愛の対象の喪失の始まりであり、

そしてタブーとされているこの欲望対象を内面化することによって自我がその喪失から

立ち直ると理解されるなら、失った愛を内面化するこのプロセスは、ジェンダー形成の

適切な要件となるだろう。異性愛の結合が禁止される場合、否定されるのは、欲望の対

象だけで、欲望の様態ではない。つまり、欲望を反対のセックスのべつの対象に屈折す

る必要はない。だが同性愛の結合が禁止される場合には、欲望と対象の両方を断念する

ことが求められ、それによってメランコリーの内面化戦略がとられることになる。こう

して『若者は、父に同一化することによって、父をわがものとしていくのである』。

Butler[1990;116]

 

男児が母との近親姦を断念して「正常な」性関係を獲得するために「否定されるのは、欲望の対象」である母だけで、「欲望の様態」である「異性愛」という目標は移動する必要がない。つまり男児は「欲望を反対のセックスのべつの対象に屈折する必要はない」のだ。だが、女児が母との近親姦を断念して「正常な」性関係を獲得するには、「対象」のみならず「欲望」までをも断念して、母をあきらめなければならない。起源にあるものが異性愛の近親姦であるかぎり、同性愛の近親姦は想像することさえ不可能となり、「母への断念は、喪失したことを嘆く『悲哀』ではなく、喪失したことすらも忘却する『メランコリー』で解決されなければならない」。(竹村[1999;289])その結果、「それとなく暗示されている同性愛の近親姦タブー」によって、同性愛という欲望が完全に拒否され、「私はその人を失ったわけではない、その人を愛したことなどない、事実、その種の愛を感じたことなどまったくない」という愛の忘却を経験する、とバトラーはフロイトを読み解く。(Butler[1990;132]

 ジェンダーの同一化は、禁じられる対象のセックスを、禁止として内面化するメランコリーとなる。「この禁止が、明確に区分されたジェンダー・アイデンティティや異性愛欲望という法を認可し、規定していく。だからエディプス・コンプレックスの解決は、ジェンダーの同一化にたいして影響をおよぼすものだが、それがおこなわれるのは、近親姦タブーを通してだけでなく、それに先立つ同性愛タブーを通してでもある」と、バトラーは言う。上記のように、メランコリーという名の忘却によって、「喪失した他者を自我構造のなかに体内化し、他者の属性を自分の身におび」ることで、喪失の経験を克服する。それゆえ、上記の例において母との近親姦の断念を忘却した女児は、否定された女性性を自分の所与の属性として身におびる。つまり「女性性や男性性を、後天的に獲得される資質としてではなく、まさに『字義どおりの』事実として存在しているとみなすことになる」のである。(竹村[1999;289])このようなメランコリーの構造によって、身体の字義どおり化のプロセスはその系譜を隠蔽し、「自然な事実」というカテゴリーのなかにみずからを位置づける。[7] こうして、字義どおりの「自然な事実」として身体のうえに構築された女性性と男性性が、今度は、異性愛構造の基盤となり、同性愛の可能性を思考不可能なものにする循環論法が生まれる、とバトラーは説明する。(竹村[1999;289])すなわち、「メランコリーによって獲得された異性愛に基づいて仮定された同性愛」は、セックスの自明な解剖学的事実性としてふたたびたち現れ、そこでセックスは、解剖学と「自然なアイデンティティ」と「自然な欲望」とのあいだに漠然とした統一性を示すことになる。(Butler[1990;135])こうして同性愛の喪失は否定され、体内化され、その変容の系譜はまったく忘れ去られるのである。

「正常な自我」を構築するための基本構造をなすとされている近親姦の禁止と、それに先立つ同性愛の禁止によって、「異性愛」が「自然な事実」というカテゴリーに位置づけられ、<字義どおり化>される。あたかも同性愛の喪失など、あらかじめ経験しなかったかのように忘却されるのである。事実、「メランコリックな異性愛の男は、けっしてべつの男を愛したことなどなく、彼は男であり、それを証明する経験的事実をいくらでも示すことができる」ということになる。(Butler[1990;135,136]

 

1-3. 攪乱的な身体行為

 

 セックス、ジェンダー、セクシュアリティにおける首尾一貫性が存在するという寓話が、異性愛を基盤とするマトリクスによって構築されたものであることが明らかになった。構造文化人類学と精神分析において、文化や精神の基本構造とみなされている近親姦タブーに関するさまざまな言説によって、性の二元論が「起源の事実」となり、同性愛が「忘却」され、「自然化された」異性愛へとすりかわる。男の覇権と異性愛権力を支えている自然化され物象化されたジェンダー概念を、いかに攪乱し、置換することが可能となるのか。本章は、「解放」のかなたにユートピア・ビジョンをえがく戦略によってではなく、「アイデンティティの基盤的な幻想となることでジェンダーを現在の位置にとどめておこうとする社会構築されたカテゴリーを、まさに流動化させ、攪乱、混乱させ、増殖させることによって」、トラブルを起こす可能性をさぐるものである。(Butler[1990;73])その有効な戦略を模索するため、ジュリア・クリステヴァによる「原記号界」についての言語理論や、モニク・ウィティッグが提唱する「レズビアニズム」という戦略をも、批判的に読み解くものである。

 

1-3-1. ミシェル・フーコー ―― 法の機能とアイデンティティ攪乱の可能性

 

 異性愛のマトリクスを攪乱する方法を考えるまえに、フーコーによる権力の法システムを考察することは有効である。フーコーは、「権力の法システムはまず主体を生産し、のちにそれを表象すると指摘した」。[8]Butler[1990;20])権力を法制的な概念から見れば、「そもそも偶発的で撤回可能な選択によって政治構造にかかわっているにすぎない個人に対して、制限や禁止や規則や管理、なかんずく『保護』さえも与えることによって、その個人の政治的な生き方を規定していく」のである。このような構造で規定される主体は、構造に隷属することによって、構造が要求する事柄に見合うように形成され、定義され、再生産されていく。バトラーは言う。

 

この分析が正しければ、女を、フェミニズムの『主体』として表象しようとする言語や

政治の法組織は、表象の政治の既存の一形態を言説で組み立てたもの、その結果にすぎ

ないということになる。そうなるとフェミニズムの主体は、解放を促すはずの、まさに

その政治システムによって、言説の面から構築されていることになる。(Butler[1990;20]

 

フェミニズムは、女を適切に表象する言語をつくりだし、そして「主体」としての女を解放することを、その目的に掲げてきた。ところが、「フェミニズムの『主体』として表象しようとする言語」が、「解放を促すはずの、まさにその政治システムによって」構築されているとなれば、フェミニズムの目標は瓦解する。それゆえ「主体」の問題は、とりわけフェミニズムの政治にとっては、きわめて重要なものなのだ。「法の権力は、単に表象/代表しているにすぎないと言っているものを、じつは不可避的に『生産している』のである」。このような権力の二重の機能――法制機能(禁止と規制)と産出機能(偶然の生産)――に注意を払わなければならない、とバトラーは述べるのである。(Butler[1990;20]

 さらにバトラーは、フーコーによる「法の第三の機能」を参照する。「法は、通路を与えるか、あるいは抑圧しているにすぎないと主張している現象を、じつは生産している系譜を隠すために、第三の機能をおこなう」というものである。それは、「この法の配置が、心的事実をその出発点とみなすような因果関係で語られる物語の論理的一貫性として、それ自身を位置づけ、それによって、さらに根本的な系譜をたどる可能性をあらかじめ封じてしまい、セクシュアリティや権力関係の文化起源を遡ろうとする試みを締め出すという機能」のことである。すなわち、これまでみてきたように、セックスや異性愛のような「自然な事実」と考えられているものは、法の結果にすぎないにもかかわらず、法の「まえ」に存在する「起源」として位置づけられるということである。したがって、「フーコーの系譜学的な研究があばいているのは、『原因』のようにみえるものが、じつは『結果』である」と言うことが可能となる。(Butler[1990;56]

 異性愛のマトリクスを攪乱する地点として、法の「まえ」や「あと」をもちだす戦略は、したがって、棄却されることになる。法の「まえ」や「あと」というのは、「言説によってパフォーマティヴに設定される時間の様態」であって、そのような法の「そと」や「まえ」や「あと」のセクシュアリティにアクセスすることは、そもそも不可能である。そのように、「攪乱や不安定化や置換のためには、セックスにまつわる支配権力による禁止を何とか免れるセクシュアリティが必要だ」という考え自体が、法によってパフォーマティヴに構築されたものである、と述べる。(Butler[1990;66])バトラーは言う。

 

もしもセクシュアリティが、既存の権力の内部で文化的に構築されるものならば、

基準的なセクシュアリティを権力の「まえ」や「そと」や「むこう」に措定するこ

とは、文化的に不可能であり、政治的には実践できない夢であり、また権力関係の

内部でセクシュアリティやアイデンティティの攪乱の可能性を再考していこうと

する現時点での具体的な課題を遅延させるものである。(Butler[1990;68]

 

フェミニズム的であろうと、反フェミニズム的であろうと西洋形而上学、実存主義、文化人類学、精神分析のなかで「法のまえ」にあるとされている前掲的な存在(オントロジー)が、じつは法自体によって溯及的に構築される結果にすぎないと論破するバトラーは、「法のあと」に出現するとみなされている解放も、その存在論(オントロジー)を反復するものでしかないと断じる。(竹村[1999;289])それゆえバトラーは、法の強化ではなく、「法の置換となるように法を反復していく」可能性に導かれるような攪乱を起こす戦略を提示するのである。(Butler[1990;68]

 

1-3-2. ジュリア・クリステヴァの戦略 ――「原記号界」による「象徴界」の攪乱

 

 フロイトのエディプス・コンプレックスを押し進めたラカンは、近親姦の禁止を告げる父に象徴的機能をもたせ、それを<法>として、すなわち言語的存在である人間の活動すべてにおよぶ<言語>として捉えた。そしてフロイトが、女児を、実際に去勢された者と解釈し、そのために「つねに不満や精神の不安定さを抱える劣位の存在」であるとみなしたことに同調するかのように、ラカンは、<言語>が失敗する事柄――すなわち根源的に抑圧された大文字の<他者>――は、まず母への欲望によって具現化されるとみなした。そして、「意識・無意識を含めて言語によって構造化されている領域を『象徴界』とよび、『象徴界』によって放逐される混沌たる領域を『現実界』と呼んで、両者を隔てる深淵に位置して『現実界』を封印するものを『ファルス』(男根)とみなしたが、そのとき彼は、女性性を『ファルスである』位置――『現実界』の混沌に関与する位置――に、男性性を『ファルスをもつ』位置――『現実界』を封印する『象徴界』の言語を所有する位置――に設定した」。(竹村[2000;36]

 「原記号界(セミオティック)についてのクリステヴァの言語理論は、一見してラカンの前提に切り込み、その限界をあばき、言語の内部で父の法を攪乱する地点として、とくに女の位置を打ちだそうとしているようにみえる」とバトラーは言う。(Butler[1990;150])ラカンによれば、父の法である「象徴界」は、言語による意味づけのすべてを構造化するものであり、したがって、「文化そのものを全般的に組織化する原理」でもある。そして父の法は、「母の身体への幼児の根源的な依存をふくむ一時的なリビドー欲動を抑圧することによって、有意味な言語、すなわち有意味な経験の可能性を作りだす。ゆえに『象徴界』が可能となるのは、母の身体とのあいだに結ばれていた一時的な関係を断念することによってである」。このように、母の身体との一時的な関係を抑圧することが文化の意味づけに必要なものだとみなすラカンの物語に対して、クリステヴァは挑戦する。クリステヴァの主張によれば、「『原記号界』は、そのような一時的な母の身体に起因している言語領域であり、その領域は、ラカンの基本的前提をくつがえすだけでなく、『象徴界』の内部に攪乱を起こしつづける源ともなる」のである。(Butler[1990;151])クリステヴァにとって、「原記号界がその始原的なリビドーの多様性を表出する場所は、文化の条件の内部であり、もっと正確に言えば、多様な意味や意味論的な非閉鎖性が充満している詩的言語のなか」である。

 だが、バトラーはクリステヴァの攪乱を「問題含みの多い戦略」とし、それを退ける。それには大きく二つの理由がある、と言う。そのひとつとして、クリステヴァが、詩的言語は同性愛の備給をおこなわないと主張していることを挙げる。「原記号界の特徴である多様な欲動は、言語のなかにときおり認識可能となって現れる一方で、言語に先立つ存在論的な地位も同時に保持している、前=言説的なリビドー機構を構成しているものである。そして言語――とくに詩的言語――のなかに現れるこの前=言説的なリビドー機構が、文化を転覆させる地点だと、クリステヴァは言う」。(Butler[1990;151,152])ところが、問題は、「攪乱の源であるこのリビドーを文化の次元で持ちつづけることは不可能であり、もしもそれが文化のなかにとどまる場合には、かならず精神病や文化生活の破綻となると、クリステヴァが述べていることである」。つまり、クリステヴァは「原記号界」を、あるときは解放理念として位置づけるものの、あるときは、解放理念にならないと否定するのである。また、クリステヴァが主張する「前=言説的なリビドーの多様性」は、前節で述べた、フーコーの「法の第三の機能」という点から棄却されうる。すなわち、「前=言説的な母の身体のなかに発見したとクリステヴァが主張しているものが、じつは特定の時代の言説によって生産された産物にすぎず、文化の隠れた一時的な原因などではなくて、文化の結果にすぎない」ということは、もはや明らかである。

 また、クリステヴァの理論は、彼女が追放しようとしている父の法の安定性と生産能力に依存しているようにみえる。たしかに彼女は、「父の法を言語の次元で普遍化しようとするラカンの理論の限界を、うまくあばいてはいる」が、それにもかかわらず彼女は、「原記号界はつねに『象徴界』に従属すると述べ、原記号界の特質を、どのような挑戦にもビクともしない階層秩序(『象徴界』)の内部にあるものと捉えている」。(Butler[1990;151])というのも、クリステヴァは、「文化が『象徴界』と同義だという前提、また『象徴界』が『父の法』に完全に包摂されていて、したがって『象徴界』に参与する営みでないものはすべて精神病になるという前提」を受け入れているのである。(Butler[1990;159])それゆえ「原記号界」によって、「象徴界」を完全に拒否することは不可能であり、「クリステヴァにとって『解放』言説など問題外」だと、バトラーは断じる。(Butler[1990;160])事実、「文化を攪乱することは、クリステヴァの関心事ではない」のである。(Butler[1990;162])クリステヴァは異性愛を、親族や文化の先行条件とみなしており、したがって彼女は、レズビアンの経験を、父によって認可された法を受け入れない精神病的なものだと言う。そのような戦術によって「彼女は自分自身を、父系列=異性愛主義の特権の枠内にとどめて」おり、それは「(異性愛という)文化の合法性のそと」に位置することへの恐怖からか、とバトラーは問う。(Butler[1990;162])このように、クリステヴァはもっぱら、父の法の禁止的側面だけに議論を限定してしまったために、父の法が「いかに自然な欲動という形態で、ある種の欲望を産出しているか」を説明できなかったのである。彼女が表現しようとした女の身体は、女の身体によって空洞化されるはずの法によって生産される構築物なのであり、それゆえ、バトラーはクリステヴァの戦略を退ける。

 

1-3-3. モニク・ウィティッグの戦略 ―― 「レズビアニズム」によるセックスの転覆

 

 『第二の性』でシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、「ひとは女に生まれない、女になる」と書いた。もはや繰り返しにしかならないが、この言葉は意味をなさない。「なぜなら、もしもひとがずっと女でなかったなら、どうやって女になることができるのかという疑問が生まれるからである」。(Butler[1990;199])いわば「つねにすでにジェンダー化されていない人間など、これまで存在して」こなかったのである。男と女のどちらのジェンダーにも合致しない身体形態は、「人間のそとにあるもの――非人間的でおぞましきもの(アブジェクト)の領域を構築するもの――であり、それと区別して人間が構築される」のである。(Butler[1990;200]

 「『ひとは女に生まれない』という言葉を、モニク・ウィティッグは『フェミニスト・イッシュー誌』(第一巻第一号)所収の同名の論文のなかで繰り返す」。(Butler[1990;201])だが「彼女の二つの主張は両方とも、ボーヴォワールを繰り返すと同時に、ボーヴォワールからみずからを引き離している」と、バトラーは言う。

ウィティッグの主張の一つは、「セックスのカテゴリーは不変でも自然でもなく、生殖のセクシュアリティという目的に寄与するために自然というカテゴリーを利用するきわめて政治的なものである」というものだ。つまり「ひと」の身体を男/女のセックスに二分することは、異性愛の機構に応え、「異性愛の制度に自然主義的な見せかけを与えるという以外、何の正当な理由もない」。したがって、「不変の事実である」セックスと、「獲得される」ジェンダーとを分けて考えたボーヴォワールとは異なり、ウィティッグにとっては、セックスとジェンダーのあいだに区別はなく、そして、セックスのカテゴリーは「ジェンダー化されたカテゴリー」にほかならず、自然化されてはいても、決して「自然」ではない。(Butler[1990;202])このような主張が、バトラーのそれと大差がないことは明らかである。

バトラーが問題とするところは、二つめの主張なのである。それは「レズビアンは女でない」というものである。ウィティッグのこのような主張に関する説明として、バトラーは次のように述べる。

 

彼女(ウィティッグ)の議論によれば、女は、男との二元的で対立的な関係を安定化し、

強化する項目として存在しているにすぎない。彼女によれば、このような関係こそ異性

愛なのである、彼女の主張では、異性愛を否定するレズビアンは、もはや対立的な関係

で定義できる者ではない。……レズビアンは女でもなければ、男でもない。だがさらに、

レズビアンにはセックスもない。なぜならレズビアンは、セックスのカテゴリーを超え

ているからである。(Butler[1990;202]

 

ウィティッグにとって、女というカテゴリーは、男というカテゴリーとの「二元的で対立的な関係」のために存在する項目、つまり関係項にすぎない。それゆえ異性愛を否定するレズビアン――つまり男と「二元的で対立的な関係」を拒否するレズビアン――は「女でもなければ、男でもない」。このようなカテゴリーを超越し、拒否するがゆえに、「レズビアンは、こういったカテゴリーが文化によって偶発的に構築されていることや、異性愛のマトリクスという暗黙の、だが永続的な前提があることをあばいていく」と、ウィティッグは主張するのである。このような主張を踏まえてバトラーは次のように言う。「ウィティッグにとって、ひとは女に生まれない、女になるのだ。さらには、ひとはメスには生まれない、メスになるのだ。だがさらにラディカルに言えば、もし選べるものなら、ひとはメスにもオスにも、女にも男にもならないでいることができ」、事実、レズビアンは、「第三のセックス」とされている。(Butler[1990;202]

 ウィティッグは、「セックス」を、女やゲイやレズビアンにとって「抑圧的な意味体系が言説のなかで生みだし、流通させているもの」と考えている、とバトラーは言う。そしてウィティッグは、「この意味づけの体系に参与することも、体系の内部で改革的、攪乱的な位置を取ることの有効性を信じることも、拒否している」。なぜならこの体系に少しでも関与することは、体系全体に関与することになり、ひいてはそれを追認することになってしまうと考えるからである。その結果、ウィティッグが描く政治的課題は、「セックスに関する言説全体を転覆させること、『ジェンダー』(つまり『架空のセックス』)を人間の事物の両方の本質的な属性とみなす文法そのもの(とくにフランス語の文法)を転覆させることである」。(Butler[1990;204])そのために「意識的に挑発的で帝国主義的な戦略をとりつつ、ウィティッグは、普遍的で絶対的な視点を持つことによってのみ――つまり、世界全体をレズビアン化することによってのみ――異性愛の強制的秩序を破壊することができると主張する」。(Butler[1990;214]

 だが、ウィティッグが、性の二元論にまみれた「女」を拒否して「レズビアン」を選択したとき、バトラーはその命名さえも、異性愛と相補的な関係をもつカテゴリーだと切り捨てる。ウィティッグは、「異性愛の文脈から徹底的に離れることによってのみ――つまりレズビアンやゲイ男性になることによってのみ――異性愛体制の転覆をもたらすことができる」と信じている。ウィティッグのこのような公式においては、同性愛は、異性愛のマトリクスの根本的な「外部」とされており、それゆえ、同性愛は異性愛の規範によって条件づけられるものではない、と考えられているのである。だが、「ストレートとゲイを根本的に不連続とみなすウィティッグの見方は、彼女自身がストレートな精神の分割主義的な哲学的身ぶりと評した不連続な二分法を、みずからが反復するものである」とバトラーは言う。(Butler[1990;216])バトラーによれば、「ウィティッグが異性愛と同性愛のあいだに設けた根本的な不連続は、断じて真実ではない」。すなわち、異性愛の関係のなかにも、「精神的な同性愛の構造」があり、ゲイやレズビアンのセクシュアリティや関係のなかにも、「精神的な異性愛の構造」があるのだ。したがって、「異性愛は、セクシュアリティを説明する権力の、唯一の強制的な表出ではない」のである。

そこでバトラーが提示するのは、「異性愛は強制的な体系であると同時に、本来的な喜劇(それ自身の絶え間ないパロディ)であり、つまりはオルタナティヴなゲイ/レズビアンの視点であるという洞察」である。(Butler[1990;217])ウィティッグの提案は、一見、解放主義のようにみえるが、「セックスのカテゴリーを奪取し再配備することによって同性愛特有の性的アイデンティティを増殖させるような言説――ゲイ/レズビアンの文化のなかの言説[9]――を無視している」のである。バトラーは、「ゲイ/レズビアンの文化のなかの言説」による「(異性愛の)パロディ的な再占有(リアプロプリエーション)は、セックスのカテゴリーや、同性愛のアイデンティティに対するもともとの侮蔑的なカテゴリーを配備しなおし、不安定化させるものである」と述べ、それらとの関与を否定するウィティッグとは袂を分かつ。バトラーによると、「ゲイが女性性を奪取(アプロプリエーション)してしまうことは、その単語の適用場所を増やし、シニフィアンとシニフィエの関係が任意のものであることをあばき、その記号を不安定化し、流動化させる」ことが可能となるのである。(Butler[1990;218]

 ウィティッグは明確に、レズビアニズムは異性愛の全面否定だとみなしている。だが、「そのように否定することは、レズビアニズムが超越しているつもりの異性愛の枠組みにレズビアン自身が関与し、究極的にはそれに根本的に依存することになってしまうということ」になると、バトラーは反論する。なぜなら、異性愛からの排除によって成り立つカテゴリーは、皮肉なことに、異性愛とのあいだに依存関係を結ぶことになり、したがって、「レズビアニズムは異性愛を必要とする」ということになる。「女同士の愛の交換は、性の二元論や『自然な身体』というカテゴリーに対してだけではなく、「レズビアン」というカテゴリーに対しても異を唱えるものでなければならない」のである。(Butler[1990;221])それゆえ、バトラーがウィティッグの戦略を棄却するのは、「権力は撤回できるものでも、否定できるものでもなく、ただ配備しなおすことができるだけである」と考えるからである。「ゲイやレズビアンの実践に関する妥当な読みは、その焦点を、権力の攪乱的でパロディ的な再配備におくべきであって、権力のまったき超越という不可能なファンタジーにおくべきではない」ということだ。(Butler[1990;220])可能なことは、「権力の攪乱的でパロディ的な再配備」によって、「アイデンティティのカテゴリー」を完全に奪い取り、そうすることによって、単に「セックス」というカテゴリーに疑問を付すだけでなく、「『アイデンティティ』の場所に多様なセックスの言説が集中している様子を明らかにし、そうして、アイデンティティというカテゴリーが――たとえどのような形態をとるにしても――永遠に問題がらみにものだということを示すこと」である。(Butler[1990;227]

 

1-4. 結論

 

 構造主義や精神分析における、近親姦タブーや、それに先立つ同性愛タブーは、ジェンダー・アイデンティティを産出する契機であり、理念化された強制的異性愛という文化の認識格子(マトリクス)にそってアイデンティティを生産する禁止である。この「ジェンダーの懲罰的な生産は、生殖中心の場でセクシュアリティを異性愛として構築し規制する利得に合うようなジェンダーのまやかしの安定化をもたらすものである。同時に、首尾一貫した(アイデンティティの)構築は、異性愛や両性愛やゲイやレズビアンの文脈に夥しく存在しているジェンダーの不整合[10]を、隠蔽してしまう」。(Butler[1990;239])そして、このような異性愛のマトリクスのなかでは「非合法的な」存在ととらえられる「理解不能な」ジェンダーによって、異性愛の首尾一貫性を要求する法が、規制的な理念、つまりは規範であり虚構にすぎないことがあばかれる、とバトラーは言う。

 このようなバトラーの議論の根幹には、フーコーの権力理論があることは先に確認した。つまり、「権力は反復される言説のなかにその法制機能と産出機能をもつものであり、法制機能によって禁止されているようにみえる起源は、じつはそこから発生するようにみえている規範的なセクシュアリティによって遡及的に生産されるものにすぎない」という理論である。(江原・金井編[2002;399])この理論を徹底させるバトラーは、「起源」として前=言説的な場所に放逐される女の身体性(クリステヴァによる「原記号界」)のみならず、あらゆる様態の周縁化され沈黙させられているセクシュアリティ(ウィティッグによる「レズビアニズム」)をも、現体制によって差別的に生産されたものだとみなして、決して解放の夢の場所にはしない。したがって、バトラーは、その議論の多くを負うフーコーが両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの性位置を、性的アイデンティティのない「幸福な中間地帯」として審美化したことに対して、一節を費やして批判する。同様に、さきほどの構造主義人類学と精神分析への批判に関して、バトラーの論拠の多くを負ったルービンからもバトラーが袂を分かつのは、「ルービンがオルタナティヴな性の世界を幼児の発達段階におけるユートピア的な期間に措定したときである」。(江原・金井編[2002;399])つまり、性の二元論のみならず、あらゆる様態の非規範的なセクシュアリティも、アイデンティティの拠り所にはされないのだ。したがって、法の「まえ」(精神分析)でも「あと」(解放言説)でもなく、法の「ただなか」に攪乱の地点を置くべきだ、とバトラーは論じる。むしろ、法の「まえ」や「あと」に攪乱の地点を置く実践は、「現体制のかなたに攪乱の場所を措定することによって、現体制の事実性を強化する危険性をもつ」のである。(江原・金井[2002;400,401])そうであるなら、法の「ただなか」で、いかにして覇権的な現体制の「事実性」という幻想をあばき、そのマトリクスを置換すべくトラブルを起こすことが可能となるのか。本章は、ジェンダー・トラブルを起こす可能性を提示するものである。

 

1-4-1 ジェンダー・トラブル ―― パロディから政治へ

 

 もはや、ジェンダーには「内的真実」が存在するという考えや、「本物のジェンダー」があるという認識論的な考えは棄却された。そのような「起源」が存在するという思考は、強制的異性愛というマトリクスによって遡及的に構築されており、あらかじめその系譜をたどることは封じられているのである。「ジェンダー・アイデンティティの政治的、言説的な起源を、心理的な「核」に置換させたために、いかにジェンダー化された主体が政治的に構築されているか、またいかにセックスや「本物の」アイデンティティという神聖な内面性の概念が捏造されているのかを分析することが、あらかじめ封じられるのである」。バトラーは言う。「ジェンダーの内的真実が捏造されたものであり、『本物の』ジェンダーは身体の表面に設定され、書き込まれる幻想」であるがゆえに、「ジェンダーは本物でも偽者でもなく、ただ単に、一次的で安定したアイデンティティという言説の真実効果として産みだされたものにすぎ」ない。(Butler[1990;240])すなわち、ジェンダーは事実ではないので、「ジェンダーの多種多様な行為こそが、ジェンダーの概念を作りだすものであり、したがって行為がなければジェンダーもありえない」ということになるのだ。(Butler[1990;245,246])覇権的なマトリクスにおいてひとは「つねにすでに」性別化されているが、それが事実性をおびるために、「ジェンダーの行動には、反復されるパフォーマンスが必要である」ということになる。なぜなら、ジェンダーのそのような反復行為によって、「自然なセックス」とか「本物の女」という「幻想」は、あたかもそれが「起源の事実」として、自然化されていくのだ。バトラーは言う。

 

ジェンダー規範の沈殿は、「自然なセックス」とか「本物の女」という特定の現象や、

その他多くの広く行き渡っている強制的な社会的機構を生産し、またこの沈殿こそ、

長い間かかって一対の身体形式――物象化された形態をとって二元的な関係にある

二つのセックスに、身体を自然に配置していく形式――を生みだしてきたのである。

Butler[1990;246]

 

ジェンダー・アイデンティティの基盤は、「時をつうじて繰り返される様式的な反復行為」である。したがって、「『基盤』という空間的なメタファーは、じつはそれが様式的な配置――実際には、その時代の特有のジェンダーの身体化――にすぎないものである」という。奇しくも、田中美津が、セックスの「事実性」という<宿命>を打ち破るべくジェンダーの「社会構築性」を強調するために使用した言葉が、ここで蘇る。すなわち、「<どこにもいない女>をあてにして……女は作られる」というものだ。「女」という「現実」も「セックスの事実性」も、「身体がそれに近づくように強制されながら、けっして近づけない幻の構築物」、すなわち、<どこにもいない女>なのである。したがって、「異性愛は強制的な体系であると同時に、本来的な喜劇(それ自身の絶え間ないパロディ)である」と言うことが可能になる。(Butler[1990;217])それでは、「現実」が自らを「幻の構築物」と認めるときの、「幻影」と「現実」の裂け目をあばくものは何か。

異性愛が自らを「幻影」と認めるのは、ジェンダーの多種多様な行為における、「任意の関係のなかであり、反復が失敗する可能性のなかであり、奇−形のなかであり、永続的なアイデンティティという幻の効果がじつはひそかになされる政治的構築にすぎないことをあばくパロディ的な反復のなか」においてである。(Butler[1990;248])パロディという模倣について、バトラーは以下のように言う。

 

パロディは、オリジナルという概念そのもののパロディなのである。……ジェンダー

の同一化についての精神分析が、幻想の幻想によって構築されているように、ジェン

ダー・パロディが明らかにしているのは、ジェンダーがみずからを形成するときに真

似る元のアイデンティティが、起源なき模倣だということである。この永遠の置換は、

再意味づけや再文脈化に向かって開かれる流動的なアイデンティティを構築するもの

である。起源にあるものの意味を結果的にずらしていく模倣として、それらは起源

(オリジナリティ)という神話自体を模倣するのである。(Butler[1990;242,243]

 

パロディの例として、バトラーは、異装(ドラッグ)や、服装転換(クロス・ドレッシング)や、ゲイ・レズビアンにおける男役/女役のアイデンティティという性スタイルを挙げる。フェミニズムの理論では、「異装や服装転換の場合は、女性蔑視であり、またとくに男役/女役のレズビアン・アイデンティティの場合は、異性愛実践から借りてきた性役割のステレオタイプを無批判に取り込んだもの」と考えられてきた。(Butler[1990;241])たしかにこれらは、異性愛や「女」の統一的なイメージを強化するものである。しかしながら、それらは同時に、異性愛や「女」というイメージの「パロディ的な再占有(リアプロプリエーション)」をおこなうことによって、セックスのカテゴリーや、同性愛のアイデンティティに対するもともとの侮蔑的なカテゴリーを再配備しなおし、不安定化させるものでもある。なぜなら、例えば、ゲイの女役(クイーン)が「女性性」を奪取(アプロプリエーション)してしまうことは、「その単語の適用場所を増やし、シニフィアンとシニフィエの関係が任意のものであることをあばき、その記号を不安定化し、流動化させ」ことになるからである。したがって、バトラーは次のように述べる。「ジェンダーを模倣することによって、そのようなパロディ実践は、ジェンダーの偶発性だけでなく、ジェンダーそれ自体が模倣の構造をもつことを明らかにする」と。(Butler[1990;241])バトラーは言う。

 

パロディの実践は、特権を与えられ自然化されたジェンダー配置と、派生的、幻影的、

模倣的――いわば失敗したコピー――として現れるジェンダー配置との区別にふたた

び関与し、その区別を再強化するのに役立つこともある。たしかにパロディは、絶望

の政治――周縁的なジェンダーを、自然や現実の領域から当然のことのように排除す

る政治――を助長するために使われてきた。だが「現実」になることの失敗、「自然」

を具現化することの失敗は、存在論的な場所そのものが、そもそも何によっても占め

られることがない場所であるために、すべてのジェンダーの演技に共通する構造的な

失敗だとわたしは言いたい。(Butler[1990;241]

 

パロディの実践は、特権を与えられ自然化されている異性愛と、模倣的であるとされている同性愛との区別を強化する「絶望の政治」を助長することもあるという。ところが、異性愛という構造こそが、「それ自身の絶え間ないパロディ」であるがゆえに、「『現実』になることの失敗、『自然』を具現化することの失敗は、すべてのジェンダーの演技に共通する構造的な失敗」である、とバトラーは言う。それゆえ、異性愛マトリクスという法を攪乱する場所は、「起源や本物や現実といったものが結果として構築されるパロディ実践」のなかに置くべきだ、論じるのだ。そして、その攪乱の結果、「かりにジェンダー規範がなくなってしまえば、ジェンダーの配置は増殖し、実態的なアイデンティティは安定性を失い、強制的異性愛という自然化をおこなう物語から、その中心的人物(「男」と「女」)が取り除かれていくだろう」。ジェンダーは、政治的に強化される巧妙なパフォーマティヴィティの結果であるが、「分裂や、自己風刺や、自己批判や、『自然』の誇張表現に向かって開かれている『行為』でもあり、まさにその誇張によって、ジェンダーがもともと幻影でしかないことを明らかにしていくものである」。(Butler[1990;257])したがって、フェミニズムがしなければならない批判的作業は、構築されたアイデンティティの「そと」にフェミニズムの視点を打ちたてることではない。そうではなくて、「まさにそういった構築によって可能になっている攪乱的な反復の戦略をとること――つまり、アイデンティティを構築するものでありながら、またそれゆえにその反復実践に異を唱える内在的な可能性を提示するような反復実践に、みずから参与し、それによって局所的介入をおこなう可能性を支持していくこと――」に他ならないのである。(Butler[1990;258]

 

2. 感想

 

 当初、『ジェンダー・トラブル』を読みすすめたとき、文体の、そして内容の難解さに驚くばかりで、読むという行為が理解につながることはほとんどなかった。(とりわけ2章が、私にとっては難解なこと極まりなかった。)それでも何とか読みすすめようという想いが最後まで挫折しなかったのは、1999年に再販された『ジェンダー・トラブル』十周年記念版に付け加えられた序文のなかの、ある一文を目にしたからであった。バトラーは言う。

 

(『ジェンダー・トラブル』において)わたしが反論したのは、ある種のジェンダー化

された表現を誤りとか派生的とみなし、べつのものは本物だとか起源とみなす真実とい

う制度である。……本書の目的は、ジェンダーの可能性の場を開いていくことだった。

『さまざまな可能性を開く』ことがいったい何の役に立つのか、と思われる読者もいる

だろう。だが、社会のなかで『不可能』で、理解不能で、実現不能で、非現実的で、非

合法的な存在として生きることがどういうことかを分かっていれば、誰もそのような問

いを発することはないだろう。(Butler[1999]

 

このように、――たとえ難解な言説の集合体であろうとも――本書がけっして「アカデミズムの世界からだけではなく、数々の似通った社会運動」からうまれたものであり、さらに私にとって興味深い内容であったことが、この想いを挫けさせなかったのだと思う。

 「ジェンダー規範という暴力」を受けつづけてきたと言うバトラー自身の経験が、おそらく、彼女をして、このような理論へとむかわせたのであろう。「ジェンダーの可能性を開く」ことを目的とするバトラーが、詩的言語は同性愛の備給をおこなわないと主張するクリステヴァや、帝国主義的な戦略をとるレズビアにズムを提唱するウィティッグの戦略を退けるには道理があると言えよう。私には、彼女らに対するバトラーの姿勢が、イリガライにあてた言葉でいうところの「やむにやまれぬ批判」と言うことが相応しいように思える。

 本書は、フェミニズムがその基盤とする「女」というカテゴリーの本質性を、セックスにまで遡って否定したことから、フェミニズムにさまざまなトラブルをもたらした。「主体なきフェミニズムは可能か」(岡野[2000])という問いにあるように、運動の現場において。「女性を『脱構築』で切り刻むな」(バーバラ・ドゥーデン)という問いにあるように、「女」の経験を解消しようとする理論に対する反論として。当初、このレポートは、『ジェンダー・トラブル』をめぐるフェミニズムにおける論争をいくつか紹介し、また、それがクィア理論に与えた影響なども含む予定であった。ところが、実際に執筆するなかで、『ジェンダー・トラブル』一冊を要約するだけのことに、膨大な時間を費やしてしまい、残念ながらそこまで手を広げることができなかった。それゆえ、単なる『ジェンダー・トラブル』の要約にとどまったことを残念に思う。    

今後は“Excitable Speech”で深められたという、エージェンシーとパフォーマティヴィティの理論について、また、『ジェンダー・トラブル』以降バトラーに寄せられた、「女」の「経験」を主張するドゥーデンのような反論に対して、それに応えるべく執筆したという “Bodies That Matter” がとりわけ私の関心をひくため、長期休みをとおして、理解を深めるつもりである。

 

3. 参考文献

 

伊野真一 2000「主体・アイデンティティ・エイジェンシー」『現代思想』12月号青土社

井上輝子 1992「女性学への招待」有斐閣選書

上野千鶴子 2002「差異の政治学」岩波書店

上野千鶴子編 2001a「構築主義とは何か」勁草書房

             2001b「ラディカルに語れば…」平凡社

江原由美子 1988「フェミニズム理論への招待」『フェミニズム入門』別冊宝島85 JICC出版

江原由美子編 1990「フェミニズム論争」勁草書房

江原由美子・金井淑子編 2002「フェミニズムの名著」平凡社

大越愛子 1988「第二期フェミニズム理論の現在」『フェミニズム入門』別冊宝島85 JICC出版 

岡野八代 2000「主体なきフェミニズムは可能か」『現代思想』200012月号 青土社

荻野美穂 2002「ジェンダー化される身体」勁草書房

金井淑子 1989「ポストモダン・フェミニズム」勁草書房

金井淑子編・細谷実編 2002「身体のエシックス/ポリティクス」ナカニシヤ出版

クリア・マリィ 2000「ことばの罠のネゴシエーション」『現代思想』200012月号 青土社

国領苑子 1988「イリガライと西欧形而上学批判」『フェミニズム入門』別冊宝島85 JICC出版

砂川秀樹 2000「『変動する主体』の想像/創造」『現代思想』200012月号 青土社

田中美津 1972「いのちの女たちへ」田畑書店

千田有紀 2000「構成主義」『現代思想』20002月臨時増刊号 青土社

竹田青嗣 1987「現代思想の冒険」毎日新聞社

竹村和子 2000「フェミニズム」岩波書店

     2002「愛について」岩波書店

富原眞弓 1988「クリステヴァと『女のエクリチュ―ル』」『フェミニズム入門』別冊宝島85 JICC

永井光代 1988「フロイトを解体する女たち」『フェミニズム入門』別冊宝島85 JICC

橋爪大三郎 1988「はじめての構造主義」講談社

Butler, Judith 1990 Gender Trouble: Feminism and Subversion of Identity. New York and London: Routledge. = 1999竹村和子訳『ジェンダー・トラブル』青土社

       1997 Excitable Speech: A Politics of the Performativity. Routledge, ch.1.

                   = 1998竹村和子訳『触発する言葉−パフォーマティヴィティの政治』

           1章『思想』199810月号

Foucault, Michel 1976 L’historie de la sexualite, tomeT. Paris: Editions Gallimard.

                   = 1986渡辺守章訳『性の歴史T』新潮社

Helene Cixous 1975 Le Rire De La Meduse. Des Femmes

            = 1993国領苑子、藤倉恵子、松本伊瑳子訳『メデューサの笑い』紀伊国屋    書店

Irigaray, Luce 1997 Ce Sexe Qui N’em Est Pas Un. Paris: Editions de Minuit.

        = 1987棚沢直子訳『ひとつではない女の性』勁草書房

Scott, Joan Wallach 1981 Sociologie de la famille. Paris: Librairie Armand Colin.

                 = 1992 荻野美穂訳『ジェンダーと歴史学』平凡社



[1] 1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」、第2章「禁止、精神分析、異性愛のマトリクスの生産」、第3章「攪乱的な身体行為」であり、「パロディから政治へ」と題された小論が、最後に続く。

[2] Simone de Beauvoir, The Second Sex, trans. E. M. Parshley ( New York: Vintage,1973), p301 = 邦訳シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』井上たか子・木村信子監訳、新潮社、1997

[3] マトリクスとは認識格子のことで、『ジェンダー・トラブル』において一貫して使われている「異性愛のマトリクス」という語は、身体やジェンダーや欲望を自然化するときの認識格子を意味し、この認識格子によって文化的な理解可能性が作り上げられる。またこれが意味するのは、ジェンダーの理解可能性についての覇権的な言説/認識のモデルであり、身体の首尾一貫性や意味可能性のために安定したセックスが必要だとみなす考え方である。(Butler[1990;262]

 また「母型とか鋳型という意味の『マトリクス』という語は全体化のニュアンスを与えてしまうために、『ジェンダー・トラブル』以降では、再定義の可能性を強調する『異性愛のヘゲモニー』という語に変えたとバトラーは……断っている」。(竹村[1999;293]

[4] アドリエンヌ・リッチは、性差と異性愛を自然なものとして構築する政治的な仕組みを「強制的異性愛」という用語で理論化した。(上野[2001b;172]

[5] Claude Levi-Strauss, ‘The Principles of Kinship,” in The Elementary Structures of KinshipBoston: Beacon Press, 1969= レヴィ=ストロース『親族の基本構造』馬渕東一・田島節男監訳、番町書房、1977

[6] Gayle Rubin, “The traffic in Women” (New York: Monthly Review Press, 1975)

[7] そういう意味で、快楽は、ジェンダーのメランコリー構造によって決定されるとバトラーは言う。事実、その構造によって「ある器官は快楽を感じない死んだ場所とみなされ、べつの器官は快楽を感じる生きた場所とみなされる」。(Butler[1990;134]))すなわち、「字義どおりの」ペニスであり、「字義どおり」の膣であるという信仰は、「メランコリックな異性愛症状を特徴づける<字義どおり化>という幻想」であるにもかかわらず、それが「自然な事実」として位置づけられることになるのである。

[8] 以下の文献を参照。Foucault, Michel ‘L’historie de la sexualite’, tomeT.Paris: Editions Gallimard= 『性の歴史T』渡辺守章訳、新潮社、1986

 

[9] バトラーは、次のような語を例に挙げる。「クイーン(ゲイの女役)、ブッチ(レズビアンの男役)、フェム(レズビアンの女役)、ガール(ゲイの男役)といった言葉や、ダイク(レズビアンの別称)、クィア(変態)、ファッグ(おかま)といった語」である。ウィティッグはこれらの「抑圧的な意味体系」に関与することを、――「ひいてはこの体系を追認することになってしまう」という理由から――拒否(無視)するのである。

[10] 事実、これらの文脈では、ジェンダーは必ずしもセックスやセクシュアリティから導き出されず、「実際、意味を与えられているこれらの身体的次元は、どれも、互いが互いの表出となったり、反映となってはいない」のである。(Butler[1990;239]