2003730

小熊研究会T学期末レポート

「フェミニズム」〜「女の言語」について〜

 

学籍番号 70000612

総合政策4年 石井幸

 

<目次>

1.              ポストモダン・フェミニズムとは?

2.              ロゴス支配の実例 〜フランス語の場合〜

3.              ロゴス支配にどう立ち向かうか

3−1.フランスの差異派フェミニストたちの言語戦略

3−1−1.リュス・イリガライの戦略

3−1−2.ジュリア・クリステヴァの戦略

4.              言語学から見た詩的言語とは?

 4−1.記号学から記号論へ

 4−2.記号論としての詩的言語

 4−3.<意味づけ論>的解釈による詩的言語の可能性

5.再びロゴス支配にどう立ち向かうか

5−1.日本の差異派フェミニストたちの言語を検証する

5−1−1.女性主義者路線を行く平塚らいてふ&高群逸枝の使用する感覚的言語

5−1−2.ウーマン・リブ運動の旗手であった田中美津の言語感覚

 5−2.すべてのフェミニストが悩んでいるであろうロゴス支配のループ

5−2−1.青木やよひ(エコロジカル・フェミニスト)の脱出作戦の検証

5−2−2.私の戦略(文字から記号へ)

6.結論 〜「女の言語」とは何か?〜

7.今後の課題 〜「女の身体」の解析と「二項対立」の解消へ向けて〜

8.おわりに

 

1.ポストモダン・フェミニズムとは?

 “フェミニズムの始まり”と言った時、誰もが思い浮かべるのは、「人は女に生まれない、女になるのだ」と謳った、シモンヌ・ド・ボ−ヴォワールの名著『第2の性』ではないだろうか? その後、第一派フェミニズム時代には、ブルジョワ・フェミニズム、社会主義フェミニズムが唱えられ、停滞期を経て、第二派フェミニズムになって、ラディカル・フェミニズム、前期マルクス主義フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、後期マルクス主義フェミニズム等、様々な理論構築を重ねながら発展してきた。そして、現在最も新しいフェミニズムの理論が、「ポストモダン・フェミニズム」と呼ばれるものである。

 その特徴であるが、

 

@       近代社会は、基本的に女性に対して拘束(解放でない)であったという立場

A       女性の抑圧の原因は、「私的領域」の制度にあるという立場

B       女性を分断する「差異」か「平等」かの対立軸そのものを問題にするという立場

 

であると言えるだろう。そして、それら女性の抑圧をもたらした根本原因は、西欧的な思考や精神であるとし、フェミニズムの目的は「ファロスロゴス中心主義的・エディプス的主体の解体」[1]にあるとするのが、彼女たちの論旨である。

 

ポストモダン・フェミニズムは、上記Bにあるように、近代社会が設定した様々な二項対立の解消(または攪乱)を意図するが、そこには主に2つの立場が存在し、微妙に理論展開の方向が異なっている。

 

1つは、完全に男女の二項対立を解消してしまおうという立場で、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル 〜フェミニズムとアイデンティティの攪乱の試み』がそれである。バトラーはこの本で、“性”においてどこまでが自然なもの(所与のもの)で、どこまでが社会的なもの(人間の構築物)なのか、について明らかにしようと試みたと言える。従来のフェミニズム理論では、自然な性である「セックス」に対して、社会的・文化的につくられた性であるところの「ジェンダー」という概念を立てて、「ジェンダー」の抑圧性や差別性について問題にしてきた。その際、「ジェンダー」を定義付ける土台として自然な「セックス」という前提を採用してきた。しかし、バトラーは以下のように定義する。

 

「セックスはジェンダーによって、その正当性を保証され、再生産されつづけている構築物である。したがって、セックスとジェンダーの区別はない。すべてがジェンダー(構築物)なのだ。」

 

バトラーは、「そもそもセックスとは、自然なのか、解剖学上のものなのか、染色体なのか、ホルモンなのか」と問い、さらに、「セックスの二元体が確立されてきた道程を示す歴史−つまりセックスの二元体が可変的な社会構築物であることをあばく系譜学はあるのか」(『ジェンダー・トラブル』p28)と問いかける。また、ボーヴォワールのように、女を「他者」化することが、つまりは男根中心主義に加担してしまうことになるのではないかというようなことを述べ、「精神と身体の区別が、暗黙のジェンダーの階層秩序を慣習的に生み出し、温存し、理論化してきたがゆえに、この区別の無批判な再生産は、どのようなものであれ、ここでぜひ考え直してみる必要がある」(同、p37)とも述べている。[2]

 

バトラーのように、こうして徹底的に男女の差異を脱構築[3]しようとする平等路線に対し、一方で、「女的なるもの」にこだわりつつ、男女の不平等な差異を改善しようという立場をとるのが、差異派フェミニストと呼ばれるリュス・イリガライジュリア・クリステヴァである。イリガライは『ひとつではない女の性』の中で、「女のセクシュアリティは複数性で、主体と他者の自由で交換可能な関係にある」とし、クリステヴァは『詩的言語の革命』で「女性、母性やエクリチュ−ル・フェミニン(女性的なテキスト)の探究」を説いた。また、エレ−ヌ・シクスーは『メデューサの笑い』で、「彼女の両性の中にある女性性(他者を受け入れ、愛す性)に目覚め、女性性によって女性性を書くことで男根論理中心社会を変革しよう」と提唱している。

 

 以上が、主なポストモダン・フェミニストたちの論旨であるが、ここでは、“「女の言語」とは何か?”という視点で、東西(フランスと日本)の差異派フェミニストたちの言語との関わり方や思想を検証してみたいと思う。

 

2.ロゴス支配の実例 〜フランス語の場合〜

 学問をリードしてきたのが男性だったこともあって、この社会で使用されている言語体系は往々にして男性に都合の良いものであったりする。例えば、「大統領が女王陛下に会ったとしても、「彼ら(男性形複数)は会った」と言うのは文法上変則に近い。ほとんどの人はこのデリケートな問題に取り組まないで、男性あるいは女性のどちらか1つの文法上の性に支配されるべきなのだろうかと不審に思っている」(イリガライ著『差異の文化のために』、p64) これは、彼の複数が「彼ら」であって、彼女の複数は「彼女ら」であるのに、彼と彼女が集まると、男性形複数の「彼ら」になり、彼女の性は排除されてしまうということだ。イリガライは、「わたしは、『海の恋人』の中で(とくに「神々の生まれるとき」と「ベールを被った唇」の章で)、娘から息子への母性的−女性的権力の移行過程を示すいくつかの出来事を分析した。」(同、p10)と述べており、さらには、

 

「精神的系譜の変化において、…神託や真理を横取りすることによって、神々−男たちは自分たちをみずからの大地と身体の根源から切り離した。この変化に付随して、権利、正義、論証との関係における変更が起こった。新しい論理的秩序が女たちの発言を検閲によって禁止し、少しずつ耳に入らないようにしていった。信じられないような忘却と無理解の中で、父権制の伝統が母−娘の系譜の痕跡を消してしまった。現在、ほとんどの科学者たちは、たいていの場合は本心から、そんなことは今まで存在したことがないし、女たちはあるいはフェミニストの想像上の産物にしかすぎない、と主張している。もちろんそういう学者たちは、この問題について何年も前から取り組んでいるわけでもないから精通してはいないが、しかし、あえて彼らは自分たちの研究の枠組みに応じて、しかもわたしたちの文化の歴史に関する十分な調査も行わずに判断してしまっている。このような忘却は父権制文化の1つの徴候である。これは自分たちと世界との関係の起源をよく理解していない現代人の孤独と彷徨の説明になる。」(同、p1011

 

と父権制に先立つ母権制社会の存在について語っているのである。その上で、父権制は母権制にとって変わる為に、以下のように女を言語支配していったのだと指摘する。

 

「何世紀も前から、価値が高いとされているものは文法上男性形で、価値が低いとされるものは女性形となっている。たとえば〔フランス語で〕太陽は男性形で、月は女性形である。しかしわたしたちの文化では太陽は生命の源と見なされており、月は−おそらく一部の農民以外には−あいまいで不吉なものと考えられている。有史以来、太陽は男性形に割り振られ、太陽は男である神々に割り振られていることがわかっている。…単語の文法上の性としての男性形が持つプラスのコノテーションは、とりわけ男性が神格を獲得したことにより、父権制的かつ男性中心主義的権力の確立した時代と結びついている。この問題は二義的なものではないどころか、非常に重要である。神の権力なしには、男性は母−娘の関係と、その関係に割り振られた自然と社会を横取りすることはできなかった。しかし男はみずから不可視の父となり、言語たる父となることによって神となる。男は御言葉とおりに神になり、御言葉どおり人となる。精液の権力は生殖においてただちに目に見えるというものではないが、精液は言語コード、つまりロゴスによって引き継がれてゆく。ロゴスは総括的な真理になろうとするのだ。」(同、p65

 

 実際のところ、女が現実界で女として言語を使用しようとする時には、大きな困難が伴う。「異なる文法上の性でありつづける代わりに、女性形はフランス言語の中で、非男性形つまり存在しない抽象的な現実となってしまう」ため、「女性形は主体的表現を消され、女性に関する語彙は侮辱的ではないにしてもしばしばほとんど無価値の、男性形の主語に対する目的語として女を定義する用語で構成される」のだ。したがって、「女たちは父権制の言語の秩序によって排除され、否定される。女であることも、道理にかなった首尾一貫した方法で話をすることもできないのだ」という。このことを具体例で示すと、

 

「肘掛け椅子や城は男性形、椅子や家は女性形」であることの意味は、男性形は豪華で装飾的、上流階級で財産と見なされているものにつくのに対し、女性形はわたしたちの文化において単なる実用性しかないことを示している。その他、コンピューターは男性形で、タイプライターは女性形、飛行機は男性形で、自動車は女性形、といった具合だ。そして、太陽−月に見られるように、生命のある、教養のある生物は男性形となり、生気も教養もない無生物は女性形となる。このことは、男性が主体性を自分のものとし、女性をモノの地位に追い込むか、無に追い込んだことを意味している。例えば、刈り取り人(moissonneur)は男であるが、職業名詞についての今日の議論をもとに、言語学者と法律家が刈り取りをする女に刈り取り女(moissonneuse)という名詞を与えたいと思ったとしても、その単語を女が主体として自由に使うことはできない。というのは、moissonneur にとって moissonneuse は刈り取り機という便利な道具であって、刈り取り人の女性形は存在しないのだ。(同、p6768

 

という具合である。「性別のあるカップルは存在しない。…実際、最初は単なる違いにすぎなかった女性形が、今日では非−男性形とほとんど同一視されている。女であることは、男=人間でないことなのだ。」(同、p68

 

3.ロゴス支配にどう立ち向かうか

 それでは、そのような強固なロゴス支配に対して、女性たちは如何に闘おうとしているのか、フランスの差異派フェミニストの代表であるイリガライとクリステヴァを参考に検証してみたい。

 

3−1.フランスの差異派フェミニストたちの言語戦略

大変残念ではあるが、ここは勉強不足&時間切れにて書ききれなかった…

興味のある方は、イリガライ『差異の文化のために』やクリステヴァ『詩的言語の革命』等、関連文献を探して読んでいただきたい。両者は、ジャック・ラカンの精神分析学をベースに批判的検討を加え、独自の言語論を展開しているものと推察する。

 

3−1−1.リュス・イリガライの戦略

イリガライの戦略の1つは、上記のような「男の言語体系に対抗する女の言語体系が、女たちによって構築されるべきだ」というようなことを述べていたように記憶している。それは、今ある男優位の言語体系を改変することでは物足りないと言うことなのか、もう少し詳しく彼女の思想全体をチェックしてみないとわからない。

 

3−1−2.ジュリア・クリステヴァの戦略

クリステヴァは象徴界(le symbolique=ル・サンボリック)に対して、精神病者や文学的前衛に見られる言語の相(le semiotique=ル・セミオティック)という概念を対峙させ、セミオティックな中に「詩的言語」の可能性を見出していたのではないかと思われる。また、「想像的父」なるものを打ち立て、幼児が想像界から象徴界へ移行する際に、母親がその「想像的父」の役割を担うのだというような議論をしていたと記憶している。このうち、「詩的言語」に関する論述(まだチェックしていないのだが)は重要だと思われるので、次の章で、言語学的に検証してみることにしたい。

 

4.言語学から見た詩的言語とは?

 それでは、クリステヴァが注目し、革命とまで名付けた、「詩的言語」は今日の言語学では、どのような位置を占めているのだろうか。

 

 4−1.記号学から記号論へ

 「言語記号(シ−ニュ)は記号表現(シニフィァン=文字や音の像のこと)と記号内容(シニフィエ=意味や概念のこと)という2つの側面を持つが、その結びつき自身は、偶然、つまり恣意的(気まま)である」や「私たちはすでに体系として存在する言語規則(ラング)に従って個々の発話(パロール)を行っている」等、言語を構造主義(および哲学)的に解明しようとしたのが、フェルディナン・ド・ソシュールである。彼の理論は記号学の中でも「伝達の記号学」と呼ばれ、言語が意味を持ち、その言語を使用・交換することで、言語とともに意味が運搬され、人から人へと意味が伝達されるというものだ。一方で、「意味作用の記号学」と呼ばれる立場があり、こちらはパースやバルトの理論的立場がそれである。この2つの違いを示すと、

 

   前者が「伝達(communication)」ということによって特徴づけられているのは、送信者が一定の情報を受信者へ間違いなく伝えることを意図して記号が使われるからであり、その際の間違いなさを保証するために記号の使用はすでに両者に諒解ずみのコードに従って行われる。これに対し、後者はこのような伝達の意図ならびにコードの存在という特徴を欠いている。後者の場合に存在しているのは、あるものがあることを意味していると読み取られることによって、そこに「意味作用(signification)」が認められるということである。(川本茂雄他編『講座・記号論 −言語学から記号論へ−』p4

 

 言語の世界において、この2つはしばしば対立した理論と考えられているが、「伝達」と「意味作用」という概念的な対立は、決して相互排除的な性質のものではないという。それは、以下の2つの理由による。

 

「(あるものが)何かを意味する」という「意味作用」の存在は、ある現象を「記号現象」として基本的に特徴づけるものであり、その意味では、すべての「記号現象」が「意味作用」を含んでいるわけである。このことは、その記号現象が(「伝達」と呼ばれる場合のように)前もって定められているコードに従ってある特定の記号に関して起こっていようと、あるいは、(「伝達」と相互排除的な関係にあると想定された「意味作用」と呼ばれる場合のように)あるものが臨時に、あるいは新しく記号と化せられる過程において起こっていようと、変りはない。記号現象があれば意味作用が存在しているわけであり、「伝達」も「意味作用」の存在を前提として初めて成り立つものである。エーコの言葉を借りれば、ムーナンの言う「伝達の記号学」とは、要するに、(明確なコードに基づいているという意味での)「厳密な意味での意味作用の記号学」ということに他ならないのである。(同、p5) 

 

   注意すべき第二の点は、「明確なコードの存在」と言っても、コードの明確さにはさまざまな段階がありうるということである。一方では、使用される記号の範囲が明確に規定されており、かつ、それぞれの記号がその記号表現と記号内容のいずれの面に関しても明確に規定されていて他の記号のそれと混同される恐れがなく、記号表現と記号内容の対応関係は常に一対一であるというようなものから始まり、他方ではそのような条件をいっさい満たさないものに至るまで、その中間にはさまざまな段階のものが存在してるはずである。…コードの明確さ、つまり、コード性、ということが程度問題であるとすれば、ムーナン的な図式での「伝達の記号学」と「意味作用の記号学」との間には明確な境界線はないということである。ただし、両極に位置する典型的な場合を確認しておくことは重要だし、また必要なことである。(同、p5〜6

 

 (言語と非言語は分けられないが、分けるならその基準は何かということを述べる予定であった)

 

 ソシュールの考え方であるが、死後、弟子たちによって編纂された『一般言語学講義』によれば、「言語とは概念を表現する記号の体系であり、それによって、文字、手話、点字、象徴的な儀式、礼儀作法、軍隊の信号、などと比較することができる。ただし、言語はそのような体系の中でも一番重要なものである。そこで、社会生活の中での記号の一生を研究する学問を考えることができる。…それを「記号学(semiologie)」と名づけることができよう。」というものだ。このようなソシュールの「記号学」の構想は、先ほど紹介したアメリカの哲学者パースによって打ち出された「記号論」の構想とは、対照的性格のものである。パースの「記号論」の構想は記号の「意味作用」そのものにあり、その「意味作用」が「コード」に基づいているかどうかということは二の次であるからだ。パースは、次のように述べている。「私の知る限りでは、この私は記号論(semioticという分野を切り開く作業をしているパイオニア、あるいは開拓者とでもいったものである。これは記号現象と考えうるものがいかなる本質のものであり、基本的にいかなる種類があるのかに関する理論体系である。」また、「記号現象と私が言っているのは、記号とその対象およびその解釈項という三つの要因の共同作用、ないしはそれを含むところの一つの作用または影響関係のことである。この三項の間の影響関係は、いかなる形でも二項間の行為として還元することはできない。」(同、p21

 

バルトが『記号学の原理』でソシュールを解釈[4]し、述べたことは、「記号体系というものは、すべて言語が入り混じっているのである。…かくして、初めは非言語的な実質と取り組んでいても、記号学は遅かれ早かれ、その途上に言語を見出すこととなる。…事実、われわれはソシュールの述べたことを逆転させる可能性と直面することになる。つまり、言語学は記号についての一般的な学の一部ではない――その中の特権的な地位にある一部でもない――のである。記号学の方が言語学の一部なのである。

 

 バルトの説明を図式化すると、以下のようになるだろう。

 つまり、クリステヴァが述べている「セミオティック=詩的言語」とは、コード化される前にある、記号論的言語ということになる。それは、先述したイリガライの分析にあるように、象徴社会(シンボリックまたはサンボリック)の言語コードに雁字搦めになっている女の状況を打開するために、重要な意味を持っている言語と言える。では、「詩的言語」とは、いかなるものなのか? 次に、その理論と分析の概要を掻い摘んで紹介する。

 

 4−2.記号論としての詩的言語の理論と分析

 大変申し訳ないが、テキストの記述が間に合わなかった…。いずれ説明を埋めたいと思っているが、取り急ぎ内容を知りたい人は、上述したのと同じ『講座・記号論 −言語学から記号論へ−』を読んでいただきたい。ここの第V章に「詩的言語の理論と分析」ということで、「詩の言語」「小説の言語」「劇的言語(台詞と記号論)」等、興味深い記述がなされている。2つほど、キーとなる記述を紹介するので、あとは次に読み進んでいただくことでお許しいただきたいと思う。(申し訳ありません)

 

   言語が、日常言語が名づけによって告知することを主たる使命としているときに、「詩的言語」はまさに言語の形式の削除や置換、統辞的・音韻的変形、隠喩によって訴えかけていることに注意しよう。(『講座・記号論 −言語学から記号論へ−』p195

 

日常言語の基底をなす実践的な二項対立を、科学言語が厳密な二項対立へと止揚するのに対し、「詩の言語」(カッコは石井)は二項対立を踏まえながら、しかもプラス(の意味作用)とマイナス(の意味作用)を交えあわすことによって両義性(ambivalence)を生み出す。そのことは、そもそも二項対立に基礎を置く言語を用いながら、二項対立を突き抜けて新しい意味の世界を築こうとするのである。そこを捉えて、「詩の言語」は「言語透過的」translinguistiqueであるといえる。(同、p202

 

 4−3.<意味づけ論>的解釈による詩的言語の可能性

  SFCの田中茂範と深谷昌弘ら2人の共著によって提唱された言語理論である<意味づけ論>は、「事物はコトバからなる」というノミナリズムの立場での、「社会的現実の構成過程の解読」として有効な言語理論であるといえる。残念ながら、ここで詳しくその内容を紹介する時間がなくなってしまったが、シンボリック相互作用論や現象学的社会学、具体的なところでは政策現場の意味づけの構築の系譜と解読など、広範囲な現実応用力を持つ理論として注目されるものである。詳しくは、是非、『コトバの<意味づけ論>』と『<意味づけ論>の展開』を読んで欲しい。たとえ、言語学の事前知識がなくとも、日常的にわかりやすい事例が多く、大変読みやすくなっている。彼らの立場は、「意味作用の記号学」であり、コードを背後に持たない「詩的言語」の解読には参考になる部分が多いはずである。但し、現在彼らは、「暗黙知に帰属するテニヲハの役割」や「社会的共通コードはないがコードがあるように話が通じるのは何故か」という「意味の共有感覚問題」に取り組んでいると思われるので、「テニヲハ」も省略されている究極的な「断片的詩的言語」の場合は、どのように解析できるのかわからない(私が把握していないのか、これからの課題であるか)。この辺りの理論に興味のある方は、是非、本書を読み解いていただきたいと思う。

 

5.再びロゴス支配にどう立ち向かうか

 ここまで、主にフランスのフェミニストが行った解析(すみません、未完成です…)をもとに、詩的言語の重要性について論じてきた。それでは、日本はどうなのだろうか?

 

5−1.日本の差異派フェミニスト&リブたちの言語を検証する

日本で「女的なるもの」や「女としての己」に重きを置こうとしたフェミニストやリブのうち、代表的な4人を取り上げて、彼女たちが象徴社会の言語コードからどのように抜け出そうとしていたのかを、分析してみることにする。

 

5−1−1.女性主義者路線を行く平塚らいてふ&高群逸枝の使用する感覚的言語

 日本の女性解放運動の原点となっている「元始、女性は太陽であった」という有名な宣言文を残したのが、第1派フェミニズムの立役者、平塚らいてふであった。そして、その後らいてふに「私の精神的娘」とまで言わしめたのが、日本の母系制の研究をした高群逸枝である。ここでは、その2人に共通する「言語の使い方」に注目をする。

 

 まず、「新しい女」として初めて女性のみの雑誌『青鞜』を創刊した平塚らいてふが、その創刊の辞で使用した、言葉を見てみよう。

 

   元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。…私は精神集注のただ中に天才を求めようと思う。天才とは神秘そのものである。真正の人である。天才は男性にあらず、女性にあらず。…

「フランスに我がロダンあり。」ロダンは顕れたる天才だ。彼は偉大なる精神集注力を持っている。一分の隙なき非常時の心を平常時の心として生きている。…その意志の命ずる時、そこに何時でもインスピレーションがある彼こそ天才となるの唯一の鍵を握っている人というべきだろう。…そしてそこ(『白樺』のロダン号)に自分の多くを見出した時、共鳴するものあるをいたく感じた時、私はいかに歓喜に堪えなかったか。…

   私はかの「接吻」を思う。…接吻は実に「一」である。全霊よ、全肉よ、緊張の極(はて)の円(まど)かなる恍惚よ、安息よ、安息の美よ。感激の涙は金色の光に輝くであろう。…

   我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する。…私はすべての女性と共に潜める天才を確信したい。ただ唯一の可能性に信頼し、女性としてこの世に生れ来(きた)って我らの幸を心から喜びたい。…私どもはもはや、天啓を待つものではない。我れ自からの努力によって、我が内なる自然の秘密を曝露し、自から天啓たらんとするものだ。…

   私どもは日出ずる国の東(ひんがし)の水晶の山の上に、目映ゆる黄金の大円宮殿を営もうとするものだ。女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ。よし、私は半途にしてたおるとも、よし、私は破船の水夫として海底に沈むとも、なお麻痺せる双手を挙げて「女性よ、進め、進め」と最後の息は叫ぶであろう。今私の眼から涙が溢れる。涙が溢れる。… (小林登美枝他編『平塚らいてふ評論集』p924

 

 こんな具合に書かれている。これを指して、高群はらいてふの「青鞜」発刊宣言は「女性独自」の思惟体系にもとづく「『天才』語」で語られていると評したという。(西川祐子著『高群逸枝』、p120)その高群も、実は同じような言葉遣いをするのである。西川によれば、高群は自分の長編詩『日月の上に』の中で、「青鞜」の本歌取りを行っている。らいてふが「性格と云うものの自分に出来たのを知った時、私は天才に見棄てられた。天翔る羽衣を奪はれた天女のやうに、陸に上げられた人魚のやうに。私は嘆いた、私の恍惚を、最後の希望を失ったことを」(「青鞜」創刊号より)と記したのを受けて、高群が、自身の長詩の最終行で「娘はまだ、性格を持たないかもしれない」また「詩人はまだ、性格を持たないかもしれない」と記述することで、「娘〔詩人逸枝〕はまだ、性格をもたないかもしれない」―― そして性格をもたないからこそ、彼女は天才であるかもしれない、真正の人であるかもしれないという意味になる(同、p89)のだという。

 

本歌取りとは、言語学的に「隠喩」に近い方法(でいいのか)であり、日本でも短歌や詩歌等に頻繁に用いられる技法である。つまり、このような言葉の使い方は、「詩的言語」ということになろう。らいてふが述べているように、「詩的言語」を遣り取りするためには、いわゆるラング的意味(ソシュールが体系化した字義的意味=辞書のような意味)だけでなく、インスピレーションが必要になる。インスピレーションを高めて表現するためには、時にラングの体系を崩すことを拒まない。むしろ、そうしていかなければ独自の感性を生み出すことはできないのである。では、もしもソシュールの理論のように、言葉が「伝達の記号学」であったなら、この時インスピレーションはどうやって「伝達」すればいいのだろう? 否、それは個々人の心にあって言葉をきっかけに目覚め響くものであって、そのもの自体を取り出してある言葉とともに伝達ルートに載せ、教えたりわからせたりすることはできないだろう。それは外的に伝えるというよりも、「内的に伝わると感じる」類のものである。つまりは、各人の意味世界で生産され、保持され、蓄積され、発展していく「意味作用の記号学」としてこれらの言語は機能していると言えるのではないか。

 

 西川は、高群のことばに対する見解について、「「詩と社会」、「歌壇に革命す」(ともに『私の生活と芸術』に収録)といった、『日月の上に』とほぼ同時代に高群が発表した詩論では、詩人は直観と稟性によって次の時代の思想を体現し、予言し、ことばによって民衆を動かすものとされている(同、p8687)」と述べ、高群の想定する女性的な文化の特徴として、次のような興味深い分析を行っている。

 

高群がいう女性的な文化とは、原始の部族社会を率いていた姫彦制の女性祭司のことばに代表される無文字的な文化の伝統を指す。高群はこれを「ことばの文化」と呼んで文字の文化と区別している。その発想としては語部のことばを採集した古事記、万葉集の歌の数々、「女性文化掉尾の抵抗」としての王朝女流文学、室町時代以後は五木の子守唄のような民謡他のうたいもの、そしておもいがけぬことに近代の入り口において書かれた平塚らいてふの「青鞜」発刊宣言、および中山みき、出口なおなど新興宗教の教祖のお筆先が挙げられている。間歇泉のごとくにふきあげはしたが脈絡のつけがたかった現象をつないでみせたのであった。複合停滞の底にしずむ無文字的な文化ときおり表現者を得て地底のマグマのように噴きあげる。噴火口となるのは男性よりも、後進性にからまれている女たちであることが多いということであろう。(同、p245

 

   高群はらいてふの「青鞜」発刊宣言には原始の女性祭司の声が聞こえると言ったのであった。らいてふは高群にならって、わたしの内部から叫ばれた、とまるで他人事のように書き、多くの女性たちの叫びが自分の口を借りて噴出したのであって、自分はただの噴火口であると言っているのである。(同、p246

 

ここからわかることは、「女の言語」である詩人の直観言語や女性教祖のお筆先等は、文法(てにをはや語順)やコード(字義的意味)に沿って書かれていないテキストの典型であり、理路整然とした語りというよりは、むしろ魂の叫びとも言えるような感覚的・直観的要素が強いと言うことである。それは、何かを自分が生み出す(produce)のではなく、何かを自分の口を通して表象する(presentation)姿勢といったほうがいいかもしれない[5]。いずれにせよ、彼女たちはもう1つの(または言語コードの外側にある)言語体系の世界でコミュニケーションしていらたしいことが予測されるものであった。

 

5−1−2.ウーマン・リブ運動の旗手であった田中美津の言語感覚

次に、「妻でも母でもなく、女として生きる」ことを力強く主張し、ウーマン・リブ運動の先導的役割を果たした田中美津の「言語の使い方」および言語感覚について注目してみよう。美津の独白書とも言える『いのちの女たちへ 〜取り乱しウーマン・リブ論〜』は一般の著者とは違った印象を読者に与えるようである。文庫版への<解説>を担当した伊藤比呂美は、摂食障害経験者としてワークショップで常時美津と直接触れ合っている感想として、美津の言語をこのように語っている。

 

(美津の治療で使用される口調など)そこには、学問もへったくれもなく、てらいも虚飾もなんにもなく、ただ、人にさわり、鍼をうち、人の息をきき、においをかいで生きているひとりの女が、自分を見つめて考えてきたことを、自分のコトバでつかめる範囲内で、きちんと相手につたえようとしている立場がある。…今回、これを書くので、はじめて田中美津の文章を読んだ。そして、おどろいたのだ。それは私が見てきた田中美津という女の、手ざわり、体臭、体温、声、息、そのものだった。かたるコトバと書くコトバはちがってあたりまえだが、美津さんの文章はまるで美津さんがそこにいて、人の悪口を言いながらおすしでもつまんでいるかのような言文一致体なのだった。彼女はかたるときにも書くときにも、二重の方言を使う。先ず彼女の生まれそだった地域の      方言、それから、社会の中の女としての方言。(同、p361

 

…(でも、)美津さんは、そういうコトバ(日常やものを書くときに感じるいごこちのわるい論理コトバ)を、じぶんのコトバの中から徹底的に排除している。だから、彼女の書きコトバには、息や体温や体臭にちかいリズムや湿気が感じられる。コトバというのはほんとうに獰猛なイキモノで、ちょっとゆだんすると、すぐ、いごこちのわるいコトバにとりつかれてしまう。いや、そういうコトバたちにとりつかれてモノを書いてみると、外国語を使っているときのような新鮮な違和感、快感を感じるときもある。でもそれだけでは、どーも不安だ。表現しても表現しても、どこかに、表現したりてないんじゃないか、まちがってつたわっているんじゃないかという不安がのこる。(同、p362

 

 そして、もう一人、「解題」を担当した斉藤美奈子は、「田中美津の言葉」という部分で以下のように記している。

 

百人いれば百通りの考え方がある、それがリブの実態だったわけですが、田中美津はそんな中でも傑出した存在でした。田中美津自身はそういう呼び方を嫌うでしょうが、カリスマ的存在であった、といってもいいでしょう。それは彼女の行動力と同時に、「田中美津ならではの言葉」を彼女がもっていたからだろうと思われます。…どこを読んでも胸にズシリとくる本書ではありますが、とりわけ当時の読者の心を打ち、私たちにとっても印象的なのは、第一章の最後に出てくる「わかってもらおうと思うは乞食の心」の項です。わかってもらおうは乞食の心! ここには、逆風の中でたとえ孤立しても自分は負けない! という決意というか気迫のようなものがにじんでいます。(同、p371

 

彼女が引いた美津の文章を以下に紹介する。

 

東大闘争のさなか、「連帯を求めて孤立を恐れず」という、カッコイイことばが登場したが、これをあたし流に云い直せば「わかってもらおうと思うは乞食の心」ということだ。相反する本音をふたつながら抱えてその中でとり乱していくしか生きざまもへったくれもないあたしたち女であれば、たとえ女同士であれ、女同士!の語感の安らぎを最初からアテにしてはならないし、そしてできないのだ。(同、p82

 

それでは本書の中から、美津自身が語る言葉に関する記述を拾ってみたので紹介すると、

 

本音で語るということは、ひとつのものごとを取り出すのに、ひき出し全部をひっくり返してみるに似ていて、せっかく手際よく片づけたものを今さらぶちまける訳にはいかず、本音で語ろうとしたら、男はム……となるしかないだろう。もっともこっちの方は、論理的にわかりやすく、と言われると、ム……になるのだけれど。(同、p9

 

たてまえと生身が共に誤りを正していき、それによってたてまえと生身の亀裂が埋められていくことに、理論を持つことの意味があるのだ。そして、そのためにこそ女であることの痛みに敏感に反応する生身を持つことに重要さがあるのだ。(同、p275

 

彼女(あるフェミニスト)の言う、わかりやすいことばは、支配するためのことばに他ならない。己の痛みから発することがなければ、ことばは、単なることばの問題であり、いくらでもわかりやすくすることができるのだ。…いま痛い人間のことばは、あんたにはわからない。…それは「痛み」が「痛み」を感知することば(同、p192

 

  では、これらのことばを言語学的に解釈してみたらどうなるだろう。美津は理論語が嫌いであったから、そのようなものは残さなかったが、決して理論が不用だとは思っていなかったようだ。ただ、何のために理論を持つ必要があるのか、を問い正したかったのではないだろうか? また、本音で語るには、いったん整頓したはずの複数の記憶を呼び出して、現在の情況下で記憶連鎖の引き込み合いの中から新しい<意味づけ>を生成していかなければならない。その作業を指して「ひき出し全部をひっくり返してみるに似ていて」と表現しているように思える。そして、生身から発せられる「痛み」を伴った言葉は、ソシュール理論にあるように、「字義的にコード化され、それを交換することで誰でも解読できる」というような「単なることば=いくらでもわかりやすくできることば」(「伝達の記号学」としてのことばに近い)などでは決してないのだと言っているように受け取れる。さらに、「痛み」が「痛み」を感知することば という表現が興味深い。「痛み」を感じるが、あなたの「痛み」を感知する? いや、そうではない。「痛み」それ自身が、自分とは異なる「痛み」を感知するのだ。これは明らかに文法違反である。なぜなら、形容詞が動詞を操作するなど、そのような用法は通常ラングの体系には存在しないからである。であるにもかかわらず、なんと的を得た、理解しやすい言い回しだろうか。だとすると、リブたちが好んで使用していたと思われる「身体から出た言語」は、言語学的には「意味作用の記号学」に属し、コード化されないが何らかのかたちで相互理解されていくと思われる言語ということになる。この場合、背後にコードの存在が無いので、同じ「痛い」という「コトバ」を使用・交換していても、「痛い」に対する互いの<意味づけ>は別々のものであるという解釈になる。そしてそれが証拠に、美津は「わかってもらおうと思うは乞食の心」と、コミュニケーション理論における言語的限界をはっきりと宣言しているのであった。

 

5−2.すべてのフェミニストが悩んでいるであろうロゴス支配のループ

 最後に、私がフェミニズムを勉強するようになって、最も使用に困難を感じた「男性」・「女性」という「コトバ」について、検討してみたいと思う。

 

「男性」・「女性」という「コトバ」は、長らく具象名詞として使用されてきた。つまりセックス=男女の身体をさす用語であった。ところが、1986年にアメリカのジョーン・W・スコットが、「ジェンダー」という概念[6]をつくったところから、抽象名詞化してしまい、最近では、何を指して(またはどのレベルで)「男」とか「女」とかいう「コトバ」を使用しているのか、容易には掴めなくなってしまった。例えば、「男性性」は「有史以来男性のものだと思われてきた資質」を意味するもので、必ずしも男性だけが持っている性質ではないにもかかわらず、そのように聞こえてしまうし、「父性」も父親だけのものなのか、母親の中にもあるものなのか(「父性」的なものもふくめて母親の場合「母性」といっているとする助産婦の友人の見解)等、社会として認識が統一しているととても思えない。このような、「コトバ」が指し示す意味空間が錯綜している「コトバ」を、いろいろな人がいろいろな場面で使用することに、困惑を覚えるし、私自身も「使用」と「理解」の両局面で混乱することがある。何故そのように不便かといえば、「男性性」は男性とは関係ないのだが、そう言われて回っていたからそのような言葉でしかその概念を名指せないのだ。だからこの概念を説明しようとすると、その「コトバ」が再生産され、「コトバ」(男を意味する)と「内容」(男を意味しない)のズレを改めることができない。これは、ロゴス支配の1つであり、フェミニズムが克服できていない重要課題だと私には思われるのだ。したがってこの章では、「女的なるもの」=「女性原理」にこだわる青木やよひが、この問題をどう克服しようとしたのかを検証した後、私なりの戦略を提示てみたいと思う。8`

 

5−2−1.青木やよひ(エコロジカル・フェミニスト)の脱出作戦の検証

ウーマン・リブ運動の後、日本に「女性学」が興り、海外のフェミニズム理論が輸入され始めた。その頃、湧きあがったのが青木やよひvs上野千鶴子の「エコ・フェミ論争」と呼ばれるものであった。この論争は、青木が、権力や経済の法則である「男性原理」の肥大化に対して、「内なる自然」としての「女性原理」の復権と身体のエコロジーの回復を訴えたのに対し、上野が、「男が救えなかった世界を、なぜ女が救えるというのか」また「なぜ女が自然でなければならないのか」と論じたことで展開され、「青木の「女性原理」という概念は、日本では実態概念としての「母性原理」となり、「母性イデオロギー」へ回収される危険性がある」(日本女性学研究会、19858586)等、多くの批判を浴びることとなった。論争と並行して青木は『フェミニズムとエコロジー』を著し、「女性原理とエコロジー」について彼女の見解を詳しく述べている。それによると、まず「女の論理」や「女性原理」という言葉について

 

あえてその内容をとり出すならば、それは政治・経済などの社会の表層部分だけを問題にするハードな「公の論理」に対して、暮らしや生きがいなどのソフトな「私の論理」を主張し、みずから「産む性」をひき受けながら人間の生き方をトータルにとらえ直そうとする視点だったとでも言えようか。つまり、性差別を告発するだけでなく、男性が作りあげた社会通念とは異なる発想で事物を受け止め解釈する思考の道筋自体を、女の側が示したのである。そしてそのことがとりも直さず、能率一辺倒の産業主義的価値観や開発の名による地球大の環境破壊や、さらには増大する核の脅威などに対するアンチ・テーゼとなりえたのであった。(青木やよひ著『フェミニズムとエコロジー』p191

 

と解説し、身体の自己管理をめざして中ピ連と早くに訣別した新宿リブ・センターやエコロジカル・グループ等を正統派女性解放運動として評価し、「身体を自我のよりどころとするだけでなく、女性の身体性そのものを変革の思想に転換しようというこの視点は、今後のフェミニズム運動にとっても、またエコロジー運動にとっても、非常に重要なことだと私は考えている」(同、p192)と述べている。

 

さて、では青木が考える「女性原理」の具体的な内容はいかなるものであったのか?

その前に、「女性原理」の彼女の定義について、語っているところから紹介させてもらうと、

 

女性原理とはどのように定義づけられるのであろうか。「まず第一に、「女らしさ」のような通俗的な女性イメージとははっきり区別されなければならない。また、人間のそれぞれの性自認を基盤にした存在論的実感としての「女性性」とも異なっている。女性原理とは、1つの文化概念だからである。手短に要約すれば、女性原理を成立させるものは、「天なる父と母なる大地」という宇宙観なのである。この宇宙的雌雄性を私は仮にジェンダーと名づけている。…生命の創造とその連鎖を可能にするものが、父性と母性という性の二項的存在として認識されるのは当然であろう。…女性原理とは、ジェンダーにおけるこの雌雄が現実社会で持つ文化概念のことである。当然そこには対となる男性原理がなければならない。両者の均衡があってはじめて、宇宙(=自然)の均衡が保たれるからである。」(同、p194195)

 

 と述べ、理論物理学者であり同時に思想家でもあるフリッチョフ・カプラの論文「陰・陽バランス」からその概念の多くを引用している。それは、古代中国の道教の陰陽イメージを用いて、両者の特徴と関係を明快に述べているものであり、「陰(=女性的特徴)と陽(=男性的特徴)とは対立する二つの異なったカテゴリーに属するものではなく、一つの全体の中の両極であって、自然の秩序は両者の動的なバランスの上になり立つ」のだという。ここで、青木が引用したカプラの陰陽イメージを紹介すると、

 

陰――(女性的)収縮的、保守的、反応的、協力的、直感的、神秘的、統合的、非直線的、全体的

陽――(男性的)膨張的、先鋭的、積極的、競合的、合理的、科学的、分析的、直線的、断片的

 

 となっている。そして青木は「重要なことは、陰の行動は環境を意識するものであり、陽の行動は自己を意識するものであって、西欧型近代社会が一貫して陽的価値のみを追い求めてきたことが、現代の危機的状況を招来したという指摘である。」(同、p196)と付け加えている。

 

だが、なぜ、「陰」が女性的で「陽」が男性的と名指さなければならないのだろうか?その点について、青木はカプラの記述を引きながらこのように弁明している。

 

もちろんカプラは、中国でも家父長制時代にその意味がゆがめられたことに言及しており、また陰陽を現実の男女の性別に当てはめているわけでも、また善悪に分類しているわけでもない。人間は男であれ女であれ、みなひとしく陰と陽の特徴を内在させており、その相互作用から生ずる動的な現象こそが一人ひとりの個性にほかならないことを強調している。問題はあくまでもそのバランス、つまり関係性にあるとしている。(同、p196

 

しかし、これでは上記の疑問に対する回答として成功しているとは言い難い。一方で、「陰は女性的特徴のことである」と述べておきながら、でも、「陰は女性だけでなく、みなひとしく陰と陽の特徴を内在させており…」というのでは、陰=女性的と名指す根拠の説明に全然なり得ていないばかりか、相変わらず、陰=月=女 というイリガライが指摘したロゴス支配のコードにはまったままで、大変不満の残るものである[7]。では、これ以上、この問題はどうにもならないのであろうか?

 

 実際のところ、これら根拠のない支配に対して、女性陣は黙っていなかった。例えば、クリステヴァとともに、−女性と聖なるもの− についての往復書簡を交わしていた、思想家(哲学専攻)で外交官のカトリーヌ・クレマンは、クリステヴァとのその共著『<母>の根源を求めて −女性と聖なるもの−』の中で、「女性原理」についてこのように語っている。

 

   (イギリス人ウィニコットによれば)男性は彼の中に、純粋な女性原理を持っており、女性は彼女の中に、純粋な男性原理を持っている。人間はそれぞれ反対の性の原理を埋め込まれている。それは立証不可能だが、非常に多くの神話がこの法則に一致しており、扱うべき問題である、というのです。…ウィニコットによって定義された遊びの余白において、純粋な女性性は子供にとって存在そのものです。それは離乳期までの一番の基本です。その後、子供が融合の場を離れるとき、慰みの対象を指でつかみ始めるのと同時に、真の純粋な男性原理が最初に現れるのです。「行動する(faire)」ということです。女性原理が純粋な状態における存在である一方、男性原理は行動の管理、自分に関する承諾を確実に行うのです。ウィニコットが、彼の考えを次のように要約しているのはうなずけます。「存在することの後で、行動することと存在することがなされる。ともかく最初にあるのは存在することだ」と。存在することとは女性性です。行動することと存在すること、これが男性原理なのです。…つまり、(幼児の成長の)過渡的領域をよみがえらせ、それによって聖なるものに近づく特権を女性だけに残しておく理由は何もないのです。厳正であろうとするなら、男性も女性原理という、一つの存在に戻ることによって聖なるものに近づくことができると考えるべきでしょう。それはハイデッガーによる哲学的解決でしょうか。おそらく。…つまり、社会は純粋男性原理に従って対応してゆこうとするのに対し、聖なるものは純粋女性原理に従って抵抗しているのです。抵抗するという語は、聖なるものにふさわしいことばではないでしょうか。」(『<母>の根源を求めて−女性と聖なるもの−』p9193

 

 女性にとっては大変嬉しい記述であるが、しかし、このように女性的なものを持ち上げてしまうと、今度は男性が女性よりも下位に位置付けられるようなニュアンスを与えてしまわないだろうか? 生物学的には、人間ははじめ女性で、ある時期から男性になるものが分化して両性に分かれるというのが定説のようだから、そうなると、身体も精神も男は女の一部分ということになって、逆差別が発生しなくもない。この説明を聞いた男性は危機感を抱くだろう。そうではなくて、なんとか中立的な性の描写のあり方はないのだろうか?

 

5−2−2.私の戦略(文字から記号へ)

 そこで、大変僭越ながら、ここで私はある戦略を提案してみたいと思う。これは、私の頭の中だけでこの問題に関して試行錯誤をしてきたものであるから、全く恣意的なもの言いであって、いろいろと問題があるかもしれない。だが、我々も少し着眼点を変えることで、新たな思考の段階が切り拓けたらという切実な願いもあって、今回、思い切って稚拙な構想を紹介してみることにする。

 

 まず、「男性性」や「女性原理」という言葉の指し示す概念を語るとき、「男性」・「女性」という言葉を使用したくないという思いがあった。なぜなら、それは両性の中にあるものだから、どちらかの性を使って説明するのはおかしいからだ。では、どうしたらいいか?

 次に、どのような言葉が相応しいかと考える時、注意したのは、差別に繋がる可能性のある言葉はダメだということだ。つまり、序列であるとか、大小、強弱等を連想させる言葉、それから既に差別に汚染されている言葉は置き換えても意味がない。例えば、「A的資質とB的資質」とか「性の第1概念と第2概念」、「赤い原理と青い原理」などとやってしまうと、序列を連想してしまって失敗する。では、どうすればいいか?

 最後に、たとえそのような呪縛のない言葉が見つかったとしても、それが何のことだかさっぱり連想できない、というのでは、どうしようもない。例えば、「りんご原理となし原理」は序列をストレートに感じさせないが、意味不明である。では、どうすればいいか?

 

 そんなことをあれこれ考えていて、最終的に思い至ったのが「文字でなく、記号を使ってはどうか」という発想の転換であった。具体的には「□的思考」「〇的思考」という記述の仕方である。「□」は男性の骨格を連想させ、きちんと整理された理論や科学を連想させ、男性原理を思い起こさせる。一方で、「〇」は女性の骨格を連想させ、理論や科学よりは、循環や自然との親和的イメージを抱きやすく、女性原理に近いものが表現できる。それでいて、どちらも「男性」・「女性」という言葉を使っていないから、言語的に両性に対して自由な立場でいられる。この発想を、先ほどのカプラの分類に当てはめてみると、

 

陰――(〇的思考)収縮的、保守的、反応的、協力的、直感的、神秘的、統合的、非直線的、全体的

陽――(□的思考)膨張的、先鋭的、積極的、競合的、合理的、科学的、分析的、直線的、断片的

 

 となって、なんとなく意味が通じるような気がしないだろうか。勿論、日本語では、どちらかというと、「四角四面に考えすぎだ」とか「丸く治める」のように「□」より「〇」の方が若干勝っているように感じられる表現も無くはないが、「そこだけを四角く切り取ってみると…」などのように、「□」が物事をより良く把握する時に有効な論理だということは、誰も異論はないだろう。それよりも、『「□」と「〇」はもともと違う原理作用を持ち、使い方と組み合わせによって、いろいろなことに柔軟に対応できるのだ』という両性具有的な考え方を、視覚的にも意味的にも無理なく採用することができるのではないかと、個人的には考えているのだが。少しは成功してるだろうか…。

 

 この記号の欠点は、相変わらず二項対立的に原理を分断していることである。この前提に不満があって、ポストモダンな考え方に移行してきているのであるから、二項対立を所与のものとして捉えることは近代の罠にはまってしまっているように見えるだろう。ただ、近代がそうして当てはめてきたものは何であったか?を説明するには、未だその記号(「女性原理」や「男性原理」という概念を詰め込むための器)は簡単に捨て去れず、ポストモダン社会になっても暫らくは何らかの言い回しで引きずっていかざるを得ないだろう。その時に、誤解を招くような多義的な「男性」「女性」というコトバの使い方を避けたいという意味であった。

 

 ということで、無謀にも、新しい試みを曝露してしまったわけだが、この場を借りて、私の思考の改体(解体でない)にお付き合い戴いたことを感謝すると共に、如何にしたら、私たちが既存のロゴス支配(または社会常識という支配)から抜け出して、真に自由な個人となれるのかについて、これからも私自身考えていきたいし、多くの方々にも考えていただけたら、この上なき幸せであるとともに、この試みも全く無駄ではなかったかと思えるのである。

 

6.結論 〜「女の言語」とは何か?〜

 ポストモダン・フェミニズムの説明から始まって、フランスのロゴス支配の現実とそれと闘うフェミニストたち。そして、今までコード外として取り扱われてきた女の「詩的言語」を言語学の一義的研究課題とみなし、解明しようとする「言語学としての記号論」。翻って、日本のフェミニストたちがインスピレーションを使って感得し合う、言語コードに縛られない自由闊達な言語使用の実践テクニックとそれを支える理論の存在。そしてロゴス支配に対抗するための文字に囚われない私の記号戦略と、ここまでの「女の言語」探究の旅はある程度納得&評価していただけたであろうか? 

 

よく、「我々は言語の外に出られない」とか「象徴社会の否定は単なる自然回帰願望であって、そのようなものは幻想(かりそめのユートピア)に過ぎない」などと指摘されることがある。その時、「そうか、それではもう仕方ないのかな?」と諦めて、それ以上、真理の追究を断念してしまったりしていないだろうか。今回、第5章で検証した通り、女たちは男たちの支配しているらしい象徴社会にあって、実は言語コードに縛られない自由闊達な言語使用を実践していたのであって、それこそが象徴社会が気付かなかったもうひとつの社会の存在=「女たちの社会」そのものであった[8]と言えないだろうか。ここに示したことは、「女は言語の中にあっても言語の外に生きていた」ことの証なのである。そして、新しい記号論が射程内に収めた女の得意とすることば=「詩的言語」は、これから益々注目され、そこからまた新たな理論や冒険が試みられることだろう。私はそれに大きな期待を寄せたいと思う。

 

一方、ソシュールの理論が発展的解消を遂げつつあることで、我々は万物に共通する重要な教訓を得た。それは、ラングの体系に裏打ちされた100個のテキストと、そこからはみ出す2個の「詩的言語」があった場合、それらの関係をどう解釈するかという問題である。ソシュールは、多分、解読しやすい100個を基準に考えて、そこからはみ出した2個は、その理論に載らない「逸脱」として処理しようとするかもしれない。その場合、「全体=正しき概念」が100個になって、2個は「排除された部分=異常」とされてしまう。しかし、本当にそうだろうか? よく考えれば、「全体=あらゆる可能性」が102個であって、そのうちの100個が「部分=たまたま現段階で統計的に主要な概念」ではないか。こう考えれば、残りの2個は(変化の)可能性のバリエーションであって、「逸脱」などではなく、れっきとした「全体の中の正常な部分」なのである。私が描いたバルトの概念図を見ればわかる通り、我々は、全体と部分を長い間取り違えていたのだ。これはゲイ/レズビアンや不登校児、精神病患者や超感覚を有する特殊な人々にも応用できる論理である。彼らは、主に数が少ないという理由で、しかもそれは、ある一時期のある文化的構造を真横に切り取っただけの、恣意的な状態での数値であるにもかかわらず、「異常」として社会から隔離されたり差別されたりしてきたのだ。しかし、よく考えれば、彼らは全体の可能性の一部として、条件的には他のマジョリティの一人ひとりとまったく同等な権利を持つのであり、その存在が社会の外にあるわけではない。ただ、現在の理論や文化の枠組みでは解読が困難であったことと、その存在が社会が無視できるほど少数だったという事実によって、そのように閉じ込められるのである。果たして、近代科学は大丈夫だろうか? 近代資本制は反省することはないか? そのように関心の間口を広げてみることで、あらたな問題提起が沸々と湧き上がってくるのを覚えるのである。

 

したがって、それらを連想させてくれる「詩的言語」としての「女の言語」こそ、「可知的なるもの=知性」と「可感的なるもの=感性」の二項対立を止揚する、「自律」と「教養」と「芸術」が三位一体となったポストモダン社会に相応しい言語と言えるのかもしれないのである。

 

7.今後の課題 〜「女の身体」の解析と「二項対立」の解消へ向けて〜

 「男」と「女」の違いを語るときに避けて通れないのが、「からだ」の問題とそれを語る「ことば」の問題であろう。だからこそ、その2つを強力に押えるべく、「ファロスロゴス中心主義」などというものができ上がったのではないだろうか。今回、「女の言語」について、ある程度解読してみたが、やはりそれだけでは男性優位社会を改体するには程遠い。残ったもう1つの課題である「女の身体」を解読して、はじめて「女」の実質(のようなものがあれば)が哲学的に明らかになるのだろうと考えている。

 

 「女の身体」については、少しだけ調べたので、その範囲内で私の見解を述べるなら、「精神としての(女の)身体は経験によって<実存>する[9]。実存した(精神としての)女の身体は、もはや1つではありえず、したがって、「女の身体という本質」が存在する代わりに、パフォーマティブに網の目を移動する、「時々の女の身体」があるだけだ。」だから、女は同じような身体経験によって理解し合うこともできるし、全く異なる身体経験ゆえに理解し合えないことも多い。いずれにしても、女は、適切な場面で時々の連帯を組むことで、励まし合い、癒し合い、時には理不尽な権力と闘いながら、己の身体を通して、これからも多くの事を学んでいくことだろう。

 

 また、ポストモダン・フェミニズムの3つ目の課題、近代が残した「二項対立」を如何に解消していくか、というこちらも難題であるが、これについては、最近、興味深い話を聞いたので、ここに簡潔に紹介する。

 

Q.<私>と<公>とはどのように分けられるのか?

 200374日から6日まで、日仏女性資料センター(CDFJF20周年記念シンポジウムが恵比寿の日仏会館で開かれ、「ジェンダーが拓く<私>空間と<公>空間 −フランス、そして日本」というタイトルで、講演や総合討論が行われた。講演に招かれて来日した、イレ−ヌ・テリーさん(フランスの法社会学の第一人者、専門は家族問題、社会科学高等研究所マルセイユ校教授、家族社会学)は最終日の総合討論で、上記の質問に対し、以下のような見解を述べた。

 

私たちは<私>と<公>という分け方からそろそろ自由にならなければなりません。…例えば、<私的な出来事>であっても、こうした場所で語れば、それは<公的な意味>を持ちます。だから、「<私的>なことのなかに<公>があり、<公的>なことのなかに<私>がある」のです。わたしたちの行動はすべて「<私>と<公>の両義性を持つ」のです。(<私>と<公>についての最終日の総合討論にて−日仏会館:200376日)

 

 なるほど、その通りである。すると、その他の二項対立はどうなるのだろうか?

 

 1.<私>の中に <公>があり、<公>の中に <私>がある

 2.<女>    <男>    <男>    <女>

 3.<他者>   <自己>   <自己>   <他者>

 4.<精神>   <身体>   <身体>   <精神>

 5.<理性>   <感性>   <感性>   <理性>

 6.<自然>   <科学>   <科学>   <自然>

 7.<言語>   <非言語>  <非言語>  <言語>

 8.<有償労働> <無償労働> <無償労働> <有償労働>

 9.<差異>   <平等>   <平等>   <差異> …

 

 なんと、多くのことがこの概念で語れるようになることか! こうして提示された1つ1つを学問的に論証していけば、ポストモダン・フェミニズムが目指すあらゆる「二項対立」の解消も夢ではない。正に、「眼からウロコ」である(私にとって)。将来これらの対立が理論的に解消された暁には、「ファロスロゴス中心主義」も男女の「エディプス的主体」も粉砕されて、今までとは全く違った象徴社会が実現されていることだろう[10]。その時こそ、我々は「真に自由で自律的な主体」を男女共にとり戻すことができるのではなかろうかと野心的に夢想しつつ、筆を折らせていただくことにしたいと思う。

 

8.おわりに

「共通のコードがないにもかかわらず、なぜ人はコミュニケーションできるのか? 互いにある程度意味が通じると感じることが出来るのはなぜなのか?」この重大な言語学的関心は、「意味作用の記号学」者を標榜する多くの研究者たちによって、現在進行形で解読が進められていることと思う。その1つが、前述の<意味づけ論>であることは、SFC生として大変嬉しく、心強いことである。これらの解読が進むにつれて、実に多くのこと(社会常識や社会問題の構築過程等)がわかってくるに違いないし、このような考え方は言語学に止まらず、多くの学問に波及していくように感じられる。私個人で言えば、今までの経済学で読み解けなかった、女性の無償労働に関する難題をコミュニケーション論から読み解く[11]ことで突破口を見出すなど、この課題に取り組んだことで実に多くの示唆を得た。

 レポート提出期限までに、まとめられなかった箇所については、引き続き機会を設けて研究していきたいと考えている。このレポートにアクセスいただいた方々には、消化不良な思いをさせてしまったかも知れず、大変申し訳なく思っている。内容にも多くの不備や至らない点があろうことが予測されるが、気付いた点やご指摘があれば、遠慮なく筆者までご連絡賜りたく、よろしくお願いを申し上げたい。

 

最後に、お忙しい中、長々と、拙文にお付き合い下さったことに、改めて感謝いたします。それでは、これから私も新しい言語の可能性に向けて、精進していこうかな。

 

             

2003/07/30 At2000  夫の書類に紛れ込んで 石井幸代

 

参考文献リスト

     リュス・イリガライ著、浜名優美訳『差異の文化のために』法政大学出版局、19901993

     ジュリア・クリステヴァ、カトリーヌ・クレマン著、永田共子訳『<母>の根源を求めて−女性と聖なるもの−』19982001

     江原由美子編『フェミニズム論争70年代から90年代へ』勁草書房、1990 

  → 第四章 エコロジカル・フェミニズム論争は終わったか −エコロジー危機とフェミニズム− 桜井裕子著

    → 第六章 クリステヴァ理論の可能性 鈴木由美著

・ 上野千鶴子『構築主義とは何か』勁草書房2001

・ 金井淑子他『ジェンダーと知−ポストモダン・フェミニズムの要素』大村書店1995

・ 高橋允昭『デリダの思想圏』世界書院1989

     加藤茂『記号と意味』勁草書房2003

     川本茂雄他編『講座・記号論 1言語学から記号論へ』勁草書房、1982

     深谷昌弘、田中茂範共著『コトバの<意味づけ論>日常言語の生の営み』紀伊国屋書店、1996

     田中茂範、深谷昌弘共著『<意味づけ論>の展開 情況編成・コトバ・会話』紀伊国屋書店、1998

     小林登美枝、米田佐代子編『平塚らいてふ評論集』岩波文庫、1987

     西川祐子著『高群逸枝−森の家の巫女−』第三文明社 レグルス文庫1861990

     田中美津著『新装版:いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』パンドラ/現代書館、2001

     江原由美子、金井淑子編『フェミニズムの名著50』平凡社、2002

     青木やよひ著『増補新版:フェミニズムとエコロジ−』新評論、1986

     森 藤子著『みだれ髪 : 母・与謝野晶子の全生涯を追想して』ルック社 , 1967

     市川浩著『精神としての身体』講談社学術文庫、1992

     ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス−資本主義と分裂症』1986

     竹田青嗣・西 研編『はじめての哲学史』有斐閣アルマ1998



[1] ファロスとは男根(支配)のこと、ロゴスとは言語(支配)のことであり、それらを内面化することで形成される「支配する男」と「支配される女」という両方のエディプス的主体を問題にするということ。エディプス・コンプレックスの理論については、フロイトの精神分析学を参照されたい。

[2] 精神も身体もないから身体は重要でない、または考慮しなくても良い」というよりは、「精神と身体という区分は認識上存在するが、容易に分けられない」というべきであろうと私は考える。その辺りの「精神」と「身体」の関係については、7.今後の課題 〜「女の身体」の解析と「二項対立」の解消へ向けて〜 で私なりの見解を多少取り上げているので、参照していただきたい。尚、バトラーの身体に対する見解については、『問題なのは肉体だ』1993 等を参考にしていただきたいと思う。

[3] 「脱構築=デコンストリュクシオン」とはジャック・デリダが広めた概念である。脱構築の解説についてはいろいろあるようなのだが、いくつか載せておくので更に詳しく内容を知りたい人はそれに関する文献を読んでいただきたい。

・「脱構築」とは、構築の過程を遡及して自然視(したがって本質視)されたものを、脱自然化する実践のことである。その過程を通じて、私たちは「自然」と「本質」とは、それ以上起源をさかのぼって問うてはならない禁止の別名であることを知るのだ(上野千鶴子、『構築主義とは何か』はじめに)

・「脱構築」は、自らを制限することができないし、直ちに中性化に進むこともできない。二重のしぐさ、二重の科学、二重のエクリチュールによって、伝統的な対立の転覆及びシステムの全般的なずらしによる転覆を行わなければならない。(金井淑子他『ジェンダーと知−ポストモダン・フェミニズムの要素』によるデリダ引用p50

・「脱構築」(「ロゴス中心主義のデコンストリュクシオン」)とは、ハイデガーと同じく「破壊や解体でなくて…非構造化」を意味しますが、それが古典的でなかったのは、適用したのが古典的存在論の全体、西洋の哲学の歴史全体等であった点です(高橋允昭、『デリダの思想圏』p309311

・(テクストとその現実とは、結果と原因のような関係ではなく等価関係にあり、現実の痕跡がテクストであって、現実自体もそれに先立つなにかの痕跡であるから、究極的な「実在」や絶対的な「起源」もいわば幻の根源的な「痕跡」として説明される。)このようにテクストの彼方に現実の「痕跡」を系譜学的に遡り、「実在」を限りなく彼方へずらし、先送りしていくこと、この「脱位」deplacement、「差延」differenceが、「脱構築」の方法、デリダによる「プラトニズムの転倒」の具体的な解釈である。(加藤茂、『記号と意味』脱構築と散種:デリダ p124125

 

[4] 尤も、池上嘉彦によれば、今日のソシュール解釈は、「「恣意性」の原則に立って無限の記号現象を生成する可能性を自らにはらんで機能する「言語」こそ、コードを予想するものもしないものも含めて、あらゆる記号現象のモデルとなりうるものであるとソシュールは考えていたものと思われる。」とのことであるから、ソシュールが明らかにしようとした言語の構造(コード体系)の解読は別な意味で大きな成果だったといえるだろう。

 

[5] なぜ女がそのような媒体になりやすいのかは良くわからないが、後述のカトリーヌも「私の考えでは、瞬間的に聖なるものに行き着く才能は、実際マイノリティまたは、経済的に搾取される身分(アフリカのセネガル人女性など)のものだということなのです」(クリステヴァ、カトリーヌ著『<母>の根源を求めて −女性と聖なるもの−』p23)と述べ、「女性たちが読み書きを知っているところでは、そういった事実(トランスに陥る)はほとんど見うけられない」(同、p22)とも述べている。補足だが、カトリーヌとの往復書簡の相手であるクリステヴァは、無神論的(彼女は「思想」を拠り所とする)であって、聖なるものと信仰・宗教は分けて考える(同、p49)という立場である。

 

[6] ジェンダーとは「肉体的差異に意味を付与する知」−社会的文化的性差のこと

「ジェンダー」概念の導入は歴史理論における重要なターニング・ポイントになった。また、デリダの「脱構築」やフーコーの権力論などのポスト構造主義理論を大胆に歴史学に持ち込んだという点でも、きわめて先端的で論争喚起的な性格を持っていた。(江原由美子&金井淑子編『フェミニズムの名著50』「ジェンダーと歴史学」p367375

[7] 青木の母性主義(「産む性」としての母性の強調)批判の1つとして、青木が「女性原理は文化概念であり、生物学的な性別とは直結していないし、いわゆる「女らしさ」とは全く違う」と主張するにもかかわらず、現代社会において女性は常に男性に対して「女として」位置づけられているという根源的な性差別(江原)を考えると、「女性原理」と名づけることは、男性に対する女性の独自性や固有性の主張として読まれてしまう危険性がある、という最もな指摘である。(江原由美子編『フェミニズム論争』桜井裕子著「第四章 エコロジカル・フェミニズム論争は終わったか −エコロジー危機とフェミニズム−」p129

[8] 1つ付け加えておくと、女は言語を使用しないで何かを伝えてきたと言うことも出来る。与謝野晶子の末娘が母の自伝を記した『みだれ髪』によると、「母が教えてくれたものは言葉によるものではなかった。それは若い母親が、せっかちに何でも教えよう、つめこもうと思うのとはちがっていた。母がいわず語らずのうちに私に一ばん知ってほしいと思っていたのは、この世は無常であるということ、だったと思う。それ故にこそ、一とき一ときを大切にすること。母は自分が何十年かかけて悟ったことを、若い私にわからせようとした。私がはじめに、自分は(母の)秋の心に育まれたとかいたのはこのことである。」(森 藤子著『みだれ髪』p252)と述べている。女は、文字や言葉を使う代わりに、(生活を通して)別な方法で知識を伝承してきたのであって、恐らくその痕跡は、今も我々の無意識の奥に埋め込まれているのだろうと私は感じている。―― ただし、無意識の過度な解読が我々を幸福にするかどうかは難しいところである。何故ならそれは飽くなき資本社会において、我々に残された数少ない「聖域」なのであり、つまびらかにせずにそっと護り伝える方が得策かもしれないからだ。ここでも、女の仕事の解読はアンビバレントな要素を抱えてしまいかねない困難を孕んでいると言えるのである。

[9] 市川浩は『精神としての身体』の中で、精神と身体の関係を次のように述べている。「私は自分を自由の中心と感じ、全人格的に充実した統一体として自己をとらえる。しかしきわめて精神的なはたらきとされている認識にしても、それがわれわれにとっての真理をめざすかぎり、世界との身体的かかわりをはなれてはありえない。世界が物体的なものをふくんでいるかぎり、身体と必然的にむすびついていない純粋精神は、世界を認識することができないであろう。…神にとって時間はない。われわれがいわゆる物質的なもの、生命的なもの、心的なものを認識することができるとすれば、それはわれわれの存在自体が、これら三つの次元を統合しているからにほかならない。したがって誤解をおそれずにいうなら、身体が精神である。精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前に他ならない。それはデカルトが、二元論的な立場からではあるが、精神は身体の一部に(たとえば脳髄に)他の部分をさしおいてやどっているわけではなく、身体と全面的に合一し、あたかも一つの全体をなしているとのべたとき、いいあらわそうとした事態である。…このような具体的現実を指し示すことばとして、より適切なのは、日本語の「身(み)」ということばであろう。「わが身」「身につく」「身にしみる」「身を入れる」「身になってみる」「身につまされる」…というとき、「身」は、ある場合には「身体」、ある場合には「心」、ある場合には「自己」、またある場合には「立場」ということばで近似的におきかえることができる。しかし、そのいずれもが「身」ということばのもっている、ある充実した親密性を失っている。「身」は、単なる身体でもなければ、精神でもなく―― しかし時としてそれらに接近する――― 精神である身体、あるいは身体である精神としての<実存>を意味するのである。(市川浩『精神としての身体』p195196

[10] 男女の性差を二項対立のずらしとしてのグラデーションで語るのか、それとも性欲(セクシュアリティ?)における「N個の性」=一人の分裂病者が(人間に限らず)同時に複数の性を持つ(ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス−資本主義と分裂症』p348351)や「N個の身体」=一人の人間が同時に記憶としての複数の実存身体〔精神〕を持つ(石井仮説)という網の目的多様性の中のバリエーションとして語るのかは、大きな考え方の違いになると思うので、今後もそのことは問うていきたいと思っている。

[11] イリガライもコミュニケーション論に着目し、このように述べている。「父権制文化が自分の権力を確立すればするほど、コミュニケーションと交換の体系は個人の吟味から切断され、専門家やエキスパートの仕事となる。このことが現代社会の苦悩の原因の一つとなっている。わたしたちのうちの大半の者は、もはや何が真であるかわからない。人々は個人的評価の権利を放棄している。」(イリガライ著『差異の文化のために』p21)また、「人間関係は、女性の労働の主要な目的の一つであり、女性の労働には子育て、家事、教育、病人の世話、福祉、スチュワーデス、秘書などがある。不思議なことに、こういう仕事はきわめて人間味のあるものでありながら、いまだに無報酬か低賃金のままだ。人々の相互関係−今日、実際には女性は客観的な擁護者であるー は値段のないものとして、また無報酬のままであるべきものとして現れなければならないのだろうか。価値がないためなのか、あるいは価値が高すぎるためなのか。…人々のコミュニケーションの言葉の代価を、わたしたちは忘れつつあるのだろうか。わたしたちは製造された品物の奴隷となり、貨幣の交換のしもべとなり、それらの品物ともっぱら貨幣の交換のために、わたしたちはみずからの人間性を失いつつあるのか。…この問題は、わたしたちの性別のあるアイデンティティに関して、自然から文化への移行への配慮が欠如していること、女性の人格と女性の労働により強く結びついた相互主観的な関係に与えられる代価がほんのわずかしかないこと、という二つの問題と一致しているようである」(同、p127129