小熊研究会1最終レポート
失業とは何か?
環境情報学部3年 70142544
神垣さやか
失業という状態はなぜ生まれるのか。失業という状態はなぜ「だめ」だとされるのか。失業と近代工業社会の連関にふれながら見ていく。
目次:
0.失業の定義
1.近代社会の中での失業
2.日本の中での失業〜中流意識〜
3.働かない思想〜だめ連とアウトノミア運動〜
4.まとめ
5.感想
6.参考文献
0.失業の定義
まず始めに、失業とは何か統計や論文の中での一般的な定義を示しておく。
一般的な論文の中では、就業を希望しながらも職についていない人を指す。また、日本政府統計の中では以下のような定義になっている。
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1.近代社会の中での失業
職につかないことがなぜ失業として問題になるのだろうか。近代というシステムの中での失業の位置付けを見てみたい。
近代化、工業化の中で労働というのは、ウォーラスティンの言葉でいえば賃金労働、「現金を得る-第一義的には賃金労働-は生産的労働」(史的システムとしての資本主義22頁)と家庭内での無賃労働など「必要不可欠ではあるがたんに「自給(サブシステンス)」的な活動にすぎないために、他の誰かが収奪しうるような「余剰」を生み出しているとは言いがたい労働」に分けられることになった。資本主義が浸透する中で、家庭内分業が行われ、学業年齢にある子供と女性はあまり外に働きにいかないという常識が確立された。この労働の分化によってさらに、お金がなければ生活のできない工業化社会では貨幣を運んでくる労働が無賃労働よりも重要とされるようになった。同時に、国家という存在に統治される以上税金を納めなければならないため、世帯主で働いて税金を納めないものは他人の税金に依存しており、生きる権利がないかのような解釈をされるような傾向が出てきた。
このように、資本主義を背負った国家に所属するためには資本主義の枠組みに沿わなければならず、失業は貨幣のからむ剰余生産に関係しないものとして批判の対象として見られる。
2.日本の中での失業〜中流意識〜
日本においては、高度成長期−バブル期にはがんばって働けばお金が手に入り、お金があればどうにかなり、大企業で働くことが安定を手に入れる手段であり、それにはがんばって入手した学歴が要るという認識があった。がんばればなんとかなそれなりの生活は手に入る、と世の中の多くの人が思った時、総理府の国民生活調査において、1960年代後半には9割弱の人々が自分の生活は世間一般から見て上中下の中に入ると解答し、その後1980年代までその比率に変化はあまりない。
日本の中流とは、中産階級、つまり雇われ賃金労働者、プロレタリアがメインである。ヨーロッパにおけるような中世からの身分制などに基づいた分類ではない。上記中流意識をもった普通の日本国民というのは、がんばればなんとかなるという上昇思考を持ち、国家というシステムに組み込まれた一般市民ということになる。
3.働かない思想〜だめ連とアウトノミア運動
ここまで、失業という状態を生み出す社会のシステムについて見てきたが、これに対してこのシステムをはみ出す思想について検討したい
3.1 だめ連の思想
だめ連とは、東京に中心地を持つ自称「だめ」な人たちが集まる集団である。「"ハク"や"うだつ"といったプレッシャーから解放された「新ライフスタイル」を実践、提唱している異色のムーヴメント」(「だめ連宣言」扉紹介より)であり、1992年にだめな人たちが集まってできた。集まる人が何に対してだめなのかはひとりひとりさまざまである。社会運動やアート活動に関わることも多い。
“ハク”や”うだつ”というのは、どちらかというといくらかがんばって手に入れるものである。「だめ」な人たちはそれができないと悩み、自分が「だめ」だと考えてだめ連に所属するのである。
だめ連モノゴトを真剣に考えたら仕事は続けられないといい、果たして皆何のために働いているのか、「働きたくない」と思うことは悪いことなのだろうかと、資本主義の中での労働の位置付けそのものに疑問を持っている。しかし、この「万物の商品化」が進んでいる資本主義、市場主義の社会の中で、この疑問を持ち、実践こと自体が、他人の税金で生きていると見られるために、一般的には国家のシステムからはみ出ているとみられ、だめな人間として生きる権利は無いに等しいと見られることにつながる。
しかし、「だめ連」に居る人は「だめ」である理由、がんばれないという自身の状態を自覚しているがゆえに、この資本主義/国家のシステムから自ら出てみる実践をしたり、多少迎合してアルバイトなどをしつつ生きることになる。
3.2 アウトノミア運動の思想
1960年代後半にイタリアにて社会主義系の論者アントニオネグリらによって唱えられた思想。「労働の拒否」「プロレタリアートの自己価値創造」といった言葉に代表されるように、剰余価値を資本家に搾取されるだけであったプロレタリアートが、学校で勉強することや家事労働、アート活動など無賃労働であり個人の活動ではあるが社会全体に対しての剰余価値に結果としてなる部分において価値をつけようとした運動である。電波管理を国家が独占することに対しての反対や言論の自由という位置付けの自由ラジオ、公共空間を使ったグラフィティなどの運動が生まれた。当時イタリアでは資本主義を補完する思想として社会主義を取り入れた政権が成り立っており、資本からの自律・独立を促すアウトノミア運動も受け入れられやすい素地ができていた。しかし、1970年代後半に弾圧にあい、運動は沈静化した。
この運動の中での労働は、現状での賃金労働を超えた部分に対して賃金を要求したことに代表されるように、資本主義と国家管理のシステムの枠を越えた「公共」の概念と賃金を結びつけたところに特徴があるといえる。
4.まとめ
日本に400万人以上いるといわれるフリーターの存在は、まったりとシステムの枠をはみ出しながら半分システムに迎合しつつ生きていく手段だとも考えられる。この流れがこのまま大きくなれば、中流だと考える人もその流れの中に存在するようになるのではないだろうか。
現在、国家と資本主義は税の関係もあって切り離せないところまできており、そのシステムの枠を越えることである失業は批判と弾圧の対象になる。この限りで、失業は「問題」であることを抜け出せないだろう。
5.感想
千葉県でフリーターでも生きていけるように最低賃金の引き上げが提案されているという。賃金が上がれば今あるフリータであることの不安は少し解消されるかもしれない。しかし、やはりセーフティネットの整備がなされないままでは人々は定職をずっと求めるであろう。
で、結局、日本全体として金持ちと非金持ちの差は開いてきているかもしれないが、特に中流意識としては変化は無い感触を得ている。がんばれば、という努力しなさいという言葉は今でもどこでもあると思うし、お金をかければ勉強ができることはもうあたりまえのことになっているような無力感を感じている。
6.参考文献
現代思想1997年5月号「ストリートカルチャー」
現代思想1998年3月号「ユーロラディカリズム」
だめ連編著 「だめ連宣言!」(作品社 1999)
ウォーラスティン「史的システムとしての資本主義」(岩波書店 1997)
「中央公論」編集部編 「論争・中流崩壊」(中央公論新社 2001)
村上泰亮「新中間大衆の時代」(中央公論社 1984)
内田義彦「資本論の世界」(岩波書店 1966)