小熊研究会1 最終レポート
「歴史認識」
天皇なしのナショナリズムはどこに向かうか
総合政策学部2年
70208141
松成亮太
T.はじめに
私は最終レポートに発表で扱った小熊英二・上野陽子共著『〈癒し〉のナショナリズム』
(慶応義塾大学出版会)をもとに天皇抜きのナショナリズムについて考えてみたい。
U.背景
1990年代に入り、いわゆる「歴史認識」を巡る論争が日本のみならず世界で活発に
なった。まずそこに到るまでの日本の歩みと歴史的背景について述べる。
日本の「戦後」は1945年8月15日の敗戦(正確に言えばその前日に受諾したポツダ
ム宣言を昭和天皇が「終戦の詔勅」として国民へラジオ放送した日というべきか)に始ま
る。しかし、戦後の国民の意識には「敗戦」というのは「米国との敗戦」であるという
ことが刻印され、米国と同じ連合国の一国であった中国にも敗北したということは忘却
された(それゆえにアメリカとの戦争は意識されても中国との戦争は影が薄い)。
またそれゆえに戦前の日本が朝鮮や台湾を植民地にしていたこと、そしてそれらから
成る多民族帝国だったことも忘却されてしまった。
日本は連合国(実質は米国単独の)占領を経て1951年にサンフランシスコ講和条約(西
側諸国との単独講和)および日米安全保障条約を締結し、翌年独立を回復する。日本は早
くから米国の冷戦戦略に取り込まれ、米国との関係強化・日米談合体制のもと経済発展
を目指した(例えば朝鮮戦争やベトナム戦争による軍需景気)。そのためアジアとの関係回
復よりも日米関係が重要視された。また原爆投下やシベリヤ抑留という被害経験が優先し、
加害責任の存在がぼかされてしまった。
昭和天皇の戦争責任にも決着を付けることができずに、日米安保体制のもとで平和憲法
と象徴天皇制の同居があり、一国内的な五十五年体制を続けることになった。そこで出現
する改憲問題の主題は九条であり、一条ではなかったのである。
世界規模でみると第二次世界大戦後、世界は混乱・流動的状態を経て冷戦に突入する。
アジアでは戦後、国共内戦を経て中華人民共和国が成立したり、朝鮮半島では米ソによる
分割占領を経て、朝鮮戦争そして南北朝鮮の対立となった。日本では戦後の混乱から講和、
独立そして五十五年体制で政局が固まる。革命政党だった日本共産党も55年の第六回全国
協議会で武装闘争方針を放棄し、議会制民主主義の枠内での政権掌握を目指すことを決定。
そのために日本とアジア諸国との関係改善はうやむやなまま冷戦構造に入っていった。東
南アジア諸国で台頭した軍事独裁政権は冷戦下での国家戦略上、日本と背後にある米国か
らの援助協力のかわりに戦争被害者の声を抑圧した。日本政府は戦争被害者の声が抑圧さ
れえているのをいいことに二国間条約の締結(日華平和条約、日韓基本条約など)を通じて政
府間の国家賠償を達成する。しかし個人補償は行わなかった。
冷戦は89年のマルタ会談によって終結し、同年にはベルリンの壁崩壊、相次ぐ東欧民主
革命が起きる。91年にはソビエト連邦崩壊となる。冷戦後の新たな世界秩序としては唯一
の超大国になった米国主導のグローバリズムが進む。アジアでは冷戦下での圧力衰退を反
映して民主化(台湾や韓国など)、経済発展(NIES) を見せる。こうした状況のもとでかつて
抑圧されていた戦争被害者の声があがり始める。91年にはもと「従軍慰安婦」がカムアウ
トして戦後補償を要求、民間法廷が開始された。
日本では89年に昭和天皇が死去。彼の戦争責任に決着を付けることができないまま「平
成」に移行する。同年の冷戦終結、91年のソビエト連邦崩壊によって社会主義の失墜とい
う衝撃を受ける。また91年にはバブル景気が崩壊し、以後深刻な長期不況に突入する。93
年には戦後政治の枠組みを作っていた五十五年体制が崩壊(「保守/革新」の消滅)した。
日本においては価値観の動揺や社会不安の増大を背景に96年に「自由主義史観研究会」
が発足、97年には「新しい歴史教科書とつくる会」が結成される。当初、前者は大東亜戦
争肯定論でもなければ「自虐史観」でもない第三の歴史観を標榜したが、後に後者のよう
なナショナリスト的論調に変化した。
V.団体の特徴
「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)とその支部である「新しい歴史教科
書をつくる会神奈川県支部有志団体史の会」(以下「史の会」)の特徴について述べる。
V-@.「つくる会」について
まず「つくる会」の特徴として以下の二点がある。
@「健全な常識」「健全なナショナリズム」を掲げる
A彼らのナショナリズムには天皇の存在が希薄である
@について言うと当初、「つくる会」は従来の進歩派/保守派のいずれにも与さない第三の
集団であり、官僚やエリートのような思想ではない「健全な常識」に依拠するとしていた。
小林よしのり氏は官僚や市民のモラル低下を憂えていたし、藤岡信勝氏は左・右のいずれ
でもない「自由な史観」を論じていた。
しかし年長の保守派がこの集団に接近したり、彼らの言うところの進歩派から批判を受
けたことにより、彼ら自身が自らを「保守派」と位置づけることになった。そのため論調
は従来の保守派の焼き直し的なものになり「健全な常識」から「健全なナショナリズム」を唱えるようになっていった。
一方、世間では社会主義失墜に代表されるような価値観の動揺やグローバリゼーション
の進展による不況や社会の流動化、家庭や学校および会社というかつての共同体の形骸化
が国民の間に不安を感じさせたためにナショナリズム的な世論への傾斜に加えて、社会に
漂う閉塞感を打ち破る社会運動が起きているかのような印象を国民は持った。そのために
「つくる会」の動きはポピュリズム的注目を集めることになった。
保守的な論調になると彼らは保守的言動を強め「〜に反対」と唱え始める。しかし反対
する相手は今日、大きな変化のため動揺の危機にさらされている。それゆえに攻撃する敵
を捏造しなければならなくなり、自己内の不満が投影された支離滅裂な敵が誕生する。
→朝日新聞・北朝鮮・傲慢な官僚・モラルなき若者・・・
ここで注目すべきなのは敵にされるものを生み出した彼らの知的土壌は戦後的価値観に
よって生まれたものだということである。
ポピュリズム運動という側面を持つ以上、大衆からの支持を失えば運動は衰退するであ
ろうが社会不安と自己の期待幻想を吸収して出現するポピュリズム運動の危険性は依然と
して存在し続ける。
Aについて言うと彼らは天皇について言及しない。かつての保守派は天皇制擁護・自主憲
法制定と主張していたが、彼らは昭和天皇の戦争責任を一応認める。その反面、象徴天皇
制も肯定するが天皇・天皇制についてはあまり関心がない。
以上の二点が「つくる会」に見られる特徴である。
V-A.「史の会」について
次に「史の会」についてその特徴を以下述べる。これは『〈癒し〉のナショナリズム』に
おける上野陽子氏の実地調査をもとにしている。
調査対象 「新しい歴史教科書をつくる会神奈川県有志団体 史の会」(以下「史の会」)
調査期間 2001年4月〜2002年2月
調査方法 主に聞き取り、一部に録音あり
「史の会」は1998年に行われたシンポジウムの後で発起人の呼びかけに応じて自主的
に発足した団体であり、その4ヶ月後に「史の会」を名乗る。その活動は横浜市北部の
地区センターにて月一回の頻度で勉強会を行う。勉強会の形式は毎回、講師を招いて話を
聴講する。勉強会終了後、若手常連組が喫茶店や飲み会で談笑する。
「史の会」の特徴としては以下の二点が挙げられる。
@会には戦中世代とそうでない者という二種類の存在がある。
A後者は「普通」を自称する。
まず@について述べると、戦中世代の人たちは会においては少数派に相当する。実際に
戦争体験のある人々であり、今でいうところの保守派に当たる。保守思想が内面化されて
いるため、教育勅語や皇室に敬意を感じる。自らの体験によって内面化された思想から発
言しているために言葉には揺らぎがない。
一方、戦中派ではない人々は二十代、三十代、四十代がいて戦争体験のない世代に属す
る。皇室崇拝があるわけではなく、天皇や戦争については冷めた意見を持っている。戦中
派の保守思想は内面化されているのに対し、この人々のそれは内面化されておらず、天皇
なしのナショナリズムを語ろうとするが不安定な感がある。ただし、戦中派が実際の体験
があるために過去のノスタルジーと供に戦中の問題点(日本軍の不合理性など)も知ってい
るのに対し、彼らは過去の経験がないのでナショナリズムとしては観念的であると同時に
純粋である。
さらに細かく見ると、戦中派ではない人らには「市民運動推進派」と「サイレント保守
市民」という二つの部類がある。その特徴からAの人達の話へ移ろうと思う。
「市民運動推進派」は、自身の生活を主軸にして勉強会に参加している人である。自分
のしていることは過激な政治運動ではなく市民運動と位置付けている。それゆえに参加に
意義があると考えていて教科書が人々の支持を得られる運動を目指すべきだと考えている。
それに対して「サイレント保守市民」は前者に比べれば消極的な存在だが考え方や目指すものは前者と重なる。
この二つの集団はともに戦中派の人らとは積極的にコミュニケーションをとりたいとは
考えていない。また勉強会の後の喫茶店や飲み会での会話にしても彼らは議論を通じて新
らしい意見や価値観を生み出すこともしない。あくまで自分らが同じ価値観を共有してい
ると思わせてくれる言葉がある空間を楽しんでいる。
天皇なしでナショナリズムを語ろうとするためアイデンティティの核が不在になるから
自分を表象する言葉を彼らは持っていない。だから「普通」であることへの強迫観念があ
り、異常なものを発見しようとする。そこで発見されるのは自分の中の否定的なイメージ
の投影となるもの(「左翼」や「アサヒ」、しかし実際にそうしたものを彼らは見たことがな
い)である。
彼らの関心は今のところポピュリズムの段階(それゆえに話題を呼ぶものに引き寄せられ
る)にあるが、彼ら、つまり「普通」と自己規定している人が多数派になり、否定的イメー
ジを在日コリアンや外国人労働者、「危険思想家」に当てればその人たちへの迫害が起きる
危険性はあるのである。
W.天皇なしのナショナリズム
「つくる会」も「史の会」も天皇・天皇制について言及は特にしていない。「史の会」に
おける戦中派は少数派であるし、「つくる会」に共感を示したのは「史の会」での若い世代
のほうだろうから多数派は天皇・天皇制について関心がないと見ていいだろう。
「つくる会」がポピュリズム運動である以上、大衆の関心が向かなくなれば衰退は免れ
ない。しかし彼らが消えても、第二、第三のナショナリズムを掲げたポピュリズム団体が
出現して、大衆を動員する可能性は十分にある。
冷戦が終結し、日本には様々な変化が押し寄せている。現代は日本にとって社会秩序の
再編期間ともいえる時代である。そこで「つくる会」にみられるポピュリズム運動が人気
を博するという現象が現れた。彼らは天皇に関心の低い保守運動となるのだろうが、アジ
ア諸国から見れば新手の保守派が登場したのという意識を喚起させ、かれらからの非難を
引き起こすことになる。
アジア諸国が侵略戦争とその戦争責任について言及するならば必然的に天皇・天皇制は
議題に現れるだろう。そうなると「つくる会」また第二、第三のポピュリズム運動が天皇
に関心がなくても批判されることにより自らを天皇に接近させることはありえると思う。
ちょうど当初は「第三の集団」を標榜していた「つくる会」が進歩派からの批判によって
自身を「保守派」とみなしたように。
また「史の会」の若年層のように戦後生まれの人々はナショナリズムを語るときに自己
犠牲や公共心といった漠然としたものを掲げ、具体的な構想は持つことができない。実際
の経験を持たないのでかえってナショナリズムとしては純粋である。そこにかつては戦争
とのイメージが切り離せずにいた天皇が今や新時代を向かえ、「クリーン」な存在として
担ぎあげられることもありえるだろう。
日米安保体制に庇護されて、その中に象徴天皇制があり、平和憲法を持っているという
戦後体制は日本および世界の激しい変化により衝撃を受け、そのために反発を示す。保守
派の動きは日米安保体制という庇護の下で感じる「普通の国家」への幻想が生む表面的な
ナショナリズムへの自己陶酔であろう。
歴史家の網野善彦氏は「つくる会」は戦後歴史学の鬼子であると評したが、「日本」とい
う国号の存在はともかく、近代史だけに限ってみても戦後、憲法の議論は九条の平和条項
であって一条から八条までの天皇条項ではなかったように天皇制はタブーであった。
グローバル化の進展はアジア諸国との接触を活発にし、更なる価値観の動揺が予想され
る。そうなったときに天皇・天皇制が再びナショナリズムの核として浮上する危険は十分
にありえると思う。
参考文献
小熊英二・上野陽子 『〈癒し〉のナショナリズム』慶応義塾大学出版会
高橋哲哉 編 『〈歴史認識〉論争』作品社
高橋哲哉 『戦後責任論』講談社
加藤典洋 『敗戦後論』
姜尚中・森巣博 『ナショナリズムの克服』集英社新書
雁屋哲 作・シュガー佐藤 画 『マンガ 日本人と天皇』いそっぷ社
網野善彦 『日本とは何か』講談社
網野善彦対談集 『「日本」をめぐって』講談社