「在日」のアイデンティティと社会運動
総合政策学部3年
70108879
宮内 一
1.はじめに
本レポートでは「在日韓国・朝鮮人」[i](以下「在日」)が行ってきた社会運動を通して「在日」の法的地位、アイデンティティの変容を見ていくことを目的とする。「在日」の法的地位が高まれば、それだけ日本社会との関係も、「在日」個人が望む・望まずに関わらず深まることになる。その結果として「在日」のアイデンティティも変化していく(いった)と考えられる。
「在日」の人々のアイデンティティの難しさは、「在日」が「日本人」でも「韓国人/朝鮮人」でもないからである。日本にとって「在日」は外国籍をもった「外国人」であり、本国の韓国人/朝鮮人にとっては「半日本人」(パンチョッパリ)、あるいは「在外同胞」でしかない。日本社会で生活していく上で、「日本人」対「韓国人/朝鮮人」という二項対立に組み込まれるのはしょうがなく、「在日」は以上のように分類不能の存在なのである。
「在日」のアイデンティティを見ていく際には、日本社会への「分離」か「同化」かという軸を立てることにする。「在日」一世世代は民族意識の高さゆえに日本社会への「分離」を図り、祖国への帰属意識が強く、二世、三世へとなるに従って民族意識は薄れ、日本社会への「同化」が進むとよく言われている。しかしながら、実際のところは「在日」のアイデンティティは単に「分離」か「同化」かで括れるものではない。後に見るように在日一世の世代でさえ「分離」か「同化」かで揺れる人もいた。しかし、この対立軸を通すことによって一連の議論に筋道を立てることができ、また対立軸を通して今まで見えてこなかったものが暴かれることになる。
2.朝鮮人衆院議員 朴春琴
ここでは「分離」か「同化」かという対立軸を通してアイデンティティを見ていくことの危険性について考える。そのためには過去ただ一人の朝鮮人でありながら衆院議員となった朴春琴という人物を取り上げて、朴のアイデンティティの複雑さについて見ることにする。
朴春琴は1891年慶尚南道(韓国)生まれ。1907年頃渡日し1930年代に東京4区から衆議院議員に当選する。だが、戦後は「在日」、祖国においても「売国奴」「裏切り者」のレッテルを貼られ1973年に東京で没する。
朴の基本的な思想としてはその著者『我等の国家 新日本』[ii]から知ることができる。朝鮮人が求めるべきものは独立ではなく「日本人」としての平等だという。彼は以下のように主張する。
「朝鮮民族を真に愛するならば、即ち併合の詔書に宣ひし『一視同仁』の聖旨を奉体し、日本民族同様の幸福を授けやうとならば、朝鮮の2000万民を日本民族に仕立てる覚悟がなければならぬ」[iii]
朴は、「在日」にとって独立や自治の可能性はなく、たとえ困難でも「日本人」への同化による平等獲得しか道はないと断言する。多くの「在日」が独立や自治を求めていたのは彼ら自身の権利や平等獲得のためであったが、朴にとっても目的は同じで方法論が異なった。しかしどちらの方法が正しいのか、誰にもわからない。
朴は1932年衆議院の解散とともに朝鮮総督府など日本側の支援を受けて立候補、当選。議会で主張した内容は、朝鮮への参政権および兵役義務の付与、内地―朝鮮間の渡航制限の撤廃、満州移民の促進などであった。彼はマイノリティゆえに、大日本帝国の支配的価値観にあくまで忠実に従い、「内鮮融和」や「一視同仁」を掲げた。政府側もそれらを朴が掲げている以上、正面から否定はできなかったが、彼の言うことは事実上無視されつづけた。彼は「日本で生まれた朝鮮人より、寧ろ朝鮮で生まれた朴春琴は、皇室中心主義において一歩も譲らぬと云ふ信念を固く有つて居る」などと言って模範の「日本人」になるように努力するが、政府への信頼の喪失、バックグラウンドの組織の弱体化などに伴い、次第に「日本人」としての揺らぎが起こりはじめ、屈折した「朝鮮人」の心が現れる。
「天皇陛下万歳と言つて死んだと云ふ志願兵があるならば、是は絶対に成り得る」と述べた直後に「国の威力を以てこの『チャンコロ』この『ヨボ』と云ふやうなことを言ふ、そんなこと言つて誰が日本人なれと言つた所でなれるか」(第74回帝国議会衆議院決算委員会議録第14回(1939年3月20日)21頁。第75回帝国議会衆議院予算委員会議録第11回(1940年2月15日)285、286頁)
「日本の文化は何れから来て居るか・・・・・・内地も朝鮮に対して恩があると思ふ」
「朝鮮の歴史から言つても内地より古い」
朴はこのように述べている。このように最後には「日本人」と「朝鮮人」とで揺れ動いていた。
以上のように一世の朴は「同化」志向であったにもかかわらず、彼にとって辛い状況がありそれが契機となったわけではあるが、胸の奥にあった民族意識、つまり「分離」志向が次第に顔を出していったのである。彼のアイデンティティはどのように捉えればいいのであろうか。簡単に「分離」とも「同化」とも整理することはできないのである。
ここではいかに「同化」か「分離」かという対立軸で「在日」のアイデンティティを単純に整理することに伴う危険性があるかについて見てきた。このことを踏まえながら「在日」のアイデンティティと社会運動について言及していく。
3.「在日」の社会運動の変遷とアイデンティティ
ここでは「在日」がこれまでどのような社会運動を通して自身の権利獲得の努力を行ってきたか、そしてそれに伴い「在日」のアイデンティティはどのように変容していったかについて考えていきたい。
「在日」の社会運動は大きく分けて二つになるであろう。40年代から50年代にかけての「在日」一世による運動と、70年代からの日本社会運動とのパラレルに行われた「在日」二世、三世による運動である。
3−1.40〜50年代の社会運動
1945年8月、冷戦のあおりを受けて祖国は分断した。米軍占領下の朝鮮半島南部では反共を掲げる李承盤を大統領とする韓国政府が成立し、ソ連占領下の同北部では金日成を主席とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立した。こうした状況に伴い「在日」社会も必然的に韓国支持するグループと北朝鮮を支持するグループに分裂することになった。金日成を支持するグループは民族主義者と共産主義者が中心になって在日本朝鮮人連盟(朝連)を結成した。朝連は民族学校の運営や生協や信用組合などをつぎつぎに結成し、日本全国に勢力を拡大していったが、日本政府は朝連を弾圧し、1949年団体規制令を公布し解散させられる。50年代に入って在日本朝鮮人民主民族戦線(民戦)を結成した。このころより日本共産と連携をして社会運動をしていく。戦前から「在日」は日本共産党の幹部であったこともその要因である。55年になり、一国一党が叫ばれ、北朝鮮政府は「在日」の運動に対する日本共産党の指導を拒否した。これを受けて民戦は日本の「内政不干渉」を決定し、「祖国の平和統一のために献身し」、「在日同胞のあらゆる民族権益と自由を擁護する」在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)を発足した。
一方、李承盤を支持するグループは45年11月に朝鮮建国推進青年連盟(建青)を結成し、新朝鮮建国連盟を経て、48年9月に韓国政府成立と同時に「韓国の国是を順守し、在日同胞に権益擁護を期す」在日本韓国居留民団(民団)が誕生した。
55年頃より冷戦期のにらみ合いが始まると、総連は日本社会内社会として民族系学校、銀行、企業そして大学を経営していくことになる。元々は祖国に帰還することを念頭においた数々の施策であった。民団は互助組織として機能していった。
「在日」の人々は飢えや貧困の中で明日の生活を確保するためには民族よりも生きていくことを優先していた。そのためには総連や民団といった民族団体に入ることが有効であり、結果的には国家や組織を媒介に民族差別と闘い、民族性を守ることになった。
こうした運動を支えた「在日」一世はどのようなアイデンティティを形成したのであろうか。これは想像に難くないであろう。祖国から移民としてやってきた彼らは、「ディアスポラ」として日本で差別と迫害を受けることで、祖国への思いを強め、コリアンとしての「集合的アイデンティティ」を形成していった。個人というよりも、「在日」として集合しなければ生きていけなかったというのがあるだろう。こうして一世は日本社会からの「分離」志向としてのアイデンティティを確立していったのである。
3−2.70年代の社会運動
70年代の「在日」の社会運動は当時の日本の社会運動とうまく合致したことにより展開していったと考えられる。代表的なものを挙げると以下のものがある。
l 「日立差別就職裁判」(70〜74年)
l 「公共住宅の入居資格」「児童手当の支給」国籍条項撤廃(74〜75年大阪府/市・兵庫県尼崎市→79年には全国で)
l 「国公立大学外国人教授任用運動」(75年〜82年兵庫・滋賀・愛知県)
l 「児童扶養手当法」「特別児童扶養手当法」「児童手当法」(1982年)
l 「公務員国籍条項撤廃運動」(83〜84年大阪八尾市)
l 「指紋押捺制度廃止運動」(80〜89年(指紋押捺制度は89年3月の外国人登録法の改正で全面廃止))
特に印象的なものというのが「日立差別就職裁判」であろう。当時、「在日」二世で二十歳の朴鐘碩が難関といわれた日立製作所の採用試験に合格しながら、「在日」だということがわかると採用を取り消されたことに端を発した裁判である。朴は横浜駅前で学生運動をしていた慶應の学生に相談し、彼らが朴の支援運動を行うことになった(「朴くんを囲む会」)。その学生の一人は以下のように話したという。
私が最初に感じたことは二つあった。一つは「やらないかん」ということであり、それは反射的でさえあった。なぜなら、当時は「入管闘争」[iv]華やかりし頃で、在日朝鮮人へのさまざまな抑圧に対して闘うことは、「学生運動」に参与している者にとって自明のことであり、そもそも私たちのグループ自体が、「入管闘争」を第一義の課題に設定していたからであった。(田中宏『在日外国人 新版』(岩波新書、1995年)p.132より抜粋)
この話しからも分かるように、60年代末からの学生運動の協力を得て裁判を起こし、最終的には勝訴するに至る。ただ学生運動の変化にも留意する必要があるだろう。当時の社会運動は専ら「国家」や「資本主義」といったイデオロギー的側面に即した運動であるが、この日立差別就職裁判は「生活に関わるリアリティーがあるもの」を問題にした。学生の感じたことのもう一つは、日頃から運動をしていながら「在日」差別などの問題に対する「困惑」であり、「見当もつかない恐れであったのかも知れない」と吐露しているように、「生活に関わるリアリティー」への問題設定へ徐々にだが傾きつつあったのであろう。だが、背景となるのは70年代の社会運動とのパラレル性だけでなく、「在日」内部の変化も考慮に入れよう。朴自身が二十歳であったように、当時は一世から二世へと世代交代が進んでいる時期であった。そのことにより、一世では考えられなかった「日立に就職する」という日本社会での権利獲得を目指したという時代の変化があった。また総連や民団とは関係がない個人からの市民運動や日本人との共闘から始まった社会運動であった。
なお、一連の社会運動の背景には日本を取り巻く国際状況の変化ということを考慮する必要がある。日韓・日北朝鮮の二国間関係や、難民条約や人種差別撤廃条約といった国際条約発行の影響である。具体的には1979年の国際人権規約に伴う「住宅金公庫法」「公営住宅法」「住宅都市整備公団法」「地方住宅供給公社法」、1982年の難民条約伴う「児童扶養手当法」「特別児童扶養手当法」「児童手当法」の適用などである。また最近でも韓国の金大中元大統領や慮武鉉大統領による「呼びかけ」[v]という形での圧力はある。
80年代に入ると、運動の大きな課題は指紋押捺制度の廃止であった。80年代半ばで二世が30代、三世が10代半ば頃であろうか。その三世の中には運動に参加するような人もいて、アイデンティティ形成に影響を与えたと考えられるであろう。一世はこの運動に対して、「同化」への強い危機感が発せられた。かつて自分たちが日本の植民地下で創氏改名に応じ、朝鮮人であることをやめることで、日本人とおなじ権利を付与された経験があるからである。
では二世はどうのようなアイデンティティを獲得していったのであろうか。社会運動を通して日本社会へと溶け込んだ人も多く、その意味では「同化」志向であると想像できる。
だが一方で、総連という組織の中で事故のアイデンティティを北朝鮮の「在外公民」という政治的言説に位置付けることで、一世がつくりあげた「集合的アイデンティティ」の呪縛にとらわれることによる、「分離」志向を持つ人も中にはいたようである。
4.90年代の若者世代のアイデンティティ
ここでは福岡安則氏の『在日韓国・朝鮮人』(中公新書、1993年)を参考にして90年代の若者のアイデンティティ、つまり80年代に10代半ばであった三世のアイデンティティを扱う。
縦軸に「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」をとり、横軸には「日本社会における自己の生育地への愛着度」をとり、三世のアイデンティティを四つに分類する。「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」と「日本社会における自己の生育地への愛着度」が共に強いグループを「共生志向」とする。「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」は強く、「日本社会における自己の生育地への愛着度」が弱いグループを「祖国志向」とする。「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」と「日本社会における自己の生育地への愛着度」が共に弱いグループを「個人志向」とする。「朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度」が弱く「日本社会における自己の生育地への愛着度」が強いグループを「帰化志向」とする。各グループの説明は以下の通りである。
≪図1≫ 「在日」若者世代のアイデンティティ構築の分類枠組み
出所 『在日韓国・朝鮮人』福岡安則
l 「共生志向」タイプ
日本社会への愛着度高く、それと同時に抑圧された朝鮮民族の歴史に強い興味を示す人々を表している。日本社会での差別を無くし、違いが基本となった社会の実現であり、日本社会と「共に生きる」ということを目標としている。「在日」としてのアイデンティティの確立を目指す。
l 「祖国志向」タイプ
日本社会への愛着度は低いが、抑圧された朝鮮民族の歴史に関しては強い興味を示す人々である。朝鮮半島の発展と統一に対し貢献することを課題として、朝鮮総連系の民族学校に通い、祖国の歴史・言語・文化を学ぶ。その結果として朝鮮民族としてのアイデンティティが確立される。日本人との交流はほとんどない。
l 「個人志向」タイプ
日本社会への愛着も弱く、抑圧された朝鮮民族の歴史に関する興味もそれほど持ち合わせていない人々である。自己の確立、個人的成功を目標としている。自分たちの能力に自身を持っており、海外経験や、日本での上昇移動(出世)によって自分たちを取り巻く環境を変化させることができると信じている。
l 「帰化志向」タイプ
日本社会への愛着がとても強く、抑圧された朝鮮民族の歴史に関する興味もそれほど持ち合わせない人々である。帰化することによって、差別を味わうこともなく生活できると信じている。通名を使用することによって自分が朝鮮民族であるということを隠す。自分の国は朝鮮半島ではなく日本であり、朝鮮民族に対する歴史はもう済んだことであり、今ではどうすることもできないと考えている。
l 「同胞志向」タイプ
“母国としての韓国”と“自分の住む国としての日本”への双方の愛着を持っている民団傘下の「在日本大韓民国青年会」に結集している若者がこのタイプである。「共生志向」タイプと「祖国志向」タイプの中間に位置付けられる。課題は「在日同胞」のための「権益擁護」と「処遇改善」をかちとることである。
以上から明らかではあるが、アイデンティティは多様化し、もはや「分離」か「対立」かという対立軸は機能しないのである。敢えてこの対立軸で整理しようとすれば、これは「在日」内での分化であると考えられるが、「同化」志向を基調としたアイデンティティ形成のように感じられる。
だが、これはエスニック・マイノリティに共通することであるが、個人個人の在り方の現れの結果としてのアイデンティティであると考えられる。つまり「分離」か「同化」の間で揺れ動き続ける個人の帰着である「パフォーマンス」としての各志向なのであると考えられる。90年代からは以上のような形で「分離」か「対立」かという軸はもはやそれほどの意味を持たなくなり、パフォーマンスとしてのアイデンティティ形成が行われていった。だが、一世や民族団体などからしてみれば「同化」傾向が強まっていると見なすであろう。
90年代の社会運動としては、地方参政権付与運動の盛り上がり、従来からの権利保障の運動は公務員採用に対して進んでいる。地方参政権の一連の流れは以下のとおりである。
l 当初から総連も民団も参政権獲得には否定的
l 90年前半は各地で法廷闘争が行われるが、いずれも敗訴
l 95年最高裁の判決における附則で「国内永住者など自治体と密接な関係を持つ外国人に、法律で地方選挙の選挙権を与えることは、憲法上禁止されていない。」とし、「(そのような)措置を講じるかどうかはもっぱら国の立法政策にかかわる」とした。
l 95年頃より民団も参政権要求に積極的に
l その後、当時の連立与党三党(自民・社会・さきがけ)が定住外国人に参政権を与えるか議論→しかし、政治的状況により議論は立ち消え状態に
l
金大中の呼びかけに応じ(脚注v参照)民主・公明・共産各党は法案をそれぞれ作成し、衆議院事務局に提出
国家公務員は国立大学や国立病院などに採用されている外国籍教職員、医師、看護師、保健師などしかいない。全国自治体の実際に採用されている外国人職員数は772人であり、全職員数の0.048%であるという(公務員採用国籍条項全国実態調査委員会)。96年に川崎氏が政令指定都市として初めて、任用期限付きで公務員採用の国籍条項を撤廃した。97年に東京都の保健師として働く在日二世の鄭香均が管理職試験の受験資格の確認などを求めた裁判で東京高裁に勝訴している。
5.女性の差別問題
90年代から「分離」か「対立」という対立軸が機能しなくなると、その軸によって隠されていた「在日」内部での問題が現れるようになる。それは「在日」内部での差別、女性差別や障害者差別である。一世の時代、「荒れるアボジ(父親)、耐えるアモニ(母親)」という言説が示しているように、父親は民族運動のため、日本社会から「在日」への差別と闘うために社会へ出て、そのストレスを家の中で発散するという構造があった。日本社会からの「分離」を目指して団体に入り活動をし、民族としての「集団アイデンティティ」を強化・再生産をし、女性たちは家でそれを支える。しかしながら、90年代に入り対立軸が崩れるような形になると、民族のためだと言いながらその対立軸にしがみ付いていた一世の矛盾、つまり女性への差別が暴かれることになった。女性への差別の正当化の拠り所となっていた対立軸がなくなると、女性への差別が明るみにでることにつながった。同様のことは障害者やダブルにも当てはまる。
6.現在、そしてこれからの「在日」のアイデンティティ
「同化」が強まっていると考えられるが実際はどうなのであろうか。民族学校通学者数、国際結婚数、帰化者数を基に考察する。
民族学校通学者数は、86年のデータであるが、「在日」の小中高校生約15万人、うち19,500人(約13%)が朝鮮学校、1,600人(約1%)が韓国学校、残りの13万500(約86%)人が日本の学校に通うとされている。
≪表1≫「在日」帰化者数
年度 |
帰化者数 |
1995 |
10327 |
1990 |
5216 |
1996 |
9898 |
1991 |
5665 |
1997 |
9678 |
1992 |
7244 |
1998 |
9561 |
1993 |
7697 |
1999 |
10059 |
1994 |
8244 |
2000 |
9842 |
民団HP人口推移よりhttp://www.mindan.org/toukei.php - 03
≪表2≫「在日」の結婚状況
|
婚姻件数 |
同胞間婚姻 |
外国人との婚姻 |
日本人との婚姻 |
その他の 外国人 |
|||
婚姻数 |
構成 |
妻 |
夫 |
合計 |
||||
1955 |
1102 |
737 |
66.9% |
33.1% |
22.0% |
8.5% |
30.5% |
2.6% |
1965 |
5693 |
3681 |
64.7% |
35.3% |
19.4% |
14.8% |
34.6% |
0.7% |
1975 |
7249 |
3618 |
49.4% |
50.1% |
21.4% |
27.5% |
48.9% |
1.2% |
1985 |
8588 |
2404 |
28.0% |
72.0% |
29.4% |
42.5% |
71.6% |
0.4% |
1987 |
9088 |
2270 |
25.0% |
75.0% |
26.0% |
48.5% |
74.5% |
0.5% |
1990 |
13934 |
2195 |
15.8% |
84.2% |
19.5% |
64.2% |
83.7% |
0.5% |
1991 |
11697 |
1961 |
16.8% |
83.2% |
22.8% |
59.7% |
82.5% |
0.7% |
1992 |
10242 |
1805 |
17.6% |
82.4% |
27.4% |
54.1% |
81.5% |
0.9% |
1993 |
9700 |
1781 |
18.4% |
81.6% |
28.5% |
52.2% |
80.7% |
0.9% |
1994 |
9228 |
1616 |
17.5% |
82.5% |
29.1% |
52.6% |
81.7% |
0.8% |
1995 |
8953 |
1485 |
16.6% |
83.4% |
31.7% |
50.5% |
82.2% |
1.2% |
1996 |
8804 |
1438 |
16.3% |
83.7% |
31.8% |
50.7% |
82.5% |
1.2% |
1997 |
8504 |
1269 |
14.9% |
85.1% |
31.3% |
52.7% |
84.0% |
1.1% |
1998 |
9172 |
1279 |
13.9% |
86.1% |
28.7% |
56.1% |
84.8% |
1.3% |
1999 |
9573 |
1220 |
12.7% |
87.3% |
26.1% |
60.1% |
86.2% |
1.1% |
民団HP婚姻数よりhttp://mindan.org/toukei.php - 04
以上のように数字上からは「同化」が進んでいると考えられるのではないだろうか。
地方参政権は以下のような動きを見せている。
日本社会の構成員としての権利の必要性[vi]―日本人と変わらぬ「在日」であるべきという信念でもち「在日韓国朝鮮人をはじめ外国籍住民の地方選政権を求める連絡会」が中心となり活動を行っている。
l
2001年12月
ソウルで開かれた日韓議員連盟と韓日議員連盟の合同総会で、「地方参政権問題で日本側は、通常国会での実現のために積極的に努力する」との共同声明が採択
l
2002年1月
滋賀県米原町議会は、周辺市町との合併を問う住民投票条例案で、全国で初めて、永住外国人を投票資格者に含む条令案を可決。
l
現在
永住外国人地方選挙権付与法案は継続審議中。
これに対して朝鮮総連は
「現在、在日本大韓民国民団など一部が要求している「地方選政権」問題は、在日同胞を日本社会へ同化させる道を開く危険なものです。(略)自らの民族的尊厳とアイデンティティを否定するものです。(略)日本がかつて朝鮮植民地支配時代に「内鮮一体」をうたがいながら民族的な一部の朝鮮人に「請願」させ「選挙権」を付与した忌まわしい事例を想起させるものです」
(在日本朝鮮人総連合会「在日同胞の『地方選政権』に反対する」1996年4月)
「『参政権』の付与は、在日同胞に対する分裂、同化策動であり、「国籍取得特例法」は在日同胞の間で『帰化』を促進し,彼らを『朝鮮系日本人』『韓国系日本人』に作り,日本から朝鮮人自体をなくそうとする危険な策動である。」
(2001年5月に行われた在日本朝鮮人総聯合会第19回全体大会の総聯中央委員会活動報告(要旨))
というように反対を表明しているのである。
民族学校であれ、帰化であれ、国際結婚であれ一見「同化」のような動きを見せているとはいえ、個人のパフォーマンスだと考えれば納得はしやすいであろう。特に参政権を得ることは、ヨーロッパでのエスニック・マイノリティが政治的権力を得てから社会保障を得ているように、年金など現状では得ることができない社会保障を獲得するべく必要なものであろう。
個人のアイデンティティ、民族的アイデンティティというものは近代化の産物である。それ以前の社会では「自分が何者であるか」など考える必要もなかったし、何よりも考えることをしなかった。個人が賃金労働者として社会に組み込まれたときから、個人は自己決定、自己責任を負うようになった。民族だけでなく、男か女か、金は持っているのかいないのか、といういった要素もアイデンティティ形成に大きな影響を与える。アイデンティティは複合化していくことになる。それはグローバリゼーションの影響もある。だが社会が複雑化すればパフォーマンスで説明できる面が増えるであろう。 金城一紀氏の『GO』や「在日」側からの日本国籍取得奨励の動きが出てくるのはそのいい例であろう。
以上のように「分離」か「同化」かという対立軸を通して「在日」のアイデンティティの変容をたどってきた。四世がそろそろ20代に入ってくる歳なので世代交代が進んでいるのが現在の状況かもしれない。これからどのようになるかはわからないが、時代の変遷を追っていくことによってある程度の予測や筋道を立てることは可能となるだろう。本レポートではそこまでできなかったのが課題である。
7.参考文献、URL
田中宏『在日外国人 新版』(岩波新書、1995年)
田中宏編『在日コリアン権利宣言』(岩波ブックレット、2002年)
福岡安則『在日韓国・朝鮮人』(中公新書、1993年)
原尻英樹『「在日」としてのコリアン』(講談社現代新書、1998年)
鄭大均『在日朝鮮人の終焉』(文春新書、2001年)
在日朝鮮人研究会『コリアン・マイノリティ研究1』(新幹社、1998年)
在日朝鮮人研究会『コリアン・マイノリティ研究3』(新幹社、1999年)
「<在日文学への挑戦>それで僕は”指定席”を壊すために『GO』を書いた」『中央公論』2001年11月号・12月号
朴一『<在日>という生き方』(講談社選書メチエ、1999年)
金泰泳『アイデンティティ・ポリティクスを越えて』(世界思想社、1999年)
金城一紀『GO』(講談社文庫、2003年)
在日韓国朝鮮人をはじめ外国籍住民の地方選政権を求める連絡会
http://www.denizenship.net/sanseiken/sanseiken_top.html
朝鮮日報http://www.korea-np.co.jp/sinboj/Default.htm
在日本大韓民国民団中央本部http://mindan.org/index.php
[ii] 「我等の国家 新日本」(朴春琴事務所、1930年)
[iii]しかし朴のいう同化の内容はあまり明確ではない。「同化の目標が生活の様式から風俗習慣から、内地人に同化せよといふことであり、忠君愛国の誠意も今直ちに内地人同様たるべしというに在るならばそれは求むる者の無理である」と断言している。
[iv] 「入管闘争」とは69年の「出入国法案」廃案運動のことである。同法案は在日外国人に対し活動の範囲の限定、退去強制に該当する外国人に対しての違反調査、その者の収容といった治安管理的な内容であり、在日外国人の人権を制約するものであった。
[v] 98年10月当時金大中大統領「日本で税金を納め、大きな貢献をしている。参政権を与えて欲しい」という呼びかけなど
[vi]「定住外国人の完全なる地方選政権を求める在日共同声明」http://www.denizenship.net/sanseiken/seimei_01.html