小熊研究会T

最終レポート

「グローバリゼーション」

〜いつから始まり、何処へ向かっていくのか〜

 

総合政策学部4

700056572

s00657kn@sfc.keio.ac.jp

中川 圭

 

はじめに

 

 いつから「グローバリゼーション」という言葉を我々が当たり前に使うようになったのかを忘れてしまうほど、この言葉は急激に押し寄せ、人々の内面に浸透してきた。しかしながら、これだけ定着した言葉を果たしてどれだけの人が正確にその定義を説明できるのであろうか。「人、物、金、情報の世界的な移動」こうして説明されることの多いグローバリゼーションではあるが、そうした移動を間近で見て、触れることはできない。しかし、実物に触れることはできないが、人々は確実にその中に生きており、何かを感じながら生きているに違いない。そうした捉えどころのない変化、それがグローバリゼーションではないだろうか。

 本レポートの趣旨は、そうした現在起きている「グローバリゼーション」と呼ばれる漠然とした変化を具体的に探っていくことである。そのためには、グローバリゼーションと呼ばれる現象がいつから起こり、どのように変化していったのか、という歴史的な文脈を追っていく必要がある。そして、その上で現在起きている現象を具体的に見ていく必要があるのではないだろうか。

 グローバリゼーションは漠然としており、実体が掴みにくいかもしれない。しかしながらこの現象は、全世界的に影響を与え、人々の生活環境、メンタリティーにまで深く浸透していく。そして、学問的には経済学のみならず、ジェンダー、エスニシティ、都市研究、文化研究、ナショナリズムなどあらゆる学問領域に多大な影響を与える。こうした現代に生きる我々としては、この迫りくる強烈な変化をしっかりと捉えながら生きていく必要があるのではないだろうか。

 まず第一章では問題定義を裏付ける形で日本における「グローバリゼーション」という用語がいつ生まれてきたのか、そしてどのような意味で使われてきたのかということを、統計的に分析しいく。そして第二章では、「グローバリゼーション」論においては基礎的な論者と位置づけられるI.ウォーラーステインの議論を扱い、グローバリゼーション論の基本を学ぶ。それを踏まえたうえで第三章、第四章では、現在の「グローバリゼーション」論の中心的論者であるサスキア・サッセンの移民研究及び、グローバル・シティ研究に関して述べ、グローバリゼーションの過程と現状を探る。そして、最後の第五章では、姜尚中氏と吉見俊哉氏の共著である『グローバル化の遠近』を題材に、グローバル化によって引き起こされる、日本における公共空間の変化、それに伴うアイデンティティの変容を探って行きたい。そしてその上でそうした時代に生きる我々の目指すべき道とは何か、そうした議論まで紹介していければと考える。

 

 

第一章                            用語「グローバリゼーション」の誕生

       〜新聞における「グローバリゼーション」の使われ方〜

 

 グローバリゼーションがいつから始まったのか。という議論に関しては、主に二つの考え方がなされている。まず一つ目としては、近代化の後に起きた事象、そしてもう一つは、ここ10数年の事象であるという主張である。こうした議論を探っていく前提として、ここでは日本において、グローバリゼーションという言葉がどのように使われてきたのか、その歴史を簡単に追っていき、その上で、当初はその同意義語として使われていた「国際化」という言葉との違いを見出して行きたい。

朝日新聞を調べてみると最初に「グローバリゼーション」という言葉が使われたのは1987年10月09日の新聞である。『灰色決着のタテホ株インサイダー取引 大蔵省証券局長に聞く』という記事中に、「グローバリゼーション(国際化)」という表現のされかたをしている。

その後に出てくるのは、翌年、1988年02月02日になってからである。日本の企業を再構築していく必要があるというという旨の記事中に再構築の要素としての「国際的統合(グローバリゼーション)」という表現で記されている。

1984年1月1日から1989年12月31日のおよそ5年間の間に「グローバリゼーション」という言葉が使われた記事はわずか、18件しかない。まだまだ1980年代には、こうした概念が日本人には定着しておらず、戦後のメンタリティーを引きずったまま、世界が見えていない日本の現象を想起させる。

次に、※資料「グラフ1」を見ていただきたい。このグラフは「グローバリゼーション」という言葉が使われ始めた1987年から2002年までの間に「グローバリゼーション」がどれだけ使われていたのかを表すグラフである。ここから分かることは、この言葉が1996年以降に急激に一般化していった過程である。96年といえば時は、橋本内閣、省庁再編などを打ち出し、日本全体がこのままではまずいという改革の意識を持ち出した時期とも重なる。また、偶然か必然か、グローバリゼーションの議論で多く持ち出される国際会計基準が橋本内閣の金融ビッグバン方針に盛り込まれた時期とも時を同じくする。こうした意味でも、「グローバリゼーション」が日本にとっては一つの高度経済成長→バブルという旧態依然の形態から脱却する際のキーワードになったと考えられる。

また、※資料「グラフ2」では、「国際化」という言葉を1984年から5年ごとに追っていった(2000年から2002年までは2年間のみ)。これは、先ほど述べたように、グローバリゼーションという言葉が使われ始めた当初は「グローバリゼーション=国際化」というニュアンスで使われていたため、その二つの言葉の相関関係を見るためである。まず、「グラフ2」から読み取れる一つ目のポイントは、その数の多さである。5年毎の集計ではあるが、「グラフ1」の「グローバリゼーション」と比べるとその差は歴然でとしている。これは、やはり、「国際化」という言葉が定着している証拠であり、それは単に、以前は国内的な要素であったものが国外的なものへと置き換えられているという意味で使われているからではないだろうか。

またもう一点、1980年代にメジャーであった「国際化」という言葉は、90年代に入ると「グローバリゼーション」に置き換えられるのかという問題である。「グラフ2」から見て取れるように、そういった現象は起きていない。2002年まで依然として、「国際化」は圧倒的な利用数である。即ち、当初は「国際化」とほぼ同義語で扱われていた「グローバリゼーション」も、90年代に入ると単なる「国際化」ではない何か、として新たな意味を付与されたのである。

こうしたように、日本において「グローバリゼーション」という言葉は、ここ数年で多分に変化してきた。この変化の中にこそ、グローバリゼーションが単なる「国際化」ではない何かが隠されているのである。

 

 

第二章                           「グローバリゼーション」の理論的基礎付け

〜I.ウォーラーステインの議論を中心に〜

 

 グローバリゼーションを語る上で、基礎中の基礎となるのが、I.ウォーラーステインという論者である。彼は、1930年生まれの社会学・歴史学者で、76年からニューヨーク州立大学の社会学講座の主任研究員を務めている。彼の主要な議論としては一国史観や、国別の比較史的歴史観とはまったく異なる、全世界を単一の世界システムと見なし、その起源としては16世紀の西ヨーロッパにまで遡る。そして、その時に初めて大規模な地域間分業体制(近代世界システム)が誕生としたと説いている。即ち、国別の発展段階論を否定し、中心=周辺(半周辺)という関係で世界が一つにまとまっているとする、という考え方である。こうした考え方は、基本的にはマルクス主義的な関係論のひとつである「従属理論」や世界資本主義論をその理論的な前提としているのである。

 I.ウォーラーステインの議論を具体的に見ていく前に、その前提となっているマルクスが彼にどのような影響を与えたのかを述べていきたい。マルクスの主要な概念の中には「交通」というものがある。これは、「物を媒介として諸個人が交渉しあう関係であると同時に諸個人が言語(記号)を媒介として意思を疎通する「精神的交通」をも意味しており、諸個人の活動が総体を基礎づける」という意味で、この中にはもちろん貨幣の介在も含まれている。人間は貨幣の介在によって共同体から解放され、自由になる。そして、交換価値が重要視されるようになるのである。何故なら、従来の物々交換であるならば、その物には使用価値と交換価値が含まれているからである。これは、例えば、物には交換価値としては低くても、その個人の使用価値としては、愛着があるなどして高いという考え方の二つの要素があるのに対して、貨幣は、純粋交換価値のみである。こうして、物々交換から貨幣による交換に取って代わることにより、貨幣なくして生きていけない、貨幣なくしてコミュニケーションができない、従来の生き方ができなくなる、お金がないと生きていけないなど、コミュニケーションのあり方そのものに影響を与えるのである。

 こうしたマルクスの議論を踏まえながら、特に、賃金労働によって引き起こされる、無賃金労働に注目をしたのが、I.ウォーラーステインなのである。それでは、彼の議論をもう少し詳しく見てみよう。著書『史的システムとしての資本主義』において、歴史上、多数存在した「世界システム」を彼は「帝国」と「世界経済」に分類する。「帝国」とは即ち、世界システム全体が政治的に統合されている状態のことであり、こうしたシステム全体を支配する政治機構が存在する「世界システム」の例としては、古代の諸王国や、中国の歴代王朝などを挙げている。次に、「世界経済」であるが、これは、16世紀以降、西ヨーロッパを「中核」とした資本主義的な世界システムのことを指す。この資本主義世界経済という形態をとったシステムが唯一の「世界経済」の体制を保持している。しかしながら、この「世界経済」は、「中核」国などの国家機構が、各々に主権を保持しているため、経済的には大規模な分業体制を保持しつつも、政治的には統合されていないという特徴を持つ。

 I.ウォーラーステインの主要な議論としては、近代とはその当初から一貫してグローバル体制であったという主張である。彼は、こうした議論を、従来の「世界は諸国家の集合」として捉えてきた社会科学や歴史学の観点を批判しながら発展させてきた。そして、ここで彼が強く主張するのは、世界システムを「単一」なものとみなしながらも、「均質」ではないとしている点である。そうではなく、近代世界システムは、「中核」と「周辺」及び、「半周辺」から成り立っているのである。この「中核」は、「周辺」との間における巨大な分業体制を利用してシステム全体の経済的余剰の大半を占めている。この「中核」は経済的には製造業や第三次産業(サービス業)に集中し、そこでは「自由な賃金労働」が優越する、産業革命の工場制の典型的雇用形態である。一方、「周辺」は、経済的に「中核」に従属させられ、それに伴い、文化的にも「中核」に優位性を保持されている地域であり、鉱山業や農業のような第一次産業に集中している。そして、労働形態としては、奴隷制や再版農奴制などが主流である。こうした帰結として、両者間の貿易関係は、「中核」からの工業製品と、「周辺」からの原材料及び食料の交換関係という形態を取らざるを得ないのである。こうした基本的な関係性の中でも、時として「中核」諸国の中の一国が圧倒的覇権を確立し、他の「中核」を寄せ付けないような状況が発生することが起きる。I.ウォーラーステインはその具体例として、17世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀以降からベトナム戦争までのアメリカを挙げている。そして、こうした、一国が他の「中核」を寄せ付けない状況を「ヘゲモニー」と呼ぶのである。

 しかしながら、こうした「ヘゲモニー」に反発する現象というものも存在する。それが「反システム運動」と呼ばれるものである。これは、近代世界システムにおいて、システムの部分的改良や斬進的改良による現状の改善を否定し、何らかのレベルでシステムそれ自体を変革することを要求の土台とする社会的、政治的、知的運動のことである。この古典的なものとしては、社会主義運動と民族解放運動である。

 こうしたように、彼の主要な議論としては、近代世界システムというものは「中心」、「周辺」、「半周辺」から成る、「単一」のシステムであり、その「中心」の中でも幾つかの「ヘゲモニー」を握る国が存在していた。そして、同時にそうした近代世界システムがもたらす矛盾を表す形で、「反システム運動」が繰り返し行われてきたというものである。

 それでは、こうした近代世界システムがもたらす現象を個別に見ていく。まず。一つ目は「万物の商品化」である。先に挙げた、マルクスの議論を土台にしたI.ウォーラーステインは、「近代以降の史的システムとしての資本主義は、それ以前において「市場」を介さずに展開されていた交換過程や生産過程、投資過程の広範且つ壮大な商品という自体をもたらした」と主張する。さらには、こうした商品化にとどまらず、この生産過程は複雑で多様な商品の連鎖として、相互補完的な関係になったのである。このような意味で史的システムとしての資本主義は、あらゆる生産活動を統合するシステムとなりえ、そしてそのシステム内においては、資本蓄積至上主義が支配的であるといえる。

 こうした、万物の商品化と平行して賃金労働制度が整備される。それによって引き起こされるのが生産労働と非生産労働のという二極分化である。それによって、賃金を獲得できる者とできないもの(ブルジョワジー/プロレタリアート)、賃金労働に従事するもの、しないもの(男性/女性)という格差が生じるのである。こうした問題が拡大したものが、国家(先進国/途上国)、人種(白人/有色人種)の問題なのである。

 こうした史的システムとしての資本主義の中で重要な位置を占めるのが、国家権力の存在である。特徴的なものの一つ目は、領土の支配権である。国家はそれによって、国境を越える「人や物」の動向を監督する責任を明確にすることができたのである。そして、戦争などの政治闘争によってその領土の支配権を明確にする国境が変化することで、近代世界システムにおける社会的分業パターンも即座に影響を受けるということが起きるのである。

 そして、また国家は自国領内における社会的生産関係を支配する規制を決めるという法的権利を有している。こうした権限を有する国家は時として、労働力の商品化を推進し、租税納入義務を課して労働者を賃金労働に向かわせる一方で、労働者の完全プロレタリア化を阻止する動きも行う。どちらにせよ、こうした国家の権限は、資本蓄積を念頭に置いたものであることは間違いない。

 三つ目の要素としては、課税権が挙げられる。課税権自体は、近代世界システム以前から存在していたものでもあるが、近代世界システムによって変化がもたらされた要素である。それは、租税が臨時の強制徴収ではなく、国家の主要な財源となったこと、そして生産物や蓄積された資本の価値の総量の中に占める租税の割合が確実に上昇したことである。これらは、結局、特定の集団に資本蓄積の集中を促す最も効果的な方法であり、国家の再分配機能は、分配の不平等や格差をより拡大させる巨大なメカニズムとして機能したのである。

 以上述べたように、国家形態が資本蓄積に多大な影響を与えた、しかしながら、そうした一方的な押し付けから開放されようとする運動も起きてくる。それが、先に挙げた「反システム運動」である。そして、その古典的なものが、社会主義運動とナショナリズムである。前者は、報酬の分配の不平等、且つ抑圧的であるという議論を争点としたプロレタリアートとブルジョアジーとの間の抗争であり、「中核」の中の反体制運動と位置付けられる。後者は、諸々の権利の分配の不平等であり抑圧的であるという議論を争点とした大多数の「抑圧された民族」と政治的支配権を持った少数の「優秀な民族」との間の抗争であり、「周辺」による反中核運動と定義することができよう。

 これは二つの運動は以下の二点において共通する、まず一つ目は両者の運動は共に、国家権力の奪取を目的にしていたという点、そして二つ目は革命的なイデオロギーに基づいて、民衆の力を必要としていたという点である。しかしながら、これらの運動自体の構造上、国家権力を掌握するということに関してのみ成功してしまうことが多かったため運動本来の反システムの傾向が衰退してしまうということが多く見受けられた。

 こうしたように、資本蓄積に対する反発の形で「反システム運動」が展開されてきた。しかしながら、同時に、「中核」側は資本蓄積による格差を隠蔽するような活動も展開してきた。その装置として、I.ウォーラーステインは「真理の探究」、「自由」、「合理主義」という言葉であると訴える。また、もう一つ隠蔽する装置として機能したのは、民族集団と職業的・経済的役割との間の高い相関関係である。これによって、労働力の再生産と労働力の配置転換を容易にし、労働力の教育・訓練装置としての機能がその民族に生まれ、また、民族集団化によって職業的及び経済的格差を「伝統」という名の下に隠蔽し、正当化できたのである。

 以上、I.ウォーラーステインの近代世界システムを紹介してきたが、論者本人が指摘しているように、幾つかの問題点が残されている。一つ目は、「開発」/「低開発」という二項対立は、市場経済の分析にすぐれて有効な概念ではあるが、我々の生活全体を把握することは不可能である。「商品経済」と「非商品経済」の分析を統合しない限り、真の近代世界のバランス・シートは作成できない。また、世界システム論の問題として、世界システムの「展開」の評価の仕方である。近代の歴史を「進歩」や「発展」と捉えがちであるが、「中核」の人々のあらゆる面での恩恵と引き換えに「周辺」の人々が抑圧・搾取されているという現状は、決して「発展」や「進歩」という言葉では終わらせられない問題である。そのため、いかにして、近代世界システムのバランス・シートというものを構築していくのかというのが大きな問題として取り残される、また、近代世界システムにおいて、「中核」では均質な国民からなる「国民国家」のイデオロギーが強調され、世界システムの盛期は、「国民国家」の盛期でもあるというパラドクシカルな状況を呈した。そうした結果「中核」に対抗しようと「周辺」でも、自らナショナリズムを採用せざるを得なかったという現象を生んだのである。そのため、世界システムの終焉は、国民国家の終焉とも密接に関連しているといえるであろう。

 I.ウォーラーステインは、世界システムという用語を用いながら分かり易く、史的システムとしての資本主義を説明してきた。これは、もちろん、グローバリゼーションと密接に関わる議論であり、現在のグローバリゼーション研究の基礎的な位置づけとなっていることは言うまでもない。しかしながら、近代以降全てがグローバリゼーションであるという議論はやや極端であり、誤解を生みかねない。何故ならば、ここ10年以内に起きている状況は、明らかに、近代国民国家以後の社会とは違う模様を呈しており、そして、こうした要素は、先に述べた1996年以降に急激に「グローバリゼーション」という言葉が一般化していった点とも結びつく。

 

 

第三章                           移民研究から見る「グローバリゼーション」

            〜サスキア・サッセンの移民研究〜

 

 それでは、何故、このグローバリゼーションという用語はそう新鮮に見えるのであろうか、ここでは、ここ10年に起きているグローバリゼーションの変化を探って行きたい。

 この議論を考えるにあたって重要な論者となってくるのはサスキア・サッセン(※資料2)という学者である。彼女は現在、グローバリゼーション研究において活躍する社会学者である。自らもアルゼンチンからの移民であるということから、当初は移民研究の分野で活躍していた。グローバリゼーションの代表的な現象である移民、しかしながら、彼女はそうした移民研究の過程で、従来の研究に疑問を感じるようになる。それは、彼女が移民としてニューヨークに住んでいた70年代、80年代、米国が不況だったにも関わらず移民が増えている状況を目のあたりにしたからである。

 従来の移民研究では、貧困=プッシュ要因、即ち、貧しい国は移民送り出し国であるという考え方と多くの仕事口と高賃金の存在=プル要因、即ち、豊かな国は移民受入国であるという二項対立的な議論がなされていた。別の言い方をすれば、経済的に豊かな「中核」国に貧困の激しい「周辺」国の人々が移民として流入するという考え方である。しかしながら、サッセンは移民として低賃金労働に従事していたという自らの体験から、この理論に違和感を持ち、何故、不況にもかかわらず米国に移民が増加するのだろうかという疑問を持つようになる。

 そうした疑問に対して彼女は、米国の役割を強く重視した考え方を導き出した。「地球大の経済が出現するに際してアメリカ合衆国が果たした、軍事面・政治面・経済面での中心的役割が、人々を地域的であれ国際的であれ空間的な移動に巻き込んでいく諸条件を作り出すとともに、アメリカと他の諸国とのあいだに、国際的移民のための架橋として役立つような連関を形成した。」と彼女は『労働と資本の国際移動』で述べている。

 それでは、米国が果たした軍事的、政治的、経済的役割とは一体何だったのであろうか。まず一つ目として挙げられるのは、生産の国際化である。以前は、国内にあった生産基盤を海外、特に第三世界(「周辺」)へと移動させることによって、アメリカと幾つかの第三世界諸国との間の連携を作り出し、さらには人々の生存基盤を奪って移住を駆り立ててきたのである。これは、例えば80年代の米国内での製造業の衰えによって、生産活動を諸外国(マレーシアなど)に移転させたという現象である。こうした現象は、米国と移転先の国との経済的な連携を生むと同時に、そうした「周辺」国にアメリカ的な基準を「輸出」することとなり、そうした「アメリカ化」していった国で生存基盤が奪われるという現象が起きたのである。

 次に世界的経済システムを調整し管理するための中心としての、主要大都市が出現した影響である。高所得者の仕事口のみならず、低所得者職種と、浮動的で不安定な職業形態の増大をもたらしたのである。これは後に詳しく説明するが、彼女が80年代になって提唱する「グローバル・シティ(世界都市)」の元となった考え方である。

 そして、三つ目に「アメリカの製造業をその他の外国企業にとって魅力ある立地場所たらしめ、とくにその特定地域を生産場所として第三世界諸国と競争可能にするような諸条件の発展」である。これは国民的枠組みをこえた経済活動空間を形成するのに貢献した。例えば、日本企業が米国内で生産活動を本格的に開始するのも80年代になってからである。トヨタ自動車の場合、生産管理や営業など、企業の中枢をデトロイトに置き、工場はケンタッキーという地方に置くという生産方式を実施し始めたのも80年代になってからである。そして、今では、米国国内で販売される車でのみならず、日本へも逆輸入という形で、「米国移民」が生産した車を日本にいる日本人が利用するという状況が起きたのである。これは正に、米国の広い国土を利用した、「中心」(米国内)の中の「中心」都市(デトロイトなど)にブレーンを置かせ、「中心」(米国内)の中の「周辺」(ケンタッキーなど)に工場を作らせたという政治的戦略の結果生まれた現象である。

 こうした幾つかの要因によって、米国において移民が増加したとサッセンは論じるのである。もちろん、こうした状況は、先ほど挙げたプッシュ要因―プル要因という因果関係と相関関係を持つ、しかしながら、この二項対立的な立場は決して、移民現象全てを語れるものではないというのが移民研究に関する彼女の主要な立場である。そして、こうした移民研究をグローバリゼーションに発展させて述べるならば、グローバリゼーションの結果としての移民増加があり、様々な経済的、政治的、軍事的戦略によって移民を増加させてアメリカがグローバリゼーションの主導的な役割を担っているという一般的な考え方は的をえているといえるのではないだろうか。

 

 

第四章                           グローバリゼーションとは何か

      〜サスキア・サッセンの「グローバリゼーション」〜

 

 以上述べた、サッセンの移民研究を踏まえた上で、現在のグローバリゼーション研究者の中心人物と言われる彼女のグローバリゼーション論を見て行きたい。それによって、現在展開されているグローバリゼーションの主流の考え方を読み取れることと期待する。

 まず、彼女は先ほど述べた移民研究と同じように、従来の研究を批判する形でその議論を出発させる。それまで、グローバリゼーションという言葉は、以下のように解釈されていた。まず、一つ目は相互依存の発達により、人・物・金・情報の流通が活発になり、相互の関係性が密になったとともに時空間が圧縮されたという考え方である。これは、物理的に飛行機や船また、国際電話やインターネットによって、人、物、金、情報の移動が活発になることができ、そしてそれに伴う様々な変化がグローバリゼーションなのであるという議論である。こうした考え方に、彼女は反論する。「私はこのような考え方には多少距離を置く」と控えめに語り始めながら、「西洋の歴史を見れば、数世紀の間に相互依存が時間的なずれとともに拡大し、全て崩壊し、再び新たな相互依存を拡大している。」そして、具体例としては、大西洋を帆船から蒸気船で横断するようになった時にも、時空間的な圧縮が起きたと述べるのである。即ち、近代の歴史は常に科学技術の発展による時空間の圧縮に伴う相互依存の拡大を繰り返してきた歴史であり、グローバリゼーションの時代に特別に起きた現象ではないということである。

 そして、次の考え方としては、グローバル経済が獲得したものを国民国家は失い、その逆は逆であるというゼロ=サムゲーム的な考え方、そして、ある出来事が国家の領土の中で起こるならば、企業取引であれ裁判所の決定であれ、それは国内の出来事であるという考え方である。こうした考え方に対して彼女はこう批判する、そうではなくグローバリゼーションによって引き起こされる現象は「グローバルなものとナショナルなものはうろこ状に重なり合うものであるである」。また、別の言い方をすれば、「決してグローバル/ナショナルの二項対立ではない。そして国内でおきる出来事も必ず、グローバルから影響を受けているのである。」と述べている。

 それでは、ゼロ=サムゲームではないなのならば、グローバリゼーションとは一体何なのか、ということを深く掘り下げていくことで、グローバリゼーションの謎を解き明かしていきたい。

サッセンは、グローバリゼーションの定義として、以下のような言葉を述べている。「グローバルなものとナショナルなものの遭遇により生じる現象」また、もっと具体的に言えば、「経済のグローバリゼーションは、抽象的な真空のなかで展開するのではなく、それが構成される具体的な場を持ち、そこにはグローバルな主体の活動を可能にする様々な組織や制度が創られ、インフラストラクチャーが形成され、そしてそれらの活動を担う、エリートから底辺までの労働力が必要となる。」これらが、サッセンが基本的に述べている主題だと言える。そして、この中でも特に重要な点は三つの下線部の企ワードである。

それでは、まず、「具体的な場」であるがこれが、第三章で述べた「グローバル・シティ」という概念に当てはまるものである。「グローバル・シティ」は時として世界都市として訳されることもあるが、そのままカタカナで表記されることの方が多い。この言葉は都市研究の分野で頻繁に扱われるが、先ほど述べたように、もとは移民研究から発展したものである。サッセンはその代表例として、ニューヨーク、ロス・アンジェルス、ロンドンそして後に東京もその中に含んでいる。1991年に発表された”The Global City”ではニューヨーク、ロンドン、トウキョウの移民の変化や経済指標などを用いて分析している。

それでは、こうしたグローバル・シティはどのような場所なのだろうか。サッセンはこう述べている。まず一つ目は資本蓄積の場だということである。「「グローバル・シティ」では、越境する資本と越境する労働力が直接に出会うが、しかし、たんに多国籍の人や企業の集まる場ではなく、重要なのは、グローバル・シティは、世界経済のもっとも主要な資本蓄積=価値増殖の場であり、そして国家権力に部分的に取って代わるグローバルな権力が世界をコントロールする意思決定をおこない、近代の新しい権威が創出される場であるという点である。」また、もう一つの要素として、ナショナルとグローバルが複雑に絡み合う場という表現をしている。これは先ほど挙げた、「グローバルなものとナショナルなものはうろこ状に重なり合うものであるである」という定義とほぼ同異義語だということはお分かりだろう。そして、これに関しては、「ナショナルなものに内在するグローバルなものの形態のひとつを確定し、それがナショナルなものにとり外在的であるどころか、逆にいかに内在化しているということを考察するための第一段階であったといえます。(中略)グローバル・シティでは、グローバルな動きがふるいにかけられ、「ローカルな状態」になるのです。」と述べている

これらをもう少し深く理解するために、ここで一つ具体例を紹介したい。先ほど移民研究で説明した例を思い出してもらおう。80年代のアメリカは不況の真只中であった。それは、製造業の衰えからくるものだった。不況によって、都市から製造業が消え、国内の「周辺」地域もしくわ、第三国へとそれが移転される。即ち、国際分業ということが起きるのである。そうした現象によって、二つのことが起きる。一つ目は資本の自由化、そして、都市におけるエリート/労働者の二極分化である。

前者は、即ち、二つ目の下線部で挙げた、「様々な組織や制度」の整備である。資本の自由化に伴い、金融経済を握る必要が出てくる。これが、国際会計基準(※資料3)であったり、格付け機関であったりするのである。資本が国際化することによって、「国民国家の一部として深く根付いている部分の非国家的な場所への再配置」という現象が起きる。また、金融経済を握る必要が出てくるため、「かつてナショナルな機能とされていたものの「脱国家化」−「再国家化」」という現象も起きる。これは、ナショナルな機関が、グローバルな経済システムのある種のルールを生み出し、実行する場となったことを意味する。例えば、グローバル経済の中で金融経済のヘゲモニーを握るために、中央銀行、財務省、専門監督機関などナショナルなものを通じてグローバル経済を発展させていき、その結果、国家機構を再強化していくのである。これこそ、先に挙げた、「決してグローバル/ナショナルの二項対立ではない。そして国内でおきる出来事も必ず、グローバルから影響を受けているのである。」というサッセンの主張の具体例だと言えよう。

では、次にエリート/労働者の二極分化の構図について説明する。これは三つ目の下線部、「エリートから底辺までの労働力」を指す。都市から製造業が消滅し、知的財産権を扱う職業が増えてくると、そこで働く人間の二極分化が起きる、まずは知的財産を扱うエリートであり、そして、周辺労働者である。例えば、外国為替などを扱うトレーダーが「エリート」であり、その彼/彼女が働くビルを清掃する人間、または、生活用品を買うスーパーのレジのパート、もしくは家政婦など、彼らの生活を周辺的に支えていくのが労働者なのである。そうした結果生じるのが、エリートが住む”Up Town”と周辺労働者が住む”Ghetto”なのである。そして、この周辺労働者を移民が従事するという現象が起きるのである。

こうした結果、従来の移民研究やジェンダー研究では語れない状況が生じる。その一つ目としては国単位で貧困格差が語れなくなるという状況である。I.ウォーラーステインが言うような、「中核」国と「周辺」国ではなく、一都市の中に「中核」と「周辺」が生じるようになるのである。そして、単一の都市として語れなくなった空間では、物理的距離よりも、「実質的な近さ」がその人々の距離感覚に内面化する。それは、例えば、ニューヨークの”Up Town”とマレーシアの”Up Town”が近く、ニューヨークの”Ghetto”とインドが近いという状況が生じるのである。この近さは、基本的には類似性であるが、前者においては、そうした都市間の物理的な移動が頻繁に行われるし、また、実際の経済的コンタクトも、ニューヨーク”Up Town”―ニューヨーク”Ghetto”間よりも、頻繁にそして親密に行われるという現象がおきるのである。

 また、同様に国単位だけではなく、性別による貧困としてもくくれなくなってきている。マリア・ミース(資料3)が言うような「主婦化」(資料4)では解決できない状況がグローバル・シティでは起きている。ベビーシッター、老人介護、メイドなど、以前は無賃金労働とされてきたものが、移民女性によって賃金化されるという新局面を迎えている。また、さらに、米国の「エリート」のメイドをフィリピン都市部出身の移民が従事し、その空いた家をフィリピン農村部出身のメイドが家事に従事するという状況が起きているのである。

以上述べてきたように、サッセンの議論を踏まえると、世界がここ10数年でいかに新たな局面を迎えているかのイメージを掴むことができよう。しかしながら、米国における移民政策の例からも分かるように、政治による政策というものに大きな影響を与えられているという事実も実はここから読み取れる大きな要素なのである。また、アメリカの政治史を追っても、世界恐慌が起きた1929年、ニューディール政策を掲げた1930年、そして第二次世界大戦終結の1945年近辺には、移民の流入が止まっていた時代である。これは、近代資本主義に対する反発や、左翼政権が台頭していた時代など、その時々によってその要因は異なるが、これらは全て国家独占資本主義、即ち福祉国家が中心として時代であり、それ以前の時代は理論的には実はかなり現在の状況と似通っているという側面も忘れてはならない。

 

 

第五章                           「グローバル・シティ」トウキョウ

         〜『グローバル化の遠近法』から読み解く〜

 

 これまでの議論では、「グローバリゼーション」の言葉の出現を追い、I.ウォーラーステインの近代世界システム論で基礎を学び、そしてサッセンのグローバル・シティという形でグローバリゼーションの現状を追ってきた。ここでは、そうした議論を踏まえた上で、最後に日本におけるグローバリゼーションとそれに伴う新しい公共空間を探っていき、「グローバル・シティ」トウキョウの現状見ていく。

 本章で扱う著書『グローバル化の遠近法』は2001年に出版されたもので政治学者、姜尚中(※資料5)と社会学特に文化研究をその中心的研究に添えている吉見俊哉(※資料6)両氏による共著である。本書の主題としては、グローバル化に伴う変化によって、「市民社会/国民国家の枠組みに、もはや収まらなくなった公共空間のありよう」を探るものである。

 まず、初めに彼らのグローバル化に伴う、現在の公共空間の変容の基本的な考え方を見ていこう。「国家主権と統一的な空間、そして国民の同一性の三位一体からなる国民国家システムが、超国家的な組織に権力と機能を奪い取られ、他方では国境内の地域的な事態に対して実効的な権力の独占と歴史的な特権を失うようになると、重層的なアイデンティティのゆらぎが地政文化的に幾重にも屈折しつつ異種混交的な空間を形作るようなる。」また、「グローバルな拡大のなかで人種やジェンダー、階級をめぐる境界変容と侵犯が繰り広げられ、ナショナルな同一性とその文化によっては回収し得ない重層的な空間が開かれようとしている。」とあるように、サッセン的な意味でのグローバル化に伴う、公共空間の変容が、いかにアイデンティティに対して衝撃を与えているかということを述べている。そして、その上で、そうした衝撃から開放される策として「苦境から脱却できる処方箋は、結局のところ「公民的美徳」を取り戻して、国家的共同社会の公的な事柄に積極的に参加し、「精神の習慣」としての国家への帰属意識を高めていくことに求められている。(佐伯 1998)」という議論や、またこれに抵抗しようとする、グローバル世界を「市場の世界化」と「市民社会の普遍化」という二分法に分けた上で、「市民国家」のトランスナショナルな連合を構想する議論(坂本1998)という新たなアイデンティティを獲得する手法として共同性の新たな確立を目指すという言説を論じる論者に対する批判も論じている。こうしたように、グローバル化に伴う、公共空間の変化、そしてそれを起因とするアイデンティティの揺らぎ、恐怖、これを打破するための手段としての短絡的な共同体意識の復活への賛美という基本図式に対する批判を語っており、現在起きている公共空間の変容はもう一度見直すことで違う方法論を模索するというのが本題である。

 それでは、ここで、現在起きている公共空間の変容の具体例を見て行きたい。著書の中には幾つかそうした具体例が昇っているが、本レポートとの関連性を考え、東京におけるネットワークの変容を見ていく。東京はいつからグローバル・シティになったのか。サスキア・サッセンの”The Global City”で扱われている東京であるが、「グローバル・シティ」としての性質を帯びてきたのはここ最近だと筆者は述べる。戦前から遡ってみても、「たしかに明治以来、銀座煉瓦街やモダン風俗、国家的機関、除法産業の中心によって、この都市はある種の「世界性」を体現してきたが、戦前の東京の世界性は、観念やイメージ、情報レベルのものであり、またここが天皇の居所であり、帝国日本の帝都であることによって担保される類のものであった。」と述べているように、「世界性」を帯びながらも現在の「グローバル・シティ」トウキョウとは性質は大分違う。そして次の国際化の段階としては、1964年の東京オリンピック、そしてその前後から始まる海外渡航の大衆化の時期を挙げている。さらに、80年代のバブル経済によって引き出される東京への一極集中化によって、「世界都市TOKYO」が確立された。しかしながらこうした「世界都市TOKYO」も戦後的システムの延長線上にあるものだったという。

 それでは、「グローバル・シティ」トウキョウが確立されたのは一体いつだったのか。それは、サスキア・サッセンのいう「グローバリゼーション」が台頭してからである。例えばエアポートの発達によって、「都市そのものの在立平面を、定住性から移動性へと反転させてしまっているのである。」また、「超東京化する東京では、資本のスピードが空間的な変化のスピードをはるかに追い越してしまっている。」とあるように、インフラの発達によって東京は「フロー化する都市」へと変貌を遂げたのである。

 こうした「フロー化する都市」トウキョウで起きている具体的な現象として、エスニック・ビジネスについて述べる。サッセンが言うように、グローバル・シティでは移民が増加する。そして、日本においては、その過程として「まずは先に東京に住み着いていった人が家族や親族、友人や知人を呼び寄せて、国境を越えたネットワークが形成されていくのが第一段階。新たな来住者立ちの集中が独特の下位文化世界を形成し始めるのが第二段階である。」この第二段階こそ、グローバル・シティにおけるエスニシティの特徴が現れていると言えるであろう。東京においては「90年代、池袋や新宿のアジア系外国人の生活世界は、この第一段階から第二段階へと移行する。」「流入から定着へと彼らの東京生活が長期化の兆しを見せ始めるにつれ、移住者たちに母国の文化や情報に対する需要が新たな形で喚起され、様々なエスニック・ビジネスの族生が見られるようになるのである。」そしてそのエスニック・ビジネスは「いずれも単独の地域の中だけで変化を作り出しているのではなく、いくつもの異なる地域から相互に人々を呼び寄せ、彼らのとの母国ともつながり、新しいネットワーク生み出している。」こうした現象こそが、サッセンが提唱する「グローバル・シティ」なのである。

 以上、新たな公共空間の変容の具体例として、「グローバル・シティ」トウキョウを述べてきた。そして、こうした公共空間の変容によって、日本人のナショナル・アイデンティティが揺らいでいる。こうした揺らぎに対して、どう対処していくべきなのか、著者の一人である吉見俊哉氏は最後にこう述べた「グローバル対ローカル、ナショナル対ポストモダンといったような単純な二項対立でないところに、公共空間の未来を考えるべきだと思います。」

 

 

おわりに

 こうした急激な変化に伴い、人々のメンタリティーも大きく変貌を遂げている。我々は、そうした二重の変化に伴う、更なるアイデンティティの喪失というものすごく不安的な時代に生きている。そうした中で生きていくに際して、インフラの変化に伴うアイデンティティの確立、そして、アイデンティティの変化によるインフラの整備を同時進行に展開していかなければならない。

 そして、我々はそうした不安定さを拭うための手段としての単純なナショナリズム、もしくはネオナショナリズムという安易な解決策に陥ることなく、戦後的なアイデンティティから切り離された、新たなアイデンティティを模索していかなければならない。

 

 

参考文献

『グローバリゼーション』 伊豫谷登士翁編 作品社 2002

『グローバリゼーションの時代』サスキア・サッセン著 伊豫谷登士翁訳 平凡社 1999年 

『グローバル化の遠近法』 姜尚中・吉見俊哉 岩波書店 2001

『経済のグローバリゼーションとジェンダー』伊豫谷登士翁編 明石書店 2001

『現代思想―特集サスキア・サッセン』20035月号

『思想』938号 2002

『史的システムとしての資本主義』I.ウォーラーステイン著 川北稔訳 現代選書 1985

『労働と資本の国際移動−世界都市と移民労働者−』 サスキア・サッセン著 森田桐郎訳 1992

“The Global City” Sasukia Sassen, Princeton University Press, 1991