2003春学期 小熊研期末レポート

環境情報学部3年 70146752 中嶋寿美子

(ゲイ・レズビアンスタディーズ担当)

 

クィア・セオリーとクィア・リーディング

 

2003春学期 小熊研期末レポート

環境情報学部3年 70146752 中嶋寿美子

 

クィア・セオリーとクィア・リーディング

 

はじめに

 

ゲイ・レズビアン研究というものは、様々なマイノリティー研究の中でも非常に当事者性が強く、その訴えに対して人々の関心(好奇心)は高くても共感が得られにくいものである。例えば、障害者というマイノリティーの権利のために運動することは、「障害者でない」自分のアイデンティティを否定しない。だが、ゲイ・レズビアンの権利を主張するということは、ヘテロセクシュアルにとって今まで当たり前だと思っていたものを覆すもので、ヘテロである自分のアイデンティティを壊すものであるからだ。ゲイやレズビアンについて研究することは、ヘテロセクシュアルの人々にとっては「お勉強」にしか過ぎず、運動自体になるのは難しい。やはりこれは当事者にしか出来ない研究であって、自分がゲイ・レズビアンであるという認識がない者がやるとただの文化研究になってしまい、それは同性愛をサブカルチャーとして消費しているのであって、結局は運動のじゃまにはなっても良い影響を与えるものにはなりようがないのではないかなどと考え、当初は鬱々としていた。私は自分をヘテロセクシュアルの人間であると認識しているが、それでも同じヘテロセクシュアルの女性と自分を同一化しきれない部分というものが存在する。それは誰でも皆同じだと思うが、しかし掛札氏の「『レズビアン』である、ということ」の文章などにはどきっとするほど共感する部分があり、またレズビアンの歴史の持つ複雑な経緯やホモソーシャルとホモセクシュアル、クィアという概念ということを知ったときには、ひょっとして私も当事者だったのか?という奇妙な喜びがあった。それはヘテロセクシュアルという認識を否定するアイデンティティ・クライシスと言うより、むしろ既存のヘテロセクシュアルの概念では説明しきれない部分を説明してくれたようで、非常にすっきりした気分になった。自分はホモセクシュアルではないと考えている、しかしヘテロセクシュアルの典型でも説明しきれない自分にとって、主体的に考えられる視点なのではないか。この曖昧な部分に属するものとして、プレゼンテーションの際にも最後まで残った疑問、クィアという曖昧な概念(それまでの抑圧的なアイデンティティを脱構築するという理論ははっきりしたものであるにせよ)について、ヘテロを自称する者が語る危険性も含め、その理論が実際にどういう受け取られ方をしているのか、どうあるべきなのかについてセックス・セクシュアリティともにヘテロ/女性(ホモソーシャルとホモセクシュアルの境界が曖昧な)という立場から考えたいと思う。

ゲイ・レズビアンの非対称性と女性におけるホモソーシャル・ホモセクシュアルの境界線の曖昧さ

 

女性と男性が非対称であるように、ゲイとレズビアンを同じ言葉では語ることはできない。男性同性愛者に対しては、家父長制社会の構造を揺るがす存在として社会的なホモフォビアが生まれ、レズビアンよりも一層激しい弾圧の対象となっていた。彼らが「同性愛者」であるとして排除すべき対象とされていたのに対し、レズビアンはその友情と恋愛の間に線を引かれることなく「大目に見て」こられてきた。「女性同性愛者」として差別されるということ以前に、女性として差別されることへの抵抗として運動があった。レズビアンに対する「偏見を取り除く」というよりも女性という「性からの開放」ということに焦点がおかれた、家父長制の社会に対するカウンターカルチャーとしての色彩が強いものである。レズビアンの主張はフェミニズムの「家父長制を変える」というよりも「家父長制とは別の全く新しい女性文化を主張する」という、非常にラディカルなものだった。男根主義にのっとった従来の恋愛、性愛のあり方をことごとく否定し、独特の愛し方、「女同士」というアイデンティティを構築しようとする。彼らによれば、セックスとはダンスをすること、手をつなぐこと、見つめあうことでもあった。これに対し、男性同性愛者のあいだでは挿入という行為に対する執着が非常に強く(勿論そうでない人もいるが)、肛門性交の是非がしばしば問題になる。この違いによって、80年代にエイズ問題が浮上した時にはゲイ男性はスケープゴートとなる。エイズはゲイの病気であるから心配は要りません、という対応は、多くのヘテロセクシュアルの人々にとっても危険であるとともに、ゲイ男性にとっては虐殺に等しいものであった。

 

セジウィックも述べているように、男性においてはホモソーシャルな社会であるからこそ、ホモセクシュアルを嫌う。ホモソーシャルな社会というのは女性を交換することによってできているため、女性蔑視と同性愛嫌悪は両立する。しかし、男性のホモソーシャルな世界においてホモセクシュアルというのは非常に嫌われ排除されるものという傾向が強く、ホモソーシャルとホモセクシュアルの線引きが明確なのに対し、レズビアンの歴史を見ると女性のホモソーシャルとホモセクシュアルの線引きはきわめて曖昧である。キスをすることや抱き合うこと手をつなぐこと、見つめあうこともセックス(性行為)だとするならば、これはホモソーシャルなのか、それともホモセクシュアルなのか。女性においてホモソーシャルとホモセクシュアルの境界線が曖昧であるというこの指摘に、経験的に同意する人は多いと思われる。これは一体なぜか。そもそも女性と男性が非対称なものであるということからして、女性に男性と同じような線引きをしようとすることに無理があるし、またホモソーシャルという概念が男性同士のホモフォビアと女性に対するミソジニーという家父長制の構造を暴くための機能として提唱されたものである以上、女性においてのホモソーシャルとホモセクシュアルの線引きというのは意味を持つものではない。では女性におけるセクシュアリティとは一体何か。男性と非対称であるという点からそれは挿入行為に限らないし、性に関するあらゆる感情、あらゆる行動が「セクシュアリティ」として定義される可能性を帯びてくる。

 

セクシュアリティに内在する抑圧の伝統の様式美と多様性

 

ゲイ・レズビアンとして権利を主張する上で非常に厄介な問題として、セクシュアリティが多様で、ゲイ・レズビアンとしてのそれも既にジェンダーに規定されているということがある。例えば、ブッチ・フェムという男女の性役割にのっとった労働者階級のレズビアンのスタイルを、70年代の中産階級のレズビアン・フェミニストたちは異性愛主義の単なる模倣に過ぎないとして激しく非難したし、化粧、スカート、ハイヒールなどは「隷属的な女性心理」の現れとされた。だが、個人の嗜好・セクシュアリティの中に、構築されたジェンダー役割がそれを規定するものとして存在するのは否定できない。女性の権利を主張することと、ドレスを着たい・ハイヒールを履きたいという志向、強引な男が好きという性的志向は一つのところに存在し得る。ドラッグクィーン、SMが好きな女性、女言葉を使うゲイ男性、女装/男装する人は、もちろん全ての男性が女装すべきだというのではなく、基本的に、楽しいからという自由意志によってするのである。バトラーの言うパフォーマティビティで、エージェンシーで、完全に二項対立でもないし、決定論ではない。既存の性役割に完全に依存しているのではなくて、ところどころを拾ってきてパフォーマンスする。男装/女装というものはジェンダーを転覆するためのものではない、というのは、異装には既にそれ特有のメランコリアがあるからである。いくら頭で「理想の男は女性に暴力をふるったりしない」と分かっていても、それでも乱暴な男に惹かれるということは十分ありうることで、恋愛・セクシュアリティは正論だけでは述べることが出来ない。家父長制社会が構築してきた差別は、それ自体ある種の様式美として好まれ、性的な欲望へもつながるものである。そもそも恋愛をするということ自体が人を分け隔てるということなのだから、それを責めることはできないし、避けようのないことである。こうして、個人の志向(嗜好)に刷り込まれている差別、様式美としての抑圧の伝統は、セクシュアリティとして不可侵な領域となる。

 

小谷真理は、クィア・リーディングを通して、セジウィックが指摘するような、レズビア二ズムという女同士のエロティックな愛という表象を通してそういうものを書く男たちや消費する男たちが友愛的につながっていたことに対し、現代の日本において男性同性愛の物語を描く「やおい」というサブカルチャーについては、男性同性愛を通して、女の子たちが女の子たちだけのつながりで成り立つ空間を形成していることを指摘している。「やおい」において異性愛は全く無視され、不自然なくらい男性同性愛のみが描かれている。中には普通の小説との違いが分からないようなものから、ポルノまがいのものまで、消費者は主に若い女性である。ある意味、男性のホモソーシャルな場というところに、禁忌とされているセクシュアルなものを持ち込んで家父長制をぶち壊しているともいえる。男性間における女性の交換と類似しているからといってそれ自体が性行為であるとは言いきれないが、少なくとも性的ファンタジーとしては存在するようだ。セックスがジェンダーによって規定されるとすると、このとき多くは「ジェンダー=女子高生」であったり、また「ジェンダー=OL」であったり、「ジェンダー=おばさん」であったり、少数として「ジェンダー=男性社会人」であったりする。小谷は「やおい」においてはそれぞれが自分の理想とする恋愛、セックスを描いてしまうために、みなバラバラで一つの構造に集約することはできないと指摘しているが、それらが千差万別であったりホモソーシャルなものだけを描くような禁欲的なものとポルノに近いようなものという現れ方をしたりするのは、このようなジェンダーの多様性から生じるものではないか。

 

 

クィア・セオリーとクィア・リーディング

 

クィアという言葉はそれ自体がアイデンティティの解体を目指すものであるため、「クィアとは何か」ということを定義するのは非常に難しい。自己を定義するものとして、異性愛社会におけるゲイ・レズビアンという抑圧されたアイデンティティから脱却するものとして、提唱された。クィアという単語は「変態」という意味で、元々ゲイやレズビアンの蔑称であるfaggot、fairy、lezzy、dykeなどと同様な差別的な意味を含むこの語を使うことで、ちょうどリブ運動のようにその言葉の持つマイナスの意味を逆転させるという意味がこめられている。バトラーによれば、「クィア」という語の政治的脱構築は、このような語の使用を停止させるべきではなく、この範囲を広げ、これらの語が何の費用で何の目的に使われているのかそしてどのような権力の関係性を通じてこれらのカテゴリーが精製されたのかを認識する方が理想的であるとしている。「クィア」という語の意味するところは広く曖昧である。その意味するところの広さから、「ゲイ」または「レズビアン」という枠を脱し、「クィア」な要素は誰もが潜在的に持っているものであるという考えをおこさせる、アイデンティティを攪乱するものであるという点においては、その試みは成功していると言える。だが一方ではその曖昧さゆえに、他者との違いを認めた上でそれでも「クィア」という言葉でとりあえずの連帯をはかろうという試みに関しては、あまり成功していないように思われる。さらに、「クィア」という言葉が輸入されること、翻訳の有効性という問題が生じる。日本において「変態」と言われること、あるいは「おかま」を名乗ることに比べて、片仮名で「クィア」と言われてもその言葉の持つ差別的な印象がピンとこない。そのため、わざわざ差別的なクィアという語をかかげることでそのマイナスを転覆しようというそもそもの効果は期待できない。

 

掛札悠子氏は「『レズビアン』である、ということ」の中でこう述べている。「多数派の形にもとづいて異性愛はこういうものと思われているように、多数派の形にもとづいてレズビアンはこういうものという思い込みがレズビアンの中でも作られている。だから、ある女性と親密になりたいという思いを初めて抱いたとき、女性はそれまで自分がいた「異性愛」(を正常とする社会)の円の中から「レズビアン」の円の中心へと一足飛びに変わることを要求されてしまう。自分の心のなかで起きていくわずかずつの変化を自覚し、それに従って親密さを作り上げていくということなしに。」レズビアンの中にも様々なレズビアンがいるし、ゲイの中にも様々なゲイがいる。クィア理論はその曖昧な部分で、ゲイであるけれど「ゲイ」であると同一化されるのには抵抗があるとか、どうにも納得がいかないという人々の漠然とした問いに対する答えを含んでいるものであるように思う。私が思った「すっきり」したものは、このクィアという言葉でホモセクシュアル・ヘテロセクシュアルだけでは説明しきれない部分が解けたように感じたためではないかと思う。

 

当初ゲイ・レズビアンの立場から提唱されたクィア理論であるが、その曖昧さゆえに、少しでも「セクシュアルな」部分を持つ他のクローゼットの中にいるものに対しても言及することができる。このような「クィア」の使われ方についてキース・ヴィンセント氏と小谷真理氏が興味深い議論をしている。「クローゼットっていうのは、SF大会やコミケットやオカルト教団やSMのことだと考えられるのではないか。クィアの意味を変態ととらえると、マイナー系のアングラ・カルチャーが全部構造的に入ってくるんですよね。口に出して言えない、あらゆる通常のカルチャー以外のもの全部。で、それはかなりセクシュアリティと関係のあるカルチャーだと思うんですよね。みんな黙っていて、そういうクローゼットがあること自体、見えなくなっている。だからクィア・セオリーが入ってきたときには、文化的な広がりとしてインヴィジブル・カルチャー、アングラ・カルチャー全体をとらえられる。(小谷氏)」

たしかに、ゲイ・レズビアンに限らずその他のタブー、アンダーグラウンドな文化というものも、一種のクローゼットを形成している。SF大会やコミケットやオカルト教団やSMなどのようなものは同性愛と同様に、目に見える烙印は無いし、自分と同じ「仲間」でない人間に対して「カミングアウト」するのはなかなか難しいものであると思う。ただ、これらのアンダーグラウンドなものと性的志向は別のもので、別に彼らは「SF好き」として市民権を獲得したいなどとは思わない。ヘテロセクシュアルというアイデンティティ(とも認識しない)があれば、彼らにとってアンダーグラウンドはアンダーグラウンドのままでかまわないのだ。これは先程の「やおい」などもそうで、ホモソーシャルな空間の方が居心地もよく、完全に閉じた世界である。だからラディカルな動きにはなり得ないし、アンダーグラウンドなものに対する差別や偏見をなくそうという政治的な運動にはならない。

このように「クィア」という理論はヘテロにとって、「ヘテロ」であり続けながら「ホモ」とは感じたくない微妙な違和感を解消するのに非常に使い勝手が良い。しかし、「ゲイでない」人々が共感を持って「クィア」という言葉を消費する一方で、最初に想定されていたはずのゲイ・レズビアンたちに還元されていないというところに、「クィア」という言葉のもつ曖昧さの最大の問題があるのではないかという疑問がある。問題は、日本においてクィア理論、つまり「クィア・セオリー」が「クィア・リーディング」として、同性愛以外の様々な問題についていろんな読み方をするのがどんどん広まっている中で、本来はゲイ・レズビアンのためのものであるのに、当のゲイ・レズビアンたちの間で積極的・戦略的にクィア・セオリーを使用している例が少ないということだ。

キース・ヴィンセント氏は先程の小谷真理氏との対談でこう述べている。「・・・・・・現在の日本にはそういう政治的な意味でゲイである人たちはほとんどいない。男しかいないわけですね。男であることは当たり前、支配者であることは当たり前という考えを捨てない限り、状況は何も変わらないし、男を捨てると、ゲイの存在が出てくるわけです。・・・・・・アングラもクローゼットというのと、だからクィアなんだというのとは違うと思う。クィアというのはクローゼットを出て、さらに政治的になる事が前提です。クローゼットを出ない限り、男でしかないんです。(キース・ヴィンセント氏)」

 

また、近頃(1996年出版)ゲイ男性の振る舞いや服装がノンケ(ヘテロセクシュアルである)化している、ということについて書かれたものがある。大塚隆史氏は、いわゆる「普通の男」のようなゲイが増えてきていることに対し、「ゲイは男性的ではない」という思い込みは間違っていると言い続けて来たことが明されているようで嬉しくもありながら、彼らと話しているときに感じる「自分の性的志向とジェンダーのあいだに葛藤が無い」印象には違和感も覚えたりすると述べている。ゲイの男性における「ノンケ」、つまりへテロセクシュアルの男は、ゲイやレズビアンなどを苦しめてきた存在であるとともに、性的ファンタジーとして欲望の対象でもある。このあたりは女性の、頭では暴力をふるう男なんてとんでもないと思いつつも、強引で乱暴な男が好き、などという矛盾したセクシュアリティに類似するものである。大塚氏はこれに対し、「ノンケの男」が好きで、「ノンケの男」であろうとするゲイはどうなるのか?男性優位のシステムの上に乗っかったまま甘い汁を吸うヘテロ男性と同じようなものではないかという問いを立てている。「もし、男が男に性的に惹かれることが、「男」であることを脅かさなくなったとしたら、自分を顧みる機会があるのだろうか?自分は「男」で、相手もそれをありがたがる「男」という相互関係の中では、無自覚で、男らしさの上にアグラをかいていられるという奇妙な場が提供されてしまうのだ。何か批判的なことを言う連中とは関わらなければいいのだから、痛くも痒くもない。考えようによっては、その奇妙な場は、コチコチの男権主義者の桃源郷にもなりうる。(大塚隆史氏)」勿論ゲイ男性が皆このような「ノンケ」のファンタジーを好むとは思わないし、だからといって彼らが男権主義者として批判されるのは当たらない。家父長制の抑圧の伝統が、様式美として個人の志向(嗜好)に刷り込まれている以上、それはセクシュアリティとして不可侵な領域となる。

 

しかし、この同性愛者の中から、異性愛主義を強化するようなシステムが生まれかねないという危険性はクィア理論にも言えると思う。クィアという概念の使用も、当事者であるゲイ・レズビアンに積極的に使われ、還元されるものでなければ、ヘテロの「クィア・リーディング」、同性愛をカルチャーとして消費するための道具になってしまう。当事者であるゲイ・レズビアンたちがクィア理論を積極的に使えない状態で、クィア・リーディングだけが消費されるという状況は、理論と二丁目のゲットー化にますます拍車をかけるのものではないだろうか。クィア理論が叫ばれるようになっても、日本におけるゲイたちは依然としてクローゼットの中に閉じこもったままカミングアウトできない人が多い。

当初の提唱者であったテレサ・デ・ローレティスが述べているように、こと80年代以降のバックラッシュにおいてゲイ男性とレズビアンが政治上の同盟を結ぶということ、また異性愛主義社会に抑圧されるアイデンティティを脱構築し、ゲイやレズビアン、その他性的マイノリティーの間で細分化されつつある様々な差異の上に共感を持たせるという点で、クィア理論は非常に画期的なものであった。そして一方、クィアという概念は、これまでの異性愛主義とは何かを問い直し、ヘテロセクシュアルな人々のアイデンティティを攪乱するのにも効果的であった。ヘテロの人々のアイデンティティを攪乱するとともに、ヘテロ同士のあいだでも細分化されつつある差異に共感も与える。「クィア」という言葉は、本や映画などの「ゲイでない」多くの文化、社会現象を分析するのに利用できるし、便利で面白い理論となる。ただ、クィア・セオリーがクィア・リーディングとしてヘテロに消費されるばかりで、ゲイ・レズビアンたちに政治的に利用されず、彼らに還元されるところが無いようでは、クィアという言葉が「同性愛」という「商品」を消費するための道具として、ふたたび異性愛主義社会の構造の強化に還元されてしまうという危険性も持っているのだ。

 

≪参考≫

AERA Mook 「ジェンダーがわかる。」

イヴ・K・セジウィック「男同士の絆」

江原由美子・金井淑子編「フェミニズムの名著50」

掛札悠子「『レズビアン』である、ということ」

キース・ヴィンセント・風間孝・河口和也「ゲイ・スタディーズ」

現代思想1997年5月号「ゲイ・レズビアンスタディーズ」

批評空間1996年U‐8 小特集=セックス/ジェンダー

M.フーコー「性の歴史T 知への意思」

ユリイカ1996年11月「クィア・リーディング」

ランディ・シルツ著/藤井留美訳「ゲイの市長と呼ばれた男」

リリアン・フェダマン著/富岡明美・原美奈子訳「レズビアンの歴史」

Film: Thetimes of Harvey Milk / San Francisco Black Sand Productions