2003年度春学期 小熊研究会T 期末レポート
「不登校」
〜『登校拒否のエスノグラフィー』を元にして〜
総合政策学部4年
学籍番号:70007185
念佛明奈
1.本書について
1.1著者について
朝倉景樹(あさくら かげき)
1965年生まれ逸脱・社会問題論、都市社会学専攻。本書が書かれた当時、大学院博士課程。著者は1992年4月からボランティア兼講師として週3回東京シューレに通い、その中で見聞きしたことに基づいて後半を記述している。これは学校と呼ばれるところに籍を置いてきた著者の修士論文に若干記述が加えられて本になったものである。
1.2本書の構成
本書は前半と後半の2部構成となっている。前半(本稿2章)では、構築主義の視点から<登校拒否>がどのように「問題」にされていったか、その歴史を見ていく。後半(本稿3章)では、実際の東京シューレの活動に著者自身が実際にボランティアとして関わる中で触れる子ども達の声や活動の様子から、学校を中心とした世界のどこが苦痛だったのか、そしてこどもたちのアイデンティティをエスノグラフィーという手法で見ていく。
2.構築されていった「問題」としての<登校拒否>
2.1「登校拒否問題」の構築 〜<登校拒否>はどのように「問題」にされていったのか〜
2.1.1構築主義の手法
従来<登校拒否>は精神医学・心理学の面から「原因」「対処法」を探るものが多かった。本書では構築主義のアプローチ―つまり社会問題を【ある想定された状態について苦情を述べ、意義を申し立てる個人やグループの活動であると定義し説明】する方法を用い、どういう立場の人たちがどのように<登校拒否>というカテゴリーを定義し、また再定義していたったのかが明らかにされている。
以下、<登校拒否>がどのように定義されていったかを3つの区分にわけて紹介する。
2.2第一期「登校拒否問題」の提起(1950年代中頃〜1970年頃)
この時期は児童精神科医や心理学者が中心となって、<登校拒否>の病理としての定義づけがおこなわれ、問題提起されていった時期である。
アメリカでは1940年代には研究が発表され学会で議論されていたが[1]、日本での研究の始まりは1950年代末の児童精神科医によるとされる。京都大学医学部精神科の高木氏他[2]は1958年、59年の「長欠児の精神医学的実態調査」という報告の中で「登校忌避」というコトバを使い「分裂病の初期症状であることも少なくなく、ともかくも一番具体的な学校集団に対する適応障害である。」と病理として定義した。その他、鷲見たえ子氏は1960年に発表した「学校恐怖症」という論文の中で「疾病その他の止むを得ない理由のある場合をのぞき、登校できる条件の下にありながら、登校を拒否し、あるいは自ら登校しようとしてもできない児童があるとすれば、それだけで問題であるといわなければならない。」と述べ、ここでも学校恐怖症(登校拒否)が病理として定義されている。
これらの文章からこの時期<登校拒否>が病理であると専門家によって定義付けられていたことがわかる。ここで使われている<学校恐怖(症)>と<登校拒否>という言葉は、高木隆郎らによって「まず全ての年齢を含めて、保護者のすすめにもかかわらず心理的な理由で子どもが学校(便宜的に幼稚園を含めてよい)へ行くことを拒む現象」を<登校拒否>とし、「年長児においては、学校にいかねばならぬという自覚、または学校に行きたいと言う意思をもっているにもかかわらず、神経症的な心理機制のために登校不能になることが大部分であるので、その際に見られる、特有な神経症茸状」を<学校恐怖症>と呼ぶことを提案された。その後平井信義らによって、登校拒否のずべてが神経症の一種である恐怖症のメカニズムで説明できるわけではないので『学校恐怖』という名称が適当でないとされ、その後は<登校拒否>という言葉が一般的に使われるようになった。
さて、当時のマスコミによる報道記事は決して多くないが、その中でも多少の例外を除いて<登校拒否>を病理として捉え、治療の対象としていることに特徴がある。それは報道の情報源が児童精神科医や心理学者であり、ほとんどが彼等専門家の話しをもとに書かれた「登校拒否問題」の紹介記事であることの影響と言えるだろう。専門家とマスコミの違いは前者が精神科の医者や学者を対象に問題提起をし、後者は市民一般を対象として問題提起している点にある。
2.3第二期 実践的対応期(1970年頃〜1980年代半ば頃)
第二期と区分されるこの時期になって教育や精神科の専門家ではない人たちが登校拒否問題に対応すべく登場してきた。つまり非専門家たち(行政・その他の人)が「登校拒否問題」に参入し、<登校拒否>をしている子の「内に原因がある」とし登校拒否を「スパルタ教育」で「直す」ことを目指した。象徴的なのが戸塚ヨットスクール事件[3]である。当時、この事件に対してのマスコミの反応は「行き過ぎた指導」であるという批判が主流であり、登校拒否を治療の対象とすることに対する異議はみられなかった。
さらに非専門家の対応として、他に文部省の取り組みもはじまった。生徒指導資料(1971)の中に独立した項目として「登校拒否」が登場する。資料によると、<登校拒否>の原因は「本人の自我の形成の破たん」「親の態度」(本人の性格傾向・家族関係)だとされ、対処法として「より権威的に登校を指示すること」「もっぱら受容的なカウンセリング」などの成功例があげられた。この時期からは「登校拒否問題」が生徒指導の中心的課題となってくる。
そのほか、体育学者などによるキャンプ療法というものもおこなわれた。不登校児が「健常児との対人理解・対人関係向上をはかるための健常児との統合キャンプ」で、早期の学校復帰を促進するのが目的であった。
同時に第一期に出てきた精神科医・心理学者の取り組みも多様化してきたのが第二期の特徴である。その一つとして、1973年には国立国府台病院内で、「希望会」が誕生した。「希望会」は精神科医、渡辺位が「子どもの立場が危機に瀕しているからといって、医療を行うものが抱え込むのではなく、本来子どもが位置づけられていて当然の場の中に位置づける、つまり、親のもと、家庭の中、社会の中で安定が得られるように援助すること、それが児童精神科医療で最も望ましいことなのだ」という考えから1971年に始めた集団面接に端を発する。この家族への集団面接がきっかけとなって、登校拒否の問題解決は家族自身が考えなくてはいけないという考えから、登校拒否状態に陥った子どもを持つ家族の集まりとしての「希望会」は始まった。
2.4第三期 登校拒否は病気じゃない(1984年〜)
第三期では当事者による<登校拒否>のカテゴリーの定義をめぐる攻防が見られる。この時期、専門家でも第3者でもなく、<登校拒否>をしている子ども、そしてその親たちが新たに加わってきた。
第二期で発足した「希望会」は病院内の施設であり一般の人は入れないため、登校拒否をするこどもをもつ親たちを中心として「登校拒否を考える会」が1984年に発足した。その翌年、「登校拒否を考える会」によって、登校拒否をした子どもたちの学校外の居場所として、東京シューレ[4]が設立される。(1985年)
彼らは<登校拒否>を病理と見る見方やそういった見方に基づいた対応への異議申し立てを行っていく。「三〇代まで尾引く登校拒否症 早期完治しないと無気力症に 複数の療法が必要」朝日新聞記事(1988年)に対して「登校拒否を考える会」は記事へ反論する投稿と、会見の申し入れを行った。
そこで、@登校拒否を病理ととらえないあり方に触れず病理ととらえるあり方のみを報道した、A登校拒否をしている、あるいはしたことのあるものの名誉を毀損している点に配慮がない、他、などのことに関して朝日新聞社会部代表との話し合いをするなど、積極的に活動を展開する。
では、実際に<登校拒否>をしている子どもはどうだろうか。この時期、史上初の<登校拒否>をしている子どもによる登校拒否のアンケート結果が新聞に取り上げられるなどして、<登校拒否>をしている子どもたち自身に意思表明の機会がマスメディアの中で提供されることになったことが注目される。
この頃から、マスコミでも登校拒否を「治療」の対象とする記事より「登校拒否は病気じゃない」とする記事が急増している。
以上のように、専門家の問題提起による第一期、専門家でない人たちも対応にのりだしてきた第二期、登校拒否の当事者である子どもや親が出てきた第三期と、<登校拒否>が構築されてきた様子、つまり様々な人々によって様々に定義されてきたことがわかる。
3.東京シュ―レのエスノグラフィー・秩序のあり方、アイデンティティ
著者が1994年4月からボランティア兼講師として週3回フリースクールの「東京シューレ」に通い、その中で見聞きしたことの記述と、子どもたちのアイデンティティについての記述を紹介する。その記述から子どもたちが抜け出してきた、はじきだされてきた学校を中心とした世界のどこが苦痛だったのかについて明らかにする主旨を著者は持っている。
3.1フリースクールとは
元々、フリースクールと呼ばれるのは欧米で発展した私立の学校で、生徒の自由・自主を重んじることを教育理念とし、個性を育てる芸術教育を特徴としている。ルドルフ・シュタイナーのシュタイナー学校、アレキサンダー・ニイルの「サマーヒル・スクール」が中でも有名で、本国のドイツ、イギリスだけでなく、世界中に学校を持っている。
しかし日本でフリースクールと名乗っているところは必ずしもこうした自由主義教育の名の下につくられたわけではない。日本のフリースクールには2つの成り立ち[5]がある。
@ ニイルやシュタイナーなどの欧米の思想と実践を学んだ人たちが、既存の学校教育とは違う教育を目指して設立したもの。
A 深刻化した不登校現象に対応するために、不登校の子供をもつ親たちの手で子供の居場所をつくっていこうという動きからつくられたもの。
この本で取り上げられる「東京シューレ」は後者のフリースクールであり「学校外の居場所」として、主に<登校拒否>をしているこどもたちが通ってくる場所である。
3.2学校外の居場所のエスノグラフィー[6]
3.2.1
本書で収められていた東京シューレの「秩序」を表すものの中から、いくつかを紹介する。そこから彼らが抜け出してきた「学校」のどこが苦痛だったのかを明らかにしたい。
a.呼称
〜さん、〜君というような呼称は、普通の学校であれば性別や親しさよりも「学年」という軸が大事にされる。学年が上であればいくら親しくても「○○先輩」という呼び名が優先される。東京シューレでは学年という区切りは一応あるが、先輩という呼び方はしない。同級生に対するのと同じような呼称でよぶ。同様にスタッフに対しても「先生」とはよばず「○○さん」とよぶ。
子どもたちが学校でいやなこととしてあげている「学年にもとづく上下関係」や、男女の垣根が高いことが東京シューレでは解消されている、つまり学校と東京シューレが写真のネガ・ポジの関係であることがお互いの呼び方からわかる。
b.授業
授業の内容は授業参加者と講師との話し合いで決められ、形式として講師と子どもの双方から発言があるというだけでなく、内容についても双方が関わって決めるというのが特徴である。勉強したい人が勉強したいと思うことについて、勉強したいときに勉強する、ということを講師との関係においてなるべく実現しようとする東京シューレと既存の学校が、写真のネガ・ポジの関係にある。
c.「強制されない場」としての東京シューレ
東京シューレには3つの理念「自由」「自治」「個の尊重」がある。「強制されないこと」を尊重し、授業は参加者とスタッフの話し合いで何を学ぶかを決め、校則が存在しないかわりに問題が起こったときはミーティングで解決するという手法をとっている。たとえば、強制されないことの象徴として、学校では全員参加の掃除の時間はやりたい人だけが掃除をし、やりたくない人はやらない、という方針などがある。もちろんシューレにくる、こないも自由である。これも既存の学校とネガ・ポジの関係にあると見ると、学校には「自由」「自治」「個の尊重」が「ない」ということになる。
3.2.2学校に囲い込まれる学齢期の子どもたち 「家庭の学校化」
このように見てくると、こどもたちが学校について感じている強制は、学校における人間関係や授業などの学校の活動についてであることがわかる。
しかしそれだけではない。子どもたちは「学校」について感じていている強制を「親」や「家庭」にも感じている。それは子どもたちが学校から帰ってきてウチにいても、塾にいったり、ゲームセンターで遊ぶときも「学校」にいっている子であることに変わりはないという意味である。
3.3<登校拒否>をしている子どものアイデンティティ
3.3.1子ども自身のアイデンティティ
東京シューレに通う子が自分をどのように定義しているのか。自己定義はおおきく3つにわけられる。
a.「学校に行けなかったもの」
特にシューレにきて日が浅い子に多いといわれる。「学校はいったほうがいいところであり、自分はその学校に行けなかったものである」と登校拒否をしている自分を定義する。
b.「今は学校に行ってないもの」
「私は学校にいけないんじゃなくて、学校にいっていないんだけど、学校に行かないことに決めたわけじゃない」という自己定義。彼らはたとえば将来のことを考えるような圧力がかけられたとき、社会の主流である学歴によって職を得、自分の地位を獲得していく土俵に戻るかどうか、中学はもう行く気がしないが高校は行こうかどうしようかと考える子どもたちである。
c.「学校に行かないことを選んだもの」
学校に行かないで生きていく、高校卒業・大学卒業の肩書きを持たずに生きていくことを選んだ子どもたちで、高卒、大卒の学歴なしに社会にでていくことに対して強い不安を抱いていない子という。
この3つの種類の自己定義は固定的なものではなく、他の登校拒否をしている子と交流することで多くの子どもたちは自己定義を変えていく、流動的なものだと著者は言う。
3.3.2文部省認定による新たな圧力
1992年、文部省が、学校外の居場所に通った日数を学校での「出席扱い」にするとしたことで、「学校に行かないのなら民間施設にいきなさい」という新たな圧力がうまれた。これによって、登校拒否に対する自分なりの心の整理がついていない子どもたちが多く東京シューレにやってきたのだが、このような形で「学校」に行っていない子たちにも学校に囲い込もうとする力が及んできていると著者は述べる。
このように学校とネガ・ポジの関係にある東京シューレという場を「学校」が侵出してきていることを提示して本書は終わる。
4感想
本書と並行して読んだ小熊研OGである貴戸理恵さんの当事者による不登校論から、朝倉氏のエスノグラフィーで見る構造とは別に「当事者」という言葉の力を知ることになった。そして、その後研究会Uで発表された貴戸さんの修論構想「(仮)不登校経験の当事者による意味付けとその変容」によって不登校「当事者」の「当事者」という言葉をめぐっての葛藤が予想以上に<不登校>経験者(朝倉氏のいう「子ども」だった人々)のアイデンティティを規定していることを感じた。
@ 東京シューレの内部での立場による「子ども」たちの違い
A @を細分化した、または拡張した貴戸さんの論じる「当事者」という言葉をめぐるアイデンティティの違い
B その東京シューレに来ている子の親のように「ある程度経済的に恵まれ熱心に情報も集める親」を持たない不登校児との間に存在する違い
大雑把にみても<不登校>を一言で語ることが不可能であるということが分かった。
現時点においては<不登校>という言葉自体の定義も難しくなっている。親に放置され学校に行かない子どもや、学校だけでなくすべてから「引きこもる」人の数が増加してくれば、学校に行かない子どもを全て<不登校>と呼ぶ根拠は崩れるからだ。
この先<不登校>と呼ばれる現象がどのように定義されていくのか、各自のアイデンティティがどのように構築されていくのかに興味を持つ。
参考文献
『登校拒否のエスノグラフィー』朝倉景樹 1995年 彩流社
当事者による不登校論 貴戸理恵 2003年 エッセイ(?)
「(仮)不登校経験の当事者による意味付けとその変容」貴戸理恵 2003年 修論構想
[1] 「どちらかというと高学歴で社会全体のレベルが高いところに発生しやすいといわれており、一種の文明病、分果病とも考えられていた」服部祥子、「登校拒否を考える」、『文部時報 特集 学校不適応と登校拒否』1989、第1346号、11p.
[2] 川端利彦、田村貞房
[3]戸塚ヨットスクール事件;ヨット訓練は情緒障害児に効果があるとして戸塚 によって愛知県美浜町に開設されたヨットスクール。そのスパルタ教育の中で当時13歳の少年が79年に死亡(病死として不起訴)。80年に当時21歳の青年が死亡。82年8月には奄美大島での合宿の帰りにフェリー「あかつき号」から、当時15歳の二人の少年が太平洋に飛び込み行方不明に。同年12月には13歳の少年が死亡した。戸塚被告は83年6月に愛知県警に逮捕された。
[4] 「東京シューレ」は1985年6月に主宰の奥地圭子によって東京都北区東十条に開かれたフリースクール。1991年3月に北区王子に移転。設立にあたっての設立者の目的として「学校外の学びの場所を作り出し、子どもが自由に通ってくる居場所」を作る、管理や競争などに「追い立てられずにのびのびと、自分の意思と感性を大事にしあいながら、自らの成長力を発揮していけるような場を実際上つくりだす」という考えを持っていた。
[5] 最近はフリースクールという名称で学習塾などを経営するところも出てきているためこの二種類の成り立ち以外のフリースクールが存在することを押さえておく必要がある。
[6]エスノグラフィーというのはもともと人類学の用語で、研究対象集団の外からではなく、観察者自身が集団内に入って「参与観察」(=「フィールドワーク」)した結果を文章にまとめたものである。民俗誌とも訳される。集団を内側からミクロな視点で切り取り、細かなディティールをすくい上げて内部の構造を明らかに出来るため、閉じられた小集団を知るための有効な方法と言われている。