小熊研究会1 最終レポート

『論争・中流崩壊』まとめ

 

 

総合政策学部3

学籍番号  70102110

ログイン名 s01211yo

小谷吉範(おだによしのり)

 

T.はじめに―本レポートの目的

 私は、今学期小熊研究会Tにおいて現代日本の失業問題をテーマとして中公新書ラクレ『論争・中流崩壊』の発表を行った。本レポートでは、中論争の議論を整理・要約し、さらに現代日本の中で中流崩壊が議論されることそれ自体の意味を考察することを目指す。

 

U.本論―論争の中身の整理

(1)「中流崩壊」の流れ、議論の軸

まず、『論争・中流崩壊』の中で定義されている「中流崩壊」論争の全体像について整理する。論争の発端となったのは、1998年に出版された橘木俊詔京大教授の『日本の経済格差―所得と資産から考える』である。同著の中で橘木は、ジニ係数を用いた経済学的分析によって日本社会の不平等度が高まっているという実証分析を紹介した。橘木の説は、後に大竹文雄大阪大学助教授らによって批判を受けているが、不平等が印象論で語られる中でデータを用いた実証分析を行っている点で、大きなインパクトを与えたといえる。この所得を用いた分析は、中崩壊論争の中で中心的な論点の一つとなる。続いて1999年に刈谷剛彦東京大学教授は、高校生を対象とした調査をもとに、親の学歴によってこの学歴が影響を受け学歴が再生産されていると指摘した。また、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)を用いた社会学的調査を行ったのが原純輔や佐藤俊樹である。東京大学助教授の佐藤は、2000年に『不平等社会日本』を出版し世代間で階級の再生産が進んでいることを指摘した。これに対しては、盛山和雄東大教授によって「中流崩壊『物語』にすぎない」という反論が行われ佐藤氏はこれに応えている。

不平等化が提示され、日本社会の不平等化に対する現状認識に対して議論が交わされる中で、所得・地位の不平等化を問題視し格差を是正して「活力ある日本社会」を目指す論者がいる一方で名目的な「平等」、モラルのない画一的な競争を批判し「社会的責任を自覚した」エリート層を生み出すべき、とする論者が表れた。櫻田淳の「今こそ『階級社会』擁護論」はその代表である。このように階層分化を

以上が、論争の大まかな論点である。以下では、経済学的現状分析と階層分化を廻るモラル論を軸としてその議論の詳細を整理する。

 

・補足:「中流崩壊」と「不平等の拡大」の使われ方に対する留意

論争の中で使われている「中流」とは、70年代後半から80年代初めにかけて行われた「中」論争の中で登場した村上泰亮の新中間大衆論をもとにしている。高度成長期に「みんなが中間階級」という議論が登場し、異論を受けながらもそれに変わる概念は提示されることがなかったことで日本社会が「平等」社会であると一般に思われてきたという点に関しては、どの論者も一致しているといっていいだろう。議論の中では、「中流崩壊」や「中流層の崩壊」、「階層分化」、「階級社会化」、「不平等化」、「不平等度の拡大」といった言葉が各論者によって微妙にニュアンスを変えて使われている。言葉の使われ方によって、議論がかみ合っていない部分も見受けられるためこれら言葉の指す意味には留意を必要とすることを指摘しておく。

 

(2)論争の中身

@)現状認識―経済学的分析、社会学的分析

 前項で整理したように、日本社会に対する現状認識に関しては経済学的、社会学的な統計を用いて議論がなされた。ここでは、それぞれの主張と反論を整理する。

所得再分配の不平等化に関しては、京都大学教授の橘木俊詔がジニ係数を用いた経済学分析によって実証している。ジニ係数とは、所得分配の不平等度を表す指標である。0から1の値をとり、完全平等の時に0、一人が全所得を占めるような不平等の時に1となる。ジニ係数を用いた国際比較では、アメリカが最も不平等、ヨーロッパの大国(イギリス、フランス、ドイツ)がそれに続き、最も平等なのが北欧や中欧の小国であるとされる。橘木の説では、日本は戦後2030年の間北欧並の平等度を保ち、特に高度成長期に関しては平等度と経済大国としての効率性が共存するという特徴をもっていた(橘木はこれをもって「平等神話」とする)。それが、1980年頃から不平等度が拡大し今ではヨーロッパの大国並の「普通の国」になった、ということである。それに対して反論したのが、大竹文雄大阪大学助教授である。大竹の反論の柱は、ジニ係数の不平等化を日本の人口高齢化による名目的なものとしていることである。日本の年齢内賃金格差は、年齢層が若いほど小さく、高くなるにつれて高まる特徴を持っている。これは、初任給の格差は少ないが、年齢を経るにしたがって、昇進格差・査定による格差・企業規模格差などが広がるからである。大竹は、斎藤誠大阪大学助教授と共に厚生省の『所得再分配調査』をもとに行った分析により、80年代の不平等度上昇の30%程度を人口高齢化によって説明できたとする。また、分析に用いる所得の定義についても議論となっている。大竹は、橘木が日本のジニ係数計算に用いた『所得再分配調査』の当初所得が公的年金の受け取りを含まないが退職金や保険金のを含むことを指摘し、アメリカの課税前所得との比較にバイアスが生じるとする。それに対して橘木は、自分が重視するのは社会保障の貢献分を考慮した再分配所得なので比較に問題はないとして譲らない。このように、データの使い方、分析の面で両者は議論を戦わすが大竹の論旨は、中流の「崩壊」といった表現や「アメリカ以上の不平等」という現状認識が大げさであり冷静さを欠くということであり、そもそも趨勢としての不平等化自体を否定しているわけではない。そして、これは橘木の「日本はアメリカに次ぐヨーロッパの大国並の不平等度になった」という主張と矛盾するわけではない。橘木と大竹の議論は、趨勢としての不平等化を社会構造自体の危機と捉えるか否かの違いなのではないだろうか。

次に、地位の世代間再生産についての細目を整理する。そこで用いられるデータは、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査)である。SSM調査とは、1955年以来10年おきに社会学者たちによって共同で調査され、日本全国の2069歳の人を対象に、その職業キャリア、学歴、社会的地位、両親の職業や学歴など、かいそうにかかわるさまざまなデータを集めたものである。佐藤俊樹は、村上泰亮の新中間大衆論を70年代以降日本の「中流」に対するデファクト・スタンダードとして、日本が「がんばればみんなが中流になれる」社会であったとする。佐藤の論では、従来の「中流」意識が実体として「みんなが中流」なのではなく「みんなが中流になりうる」可能性が社会に広く共有されている状態と定義づける所に特徴がある。「中流になりうる」可能性が共有されている状態とは、言い代えると「よい学校をでてよい仕事につく」ことが目標として多くの人に共有されていた状態である。佐藤は、SSM調査の分析にあたって、人々の目標としての「よい仕事」として企業の管理職、専門職(分類上は、ホワイトカラー被雇用上層と呼ぶ、以下略してW雇上)設定し父親がW雇上である人がどれだけW雇上になりやすいか(この割合をオッズ比という、010の値をとり数値が高いほどなりやすい)に注目して分析を行った。このオッズ比を調査時点での調査対象本人の現職に関して見ると、1955年調査の10近い数値が順調に低下し75年以降は4付近で安定しており、W雇上になれる可能性が多くの階層出身者に開かれてきたと見ることが出来る。しかし、佐藤がここで本人の現職ではなく40歳時点での職業に関して同様の分析を行ったところ、85年調査の時点で40歳台である192645年生まれまでは順調にオッズ比が低下しているものの、1995年調査の時点で4059歳である193655年生まれの人では反転してほぼ8まで上昇している。佐藤によると、この結果が示すものは、「中流」階層の実体化である。戦後、経済的理由からの教育機会の格差が小さくなり誰もが学歴によって中流になる「可能性」を共有した。しかし、機会の平等のもと行われた競争の結果、「中流」に実際に「なれた」人が確定しそれが固定化され始めたということである。佐藤は、この他に選抜システムへの評価として「いまの世の中は公平だと思いますか」という質問への回答結果を提示する。そこでは、父がW雇上でない人の方がそうである人に比べて不公平感を持っている結果が示されている。佐藤の論旨は、上昇への可能性の共有が崩壊しつつある現状は「自由で活力ある競争社会」にとって危機である、ということである。

これに対しては、盛山和夫東京大学教授が「中流」崩壊は、十分な証拠のない「物語」に過ぎないとして反論している。盛山は、まず佐藤とは階層区分、本人職の測定時点を変えた分析によって階層閉鎖化傾向を否定する。また、サンプル数の少なさから佐藤の分析の有意性に疑問を投げかける。盛山は、SSM調査は全体としては十分なサンプル数を確保しているが、佐藤の分析のように年齢を限定して特殊な分析をしようとすると極端に少なくなってしまうという。実際に、40歳時職が分かっていて、しかも父階層がW雇上である40,50歳代のサンプルは、85年で68名、95年で42名に過ぎないという事実を提示する。ただし、「中流崩壊は『物語』にすぎない」で述べられているように、盛山の主張は、佐藤の分析の正否を問うているのではなく、佐藤の分析結果がSSM調査のデータからは判断できない、というものである。むしろ、盛山の論旨の中心は、村上泰亮の呼んだ「新中間大衆」がいつのまにか「中流」と呼びかえられ、安易に「階級社会化」が語られる状況に対する批判である。「階級社会化」の是非に関しては次項で詳しく整理する。

 以上のような、佐藤の指摘した社会階層の固定化は、実証的なレベルでの正否とは別の部分で、エリート擁護論者などによって日本社会の「階級論」を含め、競争社会そのものを問い直す議論を誘発する結果となった。

 

A)モラル論―「社会の固定化」「階層分化」「階級社会化」

現状認識として、日本社会の不平等化が進んだか否かについては上で整理したような議論が存在する一方、それと平行して日本社会のあり方として階層分化を容認する立場と認めない立場の論者が存在する。

前項で登場した盛山和雄は、「中流崩壊は『物語』にすぎない」の中で「階級社会にはなりえない」という項を設け、不平等化による階層分化によって日本が「階級社会化」する可能性を否定する。盛山は、まず階級を以下のように定義づける、「階級は、@職業を中心とする社会経済的な地位の区分が、主要な政治的な利害の対立を構成し、政治的変革を志向した集団を構成する基盤をなしていて、Aそれぞれに「ふさわしい」生活様式や生活機会の違いがあり、その違いが規範的に広く人々によって認められているときに表れる。」。そして、戦後の日本社会がこのような身分制や階級社会性を徹底的に消滅させて発展してきた背景を語る。そのように極端に身分的閉鎖性のない日本においてデータの上で相対的に「閉鎖性が増した」としても、絶対的な水準ではとても「閉鎖的」とは言えない、というのが階級化に関する盛山の論旨である。その上で、盛山は今後の動向として、これまで年功序列と終身雇用によって保護されてきた大卒男子サラリーマンが競争化されることによって日本社会は流動性を増すだろうとし、そのような社会に必要なのは「若い世代により多くの機会と希望とを与えることができるような未来を構想することだろう。」として締めている。最後の言葉に示されているのは、不平等の拡大を「希望(がんばる意義)」を与え「機会(自由競争の前提)」を与え競争によって流動化を図る、というのは、いわばこれまでの経済成長の図式を効率化によって再び活性化させるという方向性である。多くの論者は、現状認識の立場によらずこの前提にたっているといえる。佐藤俊樹は、階層固定化の実証の中で「自由で活力ある社会」という言葉を使い社会の流動化を志向する。精神科医の和田秀樹と東大教授の野口悠紀夫の対談では、世代間の資産継承を廃して自由競争を促進する手段として相続税の強化を議論している。橘木俊詔は、競争社会の激化に対応したセーフティー・ネットの整備を訴えている。

上に述べた、競争社会という枠組みを前提とした論者に対して、競争におけるモラルの欠如という観点から社会に責任を負うエリート層を求める論者もいる。特に、正面から階級社会化を指向する論者として、評論家の櫻田淳がいる。櫻井は、「中流階級」を「富を獲得する欲求」と「現有する富が失われることへの恐怖」の双方を持つ階級、と定義している。つまり、どれだけの所得を得ているか、や社会的地位の区分ではなく、「富」に向かっていく姿勢を指すことになる。この定義は、そのまま新中間大衆の特性と合致するといえる。つまり、共通の目的としての「中流」「よい仕事」を目指し同じ選抜システムの中で「競争」し合うという特性である。この前提にたって桜田は、現在日本に進行しているのは「中流の崩壊」ではなく「中流の飽和」である、と表現する。つまり、同じパイを廻って競争してきた「中流」層が経済不況などによってパイの拡大が止まったことによって、いわゆる「もてるもの、もたざるもの」が区別されるようになった状態である。櫻田にとって何よりも問題なのは、「中流階級」は「富」を渇望するが、実際に富を得て社会の上位層に入れたとき(櫻田はこれを「努力してナンとかなった後にどうするのか」と表現している)にその地位において社会に果たすべき責任意識(モラル)を持っていない、ということである。富に対するモラルの不在がもたらす弊害を端的に表す例として、櫻田は「バブル狂乱」の時期にある製紙会社会長がゴッホの絵画を私的に購入し「死んだら棺桶の中に一緒に入れてほしい」と語ったエピソードを挙げている。櫻田は、「中流階級」が社会の中で優勢な位置を占め続ける限り「富・金銭を超える価値」が全面に浮上するのは、難しいと考える。このような認識にたつと、経済再生によるパイ自体の拡大や効率化、相続税制による社会の流動化策によって自由競争を促進し所得の不平等化や地位の再生産を是正することは、モラルの不在という根本問題は解決できないことになる。そこで、櫻田は「社会に規範を示す責任を担う」「エリート」や「選良」を意図的に育成し、日本に真の「階級社会」を復権させるべきであるという論を唱える。櫻田の階級社会論は、大胆で社会のあるべき姿自体を問い直している点で興味深いが、競争社会を階級社会化へ向かわせる動機付けやエリートの持つべき「規範」がいかなるものであるのか、という点がはっきりしないという意味で現実性が低い議論といえるかもしれない。

 

V.考察―論争の社会的意味とは何か?

 前項までで本書における論点を整理した。では、そこから中流崩壊論争そのものの社会的な意味付け、また現代の日本社会における労働の意義をどのように考えることが出来るだろうか。

佐藤俊樹は、「それでも進む『不平等社会化』」の中で、「機会の平等度は、ある不平等要因が働いたかどうか、でしか図れない」と述べている。同じように、どのような社会においても完全な「平等」という状態は、存在しないといえる。「平等」度は、その社会の中で「不公平感」を感じる人がどれほどいるかによって決まる、といってもそれ程的外れではないのではないだろうか。戦後日本においても、機会の平等と結果の平等を標榜し誰もが上昇を目指してがんばるというコンセンサスが得られていたとしても、つねにそこには実体としての格差は存在してきたはずである。実際、橘木俊詔は高度成長期の日本の実体としての平等度に疑問を投げかけている。佐藤は、「透明な他者のあとで」の中で赤坂真理の「皮膚感覚としての階級感」という言葉を引用しているが、現在日本社会の中で人々が直面しているのはこのような捉えどころのない、感覚的な、しかし、実感としての格差なのではないだろうか。その原因は、盛山和雄の言葉を借りると「ここ数年の不景気と将来に対する不安」にあるではないだろうか。佐藤や橘木は、この実体のない不安を理論付けようと、説明を与えようとする人たちなのではないかと感じられる。私は、大竹や盛山よりも、佐藤・橘木により共感する。それは、私自身が格差を「皮膚感覚」で感じているからなのかもしれない。社会の固定化の是非に対する唯一の「答え」は、結局論争では提示されていない。しかし、論争は日本社会に生きる成員に競争を生み出す仕掛けを暴いて見せた(実際は、先に出てきた現象を説明したのだが)といえるのではないか。各論者の挙げる具体的な政策を見ると、今後も「富」を求めて競争を続けるシステムを延命させることは、十分可能であるように思われる。しかし、個人の幸福や、生きがいを考えたときにはそのシステムから降りることも、「選択」の問題となるのかもしれない。ダメ連の存在などは、その可能性を示唆している。本書の最後に掲載されている山崎正和の「平等感のある社会へ」の中では、「本来、人間はたんに所得によってではなく、他人の認知によって生きがいを覚える動物であった」と書かれている。このような考え方、「競争をおりる」人たちのよりどころは、いわば「心の」セーフティネットとして常に必要とされていくだろう。

 

参考文献:『論争・中流崩壊』(「中央公論」編集部編、中央公論社、2001325日)

     『不平等社会日本』(佐藤俊樹、中央公論新社、2000615日)

     『日本の経済格差』(橘木俊詔、岩波新書、1999年)

     『だめ連宣言!』(だめ連、株式会社作品社、1999225日)

     『仕事のなかの曖昧な不安』(玄田有史、中央公論新社、20011210日)

     『論争・学力崩壊』(「中央公論」編集部、中央公論新社、2001325日)