03年度 春

小熊ゼミ1 最終レポート

 

朝鮮半島情勢の経過と「在日」への視座

光復後1945年から90年代まで

 

総合4年 70007809

佳那

 

はじめに

 「在日」を主題とした講義では、「『在日』研究そのものも、90年代後半から転換期に移行しているのかもしれない」との先生のご解釈を伺った。アイデンティティ論議もこれからどうなるのか見当が付けられないのは、「在日」当事者である筆者自身も同じである。今後の予測をする上で、その前提となるこれまでのアイデンティティ論議はどうであったかについては、本講義の発表でも触れられていた。そこでは、「在日」当事者、または日本人の日本における、「在日」のとらえかたの経過をを、史実とも重ねあわせておおまかに認識できた。

 ここでは、よくいわれる「朝鮮半島からも日本からも見捨てられた『在日』」の前者について触れてみたい。韓国の近代史のなかで、「在日」がどう位置づけられていたのか整理してみるのが目的である。そこから今後のアイデンティティ論議の一石、また日韓両国民、在日の内面的な関係の行方なども推察してみたい。

 

1.光復後における韓国と「在日」の位置づけ

19458月の日本の無条件降伏により、朝鮮半島は36年間に渡る日本の植民地支配から脱却した。しかし疲弊した国土は、絶望的な状況におかれていた。そして89日のソ連参戦を受け、日本軍の武装解除は、38度を境界とし、米ソに分かれて行われることになった。

民族主義左派の呂運亨(ようにょん)9月に朝鮮人民共和国の件告を宣言したが、この政府は左翼主導であったことも影響して、上陸してきた米軍により、これを否定された。その後朝鮮半島の政府をどのようなものにするかについての話合いは、米ソの主導権争いによってことごとく失敗する。結局1948年には朝鮮半島を南北に分断して二つの政府が樹立される。その後両体制は、中道的な民族主義を排除し、左右それぞれの立場で先鋭した体制を確立し、ますます分断を固定化することになる。

1950625 、北朝鮮人民軍が38度線を越えて南侵してきたため、朝鮮戦争(韓国では、韓国動乱、六・二五動乱)が開戦する。この3年あまりの闘いにより、あわせて200-300万の人命が失われたといわれている。19507月には米国を主軸とする国連軍が参戦し、9月には、マッカーサーの仁川上陸作戦によって、ソウルが奪還され、さらにピョンヤンまで占領する。これに対し10月には中国共産義勇軍が北側に参戦し、巻き返しをはかる。その後はソウルをめぐり両陣営の攻めぎあいが続けられ、19511月に北側がソウル再占領、南側は三月に再度ソウルを奪還する。こうした激しい応酬により、朝鮮半島は2度ローラーで押しつぶされたといわれるほど、甚大な被害を受けることになった。

ようやく19516月になって、ソ連が休戦を提案されたが、その後も両陣営は主導権をめぐって激しく戦い、ようやく板門店で休戦協定が結ばれたのは、2年後の1953727日のことである。

さて、当時における「在日」の人々の立場はどのようなものであったか。まず光復の時点で、すぐに帰国する方向に舵をとるのは、かなり困難なことであった。すでに家族ぐるみで移住してきていた人々の多くにとってみれば、故郷に資産はなく、日本に築いた生活基盤を捨て、無一文からスタートすることは無謀すぎる選択であった。しかもそうこうするうちに、上に見るような朝鮮半島の混乱があっという間に顕在化する。そして1952年、戦争によって朝鮮半島が混乱のさなかにあった頃、「在日」の人々の国籍は、完全に剥奪される。

しかしこうした苦難の歴史があるにも関わらず、朝鮮半島で戦乱を潜り抜けた人々からすれば、「在日」の人々は日本で難を逃れた人達であり、これにより韓国の人々と「在日」の距離を、徐々に遠いものにした。ただし韓国政府は、あとに述べる日韓予備会談などの席上で、「在日」の待遇改善を要求していた。この会談の主要なトピックとして、「在日」問題があったということは、この時点での韓国における「在日」問題への関心は、必ずしも低いものであったわけではないといえよう。

 

2.李承晩(いすんまん)時代(48年9月〜60年8月)の韓国と「在日」の位置づけ

休戦によって緊張関係は固定化され、政治的には自由よりも「生き残り」が優先された。そして韓国では、長い間軍事独裁政権が維持され、反共・勝共が前提とされる社会が構築されていく。思想・信条の自由は、ほとんど顧みられることがなかった。

李承晩大統領は、徐々に権力の固定化を進めた。議会多数派を率いていなかった彼は、まず19525月に、野党議員を50数名を連行した状態で強引に憲法改正を実施、大統領直接選挙制を導入したのちに、第二代大統領に再選される。

さらに三選への道を開くため、再度憲法改正を画策する。その際に在籍議員の3分の2の賛成を必要とするところ、203票中103票の賛成を、四捨五入で3分の2の得票だと強弁し、改正にこぎつける。「四捨五入改憲」といわれているこの憲法改正を経て、19565月、李承晩は第三代大統領に再選される。

いかなる理由であれ、権力が私物化されると、腐敗が蔓延する。選挙には不正が横行、警察も腐敗し、暴力団が横行した。こうしたなかで、言論統制も強化され、政府に批判的な京郷新聞が廃刊に追い込まれたりもしたが、逆にいえば、それだけ新聞も勇敢であったわけであり、それを支える知識人層も、着々と育っていた。

19603月の第五代大統領選挙をめぐって、不正選挙に対する抗議デモが広がった。315日慶尚南道馬山では、デモ隊と警察が衝突、80人以上の死傷者が出る。とくに17歳の学生が警察の発砲で死亡し、死体が密かに海に投棄されたことが410日になって発覚する(馬山事件)と、抗議の動きは瞬く間に全国的に広まった。

419日、ソウルでは、ソウル大学などの学生達が決起し、これに市民が呼応、政府系の新聞社、反共会館、警察署などに火を放ち、警官の発砲により150名弱の人々が死亡した。こうして同日中にソウル、釜山、大邱、光州、大田などで非常戒厳令がしかれるとともに、李承晩も自由党総裁を辞任する。これはさらに425日の大学教授達を中心とするデモに発展し、これに対しては進駐してきた軍隊も銃を向けることはなかった。26日にはソウル中心部にあった李承晩の銅像が引き倒された。同日李承晩はラジオで退陣を宣言し、529日、ハワイに亡命する(四・一九革命)。このような民主主義のための戦いが、成功した背景には、先に述べた通り、@弾圧の中にあっても新聞が勇敢であったこと、およびA戦後急速に増大した知識人達が、こうした運動を指導したこと、という2点があげられよう。このときの知識人達の良識が、民主政治の安定をもたらしたならば、日韓関係やその渦中にある「在日」の立場についても、改善が見られたかもしれない。

この頃北朝鮮は、共和国籍法で「在外公民」と規定した、「在日」の帰国運動を開始し(1959年末より)、約10万人が北朝鮮への「帰国」を果たす。そして民団はこれに対する阻止活動を行っていた。しかしながら、韓国国民は、これに対応する能力を持たず、結局再び軍事クーデターを招来することになる。この帰国運動で北朝鮮への「帰国」を果たした「在日」の人々は、その後幸せな人生を送っていないものと思われるし、だとするならば、彼らの背中を押すことになった日本人と、政争の中にあって適切なオルタナティブを提示できなかった韓国人は、ともに幾ばくかの責任を感じてしかるべきかもしれない。

 

3.朴正煕(ぱくちょんひ)(61年5月〜79年10月)時代の韓国と「在日」の位置づけ

李承晩の亡命を受けて、1960年8月李承晩から離反した民主党により、責任内閣制による新政権が成立、尹普善が大統領、張勉が総理にそれぞれ就任した。しかし新政権・民主党は、大統領派、総理派に分かれて政治闘争に明け暮れ、国民生活の安定にほとんど関心を示さないかのようであった。これに対して、四・一九運動を推進した学生達は絶望し、急進的な欲求を唱え、次なる目標を南北統一という理想主義に振り向けた。こうして、政治勢力は分裂を繰り返し、学生達は政治勢力から離反して南北統一を唱え、結局四・一九勢力は分裂してしまう。混乱のなかで国民各層からは、軍部勢力による支配と安定を求める声が公然と唱えられるようになり、軍事クーデターを誘引する状況がつくられた。

1961516日、朴正煕陸軍少将率いる部隊がソウル市内に入り、支配権を確立、軍事革命委員会を組織する(五.一六軍事クーデター)。この委員会は、所定の政策目標を達成した後に民政移管を行うことを「革命公約」に掲げていたが、それはいっこうに果たされなかった。

朴正煕は、クーデター勢力による軍政をしいたまま、政治独裁と経済開発を推し進めた。19621月には「第一次経済開発5ヶ年計画」発表する一方、3月には政治活動浄化法を制定、反対勢力の政治活動を禁止した。322日には尹大統領辞任し、朴正煕自らが大統領代行に就任する。6月中央情報部を発足させる。6212月には国民投票により憲法を再び大統領中心制に戻した後、翌196312月朴正煕が大統領に就任する。

クーデターから生まれた朴政権には、政治的な意味での正当性はなかった。形式的には軍政が終わったといっても、多くの軍人出身者が要職を占めていたし、なにより選挙でも不正選挙が横行していた。これを補って、政権基盤を強化する戦略として経済発展を推進する戦略がとられた。             

こうして推進された「第一次経済開発5ヶ年計画」は、慶尚道の工業化を進めて、これによって高い経済成長率を達成していったが、いっぽうで農村を破壊し、都市に貧しい労働者層を大量に排出していった。

こうした経済開発を推進するためには、外国から資金・技術の導入をはかる必要があった。そしてそのために朴正煕は、いくつかの対外的妥協というカードを切った。米国に対しては、ベトナムへの派兵を行った。たてまえ上は、反共戦線の共同防衛であるという位置づけであったし、実際韓国と同じように南北に分断されているベトナムでの南側の勝利は、韓国にとっても死活的な利益であるといってもよかった。だが実はこれが韓国の現代化・経済発展に大きく寄与することになる。米国は派兵の見返りとして、米国の韓国向け援助を続行し、派兵の際の経費は米国が全面的に負担した。さらにベトナム国内における事業への参加をすることもできた。結局73年末までに31万以上の兵士が、ベトナムに派遣された。

そして本稿の関係で大きく関係するのが、日本との国交正常化における妥協である。日韓基本条約と4つの付属協定は、1965622日に調印され、1218日に発効した。付属協定の一つが、「在日韓国人の法的地位と待遇に関する協定」である。

1965年に締結された日韓基本条約は、その後の日韓関係の緊密化を促進するという意味では画期的なものであったし、その後の韓国の経済発展にとっても、この時朴正煕政権が「名を捨てて実を取った」ことは、必ずしも否定的に捉えるべきではないのかもしれない。しかし早期の国交正常化を優先するために、棚上げされた問題も多数あり、それが今日まで両国関係に影を落としてきたことも見逃せない。

日韓の国交正常化に向けた交渉は、1951年、日韓予備会談として開始された。これは米国の斡旋に基づくもので、米国が韓国と日本を反共の防波堤にしようという戦略を実践しようとしたものである。しかし韓日両国の主張は平行線をたどり、交渉は難航した。まず日本側は、当初「在日」を全員送還したいという立場を表明した。また日本は過去における支配の国際法上の合法性を主張し、その前提に立って、朝鮮半島に残してきた資産を請求権の対象とするという見解をとったため、第1回目の交渉は決裂した。またその後は、韓国がいわゆる李承晩ラインを設定したため、第2次会談もこれをめぐる対立で決裂した。

このあいだ「在日」問題に関しても、立場が対立した。日本側は「在日」が日本になぜ現在も居住しているかについて、その経緯を一切考慮せず、一般の外国人と全く同じように扱うという立場を崩さなかった。これに対して韓国側は、「在日」に対する永住権の付与、「在日」を強制退去させないこと、内国民待遇、暫定的な生活保護の適用などを要求し、歴史的経緯に基づく別個独立の取扱を要求した。

1953年の第3次会談は、さらに日本側の発言で紛糾する。日本側主席代表が、日本側の請求権問題をめぐって、「日本の韓国統治が、韓国に恩恵を与えた面もある」という発言を繰り返したのである。これに対して、韓国側は世論も政府も強く反発、会談は中断された。結局5年のブランクを経て、この発言の撤回と対韓請求権の原則的放棄を条件として、1958年に、ようやく交渉が再開される。そして、ようやく交渉がまとまったのは、それからさらに7年後の、1965年にまでいたるのである。しかしこのときに韓国政府が飲んだ条件は、当時の国民にとって受け入れられるものではなく、そのことが今日の日韓関係にも少なからぬ影響を及ぼしている。

日韓基本条約については、主に以下の問題点が指摘される。

 

@旧条約の無効

当初から、日本の朝鮮半島統治の法的評価をめぐり、両国が対立したことはすでに述べた。これについて基本条約2条は、韓国併合の日以前に締結された旧条約は、「もはや無効」であるとした。「もはや無効」であるというのは、1910年の時点にさかのぼって向こうであると解釈すべきか、1948年の韓国独立の時点で無効となったと解釈するべきなのか、両国の立場が分かれた。つまり、1910年にさかのぼって、過去の条約を無効としない限り、日本は韓国を合法的に統治したことになるからである。

A対日請求権の処理

植民地支配の合法性をめぐって対立する状況で、日本側としては「賠償」という用語を使うわけにはいかなかった。韓国側は名を捨てて実をとり、結局「請求権・経済協力」という名目で、3億ドルの無償資金、2億ドルの長期低利政府借款及び3億ドル以上の商業借款が供与された。「賠償」ではなかったこともさりながら、この程度の金額が、植民地支配の代償として、妥当なのかどうか。韓国国内では反発が強まった。なによりこれによって、両国間の請求権問題は、「完全かつ最終的に解決」したとされたわけで、「在日」を含めて韓国人達の対日請求権を消滅させられてしまったのである。事実、この無償供与3億ドルのうちの約5%ほどが、韓国政府から韓国国内に居住する被害者に対して支払われたのである。しかしこの「解決」による恩恵を、「在日」の人々は一切受けていない。

B「在日」の「協定永住」

日本に居住する「大韓民国国民」については、解放以前から日本に居住している人、および協定発効後5年以内に日本で出生・居住する者と、その子に「永住」権が認められた。これがいわゆる「協定永住」である。この「協定永住」によっても、法的差別は厳然と残っており、たとえば禁固7年以上の重い刑罰を課せられたものは、依然として強制退去の対象とされていた。しかしともかく韓国籍の「在日」については、永住権が認められたこともあって、朝鮮籍から韓国籍への切り替えが進んだといわれている。

このように見ると、当時の韓国政府にとって、「在日」問題は一つの外交上の懸案ではあったが、しかしそれほど積極的かつ切実な問題であったとも思われない。「協定永住」の制度を勝ち取ったのは1つの成果であった。しかしそのいっぽうで、「在日」への「賠償」の配分は一切なかったわけで、その点ではすでに、韓国国内における「在日」の見方は、それなりに冷めたものであったか、あるいはそこまでの余裕がなかったという推測ができるだろう。

いずれにしても、韓国国民にとって、この条約の内容は承服しかねるものであり、独裁体制に対する鬱積する不満が、このときに一気に噴き出すことになった。そしてまた、謝罪の姿勢を一向に示さない日本の態度も、これを助長した。朴正煕はこれに対し、武力弾圧、大学・高校の強制休講などを強行し、国会での批准も、与党だけで行った。

 

4.国交正常化以後の韓国の歴史

日韓基本条約の締結までの韓国は、以上見た通り、政治的には非常に不安定であり、世論と政府とのギャップもまた、相当に大きかったことが見てとれる。そしてそうした状況下で締結された基本条約の内容について、民衆の側からの見直し論が出てくるのはやむをえない面がある。たとえそれが、国家間条約によって解決済みのものであったとしても、である。

しかし再評価を公然と行うことができる環境は、しばらく醸成されず、以後近年にいたるまで、独裁体制の下、民衆は民主化へ向けた努力に、力を振り向けざるをえなかった。そしてその事がまた、「協定永住」によって、一応の決着を見た「在日」の人々との距離を、ますます遠くしていったとみることができる。

朴正煕は1972年になり、第八代大統領に就任して「維新憲法」を公布、大統領緊急権の乱用によって、ますます独裁体制を確立していった。言論の自由も著しく制限され、「流言蜚語」という名目で、多くの政治犯が生産されることになり、大学や職場を追われた人の数は5万人を超えた。もちろん、こうした「流言蜚語」の取り締まりを正当化するため、この間、南北対立は政権基盤の強化に利用された。そして翌年には、日本を舞台にして「(きむ)大中(でじゅん)事件」が発生し、当時の韓国の闇の部分を、日本人にも「在日」にも、強く印象づけた。

その後朴政権の厳しい弾圧の中にあって、反体制運動は決して衰えを見せず、それはついに19791026日、中央情報部長金載圭(きむじぇぎゅ)による朴正煕暗殺によって幕を閉じる。

しかしながらその後、民主化への道は遠かった。朴正煕にかわって登場してきたのは陸軍保安司令官だった全斗煥(ちょんどふぁん)であった。翌年5月に発生した悪名高き「光州事件」を経て、民主化勢力である金大中を失脚させ、9月には全斗煥が大統領に就任する。全斗煥政権下にあっても、民主化勢力の運動はさらに続き、政府と激しく対立したが、憲法改正により、大統領直接選挙が復活するのは、それから7年後1987年のことである。

1987年の選挙では、金泳三(きむよんさむ)及び金大中両陣営が一本化に失敗、結局軍部勢力である盧泰愚が大統領となったが、このあとようやく言論の自由は回復に向かい、ようやく雪解けの時期がやってくることになる。

 

1945年の「光復」以後1987年後半までの韓国の歴史を振り返りながら、そのときの韓国国民にとっての重要課題がなんであったのかを見てきた。一見してわかるとおり、同時期の日本のそれと比較するとき、圧倒的に韓国のほうが、不安定で変遷の激しい社会であったことが見て取とれる。そうした状況にあって、人々が「在日」問題に真剣に取り組む素地はあまり醸成されなかった。一方70年代後半から80年代にかけて、「在日」の日本における立場、少しずつ改善されていっていたことは先述したが、そうした動きは徐々に、「在日」独自の立場ないしアイデンティティの醸成を、むしろ促していったようにも思われる。ようやく一応の民主化が見えてきた80年代後半に立ち至ってみると、お互いの世代交代も手伝って、次第に「在日」との関係は抽象的なものとなってきていた。

 

5.民主化時代における「在日」の位置づけ

80年代後半までの韓国の政治状況は、たしかにあまり安定したものであったとはいえず、どちらかというと暗い面が多々あった。しかしそのいっぽうで、そのあいだ韓国は「漢江の奇跡」といわれるほどの急速な経済発展を示してきた。そしてそれが、民主化の流れを呼応するように大輪の花を咲かせ、国民に大きな自信を持たせることになったのが、1988年のソウルオリンピックである。ソウルオリンピックが契機となって、これに参加したソ連・中国とも、それぞれ1990年、1992年に国交を結ぶにいたる。南北間の交流の道は依然として開かれていなかったが、経済的にも外向的にも、北朝鮮に対しての絶対的優位が明らかになった。

こうしてようやく韓国の人々にも経済的な余裕が生まれ、政治的には保守化が進んだ。徐々に韓国の「政治の季節」は過ぎていった。人々が豊かになる中で、抽象的な「在日」問題という存在を、認識しなくなったわけではないが、問題の存在が抽象的になればなるほどに、問題そのものに対する態度と現実の「在日」コリアンに対する態度とのギャップに、人々は違和感を感じなくなったのかもしれない。

韓国において、「在日」コリアンに対する偏見・差別意識があるのは、一般に、以下のような理由に基づくものといわれ、基本的にそれらは、以上見たような歴史的経緯、とりわけ日韓関係に起因しているとみることができる。

1の要因として、戦前日本へ渡った人々に対して、「彼らは国を捨てた」と受け止めていることがあるが、歴史が風化すればするほど、「彼らは苦しい環境から逃亡した」というネガティブな固定観念が醸成されやすい。しかも、本稿でこれまで述べてきたような、その後の朝鮮半島の歴史を振り返れば、日本政府の過酷な植民地政策が続き、解放後の混乱、そして朝鮮戦争・独裁体制と、混乱の時期が続いて来たことは明らかであり、そのあいだ苦労して生計を立て、祖先の墓を守ってきた韓国の人々から見れば、「在日」はこうした苦しい時期を日本に避難して暮らしていたということになってしまうのである。

2に、日本で生活基盤を築いた「在日」は、苦労を重ねながらも、相対的に本国に残った人々よりも裕福になり、その事がある種の「嫉妬」を生んだということも挙げられる。もちろん、「在日」が楽をして裕福になったわけではなく、本国で暮らすのとはまた異なる苦労を重ねてきたことを、韓国の知識人たちが知らないわけではないが、一般の韓国人は往来が制限されてきたこともあって、単純な「やっかみ」の感情を持ってきたというのも事実である。

3に、恐らくこれがもっとも根深いものと思われるが、「在日」コリアンの人々が、日本の言葉をはじめ、文化・習慣に染まっていることへの反発、が挙げられる。これまで韓国政府が、日本文化の流入に対してことさらに厳しい姿勢をとってきたことだけをとってしても、創氏改名、宮城遥、皇民誓詞の朗読強要などの朝鮮総督府による皇民化政策によって押し付けられたいまいましい記憶を持つ日本文化に対して、韓国国民が少なからぬ抵抗を感じているのは明白である。もちろん、日本文化そのものと、日本文化の影響を受けた「在日」コリアン個人とは、全く別次元のものであるのだが、韓国語を話さずすべてにおいて日本人と区別のつかない「在日」コリアンに対して、日本文化を体現するものとして、やや感情的な反発を感じている人々がいるのは、まぎれもない現実である。

 

さてこれら3つの要因は、いずれも、日韓両方の近現代史が作り出してきた必然といってよく、こうした韓国人達の感情を誉めることはできないが、ある意味ではやむをえないものがあるといっていいだろう。それはともすると、韓国での「在日」差別もまた、日本の植民地政策に起因するものであり、断じて韓国国民のせいではないとする免罪符につかわれかねない。たしかにそれはまちがいないのであるが、その一方で、韓国国民が、あるいは韓国政府が、「在日」同胞に対して十分な理解と関心を維持できず、その結果できあがった隔絶についても、「在日」の側に一方的に責任をかぶせる部分がなかったのかどうか、韓国内部での検証が今後十分に行われる必要があるだろう。

ところで、韓国の側が抱えている「在日」差別の要因が、これらの3点に集約されるとするならば、今後差別要因は解消されていく、もしくは、その機運がなきにしもあらずではないかと思われる。それはそれぞれ以下の理由による。

まず第1の要因は、植民地時代と解放後の混乱という時代を生きた人々の間で、生じた差異から生まれた意識である。もちろんその影響は子々孫々に残っていくし、語り継がれていくのであるが、まずその実感を持った世代が消えていくというのは大きい。いうまでもなく、韓国国民にとっては、南北分断の固定化という現実が、その後の世代に大きく覆いかぶさってきたのであり、植民地統治の暗い記憶が語り継がれていくとしても、そこから生まれる「在日」差別という副作用は、次第に消滅していく可能性が高い。

2の「在日」と本国との経済的格差は、少なくとも韓国との関係においては、消滅しつつあるものといっていいだろう。だとすれば、いかなる状況認識の上に立つのであれ、「在日」と韓国の人々のあいだで、豊かさのギャップから生じる対立や差別が生じる素地は消えていくかのように思われる。もちろんこうした意識そのものは、そもそも実態的な経済格差を必ずしも反映しておらず、一般的な印象だけに基づいたものであるから、実態的に経済的な格差が消滅したからといって、「やっかみ」そのものが消えていくとはいえない。しかし、2002年のサッカーワールドカップ共催を契機とした、両国の関係を同等に位置づけようとする昨今の流れは、少なくとも韓国側の日本に対する意識を根本的に変革することになると思われるし、そのための素地は、すでにかなりの程度、整っているといってよい。(ただ、これに関しては、筆者自身のなかに反論の余地もあり、断定はできない。)そうなれば、「在日」コリアンを豊かさの象徴とする見方は、もはや消えていくのであろうし、実際のところ、ほとんど消えていったかのように思われる。

3の文化的要因については、韓国における日本文化開放の動きが、決定的な影響を与える可能性がある。今日金大中政権のもと韓国国内で進められている、日本文化開放の動きは、上に述べた両国のイコールパートナーシップを背景にしたものであるが、そのことは韓国国内において日本文化を冷静に受け入れられるだけの素地が、出来上がりつつあることを意味している。この流れが順調に進むならば、文化的な摩擦、歴史的経緯に基づく抵抗感を背景にした韓国における「在日」コリアンへの差別は、徐々に氷解していくことになるだろう。ただしこの問題は、国内産業の保護を背景にして、業界団体からの反発を招き、その際の根拠として、旧来型の日本文化への反感を煽る論調が、ゆりもどしてくる可能性も否定できず、その点は情勢の変化を冷静に見きわめていく必要があるだろう。

以上見た通り、従来から続いてきた韓国における「在日」差別は、徐々にその基盤を失いつつあり、今後韓日関係の改善が見られれば見られるほどに、改善されていくものと思われる。もちろんそのことは、朝鮮籍の人々を含めた「在日」コリアンとの関係に対して、韓国がより深いコミットメントを行うことを必ずしも意味しないし、差別がなくなったからといって韓国の人々と「在日」との連帯性が高まるわけではない。しかし、韓日関係改善の気運の中で、韓国において、「在日」コリアンが両国関係の触媒として機能することを期待する機運はでてくるであろうし、そういった位置づけの中で、たとえば祖国留学を果たす「在日」コリアンの若者達に対しても、「適切な」位置づけが確立されていくものと考えられる。

 

おわりに

韓国の現代史が、非常に激しく揺れ動いてきたことにより、その中で「在日」問題の固有の意義が、置き去りにされ、日本政府の政策的怠慢によって、「在日」コリアンを不遇な立場においてきたことは間違いないといえよう。そしてそのことは、「在日」コリアンたちに社会的な問題解決を回避させ、個人的な解決を徐々に志向させることになっていった。「在米」コリアンと比較しても、「在日」は生々しい歴史的コンテキストを背負っており、その点での解決を長らく求められてきたけれども、それは徐々に韓国人としての問題ではなくなり、「在日」自身の問題に還元されるようになり、そしてさらにその問題の重さが、個人的な解決志向を、助長することになった。

固有の文脈を背負いながらも、独自のアイデンティティを背負っている「在日」コリアンの人々が、韓日両国民の架け橋となる可能性はあるのだろうか。韓国と日本は、今後10数年にわたり、さらに緊密な関係を築いていくことになると思われるが、その際に文化的には、韓国の入超状態の改善が強く求められることになるであろう。韓国語を知る日本人と日本語を知る韓国人が、数量的にそれぞれどれぐらいいるのか、データを持っているわけではないが、その数は圧倒的に後者の方が多いということを、疑うものはいないだろう。これは両国関係が変化するにつれて、徐々に変化するとは思うが、根本的に変わりはしないように思われる。

こうした中にあって、アイデンティティのありかたに関して、内面的な葛藤を長らく抱えてきた「在日」の人々が、その両者の「かすがい」として、果たしていく役割は増えていくことになると思われる。もし国民国家の限界が今後より顕わになると仮定するならば、その先玄界灘を挟んで存在するのは、民族の壁なのであり、この壁を少しずつ中和するのも「在日」コリアンなのであろう。

こうした理想論を実現するためには、その前提として、現世代によって旧世代を評価するという意味での、両国国民の協調が必要であり、まさにその作業に「在日」コリアンが関与すべきなのである。これまでの日韓関係は、過去の清算が今までどのようになされ、これからどのようになされるかをめぐって、対立してきた。そして近年になって、急に両国関係が「未来志向」に転化した。しかしながら、問題ははたして解消したのかといえば、そういうわけではないし、いっぽうでは溝は深まりつつもある。

少なくとも韓国国民にとって、1965年の日韓基本条約は、戦後問題の解決にはなっていないし、それは国民の意思を反映した外交活動の結果、生まれたものではない。国際政治において、国内事情を理由にして国家間合意を反故にすることはできないのは確かであり、日本の主張はこれに基づいているのであるが、現在の日本国内においても、当時の日本側の処理を正当とする者は必ずしも多くはない。対立しているのは、日韓両国民なのかと考えてみると、実は対立しているのは、それぞれの過去の世代と現在の世代であるかもしれないとお思う。日韓両国の比較的若い世代が、「未来志向」のなかにあって、これまで受けてきた教育に基づく先入観を排し、自国を擁護する態度を放棄したとき、恐らく出てくる結論は、それぞれの旧世代への断罪となるのであろう。そしてその狭間にあって、もっとも翻弄されてきた「在日」コリアン、特に個人的解決を志向する立場の人達が、その独自のアイデンティティを背景にして韓日関係を論じるときにも、過去の両国関係のありかたへの批判が現れてくるはずであり、彼らの内面的な葛藤こそが、こうした発想の転換に寄与するであろう。

日韓基本条約は、韓国の現世代にとって見れば、朴正煕政権の独裁によって強行されたものであり、こうした事態を許したのは同時代の人々の責任もまた大きい、ということになる。日本の現世代にとってみれば、経済的に困窮する韓国政府を丸め込んだきわめて狡猾な政治決着であったということになる。両国民はこれまで互いに、断罪と反論を繰り返してきた。互いが相手にどんな主張をしてきたかはよくわかっており、すでにその意味での合意は不可能であるかに見えるのだが、だからといって単に議論を棚上げするのではなく、それぞれが旧世代とは違う新世代の立場を打ち出していくことこそが重要であろう。

ムードだけに流れる雪解けではなく、堅実に議論を積み重ねたなかみある関係を築くことが、いま求められている。さもなければ、ちょっとした変化で、再び古傷はうずきだすだろう。うずいてくる痛みは、そのたびに「在日」にもっとも苦難を強いるのである。韓日両国民と「在日」が、それぞれの出自にとらわれず、しかし過去をうやむやにせずに、自由な討議を継続していくとともに、そうした環境下で文化的な交流を継続していく努力が求められている。

 

参考文献

         ほるもん文化編集委員会 編 『「在日」が差別する時される時』 (新幹社,2000年)

         「特集 いま、「在日」の居場所は」論座40号(朝日新聞社,1998年)

         高演義 『<民族>であること−第三世界としての在日朝鮮人』 (社会評論社,1998年)

         竹田青嗣・姜尚中 他 「<座談会>在日することへの視座−ノーマ・フィールと金時鐘のテキストを手がかりに(特集:戦後検証(1)−在日することへの視座)」思想の科学 (思想の科学社,1995年)

         金明秀 「エスニシティの形成論−在日韓国人青年を事例として」ソシオロジ402号 (1995 年)

         李相兌 「『在日』コリアンのアイデンティティを考える」月刊社会教育441号 (国土社,1993年)

         尹健次 『「在日」を生きるとは』 (岩波書店,1992年)

         尹健次 「昭和史における在日朝鮮人と日本国家」歴史学研究599号 (法政大学出版局,1989年)

         朴慶植 「在日同胞の解放後の歩み(1)-(3)」ウリ生活1-3号 (在日同胞の生活を考える,1987年)

         尹健次 「在日朝鮮人から見た現代反動」歴史評論432 (丹波書林,1986年)

         小松隆二 「一在日韓国人の軌跡−65年の在日生活の聞き書き」三田学会雑誌786 号(慶応通信社,1986年)